米屋
幕藩体制のもとで石高制が採用されていた江戸時代には、江戸幕府や藩などの財政は年貢として集められた貢租米の販売に依拠していた。さらに時代が下るにつれて都市では米の消費量の増大、農村では米の商品化が進み、江戸や大坂を中心として日本全国を結ぶ米流通のネットワークが構築され、米問屋や米仲買はその仲介役として重要な役割を果たした。また、彼らは株仲間を結成して特権的な地位を確保していた。
米問屋そのものは明治以後も存続したが、地租改正に伴う租税の金納化や人口の変動、加えて鉄道の建設に伴う輸送・流通の変化に対応できずに没落した者も多かった。江戸の米問屋は江戸時代を通じて300から400店程度あったとみられているが、大きく分けて3種類あった。これは享保14年(1729年)に江戸幕府の命で仕入れる米の生産地に基づき分割したものである。
流山の場合は関東米穀三組問屋(かんとうべいこくみくみどいや)で米の集積地として関東地方・陸奥国9ヶ国からの商人米を担当して江戸の小網町・小舟町・堀江町を拠点として活動していた。ちなみに、江戸川を使った水運では流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた。

徳川家康は、米の売買をしたといわれます。これがなかなかうまかったようです。当時まだ堂島の米の先物相場もなかった時代です(始まったのは1730年)。世界で一番古い先物市場として有名なのです。でも、徳川家康のやった米の売買は、そんな近代的なものではありません。
ちなみに、徳川家康は将軍になった後も米相場をしていたようです。家臣がその行為に呆れていたという逸話が残っているのです。現代、徳川家康が生きていたら「相場師」だったかもしれませんね。しかし、徳川家康が米相場で儲けた金額はかなりのものだったと推測されます。
高ければ売るし、安ければ蔵に入れておく
簡単な商売の形である、だが単純ではない、米の大量消費地の江戸に向けて、天領であるここ流山の江戸川沿いには米屋の米蔵が並んでいたという。今ある米屋、山崎清八商店の他に今は場所を移しているが海老原商事や武蔵屋なども米問屋だった。

江戸時代の米相場
当時の米相場では、実物の米の出し入れは行わず、先物取引の期間中に発生した米価の変動分の差金を授受することで取引が終了した。凶作などで米価の値上がりを予想すれば先物を買い、豊作などで米価の値下がりを予想すれば先物を売る。米価が値下がりした場合、先売りしていた人は安くなった値段で買い戻すことで利益を得ることが出来るが、反対に先買いした人は値下がり分だけ損をすることになる。このため、米相場は賭博的な要素があり、場合によっては破産のリスクもある。
だが、その一方で米相場は大名や商人などの米の大量保有者が廻米を行う場合に予め売却予定地の米相場において到着の日付・量に対応した先売りを行い(売りつなぎ)、実際の到着時に米価が下がっていた場合でも買い戻しをする(すなわち、現物取引である正米取引と先物取引である空米取引において同時に両者反対の行動を起こす)ことによって損失の一部を補てんできるという保険的な役割も果たし、輸送リスクを最小限に留めていた。
また当時の日本で米は貨幣的な役割を果たしていたこと、金本位制と銀本位制が混在していたことから、米を仲立ちとして金と銀の交換レートが実質的に決定されるという役割も持っていた。このことから、商品としての米よりも流通貨幣としての米の側面が強く、実質的には商品市場というよりも為替(金融取引)市場として機能していたと分析する研究者もいる。

大坂の他にも江戸蔵前などと共に米の集散地には大小の米相場が形成された。流山も米の集積地として江戸川水運流通の物流の拠点として当てはまる。当初、日本で行われた狭義の先物取引は、1730年に大坂堂島で行われた帳合取引(空米取引、現金決済先物取引)であったが、文久3年(1863年)に赤間関諸荷物会所で従来の帳合取引に代えて正米受引の仕法(正米取引、現物先物取引)という赤間関独自の取引仕法で行われた。
当初、日本で行われた狭義の先物取引は、1730年に大坂堂島で行われた帳合取引(空米取引、現金決済先物取引)であったが、文久3年(1863年)に赤間関諸荷物会所で従来の帳合取引に代えて正米受引の仕法(正米取引、現物先物取引)という赤間関独自の取引仕法で行われた。
受渡制度に関して、現行の取引制度でいえば、例えば、東京原油、日経・東工取商品指数など差金決済のみの取引が、帳合取引と同様の取引となり、東京金(標準)、東京ガソリンなど差金決済以外にも現物での受渡も出来る取引が正米受引の仕法と同様の取引となる。正米受引の仕法は、堂島をはじめ各地の市場の範となった。
(厳密には、帳合取引には「正銀正米法」という現物の受渡し制度があったが、現物と先物の値段に異常な差が生じたときの例外規定で、反対売買の差金決済が原則で受渡しはしないが、東京原油、日経・東工取商品指数などは差金決済のみの取引で受渡制度は存在しないということになる)

御米蔵地図
現代の地図に、江戸時代の御米蔵を重ねて書いてみたもの。赤い線で囲まれた所が、 御米蔵で、櫛の歯状に堀が北から1番、2番・・・8番堀まで有った。また御米蔵の周囲 は堀になっていた。蔵前通りの下図でいうと国道番号の”6”辺りに鳥越橋があり、茅町 から出た駕籠は直ぐのこの橋で、賊の様子をうかがった。御米蔵が終わって間もなく、 榧寺が見えてくる。

明治維新後
明治維新となって、大阪堂島の石建米商を初め、各地の米会所の取引を以て賭博に類するものと為し、明治2年一律にこれを禁止した。1871年(明治4年)に、更めて大阪に堂島米会所の設立を許し、ここに、限月米(げんんげつまい)取引を行わした。
戦後
太平洋戦争末期から闇市における米の流通が深刻な問題となり、それが当時の実勢米価となっていた。これに対して政府は米の強制的供出の強化を推し進めたが、その価格の安さが農家の不満を高めた。そこで政府は米価審議会を設置して適正な米価算定に務め、生産費の上昇に対応して生産者米価をスライドさせる「パリティ方式」を導入した。
その後、1955年の米の大豊作とインフレーションの収束、商工業の発展によって米価に割安感が生まれた。これに対して1960年からは生産費に加えて都市との所得格差を抑えるために所得補償分を加えた生産者米価が設定されるようになる。これによって高度経済成長期には生産条件に大きな変化がないにも関わらず、都市勤労者の賃金上昇に比例して生産者米価の引き上げが行われた。

現在では米穀店に
米穀店とは、主に農業協同組合(農協)から、卸される米を中心に穀物を扱う食料販売店を示す。一般的には、米屋(こめや)と言われる。冬の時期には、米から作られる餅も販売され、年末時期には「賃餅」(「ちん餅」表記が多い)として、自家製の餅や鏡餅を売る店舗も多いが、パック入りの切り餅や鏡餅の流通に合わせて、そちらを売る店舗が主流になっている。
米相場回復
後遺症克服し安定図れ
2012年産米の販売も終盤、当初心配された相場下落もなく、農水省相対価格(玄米60キロ)は、1万6500円台と、前年比1300円高で推移している。悪夢の1万2000円台にまで急落した10年産価格と比べれば、3800円ほど回復し、10年ほど前の水準に戻した。需要サイドからは、高値への反発もあるが、急落前の水準より少し高値に戻っただけだ。稲作農家の経営安定には、まだ楽観できる水準ではない。

米価格変動の最大の要素は作柄。作況指数「74」を記録した1993年の大冷害は、米の入札が中止となり、終盤には3万円米価も出た。作況指数「90」となった03年も前年比5000円高を記録した。ただ、最近の6年間は作況指数「98」~「102」と、ほぼ平年作が続いており、急落した10年産も需給バランスが大きく崩れたわけではなかった。
作況に次ぐのが景気。アジア通貨危機、国内金融危機、消費税アップのトリプルパンチに見舞われた97年、米価格は前年比2100円安の急落相場を記録した。さらに08年のリーマン・ショックによる世界金融危機の影響は、97年を上回る大型不況を招いた。この影響は、小売り段階も直撃し、スーパーの売り上げは09年に前年比でマイナスとなった。コンビニエンスストアも、弁当やファストフードの売り上げが落ち込んだ。
売り上げ回復のため、スーパー、コンビニ、外食などは低価格路線に突入した。スーパーの298円弁当がヒットしたのも09年だった。この低価格の流れに、10年産米も巻き込まれ、産地、米卸などへの引き下げ圧力となった。この年から始まった戸別所得補償制度も引き下げ要因になった。流通業者から「産地は値段が下がっても補償がある」と言われ、急落に拍車をかけた。

2010年産米の急落から2年で相場は回復したが、後遺症はある。家庭向け小売価格は、産地価格に連動しているが、弁当や外食向けの業務用は価格転嫁が難しい。2年前、業務用の卸値(1キロ精米)は、300円を切っていた。これは、1万5000円以下の米が出回っていたから可能だった。しかし現在は、1万5000円以下の米はない。かといって、中食業者は納入先への値上げ交渉も困難で、苦境に立たされている。
輸入米の浸透も脅威だ。SBS米は09年産までは1キロ精米240円ほどだったが、10年産で200円を割り、外食を中心に使用が広がった。11年産で国産との価格差が広がると、一部スーパーにまで拡大した。輸入米への抵抗感が薄れ、12年産は300円と高値でも落札された。国産米との価格差も20円と小幅になったが浸透した。

低価格米を使用した実需者が、価格を元に戻すのは難しい。こうした後遺症を含め、米をめぐる情勢は依然楽観を許さず、相場の安定が求められる。
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