新選組と流山
慶応4年(1868年)4月2日、新選組流山へ
慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした幕府公認の治安隊(実態は新選組の生残り)が流山に駐留してきた。この流山駐留について、従来の研究では、会津入りを果すための中継地点として、約2週間ほどの駐留が行われたものと考えられてきた。
しかし、昭和50年に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から、慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重な文書が発見され、歴史の空白を埋めることになった。
金子家史料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。
これ以降、4月1日まで隊士の徴募を行った後、4月2日未明から午前中にかけ、総勢200余名が流山へ移動したのである。流山での駐留は、本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌3日、流山に賊徒が屯集しているとの情報を得た新政府軍の先峰隊(香川敬三隊)は流山を包囲した。
しかし戦闘体制が整っていなかったため、大久保大和は総督府へ出頭して幕府公認の治安隊を主張したが、近藤勇であることが露見。捕らえられて4月25日、板橋宿で処刑された。
一方、流山に残っていた隊士たちは4月6日会津へ移動を始めるが、奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』
新選組副長土方歳三の生涯を描く
東葛文学なんでも事典に文が残っているので電化する。千葉県の北西、利根川と江戸川に挟まれた緑濃い台地に醤油の町、野田があり、その隣に味醂醸造で有名な流山市がある。この町は幕末の動乱期に名を轟かせた新撰組の隊長近藤勇、土方歳三が陣を移し、捕らえられた所で、新選組ファンがよく訪れる。
都心より30キロ圏内でサラリーマンの住宅地となり、また常盤新線の工事も進み高層マンション群も林立、幕末の歴史も彼方に追い去られようとしている。(※平成14年発行、「東葛流山研究」第21号当時の文、今現在を生きている流山市の住民にとっては、「常盤新線」という当時のフレーズを聞くだけで「そんな時代もあったな」、と懐かしく思える言葉となっている)
総武流山電鉄(※現在の流鉄)の終点の流山駅を降りて信号を渡り、寺島カメラ店の横の道を入ると近藤勇が陣を構えていた造り酒屋の「長岡屋跡」があり石碑が建っている。三百人もの浪士がいた土蔵は広く幾棟もあったであろうが今は全て無くなり、今ここにある一棟の土蔵は当時のものではない。
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』は幕末、維新の動乱期に激しく燃え戦った男、土方歳三の三十年の生涯を軸として、幕末の世相をダイナミックなタッチで描いて読者を魅了させた大作であるが、その中に出てくる流山のくだりを追ってみよう。
まず新選組とは江戸時代末期の幕府の浪士隊であるが、文久3年2月(1863)幕府は上洛する将軍を警衛するために浪士隊を先発、西上させ京都郊外の壬生地蔵寺に駐在させた。この浪士隊の隊長は清川八郎であったが、突然思想転換、朝廷の親兵として東下する。
近藤勇一派は壬生浪士隊を結成、京都守護役となり、京都市中の見廻り役にあたる。隊長は近藤勇、副長を土方歳三とする新選組が生まれた。元治元年(1864)6月5日の池田屋事件(長州・土州勤王脱藩浪士が京都守護役の松平容保を暗殺し、放火。天皇を長州に移そうとした密謀を察知)で新撰組が活躍し、一躍その名を天下に知られる。
この功により近藤は幕府より刀一振りと三百両を貰い、朝廷からも百両贈られた。一介の富裕農民の浪人から躍り出た近藤勇は31歳、土方歳三は30歳。血気にはやる若者たちは使命感に燃え、京に入ろうとする長州系浪人などを容赦なく斬り捨て、泣く子も黙る新撰組となった。
しかし、池田屋事件からわずか4年後、天下の旗本にまで栄進した近藤、土方であったが、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いに敗れ、続いて甲州勝沼の戦いで、土佐・板垣退助の軍にも敗れ、甲陽鎮撫隊も解散し、新選組の隊士たちは平服に着替えて三々五々江戸へ落ち延びた。
頭に傷を負った近藤は神田和泉の医学所のベッドで言った。「甲州くんだりまで行って得たものは古傷の破れただけさ。官軍がああも早く甲府城へ入ってくるとは知らなかった」この日は3月7日、総督府は江戸城襲撃を15日と決めていた。ここへ土方がやつれた顔で入ってきた。江戸へ敗退した近藤を探し求めてやっと来たのである。
「済まぬ」歳三は頭を垂れた。新選組の隊長として常に最前線で戦ってきた近藤は自己の力の限界を悟り、武士らしく自刃したかった。歳三は剣を振るっての戦いが最早大きな力を持たないことを身を持って感じながらも、自己の意地にかけて戦い進む道を選んだ。
慶応4年(1868)4月1日、五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)を離れ流山に向かった。それは香川敬三を隊長とする東山道先鋒軍が板橋宿から千住に進んだので、交戦を避け、名前も大久保大和、土方歳三は内藤隼人と変え流山に逃れてきた。
『燃えよ剣』はこのあたりをこう書いている。馬上の近藤の顔に蚊が群がっている。しかし何よりもこの町は酒、味醂の産地で、至る所に大きな酒蔵がある。酒蔵の甘さを喜んで蚊が沸くに違いない。『長岡の酒屋』と通称されている大きな屋敷の門前で馬を降りた。
関札がかかっている。「大久保大和宿」。歳三がかけたものだろう。邸内は三千坪もあろう、その中に板張りの倉庫が幾棟も並んでいる。兵舎にはうってつけの建物である。三百年も眠ったように静かだったこの郷がにわかに騒然としてきた。
毎日、射撃訓練の銃声が聞こえ、近藤の物凄い気合が長岡の酒屋から聞こえてきて郷中の者は恐れて近寄らない。当時流山は水陸交通の要衝であり、醸造業の地としても有名で、問屋、船宿、旅籠などが軒を連ね、本多氏下総領管内の加村役所も小高い丘の加台にあって繁栄していた。
土方歳三は、新選組を精鋭部隊に仕立て上げ、再起させ、堂々と会津入りを果たすはずだったが、翌日の昼、長岡屋は新政府軍に包囲され、責任者は板橋総督府へ出頭が命じられる。このころ隊士たちは野外訓練を行っていた。近藤は武人として切腹を決意するが、歳三は反対する。
「ここで死んでは犬死である」と主張し、歳三の説得に近藤は切腹を断念。しかし、捕まって同月の25日板橋で処刑され、首は三日間晒されて京に送られた。徳川幕府は仕えることに生涯を全うした男、享年35歳であった。(※この時代には、流山に一ヶ月ほどいた、ように描かれている)
土方は、その後、宇都宮から会津へと転戦。榎本武揚の幕府海軍と仙台で合流、宮古湾海戦、箱館戦争を徹底抗戦の本志を貫き、明治2年(1869)5月11日、西軍箱館総攻撃の日、白刃を振りかざし銃火の真っ只中、壮絶な死を遂げた。時に35歳。
『燃えよ剣』は武州多摩の富農出身の土方歳三が、幕藩体制の崩壊、戊辰戦役などの歴史の変転にどのように参画したか、その足取り明確なタッチで再現している。新選組はそのひたすらな献身にもかかわらず、最後には孤立し、悲劇的な結果を迎える。
しかし、登場する青春のむせかえるような人間臭は、百数十年後の現代にも伝わってきて読者を引き込む。幕末の風雲児坂本龍馬の生涯を追った大河小説『竜馬がゆく』も『燃えよ剣』と同様、歴史の中の人間青春像を見事に描き出し、人間及び時代の可能性を追求する視点を持つ司馬遼太郎の偉大さに改めて敬服する。
近藤勇
新撰組局長
東葛人物事典に文が残っているので電化する。流山は「近藤勇、土方歳三離別の地」である。近藤と土方は、京都で新撰組を結成以来、ずっと行動を共にしてきた。鳥羽伏見の戦いで敗れ、勝沼でも敗れ、名を変えた二人と共に新選組の隊員は五兵衛新田(今の綾瀬)に結集したが、政府軍が迫っていることを察知し、移動を始めた。
総勢227名、江戸川を渡り、流山へ、そして隊員は流山寺や光明院へ分宿、隊長以下幹部は、長岡屋の土蔵に陣を置いたという。しかしながらそれはすぐさま政府軍の知れるところとなり、翌日未明には江戸川を渡り、来流、浅間神社に錦の御旗を立て本陣とし、本通りと加村台に隊を置いたという。
土方のここで戦おうの意見に、近藤は「戦うのは慶喜公の志に背くことになる」と自ら出頭を決意、二人の隊員を連れて官軍に出頭していった。一説に近藤はこの流山市街を戦禍の渦に巻き込むことはできないとして出頭を決意したという。
そして江戸川をヤッカラの渡しから板橋総督府に連行されていった。土方はそのすぐさま勝海舟のもとへ走り、近藤の助命を願い出たが叶わなかった。4月11日、江戸城の無血開城が行われた。
もしこの前に、江戸に近い流山で戦が起きていたらと考える時、近藤の出頭には江戸市中をも戦禍から守ったという大きな意義があった。4月25日、近藤は板橋宿で斬首の刑に処せられ、今、調布の竜源寺に眠っている。土方は翌年、箱館戦争で近藤の後を追っている。
※文を追加しておく
官軍に包囲された流山の新選組は抗戦するのをあきらめた。近藤勇は全軍の責任をとって潔く自刃しようとしたが、土方がそれをとめた。--ここで死ねば犬死にとなってしまう。このとき近藤は「大久保大和」と名乗っており、官軍に身元を知られずに釈放される可能性もある。
新選組は表向き「鎮撫隊」を称しており、官軍に敵対する者ではなく幕府から各地の治安・秩序を維持することを命ぜられた部隊であることを主張していたから、何とか切り抜けられると土方は考えたのである。近藤も土方の思いをくみ、官軍に出頭することにした。
近藤が官軍に連行されるとすぐに土方は江戸の勝海舟を訪ね、近藤の救出を依頼し勝も了解したが、結局は失敗に終わった。官軍のなかに近藤の顔を知る者がおり、大久保大和とはじつは新選組局長・近藤勇であることが露見してしまったのだった。
近藤の処遇については官軍のなかでも意見が複数あったが、坂本龍馬の暗殺犯として新選組を疑い怨んでいた土佐藩士の主張により慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場で斬首された。
今まで刊行された色々な書物を見ていると、五兵衛新田で人員を補給して再起を図る新撰組は、闇に乗じて方々に散って移動、流山で集合。五兵衛新田で造った弾丸と火薬は松戸経由で物資輸送。一部先発隊は陸路流山へ移動している。桑名藩御用商だった長岡屋七郎兵衛宅へ移動して、本陣を置き、すでに大筋で決まっていた江戸城無血開城。
すでに一度主君の意思に反して、甲州勝沼の戦いで衝突してしまったのだから、同じことは回避する必要がある。勝海舟の望むように、金子家から明治新政府軍と無駄な争いを避け、江戸川流域で最大とも言える水運の重要拠点であった流山へやってきた。もちろんこれは最終的な会津へ行く過程の近道であり、川舟の手配ということにも関連している。
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