でれすけ

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カテゴリ: 流山の歴史


新選組と流山

慶応4年(1868年)4月2日、新選組流山へ
慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした幕府公認の治安隊(実態は新選組の生残り)が流山に駐留してきた。この流山駐留について、従来の研究では、会津入りを果すための中継地点として、約2週間ほどの駐留が行われたものと考えられてきた。

しかし、昭和50年に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から、慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重な文書が発見され、歴史の空白を埋めることになった。

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金子家史料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。

これ以降、4月1日まで隊士の徴募を行った後、4月2日未明から午前中にかけ、総勢200余名が流山へ移動したのである。流山での駐留は、本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌3日、流山に賊徒が屯集しているとの情報を得た新政府軍の先峰隊(香川敬三隊)は流山を包囲した。

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しかし戦闘体制が整っていなかったため、大久保大和は総督府へ出頭して幕府公認の治安隊を主張したが、近藤勇であることが露見。捕らえられて4月25日、板橋宿で処刑された。

一方、流山に残っていた隊士たちは4月6日会津へ移動を始めるが、奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった。

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司馬遼太郎の『燃えよ剣』

新選組副長土方歳三の生涯を描く
東葛文学なんでも事典に文が残っているので電化する。千葉県の北西、利根川と江戸川に挟まれた緑濃い台地に醤油の町、野田があり、その隣に味醂醸造で有名な流山市がある。この町は幕末の動乱期に名を轟かせた新撰組の隊長近藤勇、土方歳三が陣を移し、捕らえられた所で、新選組ファンがよく訪れる。

都心より30キロ圏内でサラリーマンの住宅地となり、また常盤新線の工事も進み高層マンション群も林立、幕末の歴史も彼方に追い去られようとしている。(※平成14年発行、「東葛流山研究」第21号当時の文、今現在を生きている流山市の住民にとっては、「常盤新線」という当時のフレーズを聞くだけで「そんな時代もあったな」、と懐かしく思える言葉となっている)



総武流山電鉄(※現在の流鉄)の終点の流山駅を降りて信号を渡り、寺島カメラ店の横の道を入ると近藤勇が陣を構えていた造り酒屋の「長岡屋跡」があり石碑が建っている。三百人もの浪士がいた土蔵は広く幾棟もあったであろうが今は全て無くなり、今ここにある一棟の土蔵は当時のものではない。

司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』は幕末、維新の動乱期に激しく燃え戦った男、土方歳三の三十年の生涯を軸として、幕末の世相をダイナミックなタッチで描いて読者を魅了させた大作であるが、その中に出てくる流山のくだりを追ってみよう。



まず新選組とは江戸時代末期の幕府の浪士隊であるが、文久3年2月(1863)幕府は上洛する将軍を警衛するために浪士隊を先発、西上させ京都郊外の壬生地蔵寺に駐在させた。この浪士隊の隊長は清川八郎であったが、突然思想転換、朝廷の親兵として東下する。

近藤勇一派は壬生浪士隊を結成、京都守護役となり、京都市中の見廻り役にあたる。隊長は近藤勇、副長を土方歳三とする新選組が生まれた。元治元年(1864)6月5日の池田屋事件(長州・土州勤王脱藩浪士が京都守護役の松平容保を暗殺し、放火。天皇を長州に移そうとした密謀を察知)で新撰組が活躍し、一躍その名を天下に知られる。



この功により近藤は幕府より刀一振りと三百両を貰い、朝廷からも百両贈られた。一介の富裕農民の浪人から躍り出た近藤勇は31歳、土方歳三は30歳。血気にはやる若者たちは使命感に燃え、京に入ろうとする長州系浪人などを容赦なく斬り捨て、泣く子も黙る新撰組となった。

しかし、池田屋事件からわずか4年後、天下の旗本にまで栄進した近藤、土方であったが、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いに敗れ、続いて甲州勝沼の戦いで、土佐・板垣退助の軍にも敗れ、甲陽鎮撫隊も解散し、新選組の隊士たちは平服に着替えて三々五々江戸へ落ち延びた。



頭に傷を負った近藤は神田和泉の医学所のベッドで言った。「甲州くんだりまで行って得たものは古傷の破れただけさ。官軍がああも早く甲府城へ入ってくるとは知らなかった」この日は3月7日、総督府は江戸城襲撃を15日と決めていた。ここへ土方がやつれた顔で入ってきた。江戸へ敗退した近藤を探し求めてやっと来たのである。

「済まぬ」歳三は頭を垂れた。新選組の隊長として常に最前線で戦ってきた近藤は自己の力の限界を悟り、武士らしく自刃したかった。歳三は剣を振るっての戦いが最早大きな力を持たないことを身を持って感じながらも、自己の意地にかけて戦い進む道を選んだ。



慶応4年(1868)4月1日、五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)を離れ流山に向かった。それは香川敬三を隊長とする東山道先鋒軍が板橋宿から千住に進んだので、交戦を避け、名前も大久保大和、土方歳三は内藤隼人と変え流山に逃れてきた。

『燃えよ剣』はこのあたりをこう書いている。馬上の近藤の顔に蚊が群がっている。しかし何よりもこの町は酒、味醂の産地で、至る所に大きな酒蔵がある。酒蔵の甘さを喜んで蚊が沸くに違いない。『長岡の酒屋』と通称されている大きな屋敷の門前で馬を降りた。



関札がかかっている。「大久保大和宿」。歳三がかけたものだろう。邸内は三千坪もあろう、その中に板張りの倉庫が幾棟も並んでいる。兵舎にはうってつけの建物である。三百年も眠ったように静かだったこの郷がにわかに騒然としてきた。

毎日、射撃訓練の銃声が聞こえ、近藤の物凄い気合が長岡の酒屋から聞こえてきて郷中の者は恐れて近寄らない。当時流山は水陸交通の要衝であり、醸造業の地としても有名で、問屋、船宿、旅籠などが軒を連ね、本多氏下総領管内の加村役所も小高い丘の加台にあって繁栄していた。



土方歳三は、新選組を精鋭部隊に仕立て上げ、再起させ、堂々と会津入りを果たすはずだったが、翌日の昼、長岡屋は新政府軍に包囲され、責任者は板橋総督府へ出頭が命じられる。このころ隊士たちは野外訓練を行っていた。近藤は武人として切腹を決意するが、歳三は反対する。

「ここで死んでは犬死である」と主張し、歳三の説得に近藤は切腹を断念。しかし、捕まって同月の25日板橋で処刑され、首は三日間晒されて京に送られた。徳川幕府は仕えることに生涯を全うした男、享年35歳であった。(※この時代には、流山に一ヶ月ほどいた、ように描かれている)



土方は、その後、宇都宮から会津へと転戦。榎本武揚の幕府海軍と仙台で合流、宮古湾海戦、箱館戦争を徹底抗戦の本志を貫き、明治2年(1869)5月11日、西軍箱館総攻撃の日、白刃を振りかざし銃火の真っ只中、壮絶な死を遂げた。時に35歳。

『燃えよ剣』は武州多摩の富農出身の土方歳三が、幕藩体制の崩壊、戊辰戦役などの歴史の変転にどのように参画したか、その足取り明確なタッチで再現している。新選組はそのひたすらな献身にもかかわらず、最後には孤立し、悲劇的な結果を迎える。

しかし、登場する青春のむせかえるような人間臭は、百数十年後の現代にも伝わってきて読者を引き込む。幕末の風雲児坂本龍馬の生涯を追った大河小説『竜馬がゆく』も『燃えよ剣』と同様、歴史の中の人間青春像を見事に描き出し、人間及び時代の可能性を追求する視点を持つ司馬遼太郎の偉大さに改めて敬服する。



近藤勇

新撰組局長
東葛人物事典に文が残っているので電化する。流山は「近藤勇、土方歳三離別の地」である。近藤と土方は、京都で新撰組を結成以来、ずっと行動を共にしてきた。鳥羽伏見の戦いで敗れ、勝沼でも敗れ、名を変えた二人と共に新選組の隊員は五兵衛新田(今の綾瀬)に結集したが、政府軍が迫っていることを察知し、移動を始めた。

総勢227名、江戸川を渡り、流山へ、そして隊員は流山寺や光明院へ分宿、隊長以下幹部は、長岡屋の土蔵に陣を置いたという。しかしながらそれはすぐさま政府軍の知れるところとなり、翌日未明には江戸川を渡り、来流、浅間神社に錦の御旗を立て本陣とし、本通りと加村台に隊を置いたという。

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土方のここで戦おうの意見に、近藤は「戦うのは慶喜公の志に背くことになる」と自ら出頭を決意、二人の隊員を連れて官軍に出頭していった。一説に近藤はこの流山市街を戦禍の渦に巻き込むことはできないとして出頭を決意したという。

そして江戸川をヤッカラの渡しから板橋総督府に連行されていった。土方はそのすぐさま勝海舟のもとへ走り、近藤の助命を願い出たが叶わなかった。4月11日、江戸城の無血開城が行われた。

もしこの前に、江戸に近い流山で戦が起きていたらと考える時、近藤の出頭には江戸市中をも戦禍から守ったという大きな意義があった。4月25日、近藤は板橋宿で斬首の刑に処せられ、今、調布の竜源寺に眠っている。土方は翌年、箱館戦争で近藤の後を追っている。

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官軍に包囲された流山の新選組は抗戦するのをあきらめた。近藤勇は全軍の責任をとって潔く自刃しようとしたが、土方がそれをとめた。--ここで死ねば犬死にとなってしまう。このとき近藤は「大久保大和」と名乗っており、官軍に身元を知られずに釈放される可能性もある。

新選組は表向き「鎮撫隊」を称しており、官軍に敵対する者ではなく幕府から各地の治安・秩序を維持することを命ぜられた部隊であることを主張していたから、何とか切り抜けられると土方は考えたのである。近藤も土方の思いをくみ、官軍に出頭することにした。

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近藤が官軍に連行されるとすぐに土方は江戸の勝海舟を訪ね、近藤の救出を依頼し勝も了解したが、結局は失敗に終わった。官軍のなかに近藤の顔を知る者がおり、大久保大和とはじつは新選組局長・近藤勇であることが露見してしまったのだった。

近藤の処遇については官軍のなかでも意見が複数あったが、坂本龍馬の暗殺犯として新選組を疑い怨んでいた土佐藩士の主張により慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場で斬首された。

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今まで刊行された色々な書物を見ていると、五兵衛新田で人員を補給して再起を図る新撰組は、闇に乗じて方々に散って移動、流山で集合。五兵衛新田で造った弾丸と火薬は松戸経由で物資輸送。一部先発隊は陸路流山へ移動している。桑名藩御用商だった長岡屋七郎兵衛宅へ移動して、本陣を置き、すでに大筋で決まっていた江戸城無血開城。

すでに一度主君の意思に反して、甲州勝沼の戦いで衝突してしまったのだから、同じことは回避する必要がある。勝海舟の望むように、金子家から明治新政府軍と無駄な争いを避け、江戸川流域で最大とも言える水運の重要拠点であった流山へやってきた。もちろんこれは最終的な会津へ行く過程の近道であり、川舟の手配ということにも関連している。

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平成24年3月17日、吉川美南駅が開業

武蔵野線は鶴見駅から西船橋駅を結ぶ
全線でJR東日本が第一種鉄道事業者、日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっている。武蔵野線は、日本国有鉄道(国鉄)が建設した貨物線で、同時に旅客用にも供用された首都圏の外環状路線である。

首都圏の郊外である神奈川県北部、東京都多摩地区、埼玉県南部、千葉県西部を結び、東京都心部から放射状に延びているJRの各路線との交点には接続駅が設けられている。

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当路線はもともと東海道本線方面と東北本線方面を結ぶ山手貨物線のバイパス線として貨物専用線として計画され、開業後しばらくは貨物列車中心に運行されていた。しかし沿線の人口増加に伴い、旅客営業を行う府中本町駅 - 西船橋駅間については、旅客列車(電車)の方が多く運行されるようになった。

実質上、東北・上越方面と東海道方面を結ぶ山手貨物線のバイパス路線として建設、管理されている路線のため、武蔵野線北朝霞・新座方面と東北本線与野・大宮方面を結ぶ線路(武蔵野線大宮支線)が直進線路となっている。

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武蔵野線という名称の通り、武蔵野地域・武蔵野台地を貫通し、各都市を結ぶ路線となっている(東京都武蔵野市は通過しない)。旅客輸送に関しては東京地区の電車特定区間(E電)の一路線である。ラインカラーはオレンジバーミリオンで、旅客案内や、運行される車両の車体色に使用されている。

また本路線は、直通運転を行っている京葉線や府中本町駅で接続する南武線、さらにその西側を通る横浜線とともに、東京都心と郊外を結ぶ他社線との接続駅を多く持つ「東京メガループ」の一つに指定されている。

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貨物輸送に関しては、前述のように東海道本線(東海道貨物線)と東北本線(東北貨物線)を結ぶほか、短絡線を介して中央本線・東北本線・常磐線とも接続し、また西船橋駅から京葉線を介して千葉貨物駅とも直結し、首都圏鉄道貨物輸送の大動脈となっている。

線内には梶ヶ谷貨物ターミナル駅、新座貨物ターミナル駅、越谷貨物ターミナル駅の3つの貨物駅が設置されている。全線が1970年代の開業であり、踏切はなくカーブ半径も大きめに設計されている。貨物線として計画されたため、ポイント通過に際して旅客列車側に速度制限のかかる箇所も存在する。

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古くからある東京都心と郊外を放射状に結ぶ鉄道との乗換駅付近をのぞけば、武蔵野線の沿線には東京のベッドタウンが多く、乗客も武蔵野線単独での利用よりは、それらのベッドタウンと都内に向かう路線を組み合わせての利用が多い。

旅客駅では全26駅中14駅が乗換駅であり、それらの駅では多くの乗客が入れ替わる。しかしながら、当路線は貨物路線として計画された経緯もあり、乗換駅では古くからの行政、商業、業務などの中心地を避けて建設されている。

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武蔵野線の開業以前に優等列車が設定されていた路線では、営団地下鉄東西線(現・東京メトロ東西線)の快速、東武東上線の準急、西武池袋線の準急、中央線の快速をのぞくすべての優等列車が武蔵野線との乗換駅を通過していた。

沿線開発が進んで利用客が増加したこともあり、1985年に開業した埼京線では開業当初から武蔵浦和駅に全列車が停車し、既存路線でも1997年に東武伊勢崎線の準急が新越谷駅に、1998年に東武東上線の急行が朝霞台駅に停車するようになった。

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2005年に開業した首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスでも開業当初から南流山駅に全列車が停車し、2009年に北総鉄道北総線の特急と急行が東松戸駅に停車するようになり、これらの各路線とは乗換時の輸送改善が図られている。

西武池袋線の快速急行と急行は2016年現在も秋津駅を通過するが、2013年から秩父の観光シーズンに限り、一部の快速急行と急行が臨時停車するようになった。

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その一方で、JRの中距離電車が接続する各駅では、中距離列車の走行線にホームがないことから停車が不可能であり、現在も全列車が通過する。沿線にある公営競技場のアクセスに便利な駅が多いため、「ギャンブル線」「ギャンブルライン」という別名がある。

吉川駅を過ぎると右側には武蔵野操車場の跡地が広がるが、跡地では新駅・吉川美南駅や、新三郷駅付近の商業施設が建設されるなどの再開発が行われている。常磐自動車道を跨いで操車場跡地が終わると三郷駅。

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同駅の先で江戸川を渡り、埼玉県から千葉県に移る。同県最初の駅である南流山駅ではつくばエクスプレスが接続。その先では常磐線への短絡線(北小金支線・馬橋支線)が分岐する。馬橋支線と流鉄流山線を跨いだ後、常磐線(常磐快速線、常磐緩行線)との交差地点にある新松戸駅に至る。

常磐線側には緩行線にのみホームがある。新松戸駅を出て国道6号と交差すると南南東へと向きを変え、掘割に入り、新京成線との接続駅・新八柱駅へ。東京都立八柱霊園の西側を過ぎ、次は北総線および成田スカイアクセスが接続する東松戸駅。



続いて田園地帯の中を進み市川大野駅、中山競馬場最寄り駅の船橋法典駅に。そして南南西へ向きを変えて京成本線を跨ぎ、総武本線(総武快速線、総武緩行線)との交差地点にある武蔵野線の終点・西船橋駅に至る。

同駅においても総武線側には緩行線にのみホームがある。また東京メトロ東西線および東葉高速線が接続する。同駅より先は京葉線となり、東京駅方面および南船橋駅方面に線路が分岐している。

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武蔵野線

別名ギャンブル線、親戚が浦和で馬券を売っていた
東葛観光歴史事典に文が残っているので電化する。武蔵野線は、東京の外環貨物線として計画された。昭和40年から工事を始めて、48年にまず府中本町・新松戸間、53年には新松戸・西船橋間が開通した。全線開通して20年、今は貨物もまばらにしか通らないから時代の変化を感じないわけにはいかない。

JR西船橋駅から新松戸へ向かう。西船橋駅では、ディズニーランドの入場券を出張販売している。総武線、武蔵野線、地下鉄東西線、東葉高速線の四本がここで合流している。昭和33年に新設された駅だが、駅付近も西船という町名に変わって、京成線まで西船駅に改称している。(※年数などはこの出版物発行当時のもの)

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次の船橋法典駅は、中山競馬場の専門階段まである競馬一色の駅。レース開催日は、満員だった車内はここでガラガラになる。キヨスクの新聞売り場は、ことごとく競馬新聞である。「皐月賞記念イオカードをどうぞ」と抜かりがない。市川大野駅近くには万葉植物園があり、将門伝説も多い所である。

新八柱駅は、新京成線八柱駅と連絡している。しかし、駅名は武蔵野線は「やはしら」だが、新京成線は「やばしら」と濁る。ここから四条八十の墓のある都営八柱の墓のある都営八柱霊園、市民のオアシス二十一世紀の森と広場、森のホール、松戸市立博物館などへ徒歩15分の範囲で、一茶の句碑がある。子和清水も近い。

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新松戸駅はJR常磐線と直角に交差し、総武流山線(※現在の流鉄)の幸谷駅とは徒歩1分で連絡する。新松戸の街は、新松戸の駅が出来るとニョキニョキとビルが建って、田園風景が一変した新しい街である。しかし、東口は昔のままの畑や雑木林があり、茅葺き屋根まで残っていて、西口の新しい街とは好対称である。

坂川の鉄橋を渡ると、南流山駅である。駅付近は坂川流域の水田地帯だったが、水害にも悩まされた地区である。江戸時代に鰭ケ崎村(※ケは大きい文字)の渡辺庄左衛門が、坂川を掘り継いで流れを良くしようとした努力は今に伝わっている。一方、北の台地の端には東福寺があって、伝説「目潰しの鴨」が語り継がれている。

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江戸川の鉄橋を渡れば、武蔵野線は埼玉県に入り、終点の府中本町は東京都である。武蔵野線は、千葉、埼玉、東京を結ぶ無くてはならない電車になっている。また、他の路線は都心へばかり向いているのに、武蔵野線は山手線の外側を繋ぐ環状線としても重要な役割を果たしている。

西船橋から府中本町まで約一時間だが、西船橋から京葉線で東京まで乗り入れるようになって一層便利になった。競馬場が多いのでギャンブル線などと悪口を言われるが、沿線の住人にとっては本数も多くなって便利な電車になっている。



弱点を上げれば大雨に弱いことだろう。これは、台地は半地下とし、低地は半地下にした土を運んで土手を築いたため、大雨では崩れる恐れがあるから。しかし、すべて立体交差のため安全な路線となっている。踏切がないばかりか、カーブも勾配も緩くなっているので重量ある貨車がハイスピードで走れるように設計されていると言う。

駅には駅長がいるものと決めていたら、南流山や三郷駅には駅長がいないで新松戸駅長が兼務していた。が、今年の4月からは南流山にも三郷にも、駅長さんがいるということである。(※この出版物が発行されて20年以上、今ではつくばエクスプレスも開業し、流山市の南の中心部の一つとして都市機能の発展と、ビルの建築は続けられている)

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武蔵野線

武蔵野線は日本国有鉄道(国鉄)が建設した貨物線
東葛交通事典に文が残っているので電化する。武蔵野線は府中本町~西船橋間を結ぶ71・8キロメートルを結ぶ東京郊外の環状線である。昭和48年に府中本町~新松戸が開業し、昭和53年に西船馬までの全線が開通した。

複線で道路とは全て立体交差。踏切もなく、急勾配な坂もなく、カーブも緩い本格的新線だが、もともと貨物線の計画が貨客両用に変更されたものであった。それゆえか、新線から都心への乗換駅に、快速へ乗り換えられるホームは建設されなかった。



開業後、長らく電車は他線のお下がりで、走るとガタガタうるさく、隙間から対向線のレールが見えるほどだった。駅間が長いせいか運転手がやたら飛ばすので、乗客は隙間風にすっかり凍えてしまうのであった。

今では、オレンジ色のライン鮮やかなステンレスの電車が8両編成の電車が10分ごとに走っていて、見違える程に乗り心地の良い電車になった。西船橋の先は京葉線に乗り入れ、2本に1本が東京地下鉄にまで直通する。

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文を追加しておく
俺が生まれた時には既に武蔵野線が開通しており、南流山駅前は都市整備が進められていた。なので、駅を通勤や通学で使用する前提で戦後の第一世代が引っ越してきた住民、通称「ベッドタウン住民」の人達は鉄道駅前こそが全ての一等地、と勘違いして生きているケースが良くある。これは親を見て生きてきた子供も同様の思考で生きている。

「流山は江戸時代から江戸川の水運によって栄えていた」ということを知らないのか、「今でも市の中枢機能は旧本町にある」という、俺からしたら当たり前の事を認めたくない人も多いようだ。駅はあくまで中心部の一つであり、全てではないということ。たしかに駅前には商店が立ち並び、マンションが多数あって、人が集まり、物資や金銭の流通も多い。

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しかしそれは、主観的な目線でしかなく、客観的に見るとならば、違った目線も見えてくる。鉄道開通により本町の外が区画造成され、国や県の予算で、新たな街基盤が作られていく。これにより人口増加、市に税は落ち、さらに都市機能の整備の必要性が出てくる。学校は増加し、流山線やバスで通っていた生徒も学校へ徒歩圏内で通えるようになる。

流山小学校の分校とも言える学校が増えていくが、旧制の小学校は今の中学の役割も持っている。ということは、かつての流山小学校の学区の、ほんの一部が人口増加しただけに過ぎないということ。これにより商店の納入先と売上量が増えることになる。そして南流山駅という名前、これは流山本町という旧市街地の南にあるからこの名が付いた。

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鉄道駅開設からの学校増設とならば、近年ならばおおたかの森小中学校が開設されたことを憶えている人も多いだろう。かつて森林であったところが開発され、道路整備、区画造成、住宅基盤も整備され、流入家庭も増えている。これは見事に南流山地区の流れと同じもの。さらに江戸川台、南柏といった駅前地区の開発と同様の歴史を持っている。

そして江戸川台、南柏、南流山といった新たな鉄道駅開設と、駅前の大規模造成で人口は増加したが、江戸時代からの水運で栄えた旧市街地は以前のまま。コミニティが崩されたのではなく、次第に世代交代を繰り返しながらも、流山の中心部として機能している。この流れは今現在でも続いているので、これからも流山の歴史となっていくんだろう。

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昭和21年3月12日、関根金次郎命日

1868年4月23日(慶応4年4月1日)生まれ
関根金次郎は、明治から昭和初期の将棋棋士、十三世名人。本来の表記は關根金次�カ。将棋連盟や実力名人制を創始した事から近代将棋の父と称される。下総国葛飾郡東宝珠花村(後の千葉県東葛飾郡二川村東宝珠花、さらに関宿町、現在の千葉県野田市東宝珠花)の生まれ。

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東宝珠花村の近くにあった岡田村の寺子屋に通わせられるが、途中、将棋を指してばかりのため、やめさせられてしまう。次に学校に通わされると、学校では将棋好きの校長先生と指し、村では老人らと指し、一日ごとに強くなる実感を得る。

ついには、あまりの強さに村中で相手がいなくなり、宝珠花小僧の異名で呼ばれるようになった。学校に行くふりをして弁当持参で遠くの村にも遠征した。その後、親によって学校に行くのをやめさせられ、奉公に出されるも、将棋を指してばかりで1週間から10日ほどで追い出され、奉公先を転々とする。



11歳の春、将棋指しを志して上京し、十一世名人伊藤宗印の門戸をたたき、四枚落ちで指してもらう。いったん郷里が恋しくなり帰郷した後、再び伊藤を訪れたところ、しばらく東京から離れて将棋遊歴(修行の旅)に出ることを勧められ、旅に出る。この旅には数々の武勇伝がある。

その後、明治16年に二段、20歳で三段、明治23年に四段。明治24年大阪で小林東白斎八段と角落戦でやぶれて発奮し、また、四国、中国、九州と遊歴したのち(関根自身は将棋の勉強のために、全国を三巡したことがあるとのちに言っている)大阪でふたたび対戦し勝利をおさめた。

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1893年(明治26年)に師匠の十一世名人伊藤宗印が死去すると、政界などの後押しを受けた小野五平が、十二世名人を継ぐことになった。その名人披露の招待状が来なかったことに怒った関根は、小野に挑戦状を送るが、吉川顕正らが間に立ち、和解。のちに関根は「生涯の一大過失」と反省している。明治28年五段、30年六段、31年七段、38年八段準名人。

ライバル坂田三吉とは1894年(明治27年)に初手合わせを行い、3度戦って関根の2勝1敗。最後の対局(1918年(大正7年))までに生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だった。対戦後期は坂田に対して分が悪くなっていたが、弟子の土居市太郎七段が1917年に坂田を平手で破っていたことが大きく、53歳(1921年(大正10年))で、十三世名人の位に就く。

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1924年(大正13年)9月8日には、東京で専門棋士を擁していた東京将棋倶楽部・将棋同盟社・将棋研究会の三派を合同させて東京将棋連盟(現在の日本将棋連盟)を結成。関根自らは名誉会長に就任し、弟子の土居を会長に就任させた。

小野五平が91歳までの長寿であったため、関根が名人の座に就いたのは、すでに盛りを過ぎていた頃であった。そこで、将棋連盟顧問の中島富治が実力による短期名人制を発案し、関根自身も英断を行う。弟子の金易二郎(当時八段)を将棋連盟の会長とし、金は1935年3月26日付けで「三百年伝統の一世名人の制を廃す」(抜粋)との発表。

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同日付で関根も「中島富治を通じて辞任を申し出たところ了承され、昭和12年(1937年)70歳をもって名人位を退くことにしてくれた」(抜粋)との声明を発表した。これにより、実力制の名人戦(第1期名人戦)が始まる。ところが、第1期名人戦の途中、神田辰之助七段(当時)の八段昇段問題が引き金となり、棋界の分裂騒動(神田事件)が起こる。

神田を支持する棋士が脱退し、反対派と中立派が連盟に残った。多くの弟子・孫弟子達も絡んだいさかいに心を痛めた関根は、四日市に住む兄弟子・小菅剣之助(元棋士・実業家)のもとを訪れ、仲裁を懇願。小菅と関根が「将棋大成会」と名づけた会に神田一派も加わって大同団結し、神田も加えて名人決定戦が続行されることとなった。

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晩年は視力を失ってしまい、医者にも「回復の見込みなし」と診断され、失意の中で過ごしたと言われる。弟子の木村義雄が実力制第一代名人の座に就くのを見届け、終戦の翌年(1946年)に死去する。享年77。

なお、関根一門からは土居名誉名人、金易二郎名誉九段、花田長太郎九段、木村義雄十四世名人、小泉雅信八段、渡辺東一名誉九段、五十嵐豊一九段などが輩出している。

2004年(平成16年)4月1日、出身地である千葉県野田市の複合施設「いちいのホール」(旧関宿町役場庁舎を改装)5階に「関根名人記念館」が開館した。

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小林東白斎(当時八段半の段位を持つ、大阪の名人)と対局し明らかな負け将棋となり、相手の善意で「この将棋を指し掛け(これ以上指さないで引き分けにする)にしてはどうだろう」と持ちかけられた時にわざわざそれをはねのけ、完膚なきまでに負かされる。

弟子のうち渡辺東一名誉九段は関根の親戚にあたる。残っている写真からも伺えるように、若いときから見目麗しい美男子であり、大変女性にもてた。本人もそれなりに女好きだったようで、指導将棋で謝礼を渡される時に「そんなことより、女をひとつ」とおどけて言ったこともあるという。



プロになってからは、金銭に執着がなく、無欲だった。指導将棋の謝礼(当時としてはかなりの高額である)をみんな周りにくれてやって帰ったことも1度や2度ではなかったという。この点は、ライバルと言われた阪田三吉と同じであった。

若い頃武術の鍛錬もしており(明治時代の将棋の対局は、時に命懸けの真剣勝負となることもあったため)、無念流の使い手であった。弟子に対しては慈愛をもって接し、小手先の勝敗にこだわらなかった。



関根の最後の弟子である五十嵐豊一は、「奨励会でなかなか昇段できなくて、成績を報告しに行く時にいつ田舎に帰れ、と言われるかとびくびくしていたけど、関根先生はどんな時でも、顔色一つ変えずに『負けろ負けろ』と励ましてくれて、小遣いをくれたりした」と奨励会当時を述懐している。

1904年(明治37年)12月14日の萬朝報紙上に、「新題旅順陥落詰め」と題する265手詰の詰将棋を発表したが、この作品は九代大橋宗桂の「将棋舞玉(1786年)」第51番の盗作であった。また同誌上に日露戦争戦勝記念として発表した曲詰め「艦影」も添田宗太夫の「将棋秘曲集」第100番「船」の盗作だった。



関根金次郎

将棋の名人
東葛人物事典に文が残っているので電化する。関宿の人たちが尊敬してやまない人物に、将棋界でその名を轟かせた第十三世名人関根金次郎がいる。その生家は東宝珠花の日枝神社のすぐ近くにある。関根が関宿町の東宝珠花に生まれたのは明治6年(1873)4月1日であった。

東宝珠花といえば、江戸川を行く船頭衆にとっては縞の財布が軽くなる所で、何軒もの妓楼が軒を並べていた。金次郎は少年の頃からたいへんな腕白少年で、江戸川でよく泳ぎ、時には土手下の馬頭観音に小便をひっかけたり、日枝神社の賽銭箱からお賽銭を釣り上げたりと、悪戯ばかりしている。

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近代将棋の基
鼻たれ小僧の頃から将棋だけはめっぽう強く、いつしか将棋の神童との評判が近郷近在に広まった。11歳で東京本所に住む伊藤宗印名人に入門。やがて諸国将棋修行の旅に出、中央棋壇の強豪たちを次々になぎ倒して十三世名人の地位を勝ち取った。

彼の偉大さは永世名人であることを自ら捨てて、リーグ戦による短期実力名人の制度を打ちたて、江戸時代からの襲を破って近代将棋の基を築いたことである。

関根は親分肌で、木村義雄や花田長太郎、金子金五郎、土居市太郎ら、日本の将棋界を背負って立つ名棋士たちを育て世に送った。これは、坂田三吉のような激情家にはありえぬこと。まさに清濁あわせのむ雅量の広さ、誰をも包み込む温かな人柄を思わないではいられない。

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昭和63年春、野田に住む演出家であり、俳優の梅田宏さんからの依頼で、私は関根を主人公とした芝居台本を書き、野田の文化会館で公演した。(※この文は山本鉱太郎さんの文)

実力名人制50周年記念で、主役の梅田さんは生家の方々のご好意により名人の形見の羽織を着用、遺品の将棋を使って大熱演した。

明治10年正月、関根邸に大勢の年賀客が集まって酒宴たけなわ。ここで関根は突然、名人世襲制度を批判して自ら引退宣言をし、場内騒然となる。

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「・・・諸君も知っての通り、わしが第十三世永世名人になったのは大正10年、54歳の時だった。小野名人が亡くなられ、わしが諸君に推され、ま、どうにか名人になれたものの、わしの力はもうとっくに峠を越しておったのじゃ。大阪の坂田さんにも、ここにおる土居八段にも及ばぬことは、このわしがちゃんと知った。この十四年間、そのことでわしがどんなに苦しみ、悩んだことか

もう二度と、こうした哀しい思いを君たちには味合わせたくないんだよ。真に実力のある者が名人の座につく、それが当然じゃないのかね、え、君たち」関根名人引退の場面である。理をわけて説く関根の言葉に棋士たちはみんなすすり泣いている。場内からもすすり泣きが起こり、そして名人が昭和21年3月12日息絶えるところで幕は降りた。

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墓の形は将棋の駒
生家近くの日枝神社に行くと、大正15年、関根名人が一万円奉納した碑が建っている。かつてお賽銭を失敬した罪を詫びての奉納で、今のお金に換算すれば、約七百万円に相当する。墓は道を挟んで日枝神社の向かいにあり、形は将棋の駒、戒名は「覇王院殿棋道大成大居士」である。右隣には、友人の石川友次郎七段、左隣には吉田菊十六段のお墓まで作ってあげている。いずれも引き取り手のない無縁仏であった。

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近代将棋界の父、関根金次郎物語

倉島竹二郎、昭和49年発行
東葛文献百科事典に文が残っているので電化する。戦前、将棋名人戦が始まると、街頭では、新聞社本館前に特設の大きな将棋譜面が設置された。道行く将棋愛好者たちは、刻々と報道される対局を見上げて次の一手を待ち構えている。駒が動くと、一瞬観衆の中から低いどよめきの声が上がり、早くも次の一手の読みに揺れる光景が見られた。

「関根金次郎物語」の著者倉島竹二郎氏は、この将棋名人戦が東京日日新聞(現在の毎日新聞)で昭和10年(1935)開始されると戦時中、ずっとその観戦記を担当した。戦後名人戦が毎日新聞から朝日新聞に移り、代わって毎日新聞が王将戦を始めると、倉島氏は再び招聘されてその観戦記を担当した。(※一部字の変換を訂正)



長年将棋名人戦、王将戦の観戦記を担当してきた倉島氏は、将棋界に知遇が多く、関根名人の没後、なんとかその足跡と業績を後世に伝えたいと、念願であった関根名人の半生記「関根金次郎物語」を書いた。将棋一筋にしのぎを削る棋士の生き様や「運命を賭した命懸けの勝負はドラマ以上のドラマ」で、息をつまらせて一気に読ませる。

将棋界の統一、実力名人戦の創設を成し遂げた関根名人の執念、強靭な意志には感銘させられる。また、本書には、熱烈な愛棋家でもある坂口安吾、幸田露伴、斎藤茂吉、菊池寛、志賀直哉らの名前も出てくる。本書の構成は次のようである。

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「関根金次郎物語」
宝寿花小僧、勝負に疲れた男の話、将棋修行の旅、関西の大御所・小林東伯斎、坂田三吉と最初の出会い、宗印名人と東伯斎逝去、兄弟子小菅剣之助、念願は全国棋界の統一、五十四歳で名人就位、宿命のライバル、坂田と土居の勝負、関根名人の大英断、将棋連盟の分裂、将棋大成会誕生

「思い出の名勝負」
常勝木村敗れる日、お城将棋世紀の対決、指されなかった名勝負、升田の制覇と大山のカムバック、名棋士山田九段の思い出

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もともと将棋の名人制度は、古来から終身制で、名人が亡くなると、次の名人襲名が行われる。将棋名人になるためには、何年待たされるかわからない。名人の実力があっても、待ちきれず無念に亡くなってゆく師もいた。関根金次郎は、千葉県東宝寿花に生まれ、幼少の頃から将棋神童の誉れ高く、「宝寿花小僧」と言われた。

明治12年(1879)11歳で東京に出て、八段準名人伊藤宗印師を訪ねる。師はその年の秋、第十一世名人を襲名したが、これは天保14年(1843)から36年ぶりのことである。関根金次郎は、諸国を遍歴して各所で真剣な対局に力を磨きながら将棋の大衆化に努めた。



関根金次郎が第十三世名人となった時も、実力天下無敵と自他共に許した全盛の時代から20数年待たされ、終生名人制度の不合理さが改めて身に沁みた。このためまず全国将棋界の統一、将棋大成会の誕生、自己の権利と役得を度外視して、終生名人制を廃止。ついに大英断の実力名人戦の創設をやり遂げた。

昭和63年(1988)11月20日には、山本鉱太郎作「名人、関根金次郎の生涯」が、野田市文化会館で上演された。東宝寿花の墓地には、関根名人が生前作った一メートルもある大きな駒型の石碑が石台の上に立ち、「関根金次郎碑、将棋第十三世名人自書」と刻まれている。

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関根金次郎の墓

野田市東宝寿花、東武野田線川間駅からバス
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。野田北部の旧関宿町の人が尊敬してやまない人物に、将棋界でその名を轟かせた第十三世名人関根金次郎がいる。その生家は東宝寿花の日枝神社のすぐ近くにある。関根が旧関宿町に生まれたのは、明治6年(1873)4月であった。

少年の頃からたいへん腕白で、江戸川でよく泳ぎ、時には土手下の馬頭観音に小便を引っ掛けたり、日枝神社の賽銭箱から松脂を付けた棒でお賽銭を吊り上げたりと悪戯ばかりしていた。鼻たれ小僧の頃から将棋がめっぽう強く、いつしか将棋の神童だという噂が近郷近在に広まった。

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11歳で東京本所に住む伊藤宗印名人に入門。やがて諸国修行の旅に出、中央将棋界の強豪を次々になぎ倒して第十三代名人の地位を勝ち取った。彼の偉大さは、永世名人であることを自ら捨てて、リーグ戦による短期実力名人の制度を打ち立て、江戸時代からの因襲を破って近代将棋の基を築いたことであろう。

関根は親分肌で、木村義雄や花岡長太郎、金子金五郎、土井市太郎ら日本の将棋界を背負って立つ名棋士を育てて世に送った。これは坂田のような激情家ではありえぬこと。まさに清濁あわせのむ雅量の広さ、誰をも包みこむ人柄を思わないではいられない。

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いま生家の近くの日枝神社に行くと、大正15年関根名人が1万円奉納した碑が建っている。かつてお賽銭を失敬した罪を詫びての奉納で、いまの金額に換算すると約700万円に相当する。終戦の翌年の昭和21年3月12日死去。

墓は道を挟んで日枝神社の向かいにある。形は将棋の駒という珍しいもので、戒名は「覇王院殿棋道大成大居士」という最高位のもの。右隣には、友人の石川友次郎七段、左隣には吉田菊一十六段のお墓まである。いずれも引き取り手ののない無縁仏であった。

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1868年3月11日、生誕

(慶応4年2月18日)昭和13年12月17日、小川芋銭没
小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。

横山大観に認められ、日本美術院同人となる。生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。



身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。

芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。

芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

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妖怪絵で日本美術院の名物に

茨城・牛久沼をこよなく愛した「河童の芋銭」こと小川芋銭
河童(かっぱ)の絵を数多く描いたことから「河童の芋銭(うせん)」の異名を持つ日本画家、小川芋銭(1868~1938年)。頭脳明晰(めいせき)で寡黙だが、優しさに満ちあふれ、時には弱き者の味方に立ち、風刺画を通じて社会の矛盾を追及する-。

そんな芋銭は茨城が生んだ偉人の一人。昭和13年に71歳の生涯を終えるが、温かみを感じさせる画風は今でも多くの人に親しまれている。本名は茂吉。芋銭という名は「自分の描いた絵がイモを買う銭になればよい」という思いや、徒然草の中に登場するイモ好きの僧侶への憧れから、自らが名付けたという。

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3歳で江戸から茨城へ
明治元年、江戸赤坂溜池の牛久藩邸内で同藩大目付、小川伝右衛門賢勝(よしかつ)の長男として生まれた。3年後、賢勝は廃藩置県に伴い、農業で生計を立てることを決意し、新治県河内郡城中村(現・茨城県牛久市城中町)に家族で移住する。居宅からは茨城県龍ケ崎市にある牛久沼が見えた。

幼少の頃から画家になりたいと強く思っていた芋銭は、父親に反対されても、なおあきらめず、父親のいないときを見計らってスケッチブックで写生をしていた。幾度も作品の題材に取り上げるほど牛久沼が好きだったという。この牛久沼には河童伝説がある。河童を頻繁に描くようになったのは、この影響が大きいとされ、自らの考えを河童を通じて作品上に表現したのではないかと考えられている。

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画塾を出て新聞の挿絵家に
話を元に戻す。芋銭は明治12年に親戚(しんせき)を頼って上京し、翌13年に東京府芝区公立桜田小学の小学尋常科第三級後期を卒業。この1年後に洋画家、本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に入り、洋画を学ぶ。

明治18年に画塾を出たのち、朝野新聞社の客員となって挿絵を描いていた。客員になった年代は、通説だと明治21年とされているが、小川芋銭研究センター(牛久市城中町)の研究では、芋銭の遺品の中にあった手紙の内容から明治23年とみている。

明治26年には、牛久に戻って農業に従事することに。生まれつき体が弱く、病気がちだった芋銭にとって、農作業は骨の折れる仕事だった。同時に、画家か農家のどちらを選ぶかで迷っていた時期でもあった。

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糟糠の妻
そんな芋銭が明治28年、黒須こう(きい)という伴侶を得る。芋銭が画家として大成したのは、家庭を支えたこう夫人の存在が大きいといわれている。

芋銭は明治から大正に代わるころ、洋画から日本画に転向。大正4年に絵画団体「珊瑚(さんご)会」を立ち上げた。大正6年には、同団体主催の絵画展に出品した作品が横山大観の目に留まり、推薦を受けて日本美術院の同人になる。

ただ、実績のない芋銭を疎み、「こんな絵がうまいのか」と反感を抱く同人らも少なくなかったという。それでも芋銭は自らの感性の赴くままに描き続け、やがて、日本美術院の「名物」とまでいわれる存在になった。

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各地をスケッチ旅行
画家として名を知られるにつれて来客が増えるようになり、茨城県利根町や千葉県、福島県などを転々として作品を制作していったという。理解者も現れ、別荘や寺の僧坊の提供を受けていたようだ。そんな芋銭の13人の孫の一人、小川耒太郎(らいたろう)さん(82)は、祖父が晩年に過ごした牛久市城中町のアトリエ「雲魚亭」のそばに住んでいる。

名付け親は芋銭。名前について母親に聞くと、「こじきになるつもりで勉強しなければ絵描きになれない」と口にしていた芋銭が、孫を農家にしようとの思いから、農具の鋤(すき)や鍬(くわ)を意味する「耒」の文字を入れた名前を付けたのだという。

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耒太郎さんが1歳半のころ、母親に連れられて芋銭の支援者の別荘「潮光庵」(千葉県銚子市)に出かけたときのエピソードがある。芋銭はこの別荘を画室として提供され、絵を描いていた。「うっすらと覚えているのは、なだらかな丘の上に別荘があり、見晴らしが良かった」と記憶をたどる。

芋銭は座敷で友人らと談笑していた。そこに、よちよち歩きの耒太郎さんが近づく。手にしているのは、筆を洗うための茶色い大きな墨つぼに入っていた太筆。つぼの中は墨で黒く汚れていたそうだ。あっという間のことだったらしい。耒太郎さんは、その墨まみれの筆を芋銭の顔に塗りつけた。「祖父は怒ることなく『ほほほ』と笑っただけだったと聞いた」と話す。

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生前を知る人物がもう一人いる。関口鉄夫さん(89)だ。芋銭と同じ牛久市城中町に住み、10歳のころ鉄道員の父親に頼まれて、芋銭の家に荷物を届けるなどの使いをしていた。家にいた芋銭に「よく来たね」と声を掛けられたことがあるが、話をする機会はなかった。「小さいおじいさん。おとなしくて、優しそうな印象だった」という。

関口さんが友人と外で遊んでいたある日、人力車に乗って帰ってきた芋銭の姿を見た。芋銭は背伸びをするように車から降りると、「城中(じょうちゅう)、城(しろ)の中(なか)」といって、「ははは」と笑った。その姿を今でも鮮明に記憶している。

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牛久沼を船上でも観察
関口さんの祖父からは、芋銭の依頼を受けて牛久沼に舟を出したときのことを聞かされた。「舟を進めるさおの先ばかりを見ている」というのだ。船着き場に近づくと、芋銭が「ちょっと止めてくれ」ということもあったそうだ。岸には水草などが生息していた。関口さんは「絵を描くのに観察していたのでは」と推察する。

牛久市に小川芋銭研究センターが存在していること自体、地元に愛されている証左といえるが、同センターでは「小川芋銭検定」も行っており、こんなところからも、彼の存在を後世に引き継いでいきたいという地元の思いがうかがえる。

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雲魚亭
芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど病室として使われた。現在は牛久市の管理の下、小川芋銭記念館として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。牛久沼のほとりにあり、近くには「河童の碑」もある。

小川芋銭研究センター
小川芋銭に関する学術的な研究及び情報発信を行っている。稲敷地方広域市町村圏事務組合の牛久消防署西部出張所であった建物を使用しており、かっぱの里生涯学習センターが併設されている。2008年(平成20年)7月1日から2009年(平成21年)5月31日までは芋銭の旧居「草汁庵」内(茨城県牛久市城中町2770、集落内)に設置されていたが、2009年6月1日からは基本的に現在の施設(牛久市城中町1888、牛久第三中学校前)に置かれている。小川芋銭検定を実施している。

「改善一歩」道標
「改善一歩」道標は、1922年(大正11年)に城中青年会(矯風会)によって旧牛久村の主要な道沿いに立てられた道標である。当時、青年たちが道標を立てる計画をしていたところ、芋銭がこれを知り、永久に耐えられる石柱にしなさいと青年たちに好意で寄付をしたため、青年たちは芋銭の名を刻もうとしたが、芋銭は自分の進む道を良い方向に改めて進みなさいという意味の「改善一歩」という言葉を提案したという。現在、7柱が牛久市の城中町・牛久町・刈谷町に点在している。

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牛久沼の主と河童

茨城県龍ケ崎市、うな丼発祥の地
東葛伝説民話事典に文が残っているので電化する。竜ヶ崎の馴柴小学校の近くに金竜寺という曹洞宗の名刹がある。旧水戸街道沿いに有り、境内に入ると眼下にゆったりとした牛久沼を望むことができる。

この寺は応永二十四年(1417)新田義貞の子貞氏が、新田家の菩提寺として上州太田に建立したもので、天正十八年(1590)新田家の子孫、由良国繁が牛久城主となったおり牛久に移し、寛文六年(1666)この地に新しく堂塔を建立した。

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本堂や茅葺きの庫裏、羅漢堂、山門などがあり、新田義貞とその一族の墓がある。新田義貞は上野国の豪族で、護良親王の令旨をかかげて兵を挙げて北条を滅ぼすが、その後、足利尊氏と戦って越前藤島で殺された悲劇の武将である。

庄兵衛新田を隔てて眼下に見える牛久沼は、東谷田川と西谷田川が小貝川の土砂でせき止められて出来ただけに細長く、周囲25キロ、面積2・96平方キロ、最大深度3メートルほどの沼である。沼の周囲にはマコモやアシなどの水草が生い茂り、ウナギやコイ、フナ、ヤマメ、オイカワなどの魚がたくさん住み、太公望のメッカともなっている。

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さて、この沼の主は何か。昔、金竜寺に智雲という小坊主がいた。真面目で働きものであったが、たった一つの癖があった。それは食事の後、必ず寝る癖があり、ある日和尚が智雲の部屋をのぞくと牛になっていた。

畜生道に落ちたあとは恥ずかしくなり、沼に入水しようと決心した。それを知った住職は牛になった小坊主を止めようとして尻尾を握ったところ尾が切れ、智雲はそのまま水底に沈んでしまった。それまで太田沼といったが、それ以来牛を食う沼から牛久沼と呼ばれるようになったとか。

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牛久沼には河童の伝説もある。河童は水陸両棲の妖怪で、身長は4、5歳の子供ぐらいで尖ったクチバシを持ち背は甲羅で、手足に水かきが付き、頭上には水をたたえる皿がのっていて、水が無くなると力も急速に衰える。川に牛馬や人を引き込んでは肛門に手を入れて尻玉を抜いたり、生血を吸っている。

こうした話に興味を持ったのが、小川芋銭という画家で、この地をこよなく愛し、高台に雲魚亭という画室を作って朝夕沼を眺めては、河童の絵を書き続けた。ついに「カッパの芋銭」の異名を取り、いま小川芋銭記念館に行くと、芋銭が著した「河童百図」や筆、筆洗、乳鉢、掛軸、長火鉢、机、着物などが展示されている。

芋銭はいま、牛久城址の一角にある得月院で永遠の眠りについている。(※小川芋銭検定は、小川芋銭の人物像や作品など小川芋銭に関するさまざまな知識を問う検定。2014年11月23日の実施で第9回となる。小川芋銭研究センターの閉鎖に伴い、現在は実施されていない。)

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オオタカが流山市の鳥に

平成29年2月18日、「自然環境保護のシンボル」
流山市の「市の鳥」に、市内のつくばエクスプレス(TX)の駅名にも登場する「オオタカ」をと、市民団体「流山のオオタカを守る会」が提案している。同会の紺野竹夫代表(58)は「オオタカを守ることは自然環境を守ることにつながる。駅名や学校名などにオオタカが使われ、市の発展に貢献している」と訴えている。

紺野さんは平成29年2月18日、市内であったオオタカをテーマにした学習会で生息調査活動を報告。現在はTXの駅名にもなっている「おおたかの森」とも呼ばれる「市野谷の森」で1992年、紺野さんがオオタカの繁殖を県内で初めて確認したことや、現在市内では市野谷の森を含め四カ所の繁殖地を確認していることなどを紹介。

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「オオタカは流山市のシンボル的存在」と市の鳥にすることを提案した。参加者からは「生息に影響が出ないように身近にいることをPRできれば、市民から守ろうという声が出てくる」「オオタカのマスコットキャラクターを子どもたちに考えてもらったら」などの意見が出た。

紺野さんたちは、1992年に市野谷の森で繁殖を確認したことをきっかけに、翌93年から県北西部で調査。同年に「種の保存法」に基づく「国内希少種」にオオタカが指定され、保護活動などから営巣数や巣立つ幼鳥は2005年まで増えていたが、それ以後は減少傾向。

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2016年は調査した繁殖地二十三カ所のうち営巣したのは十二カ所で、十三羽が巣立った。流山市内では、市野谷の森は1992年以降に十一羽が巣立ったが、2015年、16年はふ化直後にヒナがいなくなった。ほかの三カ所では2015年は二カ所で三羽が、16年は一カ所で二羽が巣立った。
 
市が一〇年に全国に先駆けて策定した「生物多様性地域戦略」では、「オオタカがすむ森のまちを子どもたちの未来へ」を理念にしている。だが、同会など市内の自然関連団体は、TX沿線などでの市街地化の自然環境への影響を懸念。紺野さんは、オオタカを市の鳥にすることで、市全体でオオタカをシンボルに自然環境を保護する取り組みが広がることを期待している。

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市野谷の森

「流山おおたかの森」下車徒歩約10分
東葛観光歴史辞典に文が残っているので電化する。初石駅正面の目と鼻の先にある千葉銀行初石支店脇の道を右に折れる。やがて左側の角にあいざわ食料店があり、ここを左折してトウカエデの並木道が森まで続く広い道へ出る。しばらく進むと並木の切れた道の向こう側にあるアオト印刷の看板を右に見て未舗装の小道に入ると、右側に流山愛馬会の建物がある。

ここから市野谷、三輪野山及び西初石五丁目にまたがる通称「市野谷の森」が始まる。もうひとつの入口は少し西寄りにある流山自動車学校脇からで、いずれも南の天神社へ抜けるコースが一般的。森は公園化されていないため案内板、標識のたぐいは一切ない。



初めて森に足を踏み入れると迷ってしまいそうなほど広く感じる。市のほぼ中央にこんな静かな世界があるとは信じがたいほど。東葛地方でも一、二を争う約50ヘクタールの広大な森で、明るいクヌギやコナラの林と、昼でも暗いスギやヒノキの林が八割を占め、ところどころは畑になっている。

標高5~23メートルのこの森は昔は山と谷地田が一体化していたと思われる。今は田んぼはなく、目につくものといえば東の坂川源流の牛飼沢の池と西の野馬土手跡と、南の竹林を背にした大きな池や北の違法残土によって築かれた平成の築山(つきやま)などである。

市野谷の前身である市野谷村は江戸時代は牛飼沢や入口など十六の字と二十七戸ほどの戸数からなり、元禄十五年(1702)までは太田氏と遠山氏二人の旗本の知行地であった。

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この村に享保十五年(1730)と寛政七年(1799)に合わせて三十六町歩が幕府の野馬放牧場(上野牧)から野馬入場新田として開発許可が下りる。野馬入場新田というのは、野馬放牧場であると共に村人がそこに入り薪、炭の原木をとり、用木を植林できるところ。

明治になり政府はここを開拓地として没収する方針としたが、村人の強い要望に折れ、明治五年従来通りの土地利用が認められ、里山として残る最初の試練を越えた。この市野谷新田の場所が、今日、市野谷の森と呼んでいる地域とほぼ重なっていると思われる。

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この森に絶滅の恐れがあるとして環境庁で「危急種」に指定されているオオタカの生息が確認されたのは平成四年。それを機に地元野鳥の会はオオタカの生態調査を開始した。営巣妨害や密猟を経験した平成八年、なんとしてもオオタカを巣立ちさせんと約一ヶ月間、森にテントを設営し、24時間の監視体制を取る。同年六月、ひとつがいのオオタカからヒナ三匹が生まれ、巣立ちも成功。市野谷の森は一躍全国ネットで知られるようになる。

オオタカは昔、将軍の鷹狩りに使われたあのタカである。森の枯れ松のテッペンにとまっているその顔は精悍で、一メートルを越える翼を広げ、ヨコシマの白い胸を見せて悠然と飛翔する姿は多くの人を魅了する。この五年で10羽のオオタカを確認したという。サシバ、ハチクマ、ハイタカもやってくる。旅の小鳥エゾビタキ、ノビタキなども中継していき、鳥種は百を越える。

林の中にはシュンラン、エビネも育ち、様々な生き物との出会いも楽しい。常盤新線沿線開発で森の東半分がなくなる予定になっているのでぜひ訪れておきたい森である。

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市野谷の地名の由来

郵便番号270-0137
東葛地名事典に文が残っているので電化する。東葛飾台地に坂川が作る谷津の最奥部に位置する。西は加村、三輪野山村、東は北方にかつて上野牧に深く入り込んでいたが、のちに北側に大畔新田、初石新田が開発された。

市野谷の地名は、まず円東寺の裏方にある水神様の小さな祠に「一谷村」と刻まれてあり、また天神社の境内にある六貫の力石にも「一谷村」と刻まれている。

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市野谷は坂川の源流地に当たり、それから市ノ谷(いちのや)といった時代もあったが、のち、円東寺や天神社の境内に「市」が立ったことにより、市野谷となったとも言う。また、慶長19年(1614)の小金領野馬売付帳(綿貫家文書)には市野谷の地名が見られる。

千葉県地名由来事典によると、慶長の頃(1596~1615)馬の鑑定をさせれば、右に出る者無しと言われ、あと遠江の代官として馬の飼育に当たった市野惣太夫が住居したことにより市野谷と言われた。

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日光東往還が市野谷の東部を縦断する。天保14年(1843)の将軍徳川家慶日光社参時には道中商人たちが小屋がけし、たくさん男女見物人が出て、昼夜終日馬小唄がたえず、「東海道ニモ増候程に御座候」(長妻家文書)と記録されている。

市野谷の森は、オオタカを中心とした生態系豊かな森で、その近くをつくばエクスプレスが開通した。(2005年開業)これを機に市野谷の森は、オオタカを保護し、生物の多様性を守る県立市野谷の森公園として整備されることになった、つくばエクスプレスと東武野田線が交差する新駅名は「流山おおたかの森」と命名された。

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文を追加しておく
2015年1月より、千葉県内の3つの市民団体(NPOさとやま、流山のオオタカを守る会、利根運河の生態系を守る会)が呼びかけ人となって、「県立市野谷の森公園」早期実現を求める署名運動を行ってきましたが、このたび15365名の署名を集めることができましたので、千葉県県土整備部公園緑地課の高田令子課長に提出いたしました。

15365名の署名は、主に流山市民からの署名が中心で、流山市の有権者の人口の約11%に当たります。このように多くの署名を集めることができたのは、つくばエクスプレス沿線の住宅開発がここ数年急速に進む中身近な雑木林や田畑がどんどん失われつつある現状と、おおたかの森駅のネーミングでもわかるように流山市の豊かな自然のシンボルでもあるオオタカの生息が脅かされていることに対する市民の危機感のためだと考えます。

千葉県知事には、この15365名の署名の重さを十分にご理解いただき、「県立市野谷の森公園」の早期実現に向けて必要な業務を進めていただくとともに、公園が実現するまでの間にもオオタカを初めとする貴重な動植物が失われることのないように必要な施策を実施していただくよう請願いたします。

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新保國弘、オオタカの森

崙書房出版、平成12年2月発行
東葛文献百科事典に文が残っているので電化する。常磐線松戸駅の鉄橋から10キロほど上流の東側に沿って流山市がある。川を隔て西は埼玉県、北は利根運河を境にして野田市に接し、面積35万平方キロ、人口15万(※この出版物発行当時)ほどの小都市だが、江戸時代には水運を利用して野田市と共に商都として栄えた町である。今も豊かな自然が残っていて、川や森、水田が多く、手軽に身近な自然を楽しむことが出来る。

川沿いに南北に長く240ヘクタールの水田があり、東に北総台地がせまり、5キロを越える斜面樹林がある。さらに東北に2キロ行った所に、広さ約50ヘクタールの市野谷の森がある。この本は恵良好敏さんを代表とする「流山自然観察の森を実現させる会」の人々が、市野谷の森を守ることに心血を注いだ物語である。



著者が平成5年恵良さんたちと一緒に市野谷の森に初めて入った時には、オオタカをはじめとして30種の野鳥が観察できた。市野谷の森はほとんど人手が入ってなく自然度が高かったという。

春夏秋冬、森は豊かな落葉樹が姿を変えて訪れる人を楽しませ、多くの草や木は昆虫を呼び、それがさらに小鳥のエサとなり、小鳥はオオタカの栄養となる生態系が確立していた。

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昭和60年通勤電車の混雑解消を目的として、常盤新線の計画が持ち上がった。東京から郊外へと人口の流出が加速していた時だったので、首都圏東北部の鉄道空白地である流山はまたとない地域と注目されたのである。

秋葉原~つくば間58・3キロを45分結ぶという計画である。流山では、市野谷の森を守るため市および県に対ししばしば陳情。また同時に市野谷の森を保全し自然観察の森をつくろうと市民運動も始めた。

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それにはオオタカの生態調査をしなければと、調査を始め県の環境会議に提出、会議のメンバー16人が市野谷の森を観察するまでになった。平成5年11月から6年8月までの一年間、市野谷の森と周辺一キロ以内の行動圏、繁殖状況、生息環境を調査することになった。

その後も、観察は続き、平成6年三羽が孵化したが密猟で全滅、7年はヒナが巣から落下、平成8年の今年こそはと監視メンバーを募集して観察することにした。

メンバーは20代から60代まで職業もサラリーマン、自営業、市会議員教師などまちまちで男性二名づつ24時間体制を敷いた結果、5月中旬にはヒナが三羽孵化し無事巣立ちを確認したと県に報告。9年には一羽、10年は二羽、11年はカラスに卵を襲われ失敗したが、この報告は県を動かし、森を残す方法は都市林が一番ふさわしいということになった。

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都市林とは、市街地やその周辺にまとまった面積を有する樹林地で野生生物の保護や気候の改善などをはかる所で、平成11年6月23日「市野谷の森公園」と正式に決定、運動した人々の苦労が報いられたのである。

市野谷の森については、流山自然観察の森を実現させる会発行の『オオタカのすむ市野谷の森』(500円)にも詳しい資料と共に歴史、昆虫、植物、動物の話が載っている。



なぜ市野谷の森にオオタカがいるのか

東葛なぞふしぎ事典に文が残っているので電化する
自分より大きい獲物さえも倒す優れた狩猟能力のために、古くから鷹狩りに用いられてきた里山の狩りの名手オオタカは、ハシボソガラス大の大きさの中型の猛禽類である。日本野鳥の会の全国アンケート調査などにより、国内に生息するオオタカは繁殖期でおよそ千羽を超えるほどしかいない。

そんなことからオオタカは、「環境庁レッドデータブック」(平成3年施行。平成10年改定)で「絶滅危惧�U類」(絶滅の危機が増大している種)に分類され、環境庁の「種の保存法」(平成5年施行)で「国内希少野生動植物種の希少種」に指定されている。



平成5年5月、千葉県内で初めてオオタカの営巣が発見された森として新聞各紙に大々的に報道されたのが流山市の市野谷の森である。同時にこの森は、面積50ヘクタールを有する東葛地域最大の平地林であることも明らかにされた。

その後、県内でオオタカの営巣がニュースに取り上げられたのは、千葉市の昭和の森、市原市北東部の丘陵地、野田市の三ヶ尾台地の三ヶ所に過ぎない。その中でも市野谷の森が高い評価を受けているのは、里山の生態系の頂点に立つオオタカが数々の妨害に関わらず営巣を継続して行っている森だからである。

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さて、市野谷の森のオオタカは、ヒナを密猟されたり、卵やヒナがカラスに襲われたり、土木工事の騒音や振動などの営巣妨害等でしばしば繁殖に失敗している。それにも関わらず、市野谷の森のオオタカは何故この森に固執し営巣を続けようとするのであろうか。以下その理由を探ってみる。市野谷の森にいるオオタカの羽数は、季節によって異なる。

春から秋にかけての繁殖期にはヒトツガイのオオタカだけになる。しかし、秋から冬にかけての非繁殖期になるとどこからともなくオオタカが集まってくる。平成6年1月には5羽、平成7年1月には7羽ものオオタカが確認されている。縄張り意識の強いオオタカの越冬に適した森が近隣に少ないからと思われる。

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ホントのところはオオタカに聞いてみなければわからないが、オオタカが選ぶ森というのは、人の出入りが少ない安心して休息の出来る深さの森で、ネグラや営巣に適したスギやアカマツの大木があって、森の中および周囲にエサとなるたくさんの野鳥がいることである。

それと、森の外の農耕地や斜面林や江戸川の河川敷でキジバトやコサギなどの野鳥を捕まえて森に持ち込み、解体して食べたり、見張り場やネグラに行く林内の飛行アクセス空間が良いことも欠かせない条件と言える。



秋から冬にかけてオオタカの越冬個体が集合するということは、異性との出会いの機会も増え、営巣ペアの入れ替えも起こりやすく、ひいては営巣の継続性につながる。その時、好みのペアを選ぶ主導権はオスなのか、それともメスなのか、興味は尽きない。森は市民による保護活動の結果、半分の25ヘクタールが県立公園(都市林)として残されることに決まった。

流山市では、平成17年開業予定の常磐新線(つくばエクスプレス)に連動して市面積の20%を超える大規模なまちづくりが森の周辺で始まっている。新線が東武野田線と交差する仮称新市街地駅から約600メートルの距離になるこの森に、オオタカはなお留まり、営巣を続けるのだろうか。

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つくばエクスプレス

首都圏新都市鉄道
東葛交通事典に文が残っているので電化する。つくばと都心を結ぶつくばエクスプレスの構想は、昭和40年ごろからすでにあった。JR常磐線の混雑緩和、首都圏の住宅供給の促進、沿線の産業の活性化などを目的とした新線で、ようやく実現の運びとなり、平成3年3月、首都圏新都市鉄道株式会社が設立され、平成17年8月に開業した。

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当初、3つのルートが考えられたが水海道や取手を通る案は退けられ、関東鉄道の守谷を通ることに決定した。東京の秋葉原と茨城県のつくばを結ぶ58・3キロの高速鉄道で最高の速さは時速130キロ、駅の数は20駅である。

全線が高架かトンネルか鉄橋で、自動列車運転装置がつき、車掌は乗っていない。駅舎はどこもスマートで、ゆったりとし、快適な乗車をしてもらおうという配慮が随所で見られる。まさに今日型の快速鉄道で、乗車していて楽しい気分に包まれる。



文を追加しておく

武田議員、県議会リポート
流山市にある市野谷の森、通称おおたかの森については、平成3年度、4年度に行われた調査でオオタカの営巣が確認され、平成7年度に行われた「千葉県環境会議」の提言を踏まえ、平成12年1月に約18・5ヘクタールが都市公園として決定されました。

平成19年度には、このうち約3・7ヘクタールが事業化され、現在整備が進められているところですが、この間に周辺の市街地整備が進み、また本年4月には計画地に隣接して、小中学校併設校、その名も「おおたかの森小・中学校」が開校します。

このように、市野谷の森、通称おおたかの森は、地区のシンボルとなっており、その保全を求める市民の声がより一層高まっているところです。しかし、おおたかの森小・中学校に隣接する区域を含む14・8ヘクタールについては、まだ事業化されていません。

面積も大きく、時間がかかるものと推察されますが、地元では公園としての用途以外に転用されてしまうのではないかと懸念する声が上がっています。そこで伺います。市野谷の森公園において、事業化されていない区域の整備に関する県の考え方はどうか。

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都市整備局長
市野谷の森公園は、住民が身近な自然と触れ合う場として、緑地の保全・利用を図っていくという基本理念のもと、約18・5ヘクタールの区域を平成12年1月に都市計画決定いたしました。現在、このうち3・7ヘクタールの区域について整備を進めているところです。残る区域約14・8ヘクタールについても、緑地の保全・利用が図られるよう、事業の進め方などを地元流山市等と協議してまいりたいと考えています。

要望
流山おおたかの森駅、おおたかの森小・中学校、県立おおたかの森高校など、オオタカがいなくなってはうまくありません。事業化されていない地区にオオタカが営巣しています。公園としての整備を急いでいただきたい。また、地権者も待っています。

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