でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

カテゴリ: 神社


令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その9


このあたりはつくばエクスプレス開通により、流山セントラルパーク駅が開設された。それに影響されて駅通勤圏内として再開発が進められている。さらに流山新橋、これに伴う新県道の影響も受ける。この工事が進んでいくと新たに新築住宅も販売される。中学生の時に集まっていた平和台四号公園から、光照寺の裏の農地は既に引っ越してきている。

そう言えば今現在あの風景を思い返してみると、寺院の土地を借りて生活していた小作人という考えも出てくる。まぁどちらにせよ、交通インフラを整えて需要と供給を計算し、順次区画造成し都市化する。この流れで平和台5丁目の一部が都市化されている。新松戸も南流山もこのような区画造成工事を繰り返して現在に至っている歴史が見て取れる。



親を見て子供は育つ、何を好み、どういった信念、信条で生きて行ってるか。子供は自分なりにそれを吸収しながら成長する。これがあって小学校、中学校の同級生といった周囲の声があって今がある。どうしても東大に入れって親なら、受からなければガッカリされる。受かれば当然の事ながら親から愛され、自慢の息子だと愛されていくんだろう。

親が親なんだから大学などよりも注目するのはこの祭礼の場をどう感じるか。元々根郷や加岸は商業の街の意味合いがあるが宿は一つの村といっても間違っていない。その村の中で共に共同生活を送る人間として認められる必要がある。そうなると「厳しく文句言える」ってのは俺を認めてくれるからで、カドキヤの行動につながってくるわけだ。



加台大宮神社氏子衆

加台大社睦会会長、山本さん
平和台及び加台地区は戦後開発されたニュータウンの例に漏れないが、都内ほど急激な住宅地化が行われず、ゆっくりと新住民を受け入れていったため、先祖代々のコミニティーが残っている。そして現在もつくばエクスプレス効果により人口が増加中である。

なので流山本町の他の自治体よりも人口構成が若い。前会長西島さん、勝木さんより受け継いだ。今回で山本家も代替わり、そのための準備をしてきている。代々の田舎町の濃厚な人間関係と、流山が代々住んでいける産業や商業が安定している街と言う事がここから見える。

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毎年家の代表として神社の神事を流山に住む人間同士で行い、これを何十年と繰り返してウチの親父は生きてきた。もっともこれを特別な事とも思わない人もいれば、休みの日にわざわざそんなとこに出ていくなんてよっぽどヒマでやることないんだな。って斜めにしか見られない人も当然のように存在する。しかし、価値を理解できる人間が必要。

未来は何年も前から決まっている、組織は計画性を持って動いているからだ。実際につくばエクスプレス開業も決定してから、バブル崩壊など時期的に遅れることはあったにせよ、無事開業に至った。そうなると何年も前から工事は進められていた。俺がこの家の跡取りとして決まってから既に30年以上経っている、将来絶対に順番は回ってくる。

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 神社神道の生業としての神社の神職である神主や巫女によって行われるものは、日々の勤しみとしての祝詞や神楽がありこれらは祈りとしての祀りであり巫(かんなぎ)でもある、個人の祈願記念として祓いや地鎮祭などは、神社に依頼しされ神職によって行われる。

神仏習合のや他の宗教との習合や影響で、神道の神事には密教・仏教を初めとし時には儒教など、特に道教の陰陽五行思想などを由来とするものもある。

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神を供応する形式の祭では、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会などを神事とすることが多く、最も重要な神事は神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為であることが多い。

神意を伺う行為には間接的なものもあり、神前での相撲などの結果如何で吉凶を占う神事もある。このような行為の宗教的な意味合いは強く意識されていないが、同じようなものが多くあり、流鏑馬、競馬(くらべうま)などの競技や、物や動物を使ったものがある。

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宮入となった
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赤城四ツ葉会
俺が生まれた時からほぼメンバーも変わらず、これが今の住民の入れ替わりの激しい街が増えている中で、この時代にどれほど贅沢なことか、価値があるのかと言う事。これ以上に信頼出来る人達もいないと言う事。

一緒に酒飲んでカニ汁飲んでここまで生きてきたんだ。流山は時代が変わっても変えてはいけない事がある。家を代表して自分達の生まれ育った土地の神様を祀る、日本人としてこれ以上に相応しいこともないだろう。

この中で生まれ育ったメンバーの子供は生まれつきこのコミュニティを知っている。そして何十年間という準備期間を経て、将来の後継者となる未来が見えている。山本新代表だって、代々の住民なんだから当然のように親を見て、いつか必ず来る自分の順番を待っていた。

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今の歳だから思う、30代というと子育て世代が新築物件を買う年頃、母親の公園デビューという言葉もあるが新しい土地に行って仕事だけではない地域の行事デビューというのも大きなこと。

仕事が忙しくて消防分団には入れないけど土地を知る、一年に何度かある地区の神社の祭礼には参加したい、そのような人にとっては出来るだけ情報は欲しいもの。これも流山の住宅販売促進情報なのだ。

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神輿渡御なんだから神輿担いでるところ写真撮らないと、って言うけど、そんな表向きの広報活動は市役所の広報課の仕事でしょ、誰でも撮れる写真じゃなくて俺が写真撮ってるからこのブログの写真が撮れる。神社信仰とは最も日本的なもの。

今では圧倒的に少ない流山本町先住民、どんな生活をしているか、みんなが集まる神輿渡御とはどんなものなのか、今では触れていない人の方が多くなっている時代になっているためウチラにとってはごく当然の情報の方が価値が高い。

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そしてこの飲みの場もビールを注いで飲んでもらう、それは神輿渡御の副産物としてとても大きなことだと思う。これは日常の仕事においては名刺交換のようなものだろう。顔を憶えて、名前を憶えてもらう、新しくコミ二ティーに参加する者としても、親ありきの跡取りとしても大事な場なのだ。

時代は徐々に変わっていく、自分が変わるにしても組織が変わるにしても、この場で得た情報などで次第に組織を自分に馴染ませる事も大事。その繰り返しこそが日本の和の精神、頑固になりすぎてもダメだし、不真面目すぎてもダメなのだ。

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ウチラ四ツ葉会も根郷神輿会も感覚的には同じだろう、江戸時代から神輿を担ぐグループが超絶リア充。これはいつの時代にも変わっていない。田んぼの真ん中に鉄道駅が設置され、周辺農地が都市化された場所では土地成金が大きい扱いを受けるんだろうけど、所詮は流山本町の外の話、ただ一部の事、そのうち自分で気付いていくしかない。

祭は一部ではパレードとも称される。これは自分の所属している神輿会の半纏を着て、道中を練り歩く。これには神輿会の人々の同意が無いと認められない話で、言うなれば神輿会が認めた人間のお披露目、その最大のアピールの場がこのような祭礼と言ってもいいだろう。流山は150年以上の先輩後輩でつながっているからこそ秩序がある。



「神が造りたもうた酒」と言う言葉があるが、古来日本酒の製成は不思議な力によるものと考えられていた。そこで、神と酒のつながりを考えてみた。古代の酔いを考えると、その現象こそ神の作用そのものであり、酒を呑んで酔うことが、すなわち神に近寄る手段であるという基本的な発想があったようだ。

こういう考えから、日本酒はまず神に供え、それから人が呑む。神にまず御神酒をと言う習わしが、今でも続いている。たとえばお祭りで御神酒をいただく。もちろん酔いを求めて呑むわけだが、享楽の為の酔いではなく、より神に近づく為の手段として呑まれる。

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この光景が祭礼のもう一つの姿と言えるものだろう、人が集まり適度に動くと酒がうまい。新しい住人も先祖代々の住人とも差もない、話すことなんて何でもいいんだよ、むしろこんな中で一人で真面目な話も必要ないし。日本独特ともいえる美しい姿だろう。酒は本来神聖なもの、さらに酒の歴史は見事に流山の歴史とも言えるものとなっている。

以前味醂二百年祭が終わったが、これは二百年以上前から流山が酒どころとして栄えていた事につながる。酒造りの醸造技術が味醂作りとした産業に変わって現在でも味醂工場が稼働している。工場があるということは代々のしっかりとした雇用が生まれ、市場規模も安定しているということ。だからこそウチみたいな小さな商店も生きていける。





次の祭礼は秋、十月の赤城神社

赤城神社の氏子衆である赤城四ツ葉会会長が締める
若宮団地の所でウチの親父は、以前の平屋の市営団地の話をしていた。ここで中橋さんに話を聞くと、出身の中学は南部中じゃないから知らないみたい。なんでも親の仕事の都合で常盤松みたい。この時は(中橋さんは俺の五個上だから、中学の時は平成初期、そういや同時期、十太夫からファンケルの工場が移転してるな)って思っていて。

そんで次の日、検索した昭和の産業史その8のページを貼っておく。これがドンピシャな話になってくるでしょ。平成三年、株式会社マルタカ、高橋啓治社長、流山工業団地に立地。経営者側の目線だけでなく後輩の育成、それに俺みたいなトラブルメーカーの存在、何かと大変かと思いますが、よろしくお願いします。

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神事は神事でしっかりとやるし、神輿渡御もみんなで力を合わせて終わったら、最後は楽しく飲んで終わるのが日本の心ってもんでしょ。アメノウズメノミコトの舞のように楽しく神輿渡御してるところをブログで発信したら、「天の岩戸」に引きこもった天照大神じゃないけど(神輿担ぐのって面白いのかな、ちょっと覗いてみようかな)って会員も増えるかもしれない。(詳しくはアメノウズメノミコトの記事へ)

人が集まりゃ出会いが生まれる、次に集まりゃ関係が深まる。酒だけでの繋がりではないものの、当然酒の関係も必要ということだろう。交友関係が広がれば日常生活が豊かになる。みんな生きてきた時代は違うが一つの所に集まり、神輿渡御を毎年行うということはとても言葉では言い表せない効果を持っている。そして役員などの言動や雑作を見て、将来のための勉強を続けていくことが跡取りとして必要なことだと思う。

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令和五年、加台大宮神社祭礼、無事終了

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令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その8



祭りの掛け声
大きな声を出して叫ぶことは、勢いをつけてくれます。そしてそれが大勢での掛け声とあればなおさらです。日本各地の祭りでも神輿を担ぐ時や踊りの途中など、さまざまな場面でいろいろな掛け声が出されているのをよく耳にしますが、それらは一体どのような意味を持っているのでしょうか。



最もオーソドックスな「ワッショイ!」
「ワッショイ!ワッショイ!」という掛け声は、おそらく誰もが耳にしたことがある掛け声の1つだと思います。神輿を担ぐ際に男たちが一斉に出す掛け声であり、その迫力ある様子から普段重いものを運ぶさいにも思わず口に出す人もいるほど浸透しています。ですが、この「ワッショイ!」というのはどういった意味があるのでしょうか。

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この「ワッショイ」という掛け声は神輿担ぎにおいて、最もオードソックスな「平担ぎ」をする際に出される掛け声だとされています。しかしその意味においては諸説あるものの、確かな意味は不明です。

神輿に神様が宿られた、神様がやってきてくださったという意味で発していた「和上同慶(わじょうどうけい)」という言葉が「ワッショイ」に変化したという説、「和(輪)をせおう」、「和と一緒にある」など皆と一緒に何か物事をなしている(=和を以って貴しと為す)という意味の掛け声だとする説、ヘブライ語で運べという意味の「エッサ」という言葉が日本に伝わり変化した説などさまざまですが、どれも確証は得られていません。

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地方ごとの祭りの掛け声
そしてワッショイと同様に、その担ぎ方や地域などによって、神輿行脚の際にはさまざまな声が発せられています。神輿を上下させる江戸前担ぎをする際には「エッサエッサ!」、高く持ち上げ・差し上げをする深川担ぎの際には「モーメモーメ!」、「サーセサーセ!」など担ぎ方によって変わるものもあります。

関西の掛け声で、現在は関東の祭りでも出されている「ソイヤソイヤ!」、湘南地区で叫ばれている「ドッコイ、ドッコイ!」九十九里地区で叫ばれる「アンリャアドシタ」と地域によって変わるものなど、固有の掛け声が数多く存在します。

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神輿担ぎの掛け声と同様、祭り中には特徴的な掛け声が発せられる場面が多くありますが、地方ごとの祭りの掛け声にはその特色がよく出ています。

例として挙げてみると、青森県のねぶた祭りでは「ラッセラー!」、「ヤーヤドー!」、山形の花笠まつりでは「ヤッショ、マカショ」、高知県のよさこい祭りでは「よっちょれよ!」とバリエーション豊かな掛け声があげられています。

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祭りにもよるのですが、これらの掛け声には方言や伝統の言葉が変化したものがみられます。青森の「ラッセラー!」や「ヤーヤドー!」は元々合戦における凱旋・出陣の際の掛け声、花笠の「ヤッショ、マカショ」は大正時代かんがい用溜め池工事の際に、土突(どんつ)き作業をする時に使われていた掛け声であり、民謡から取られたという説が伝えられています。

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祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる(詳細は後述)。祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。

そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。農耕社会においては、収穫祭が古いものであるが、その他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える。

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『金枝篇』に載せられている例でいえば、ヨーロッパのキリスト教以前の色を濃く留めている風習の一つで、収穫した穀物を使い人形状のパンまたはクッキー(人体の象徴)を作り、分割する祭礼があり、聖餐との類似が指摘できる。

キリスト教・仏教などの世界宗教にも祭礼がみられるが、教義より儀式・慣習によるところが大きい点で、祭の要素は、本質的に民族宗教に顕著であるともいえる。狩猟民族でも、獲物を捧げ豊猟を祈願する儀礼がみられる(熊送りなど)。



「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。

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その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。

「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

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「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。

その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。

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「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は、漢字の本来の意味において葬儀のこと[要出典]であり、現在の日本と中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。

古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。鯨祭りといわれる祭りが、日本各地の津々浦々で行われているが、それらは、鯨突き(捕鯨)によって命を落としたクジラを慰霊するための祭りである。

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「奉り」は、奉る(たてまつる)とも読み。献上や召し上げる・上に見るなどの意味もあり、一般的な捉え方として、日本神話の人格神(人の肖像と人と同じような心を持つ日本創世の神々)や朝廷や公家に対する行為をさし、これは、神社神道の賽神の多くが人格神でもあるが、皇室神道に本質がある「尊(みこと)」に対する謙譲の精神を内包した「まつり」である。

その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦にあるように釣針(古くは銛も釣針も一つの概念であった)や弓矢は、幸(さち)といい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。

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古くから漁師や猟師は、獲物(えもの)を獲る(える)と神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なりわい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にもあり、地鎮祭や上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり、この二つの「まつり」が一致した祭政一致といわれるものであったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ。



パイセンリストは木ノ村さんです。ウチの親父の九個下です。浜あげの吉田さんと小谷米屋さんが同級生です。木ノ村さんは西平井の消防分団に所属していました。『地区のブロック化』とかめんどくさい話をしたが、範囲を決めて会社に発注するんだからそうなるわな。

西平井の一部が名前を変え平和台となっています。これは旧道八木道から旧道諏訪道までの区間で、流山線の線路から加交差点、中交差点までの範囲ですね。この範囲には二つの神社があり、古くからの氏子組織とは別に平和台自治会も絡んでくるので理解が難しい人もいる。






古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政したといわれ、平安時代には神職が道教の陰陽五行思想を取り込み陰陽道と陰陽師という思想と役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。

またこうした政と祭りに一致は中央政府に限らず、地方や町や集落でも、その年の吉凶を占う祭りや、普請としての祭りが行われ、「自治としての政」に対し資金調達や、吉凶の結果による社会基盤の実施の時期の決定や執政の指針とした。

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社会は組織で動くもの、だからこそ俺は同じ地区の同級生の誰よりも早く、神輿会に所属して現在に至る。学校の立場では建前的に対等な年齢で大人に決められた毎日をこなしていく。ただ、実際は常識や決まり事なんて全く役に立たないぐらいの理不尽な現実が待っていることが多い。ルールや常識なんてその人それぞれでも微妙に変化する。

組織の中で自分の個性を発揮し、同世代なんてイマドキ家を継がないで将来は出ていくことが決まっているんだから、死ぬまで流山で生きていく年上世代から将来を期待されて成長する。これは精神衛生上にとても大きい。期待してくれる人もいる、導いてくれる人もいる、評価してくれる人もいる、だからこそ毎年それに応えなければならない。

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人間一人ひとり立場や役割がある、商家に婿入りした人間は俺なんかとは比較にならないぐらいのプレッシャーの中で日常生活を送っている人もいる。また、今現在の段階では誰かを支えるために動いている人間も必要。そうなると俺は自分の事をやるしかないしね。人間全て平等、なんて奇麗事だってイマドキ中学生でも理解できる。

西平井の一部が平和台と名前を変えて現在に至っている。しかし地元住民としては、後から引っ越して来た人とは違い、氏子の範囲や消防分団の管轄など、ホントに詳しい所まで書かないと評価されないのも事実。加村台と西平井の一部が大規模造成されて平和台と名前を変えている。今では家から出ていくのが当たり前。

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神社の祭礼なんか興味もないから参加しない人も多い中で悲しい現実として、「参加する人」も存在してしまう。これは自分の知らないところで時代が進んで、評価される人間も出てくるということ。通勤に便利だから、と駅前マンションに住んで仕事中心な生活になっているうちに、出てくる人間の中だけで世代交代は進んでいく。これはしょうがない現実。

「生まれ持った物を生かして生きてゆく」、これは土地成金には絶対に否定できない言葉だ。だからといって鉄道駅が出来る前を想像できる歴史的知識があるわけでもないので、ここでも「学校にまともに行っていない」ということが関連してくる。組織的な物事の見え方、それが駅中心でしかないのだから他の生き方も、違う目線も見えてくるわけがない。

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何より周りからずっとチヤホヤされてきた、というのが一番ダメージが大きいのだろう。つくばエクスプレスが開通し、周りは続々と駅前マンションに集まってくる。しかし、そこに集まるのは鉄道駅を通じて東京の方を見ている人ばかり、そりゃ自分が少数派になるわけがないのよ、マンション持ってる地主なんだから。負けた事がないから余計に悔しい。

一家の代表として毎年の祭りに出てきて、様々な年代の人々と交流し、評価を認められている人間と、終わった祭りのブログをアラ探ししている人間と、一人の男として相応しいのはどちらだろうか。同じ家に生まれたのに、親から愛されている人間と、親の好みや生きていく方向性を見誤り、親から愛されていない人間との大きな差と言えるだろう。

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令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その7



俺はジーサンバーサンと同居の流小出身者、だからこそ地区の付き合いにも参加しているし、将来まで考えてこの祭の場にも存在している。中学に入ると北小と同じ学区になり、南部中に通う。小学校の時とは学区が広がり、隣の北小の生徒と学生生活を送るわけだ。体育の前に着替える時、首から鍵を下げている同級生も見たが、今思うとドエル組だから共働き世帯の鍵っ子という事か。

今まで北小の学区は(マンションが多いとこ)、そうゆうもんとして育ってきた。だから『ドエルが無い時を知らないんですよね』って話をジンジさんとしたら、五学年上で親が実家と別に、家を建てた立場のジンジさんは『夏過ぎると転校生が二百人とかいたよ』って教えてくれた。マンションが出来るタイミングってのも歴史の一部で、色々変わってくる。

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家に帰ってきてからウチの親父にこの話をしたら、『俺が大学の時までボーイスカウトのスカウトハウスがあったわ』って話だから、加藤屋大店の藤原さんなどと一緒に活動していた頃は、ドエルが無くて森だったという。北小の第一期、について説明が足りなかった。特に引っ越して来た人も祭に参加しているのを考えていなかった。

でも、このブログは江戸時代から先祖代々住んでいる、俺の目線と表現で文章を書いてるから意味があるんだろうし、こんな感じでやっていて良いんじゃないかと思います。人と違う、ってのは最大の個性でしょ、俺の平成一桁の学生時代だって、絶対的に後から引っ越して来た人の方が多いし、まだまだ新築住宅が建てられる土地が残っているので、これからも増えていくんだからね。


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株式会社コモディイイダは、東京都北区滝野川七丁目に本部を置き、関東地方で食品スーパーマーケットを展開している日本の企業。旧社名は、株式会社飯田百貨店。CGCグループ加盟。

生鮮食品を中心に取り扱うスーパーマーケットを東京都、埼玉県、千葉県、茨城県に展開している。売上構成比は衣料・日用雑貨が1割弱で、ほとんどが食料品である。正社員数、786名(2010年10月時点)

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創業は、1919年(大正8年)に飯田信介が東京市本郷区駒込神明町(現:東京都文京区本駒込)にて始めた青果の行商である。その後、飯田青果店、合資会社飯田百貨店を経て、現在の株式会社は1948年1月に設立。

借入金無しの無借金経営で堅調に業績を伸ばし、店舗を増やしてきた。1997年に社名と店舗名を現在のコモディイイダに変更して現在に至る。飯田百貨店時代には、秋葉原にあった家電量販店のアジア無線がいくつかの店舗にテナント入居していた。

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食卓が変わる?

「譲れない闘い」決着
欧州産のワイン、そして、チーズが安く楽しめるようになるかもしれない。東京都内のチーズとワインの専門店。とろーり、とろけるチーズを使った「ラクレット」が人気のメニュー。

このチーズをめぐって、日本とEU(ヨーロッパ連合)が、「譲れない闘い」を4年以上も続けていた。ベルギー・ブリュッセルで日本時間6日午後7時半ごろ、安倍首相は「日・EU協力は、新たなステージを迎えることになります」と述べた。

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安倍首相が日本時間6日夜、「新たなステージ」と評したのは、大枠合意したEUとのEPA(経済連携協定)。EUは、ヨーロッパ産チーズにかけられている、およそ30%の関税撤廃を。

一方、日本は、EUが乗用車にかけている10%の関税を撤廃するよう要求していた。交渉の結果、乗用車の関税は、7年かけて撤廃。

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チーズには、低い関税での一定の輸入枠を設けたうえで、15年かけて撤廃することで決着した。さらに、チーズ以外にもヨーロッパ産のワインやパスタ、チョコレートについても、関税が撤廃される。

このEPAによって、わたしたちの暮らしは、どう変わるのか。東京・北区のコモディイイダ滝野川店で販売されているチーズ80種類のうち、10種類程度がヨーロッパ産。ワインに至っては、80種類中、60種類がヨーロッパ産。





コモディイイダ滝野川店の星 幸太郎店長は、「国産の売れ筋商品は、200〜300円前後で買えるものが、(欧州産は)倍の値段、600〜700円なので、売りづらいし、買いづらい。

安く販売できることになれば、ワインとチーズのフェアを組んで、取り組みを強化して、販売していきたいと思っております」と話した。関税が下がれば、仕入価格も下がるため、販売価格を下げることができるというが、実際には、どの程度安くなるのか。





第一生命経済研究所の永濱利廣首席エコノミストは、「チーズの関税というのは、29.8%の関税がかかっているので、これが段階的になくなるということになれば、1割以上は安くなる可能性は出てくると思います」と話した。

消費者は、「うれしいですね。お酒のおつまみとかに」、「(価格が)日本と大して差がないなら、ちょっと試しに食べてみようかって気にはなるかもしれない」などと話した。喜びの声を上げる一方、チーズの原料となる牛乳の生産者にとっては、いわば「黒船の来航」。





危機感を覚える酪農家も多い中、酪農業の横峯 庸さんは「北海道産チーズってこうだよねと、消費者に理解され始めてはいると思うので、ヨーロッパから入ってくるものと道内産のものと、はっきり分かれると思う。消費者に選んで買ってもらうのも、農家の努力次第」と話した。

日本で牛肉の輸入自由化が始まった1991年を機に、国内の生産者数は、およそ4分の1に激減。一方、生産量もやや減少しているものの、海外への輸出量は、大幅に増加している。譲れない闘いのゴールは、日本の食卓、そして、農業の未来のスタート地点といえそう。

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珈琲屋OB 流山店です
ログハウス造りのカフェで落ち着いた雰囲気です。自家焙煎珈琲をお淹れしております。内装、外観ともに木のぬくもりの感じられるログハウス。机も椅子も木製で、店内も広く落ち着ける空間です。なんせこの雰囲気、この量、この味で、この値段。なんとメニュー表も木で出来ている。

画像では分かりにくいのだが、珈琲、紅茶、ジュース、フロート、サンドウィッチ、ピザとなかなかの充実ぶりではないだろうか。サンドイッチをテイクアウトしてお出かけするのも大変助かります。若干面白さとインパクト優先?なメニューがあるものの、長いするにも、知人を連れてきて驚かせるも、サンドイッチをテイクアウトしてお出かけするのも大変助かります。

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祭の目的が時代の変化によって参加者達の利害とは離れてしまったものも多く、行事の内容も社会環境の変化等により変更を余儀なくされた祭もある。それらの結果、祭を行うことそのものが目的に成り代わっているような、目的から考えると形骸化した状況の祭も多い。

このため、全くの部外者や、見物する者や参加する者という当事者にとっても「祭=楽しいイベント(お祭り騒ぎ)」という程度の認識しか持たれないことが多く、祭のために仕事を休むということは、例えば葬儀のためにということなどと比べると遥かに理解が得られにくい状況にある。

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一般的に神社における祭礼には、神輿(神様の乗り物)をはじめとして山車・太鼓台・だんじりなどの屋台などが出されることが多く、これらは地方によって氏神の化身とみなされる場合や、または神輿を先導する露払いの役目を持って町内を練り歩き、それをもてなす意味で沿道では賑やかな催しが行われる。

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また、伝統などの違いにより例外もあるが、多くの祭りにおいては工夫を凝らした美しい衣装や化粧、厚化粧を施して稚児、巫女、手古舞、踊り子、祭囃子、行列等により氏子が祭礼に参加することも多い。

今日では世俗化も進んでいるが、今なお祭の時は都市化によって人間関係の疎遠になった地域住民の心を一体化する作用がある。変わりない日常の中に非日常の空間を演出することによって、人々は意味を実感する営みを続けてきたのである。

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基本的に神事としての祭りは厳粛な場面と賑やかな場面の二面性を持ち、厳粛な場面では人々は日常よりも厳しく、伝統や秩序を守ることを要求される。

しかし一方で、日常では許されないような秩序や常識を超えた行為(ふんどし一丁、男性の女装等)も、「この祭礼の期間にだけは」伝統的に許されると認識する地方が多く、そのため賑やかな場面を指して「お祭り騒ぎ」などの言葉が派生している。




仏教の影響を受けた神仏習合の色が濃いものとしては土着の祖霊信仰や言霊の呪術性を帯びた念仏踊りを取り入れた盆踊りがあり、習合した盂蘭盆会に繋がる。また、神事から発達した田楽・猿楽などが能など後の日本中世伝統芸能を形作る素地となった。

祭礼・祭典の賑やかな様子から、「お祭り騒ぎ」という慣用句が生まれ、何かが賑やかな状態や喧騒や喧々諤々などの状態になっているのを例えてた態様表現がある。宗教的祭礼・祭典であったものが、次第に世俗化して宗教的意義を失った(弱まった)もの。

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1986年4月、すかいらーくはバーミヤン1号店として東京都町田市大蔵町に鶴川店をオープンさせた。1987年12月、すかいらーくは全額出資子会社である株式会社バーミヤンを設立して関東地方と関西地方を中心に店舗展開を行っていった。

バーミヤンは1997年7月に株式を店頭公開したが、1999年に親会社のすかいらーくと合併して7月に上場廃止となった。合併以降は、すかいらーく内のバーミヤンカンパニーとして事業を進めている。バーミヤン(Bamiyan)は、株式会社すかいらーくレストランツ(すかいらーくグループ傘下の事業子会社)が運営する中華料理レストランチェーン。

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ほの香の女将さんも入るよ
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ここは店の前
早稲田の清宮のニュースが連日流れているが、ウチの親父と「そういや、一つ年下で清宮と同じ字の清宮(セイミヤ)ってのがいたな」って会話をしたら、どうやら隣の床屋が清宮(セイミヤ)って言うみたいだ。そういや高校でも後輩になっていたんだな。この30年でも故郷は変化を続け、流山の歴史を見ていくと色々な所で知識が生かして行ける。

流山と一言で言っても、人によっては捉え方が違ってくる。これはどのような意味で使っているか、どのような人が使っているかで変わってくる。歴史的な意味なら明治22年に流山として制定されたのは根郷と宿、しかし今現在、都市ブランド化に向けシティプロモーションを継続的に実施しているのは、おおたかの森駅周辺。武蔵野線的なら南流山。

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このあたりの平和台も平成一桁時代は流山の一部だったのだろう。俺が生まれる前にはコンクリートで道が舗装されて集落同士の境がなくなっている。消防分団の管轄には残っているがそれも一部の人間だけしか知らないものとなってしまった。氏子としての感覚も薄れ、故郷に思い入れもなく育っていく、時代の変化と一言で済ましてしまうのは簡単。

しかしこれは逆に言うと、今までは注目されていなかったが、先祖代々流山で生活している事がとても大きなことになる。先祖から大店として地域の人々の生活を見届けてきた立場から、不動産業に商売替えをしてゆく店舗もあれば、つくばエクスプレス開通後に歴史を調べ始める人間も必要ということだろう。今現在の役目というものが見えてくる。

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今現在は区画造成されて50年を越えているので、つくばエクスプレス開通という追い風もあって、家を建て直し、新築物件として販売、子育て世代が増加している。住所としてはビックĄの裏が今の住所としての西平井なのだが、そこは戦後住宅地として区画造成された場所。

ということはかつての西平井であった土地というのは流山線の線路から鰭ケ崎に至るまでの土地という事になる。もっとも流山小学校の脇から西平井であった時期もあるので多少小さくなっても農地が広がる土地という事には変わりがない。そこには豪農とでも言えばいいのか岡本家が存在する。

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このように流山本町の外には田んぼをやって生活をしていた農民がいる。この土地をタイミングによって今現在の流山橋、流山を通る何本もの県道、さらに常磐高速道路、鉄道開通によって県や国の予算によって区画造成されて今現在の街構成が出来上がっている。それから道路が整備されて新築住宅が建築販売へとつながってくる。

ということはベッドタウン住民が見ているこの街構成は後から作られたあとということ。今はつくばエクスプレス開通によって住民増加しているが、江戸時代には南流山にはマンションがあったのか、という話はとても大きな意味がある。南流山という住所に住んでいる人は知っている人が少ないようだが、江戸時代には武蔵野線南流山駅は無い。

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俺からしてみれば当たり前だが、街の人達の情報を集め、秩序を乱さないように生きていく。小さな情報の積み重ね、人の関係はこれの繰り返し。自分一人で生きているわけではなく家族の関係も気を使って配慮してゆく。神田さんは実際問題ウチの親父の先輩にあたり、「三番目ぐらいの子分」ということ。となると持ち上げておいて間違いない。

これは自分の関係性も含めて街の一部になっているということ。この場には自宅があるだけでなく、職場も流山市内という人も多く存在している。市役所、農協、水道局、消防署など、市の人口増加に伴った職業の人もいる。この場で色々な人と会話した経験が、見事に自分の将来を大きく変えていく。これは商店の跡取りとしては確実に必要。




社会は今現在から始まったわけじゃなく、大体はもうすでに判明している。会社に勤めていたら、課長で終わり、とか部長まで行く。とか、干支が三周もしたら見えてくる人もいる。そして10代の時とは変わった感覚で生きている。これは金銭欲だけで見るのではなく、地位や名誉、人気や名声、その他にも欲しいモノが見えてくる。会話の能力も人による。

しかし、欲しいだけで簡単に手に入るモノでもないため、目的に向けて努力が出来る人が大きな意味を持つ。会話なんかなんだってもいいし、ウチの親父の上の世代だったら「新松戸駅がなかった頃」の話なんか人それぞれで面白い。四ツ葉会に所属しているマークさんやアンディさんなんかは年齢を聞いたら昭和で答えてくれる。会話の能力ということ。



2001年6月、ガストに対するSガストのような位置となる少品種に限定したメニューを低価格で提供する店舗・「Sバーミヤン」を展開した。その後、2007年には炒飯をメニューの主軸として押し出した「炒飯屋エスバ」という業態・名称に変更した。さらに麺と炒飯を中心にした「中華エスバ」に変更したが結果的には2008年中にエスバは消滅した。

2006年半ばより、客席を減らし高品質にこだわり、店舗の内装や接客係の制服を変えた「NEXTバーミヤン」が5店舗ほど出店された。しかし、売り上げや評判の影響で4か月程でその全てが通常のバーミヤンに戻された。



2005年9月、青森県十和田市に十和田店を出店させることによって同社が運営するガストに続いて全国47都道府県制覇を達成。その結果、2006年12月末の店舗数はバーミヤンが721店、Sバーミヤンは24店となった。

その後、すかいらーくグループの事業改革の一環として、不採算店舗をガストなどに転換する、もしくは閉鎖する計画が打ち出され、その手始めとして、最も採算が取れなかった北海道の10店舗全てを2008年7月に一斉閉鎖し、北海道から撤退。

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そして休憩

ここはビール確保にダッシュ、下っ端の仕事
去年はここで合流したんだっけな、ウチのジーサンが亡くなりまして喪に服させていただきました。商工会でも数々の役職を歴任し、戦後の流山を支えたといっても良いぐらいの経済人、なので去年ファンケルの会長からも行灯ジャズフェスで会った時に、孫の俺に確認されました。

流山本町の中では商工会や社会福祉協議会で顔を合わせた人ばかり、惜しむならばやはり同世代の方々はすでに亡くなっている方ばかりという話、でも最後に苦しんでいたわけじゃない、当日まで息子と話が出来た状態で天寿を全うし、これからの俺の成長を空から見守ってくれています。

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令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その6
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ここは流山南部中の裏手になる、ということは昭和28年の中学校移転の時点で流山本町の大規模都市化の計画はここまで都市計画は考えていたということ。戦時未亡人などのために市営住宅の増築、これは宮本団地や中団地などにも言える話で、市営住宅の周辺には大店と言われる規模の商店がある。これは住民に認められている店舗ということ。

いかんせん予算と交通アクセスという現実的な住宅需要にも関連して、松戸や柏の方が優先されて都市化が進められた。その点、流山はゆっくりと住宅が増えていった。これは流山本町の人間が結婚して家庭を持つとならば実家の周辺で新築住宅を購入する、見事に「街の伸び代」を増やす結果となった、このため南部中で従兄弟同士が通う例も多い。

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従兄弟同士ということ知っている、知らないというのは個人的な情報収集能力の話になってくる。ベッドタウン住民の転校生は極めて一部のグループを知るのに手一杯で全体的な視野で物事を捉えられてないケースが多い。中には小学校が違うということは全く縁もゆかりも無い人間だと勝手に思い込む、自己責任の範疇とも言える話になってくる。

全ては自己責任で終わっている話。その選択が何年後にどのような結果を生むのか、どのように自分の人生に影響を及ぼすか、なんて誰にも分からないし、自分が全部責任を持って生きるべきだろう。その中には「そんな終わったことをグチグチ言ったってしょうがないべよ」と思う事も、他の人から見ると「大きなコンプレックス」になっているケースも多い。

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実家の近くに住むと楽、ということは今現在経済的にも利用され、積極的に不動産会社で勧めていこうという時代になっている。実際にウチの近所の家では三人の娘がいるが、平和台、南流山、おおたかの森に住んでいる家庭もある。旦那としてみると最大限に気を使わなければならないのは嫁の親、しかし同居して生活するのはお互いに窮屈。

なので、実際的な妥協点を探ってゆく、もちろん転勤が多いとならばアパートやマンションの方が利益があるという選択も間違っていない。まだまだ一軒家購入はリスクが高いという判断も仕事によっては間違っていないだろう。人は自由意思で一生を決め、選択して生きてゆく。駅前マンションで期間限定の人間関係を積み重ねてゆく人間もいる。



その刹那的な関係の中で気を使って生きてゆくしかない人もいる。親の財産が何もない人もいれば、同じ家庭に育っても、それに気付かない人もいる。何が財産か、と言うとこの祭りに参加する権利を持っているのがウチに生まれた長男として最大限にチャンスと言えるものだろう。ただ、あくまでチャンスはチャンスであって、あくまで関係を築くのは自分。

これは個人の能力によって変わってくるということ。生まれる前に最初から決まっていることもあれば、自分次第で未来が変化することも多い。学生時代は終わったが、社会人として、結婚すれば親としての成長は終わっていないことになる。学生時代で完成されていないのだから、これからの人生、まだまだ勉強し、能力を積み重ねていく必要がある。

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加台の神社は大宮神社、ここに祀られている末社の一つ大杉神社の祭になる。場所は大宮神社、しかしイベント名としては大杉神社の祭礼で大杉神社の神輿渡御。消防第七分団という事は加台の地区を管轄している分団ですね。消防分団の大きな仕事は、自分の地区の氏神様の神輿を担ぐ。

まぁ神社のオエライサンはすでに年寄り衆となっているので、当然のように若いのが代わりに担げ、ってなもんで、これがいわゆる、ジャパニーズ上下関係なわけですよ。ウチの方は江戸川沿いなので、当然の事ながら水害への備えという事はとても大事な話になってくる。

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もう一つの諏訪道

諏訪神社境内の橋ぎわ、草むらの中に道しるべ
住宅街を抜けると、茂呂神社からくる広い道と合し、ここで道はキュッとくびれる。角に「北桐谷山崎、東我孫子宿、西馬口道」と刻まれた享和三年(1803)の青面金剛(庚申塚)があるが、その位置が怪しいので向かいの埼玉屋という食料品店に飛び込む。

「はい、あれは確か狭い道の方向を向いて建っていましたねぇ」と、御主人。それで納得がいく。埼玉屋はその名の通り、昭和35年に埼玉県三郷市小屋掘から移ってきた。この高台には江戸川の度重なる水害に懲りて引っ越してきた埼玉県人がかなりいるという。

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そして諏訪神社境内の所在地不明の道しるべはこのかごや商店の角にあった事がついに判明。「東成田諏訪道、南ながれやま、西ばくちの渡し」ここに立つとまさにピタリである。第二の諏訪道は小谷商店の蔵との間を通り、県道松戸流山線、流山街道を横断する。すると道はややS字にカーブする。この辺りまでが証文土手の跡。

この道のこの文章のあたりを表現するにあたりこの写真がぴったりだろう。この場所に抜ける道が第二の諏訪道だ。今は住宅街になっているが、この資料の当時は「この細く曲がりくねった林の中の道」と表現されている。加村河岸のあった島は、年に何回かある大水の時には水没する。その時にはこの道が、諏訪道本道と比べられないほど量はわずかだが使われた。

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ここは教会の前
神社信仰は八百万の神、海外の宗教と違うところだ
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新たに新築住宅を購入した人間でも、もちろんどのくらい地区に思い入れがあるかは人それぞれ、その中には年を取ったら引っ越すんだから、って一時的な人間関係を望んでいる人間も多い。いまどきは人間関係でも上手い事やれない人も多いからね。

要領が悪いというのか、生きてきた中で環境が良くなかったからなのか、対人能力がとても残念な人もいる。でもしっかり生きようとする人間は、消防分団から神輿会に入り、共に関係を深め、そこにはもちろん酒の関係もあれば、何年かに一度の旅行などの関係もある。

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流山市の歴史を調べている、という事はその時代に生きた人間を知る事であり、民俗、流行、風習、時代を知ることだと思っている。そこにあるのはその当時の当たり前であった現実、これは俺の学生時代の、広末涼子ポケベル始める、ってのも大事な歴史。

もちろん現在の武蔵野線に新駅完成に伴って、つくばエクスプレス開業で大規模都市開発、三郷流山橋から柏たなか駅の大規模開発、さらに利根川を越えての都市化の工事も今現在のご時世という事だろう。これは流山ゆかりの人物、小林一茶も関係する話で見事にこの道を使って移動していた。



この写真も必要だろう
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正面から
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千葉興業銀行、加台出張所
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コモディイイダ
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長谷部さんと岩崎さんの年齢を間違えていました、ここに訂正しておきます。俺の九個上と勘違いしてブログにも書いてしまったけれど、本当は七個上でした。って、でも長谷部さん、って書いたので、九個上の学年は、姉のヨーコチャンがいるので、ある意味間違っていないのかな、って感じです。先祖代々の住民の目線で、毎年の祭礼と流山の歴史を勉強しています。

その目線でいると、戦後の時期に家がドンドン増えてって小学校の増加になる、それは基礎知識として知っている訳だから、同じ立場で理解出来る、元々の流山本町の家で言ったら、どこの子供が小学校入学の時のタイミングで北小が開設されたか、って話になってきて、んで、かごや商店の息子が入学の時に開校、まあ同級生はミスったけど。

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明治時代に東武野田線と常磐線が開通して、大正の時代に流山本町の商人達も水運の衰退を見通し、流山線が開通した。戦争による計画の縮小はあったにせよ、製品と原材料の運搬、これによって流山本町の市場規模は支えられていた。戦後の時代に南柏駅、江戸川台駅が開業。

これによってベッドタウン住民を受け入れていく地盤を作り、また住宅開発や学校など公的施設も増えてゆく。さらに武蔵野線の開業で南流山駅も開業、それと同時期に大規模開発、区画造成、新築住宅の販売。そして、場所的に流山市の中心部が一番開発されていない状態となっていた。

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しかしつくばエクスプレスの開通によりおおたかの森駅開業、これに伴う大規模都市開発は、流山市の旧市街地再開発事業とリンクして、全体的なブランド化戦略、そりゃ子育ての町で都心からの時間と駅までのバス路線の整備ってのは最大のアピールポイントだからね。

新たな交通インフラ整備により、各地へ道路を整備し、流山市が一丸となって未来を築いていく時代となった。流山ってのは元々商業の町なんだから商工会青年部の若い商人たちが今後の流山を背負ってゆく。歴史的な価値なんてのは一部の人間にしか理解できない。

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令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その5
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日本の歴史は神話と共にある。流山だって『流れてきた山』が語源となっている。とならば古来から受け継がれている神社の神事が大きな意味を持つ。天皇陛下が皇室神事を行う神官であることを考えると、農民が五穀豊穣を願う気持ちを元にして本町の神事も、庶民の願いと信仰を皆と共に分かち合い、同じ気持ちでこれからの生活を送っていく。

人間は失敗から学ぶ生き物、流山本町と南流山駅との関係を松戸市に例えてみよう。松戸にも本町と呼ばれる所があり、それでいて鉄道路線の拡充により続々と鉄道駅が開設された。常磐線、新京成電鉄、武蔵野線、北総線、そして駅も増えたが、本町と呼ばれる所は水運で栄えていた時代から、変わらずに松戸の中心としての機能を持っている。




これと同じことが流山本町にも言える。いくら市内に駅が増えても、それ以前に中枢機能が整備されているのだから、松戸市の一部が駅を中心としての区画造成により人口増加、税収も増やし、全体の商売量を増やしたということ。なので流山市の歴史の中でも同様なことは、常磐線南柏駅開設、東武野田線江戸川台駅開設にも起こった事実でもある。

今現在はつくばエクスプレスによって、南流山駅周辺はそれまでより、大きい規模のマンション造成、経済規模はさらに大きくなった。しかし、流山の中心部は流山本町、松戸と同様の歴史が待っている。新松戸駅が出来て、松戸本町にどんな影響がありましたか、松戸本町の権威を脅かす程の権力を持ちましたか、と、考えてみればいいだろう。




人間はみな、自分の目線でしか物事を考えられない。ウチだって宿に属する一軒だから、周りの婿の話は実際に見て、聞いて、自分なりに理解してはいる。そして公の場で話してはいけないことだと教育されている。しかし、だからこそ婿の子供との違いを自分なりに感じ、自分の目線からこの土地の歴史を文に残しておこうとブログを始めた。

俺だってここにずっと住んでいくと決まっているので、近所との無駄なトラブルは避けたいもの、そうでなくとも婿の生活は聞いている。なので親父の立場もあるし、婿の子供には色々と考慮してきたつもりだ。しかし、婿の子供からしてみると「優遇されて当たり前」と写ったようだ、これは個人だけの扱いではなく、親である婿の存在も大きい影響がある。



俺自身、これは自分の将来も考えた上での話で、宿の婿同士の付き合いも一大勢力なので敵には回したくないという気持ちもある。しかし、平成の時代において、家同士の関係も変化を続け、知らない人には何も見えないものとなっている。家を継ぐ立場に無い人間には一つの土地に思い入れも無いため、将来を何も考えずに生きている人も多い。

だからこそ俺の重要性は高いのではないか、ということ。この流山という限られた地区において、婿の子供じゃないということは、しっかりと下積みの期間が用意されているということ。これがあって将来の大きな立場が用意されている。このブログもその一つで、この期間で動いている姿を見てくれ、評価してくれる人もいるということ。今はこの積み重ね。



このあたりの地区のブロック化について、ここの加という地区は加台と加岸に分かれており、流山本町の他の地区と同様に江戸川沿いに街場が形成されていた。そして昭和30年代後半には流山街道の松戸から流山の県道278号と接する地点までは開通している。今現在、流山街道は全線開通しているが、時期的な時間ラグも存在している。

これは流鉄の延伸計画に関連し、路線延長が頓挫してから流山街道の建設が開始される。県道278号(諏訪道)は軍事的な理由で存在していたのだから、それ以外の所を埋めていけば良いことになる。この時代には流山本町と初石駅前の地区との間には都市化されていない原野が広がっていた地区がある。結果的には北千葉浄水場が埋めた。

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そうなるとこの隙間を使って流山線の延長路線として考えられていたルートが見えてくる。そして今現在、武田県議会委員が進めている流山新橋開通に伴った、県道として計画されている路線が流山南部中学校から茂呂神社、さらにその先へと続いている。となると北千葉浄水場と共に、その上に高架で繋がる道路が県の予算で設置された事になる。

これは常磐自動車道建設ということにも関連した計画ということが予測されるが、実際問題千葉県道5号松戸野田線の一部として流山市加から同市上貝塚付近にて現道と合流する新道区間も存在する。となっているので、加、三輪野山、下花輪、桐ケ谷の一部に広がる県道に挟まれた三角形のブロックが成立する事になる。次はこれを小さく分ける。

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小林一茶が移動した旧道は東西の交通のための大きな旧道。これに準ずるのはもう一つの諏訪道、今ではけやき通りとして整備されている。S字に曲がる所で旧道を切り離し、一直線に新道が東西を結ぶ。ここは三輪野山と加の行政区分の境目、二本の新県道とも交差している。そうなると南北の道路も必要になってくる。次は北千葉浄水場の道。

この上下のある、道幅のあるしっかりとした道はバス路線としてあらかじめ予定されていたのだろうと思われる。水運から鉄道、車両輸送の時代になって庶民にも自家用車が当たり前のように購入できるようになった時代の移り変わりも、この流山という街の区画造成からも知る。これは同時に川沿いだけでなく地形を気にしないで街規模増大の時代に。

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日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教があります。"神の道"と書く「神道」は、仏教が日本に入るよりはるか以前から日本に存在していた、日本人固有の民族宗教です。「神道」は「しんどう」ではなく、「しんとう」と読みます。

神道は、神社や祭などを通して、昔から日本人の心に連綿と生き続けてきました。神道は、特定の教義よりも様々のしきたりや形式によって伝えられてきた宗教です、しかし、きわめてはっきりした幾つかの特徴を持っています。

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それらの特徴をよく調べてみると、旧約聖書に記された古代イスラエル宗教との間に、明確な類似点を幾つも見いだすことができます。日本人の多くは、昔から元旦になると神社にお参りするでしょう。

また、祈り事があると神社に参り、結婚式は神道式で行なうことが多いでしょう。赤ちゃんが生まれると、神社参りをします。



みなさんは、神道の神であるアマテラスオオミカミの偶像が、神社の中に立っている姿を見たことがあるでしょうか。オオクニヌシノカミの偶像を、見たことがあるでしょうか。

想像もできないはずです。絵くらいは見たことがあるかも知れませんが、人々が拝む対象としての彫り刻んだ彫像、神々の形をした偶像は、神道の場合は作られなかったのです。




じつは、神道というものは、厳密な意味では「偶像礼拝」という言葉が当てはまりません。西洋の宗教と神道とは全く異なる価値観なのです。神社の本殿の中には、たとえば鏡が置かれています。では、その鏡が神様と考えられているかというと、そうではありません。

それは単に、そこが神聖な場所であることを示すためのものに過ぎません。そこに降臨し臨在される、目に見えない神様を拝んでいるのです。神様は目に見えないおかた、とされているのです。


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赤城四ツ葉会に所属しているという事を存分に利用した俺のブログ、地域活性化だけでなく後継者育成など本来の流山本町の町構成まで見えてきた。

流山だけにとどまらず日本の主要交通路線と共に区画造成を繰り返し、鉄道駅前を何度も再開発し、今現在の東京の形になっている。しかし、これに当てはめてみると流山も同じとは限らない。


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つくばエクスプレス開業後に始めたこのブログ、だからと言って別に環境が変わったわけじゃない、生まれた時代と俺の存在、これも含めて環境は元からあるもの。俺だって小学生の時から見ている親父と中学校の先輩後輩になる地区の人。

当然の事ながらこれからも続いて行かないといけないでしょ。そして10代や20代の時には気付かなかったものが40代に近くなってくると見えてくる。そして気付いた時にはもう遅い。人生なんてそんなもん。



婿入り、嫁入り、があるのなら、佐々木朝さんのようなマスオさんの人生というのもある。同居じゃないとマスオさんとは呼ばないのか、そしたら厳密には違う形なのか。いや、これまでの学生生活とかは知らないけどさ、って言っても顔とかは貸半纏で担いでるときから知ってるけどさ。

予想外と言えば、こんなにも佐々木率が多いことぐらいかな。年齢的には俺と同じくらいだろう。そりゃ平成の時代にも家は出来たり、建て替えたりしてるんだから後々まで考えて、地元コミニティに参加しようとしている人がいてくれてありがたい。ましてや嫁の親の手前もある、しっかりやらないとね。

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ウチの親父の同級生の女の子が結婚して旦那が流山に住むパターンも、戦後の第一世代でさえ多かったんだから、って話。二代同級生の話、同級生で言うなら根郷の牛島家もそう、同居だからマスオさんだね。それと星野家のパターンは平和台に家を買ったのか、田んぼを持っていたのか定かじゃないけど同級生。

子供は女の子だったから別に遊びに行ったとかもないし、台原神社の裏の方の階段の近く、って場所もそんぐらいしかわからないけどね。ウチの親父がヨークマートに行くと親子で買い物に来ていたりするんで会ったりするらしい。娘が孫を連れて大宮神社の宵宮に来ていたのは何年前か。ご冥福をお祈り申し上げます。





若宮団地に入っていきます
ここはシングルマザーを比較的優先に住まわせている、戦後東京近郊のベッドタウンとして、または戦前までと同様な万上や天晴などの酒造会社の企業城下町として、それまでのなんでもない田畑であった状態から宅地造成、新築住宅の新規販売が進めれていったが、当然の事ながら色々な人がいるという事も忘れてはならない。それに伴う行政的配慮ももちろん必要だ。

都市機能を拡充させる過程では、都心への交通アクセスはもちろんのことながら、工場近辺の地方都市の中だけで生活していることも少なくない。これは今現在も変わる話ではなく、トヨタやヤマハ、三菱などの工場の近くには住宅、商店街、家族のための学校もあるのだから同じ事だろう。もちろん一時的に住む住民も、後から自宅を購入する人がいても全然おかしくない話。

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元気ハツラツ、オロナミンC

ここの休憩は毎年オロナミンCが出る
製造は大塚化学だが、大塚化学はオロナミンCの統括会社であり、実際の製品は大塚食品徳島工場・釧路工場、大塚製薬工場鳴門工場で製造されている。1965年2月に販売が開始された。ガラス製の瓶入りで当時は王冠型のキャップが使用され、内容量は120ミリリットルであった。

発売当初に、炭酸を含んでいるという理由により、当時の厚生省に医薬品としては認められないと判断された。法律の定めにより、本商品は健康の保持や増進に関わる効能や効果を表示したり、広告することはできない。初代テレビCM出演者は大村崑。「うれしいとめがねが落ちるんですよ!」というセリフが使われた。

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1970年の日本万国博覧会開催時には、上空で気球に乗った大村が「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と言うCMがあり、万博会場にある180店の全売店の内105店で販売した。

大村は発売当初から約10年間CMに出演した。昭和40年代にはテレビCMのほか、大塚グループの他の製品と同様、ホーロー看板を各地に設置する広告手法も併用された。

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