でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年11月


本みりんの日

イイ味醂の日
全国味淋協会が制定。「い(1)い(1)み(3)りん(0)」の語呂合せと、最も鍋物等で需要の多い時期であることから。みりんは蒸した糯米に焼酎と麹を混ぜて醸造した酒です。現在はほとんど調味料として使われますが、かつては甘い酒として飲用されることも多かったようです。みりんのような酒の起源は、奈良時代にあるといわれますが、焼酎を原料にしたのは室町時代からです。
 
流山では安永年間(1772年から1781年)にみりん醸造が始まり、白みりんは天明2(1782)年に天晴みりんが、文化11(1814)年に万上みりんが醸造に成功し、販売を開始したといわれています。江戸川流域の良質な糯米を利用した流山のみりんは、大量消費地である江戸を間近にひかえ、その生産は順調に伸びていき、全国的にも有名になりました。



明和3年(1766) 初代堀切紋次郎流山に移住、酒造開始
安永年間(1772~1781) 流山でみりんの醸造始まる
天明2年(1782) 5代目秋元三左衛門、みりんの醸造成功(天晴みりん)
寛政7年(1795) 堀切、みりんの醸造開始
文化11年(1814) 2代目堀切、白みりんの販売開始(万上みりん)
明治6年(1873) オーストリアの万国博覧会で天晴・万上みりん、有功賞牌授与
明治10年(1877) 万上みりん、宮内省御用達を拝命
明治10年(1877) 天晴みりん、オーストリアの万国博覧会で入賞
大正14年(1925) 万上みりん、野田醤油(後のキッコーマン)と合併
昭和15年(1940) 天晴みりん、帝国酒造に売却



ミリンは元々調味料ではなかった。
「みりん」といえば日本独特の調味料。江戸時代より古くから、みりんの原型となるものはあったとされています。しかし、みりんが大きく世に広まったのは200年以上も昔、江戸の時代。 今でこそ「みりん」は調味料として認知されていますが、江戸時代はどうだったでしょう?

当時の川柳にはこうあります..

  味淋酒が 効いたで嫁は 琴を出し

江戸川柳辞典(濱田義一郎:東京出版:1976)より

夫婦で晩酌。嫁は「みりん」を飲んでいい気分になってお琴を出して奏でている。そんなひと時でしょうか。当時「みりん」はお酒としても一般に広まっていたのですね。

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白味淋発祥の地・流山
そんな江戸の下戸や女性に人気だった「みりん」実は千葉県流山市が発祥の地なんです。当時の主流は関西の「赤味醂」でした。現在主流となっている淡く澄んだ「白味醂」は、天明2年(1782年)に流山で造り酒屋を営んでいた五代目秋本三左衛門が造りあげ「天晴味醂」として売り出したのが最初と言われています。流山の黄金色で淡く上品な白味醂はたちまち江戸の町で大評判となりました。

そして、文化11年(1814年)二代目堀切紋次郎が万上味醂として白味醂を売り出し、「天晴」と「万上」は加村河岸(流鉄流山線流山駅からまっすぐに江戸川土手を目指した辺り)から高瀬船に積まれ江戸の町へ運ばれて行きました。加村絵図から加・流山の歴史が見えるの記事にある地図の浮島、ここが本当の加村河岸の機能をしていたとされる。

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味淋に名高き流山
江戸の町で人気を博した「流山の白味醂」物流の発達していなかった当時、どうやって白味醂は全国に広まっていったのか。それに大きく関係していたのは参勤交代で江戸にやってくる大名たちだったと言われています。帰国のする大名は江戸の土産として「流山の白味醂」を持ち帰り、流山を味醂の町として広めてくれました。

さらに、明治6年(1873年)ウィーンで開催された万国博覧会で「天晴」と「万上」が有功賞牌を受けたことで、大正・昭和にかけて流山の味醂は全国津々浦々まで行き渡り「味醂に名高き流山」とまで歌われるようになりました。

みりん香る町 流山を再び現代に
流山で白味淋が生まれてから約200年。近年の流山市は新しい鉄道、駅やショッピングモール、新興住宅地と大きな発展と遂げていると思います。地元で生まれた新しい世代・流山市に期待を抱いて新居をかまえる人たち、しようとしている人たち。そんな人たちがまだまだ増えていこうとしている中で私達は「流山の味淋」を伝え、後世に残していかなくてはなりません。みりんカクテルプロジェクトは「味淋に名高き流山」から発信する新しい試みです。

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かつては飲み物として愛されていたみりん。そんな歴史あるみりんを現代に再び飲み物として楽しんでみようと始まったのがキッカケ。そして2010年3種類のみりんカクテルが誕生しました。「モリノマチ」「流山」「tsu-ne」

これらのカクテルはTwitterで集まった仲間と南流山のダイニングバー「リゾートダイニング海風(現・もんじろう)」の当時のスタッフによって考案され、実際に商品としてデビューを果たしました。Twitterでたまたまつながった地域の人々と飲食店のスタッフが、町の名物を活用したメニューを考案する。現代ならではの現象でしょうか。

そして2011年、何名かの仲間が再び集まり「みりんカクテル」の活動を再開することとなりました。今回のテーマは「みりんカクテルをもっとたくさんの人に飲んでもらえるよう広めよう」というもの。

私たちは考えました。どんな活動をしたら、たくさんの人々にみりんカクテルを飲んでもらえるだろうか。そしてひとつの大きな目標を立てました。「流山の色々な飲食店で色々なみりんカクテルを飲めるようにして来る人も楽しめるようにしよう」これが「みりんカクテルプロジェクト」これからの将来、流山のみりんが何を生みだせるのか。大きなチャレンジは始まったばかりです。

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みりんの事始め

江戸っ子に好評の産地は流山だった
東葛事始め事典に文が残っているので電化する。みりんと言えば、キッコーマン流山ブランドで製造する「本みりん」を思い浮かべる。すなわち流山で改良開発されて、文化文政の頃から江戸市中で人気を博して以来、「流山の味醂か、味醂の流山か」と言われるほどになり、明治以降は地理の教科書や鉄道唱歌にも登場した甘い酒(アルコール分14パーセント)のことである。

現在ではほとんど料理の調味料として固有の香りや風味、てりや艶、防腐や煮崩れさせぬ作用が重宝されている。元々は江戸時代からも、多分に下戸や女性や子供にも飲みやすい低アルコール飲料とされていたものである。昭和30年代頃までは全国のみりんの出荷高の三分の二は飲用であった。本直しと称して味醂に焼酎(アルコール分25~35パーセント)を加え、アルコール度を上げた甘くて弱い酒、屠蘇袋を浸して屠蘇酒にもされる。

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ちなみに、酒すなわちアルコール飲料を製法により分類して、味醂は混成酒とされている。醸造酒である清酒の製造から出る清酒粕を直接蒸留したり、米・麦・サツマイモ・トウモロコシなどを発酵させて蒸留して造る焼酎(蒸留酒)にモチ米やウルチ米を混ぜて製造する混成酒なのである。

①醸造酒・清酒、ビール、果実酒(ブドウ酒、リンゴ酒など)紹興酒②蒸留酒・焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ(茅台酒、テキーラ、ラム、ジン、ウォッカなど)③混成酒・味醂、白酒、薬酒、リキュール、醸造酒であるブドウ酒、蒸留酒である焼酎、混成酒である味醂酒はすべて元々ポルトガルの宣教師がもたらせたものであるが、現在味醂の産地としては流山のほか、京都の伏見、愛知の碧南が著名である。

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米の麹を焼酎に混ぜ(大正時代以降はエチル・アルコールを起用)て、二・三ヶ月間摂氏25度で熟成させ、モロミを造り、圧搾・濾過して味醂酒を得る。熟成には冬期は三ヶ月、春秋は二ヶ月と気温により長短がある。

明和3年(1766)に流山に来て、安政2年(1773)に赤みりん(味醂酒を長期間熟成させたもの)の醸造を開始した初代の堀切紋次郎が東葛では最初のようである。文化11年(1814)になり、二代目紋次郎が白みりんを開発したことがみりんの革命となった。

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それまでの赤褐色の関西系のとは異なる、紋次郎の透明で淡黄色のみりんが彼の粘り強い販売努力も功を奏して、江戸で人気を得て、10年後の文政7・8年(1824・25)頃には「流山味醂酒」の看板が江戸市中で見られるに至ったという。彼が詠んだ和歌「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味醂醸す相模屋」に因んで「万上みりん」の商標が生まれた。

流山では秋元家も味醂醸造で栄えたが、その赤みりんの醸造に本腰を入れたのは五代目秋元三左衛門のようで、天明元年(1781)であった。初代堀切紋次郎のそれより8年後である。流山でのみりん造りが盛業を得たのは、原料の米や焼酎の産地が近く調達が容易であったこと、大消費地江戸に近く舟運の便も良かったことなどによるが、それはお隣の松戸にも通じることだ。

松戸でも一時は「味醂と白酒は松戸の土産」と言われて、明治時代にはそれらが輸出されてもいたのだが、その大野屋竹内仁兵衛酒造所の創業は文政8年(1825)である。(※この時代には今現在のような、明確な市境も無く、水運によってつながっていた、街と街とで技術連携などもあったように思う。)

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流山でなぜ味醂が作られるようになったか

東葛なぞふしぎ事典に文が残っているので電化する
今でこそみりんは調味料としてのみ台所に存在するが、昔は屠蘇酒として高価な物であった。古文書には慶長7年(1602)にすでにみりんの市販が始まっている。慶長7年といえば、関ヶ原の合戦から2年目。家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く前の年である。

つまりみりんは江戸の初めから、お寺の祝い事には使われ天海僧上も晩年の家康に不老酒として、すすめたのもみりんの一種であったと言われる。甘いものが御馳走だった江戸時代、味醂は甘い飲み物として、特に女性に人気があった。

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当時のみりんは、上方ものの赤みりんが主流だった。そこへ味も濃く色も白い新たな白みりんが登場、江戸っ子の注目を集めると同時に、上方の人にも格好の江戸土産として大繁盛するのである。『味醂見てみな、嘗めてみな、ひかる小金の、ひろがる味が、語りだします、聞かせます、白帆白壁、川端柳、むかしなじみの、流山』

と相馬流山の唄の文句にもあるように、江戸から明治、大正にかけてあずま名物白みりんの発祥地として、流山は有名だったのです。なぜ流山にみりんが生まれたかの理由は、大きく三つ上げられる。まず第一は江戸川の水運である。

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江戸川は承知の通り、純粋な自然河川ではない。徳川幕府が水害から江戸を守るため莫大な費用をかけて造り上げたセミ人工河川である。太日川と言う流路定まらない不安定な川を今日のように直線にし、川幅を広げて東北や北関東の諸物資が、この江戸川によって江戸に運ばれるようになるわけだが、その江戸川の原形が出来たのは寛永12年から18年(1635~1641)であった。

名実ともに太日川が江戸に通ずる江戸川に生まれ変わると、流山は利根川行路の一角を担うことになる。特に流山の河岸が賑わう元禄時代(1688~1704)になると、利根川の関宿、野田方面は浅瀬が出来て、関宿まわりで江戸川に出るルートは難しくなり、特に夏の渇水期には船の運航が覚束なくなるため、利根川の布施河岸と流山の加村河岸の間に陸路が開かれ、布施で陸揚げされた物資は三時間、馬の背にゆられて流山に運ばれる短縮ルートが開かれる。

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こうした短縮ルートは布施と松戸の納屋河岸にも、三ツ堀と野田河岸間にも生まれるが、やはりその中心は布施、加村の陸路であった。そうなると地元の農民は競って馬で駄賃かせぎをするようになり、流山には米や雑穀、乾物などの物資が続々流れ込むようになり、商人、船頭、旅人相手の料亭や旅館が出来るようになった。

一方また元禄期には本多伯耆守正永の四万石の下総飛び地領が流山にあり、領地を管理する加村会所が現在の流山博物館のある台地にあった(本拠地は静岡県藤枝市)ため、中相馬二十一ヶ村の年貢はこの加村河岸に集められ、高瀬舟に積まれて江戸日本橋に運ばれた。加村河岸が一名本多河岸と言うのもそのためである。

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第二は消費地江戸に近かったことだ。江戸通いの地舟、寄り舟で賑わうようになると流山は、江戸と一日の時間で結び付くことになり、江戸の情報は川舟経由で日々新たに伝わってくる。「万上」の堀切も「天晴」の秋元も、共にこの地の利を背景に販路を拡大していったのである。

第三は原料である米の産地であった事である。利根川、江戸川べりの米は良質で「本多米」とも言われ、日本橋市場で高い評価を得ていたのだ。味醂の原料は米と糯米と焼酎であり、その糯米を手近に確保できたことも極めて有利な条件であった。白みりんがようやく世に認められ始めた、文政7年(1824)あたりの歴史年表を見ると・・・

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『この頃百姓の衣類は次第に贅沢になり、しばしば取り締まり令下る』などの記事が見える。特に財力を持つ町人たちは生活も華美になり、家庭でみりんを使った料理に楽しみ、甘い酒の「ほんなおし」(味醂の一種)は好んで女性に飲まれるようになる。

このような世の流れでの中で、堀切紋次郎と秋元三左衛門の両家は味醂、酒、醤油の総合醸造から、味醂醸造の独自の技術を生み出し、江戸町民の趣向に合った競争力の強い製品を世に送り出すことに成功する。また紋次郎も三左衛門も二郷半領番匠免(現在の三郷市)の出身である。



古利根川と江戸川に挟まれた低湿地は台風前に刈り入れをすませる早稲の産地であった。二人は大量に消費する粳米と糯米の質を見分け、買い付けのルートを持ち農民の米の品質向上に注文と協力を得やすい立場にあった。二郷半領の農民もまた味醂と結びつくことによって、「江戸川米」と言われる品質の良い糯米の産地になっていった。

さてその白みりんの元祖は堀切家では二代目の堀切紋次郎であった。先祖は千葉之介常胤に連なる名家といわれる。明和3年(1776)、一代目堀切紋次郎が流山に移り住んで相模屋と称して酒造業を始めるが文化(1804~1818)の中頃には衰微し、そのため二代目紋次郎は妻八重の親戚、野田の高梨家の後援を得て白味醂の試醸に成功。

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文化11年(1814)に「流山白味醂」として発売するのである。発売当時は主人自ら草履履きで、宣伝につとめ販路を拡大して、あずま名物として、天下にうたわれるようになるのはそれから十年後の文政7・8年(1824~1825)の頃である。

その後を継いだ三代目堀切紋次郎は風雅の道をたしなみ相模屋と称した堀切家の味醂が、幕府により禁中に献上されることが決まるや、喜びの余り次のような歌を作る。『関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや』

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商標「万上」の万の字はこの歌の「一力」を意味し、「上」は「上なき味醂」を意味する。独力で創り出した天下に並びなき味醂の本家は相模屋であるという、誇り高き商標だったのである。

もう一方の天晴味醂の秋元家も二郷半領番匠免の出身で四代目までは豆腐製造を営み、五代目の三左衛門(双樹)が味醂づくりを始めたとある。しばしば秋元家に草鞋を脱いだ小林一茶もおそらくこの白味醂をたしなんだことだろう。今日、キッコーマンの味醂は秋元、堀切家ゆかりの流山工場で生産されている。

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県指定有形民俗文化財

流山のみりん醸造用具
流山は、京都府の伏見、愛知県の三河と並ぶみりんの名産地である。江戸川沿いの河岸として発展した流山は、江戸へのみりん供給地として生産を伸ばし、江戸時代末期から明治時代にかけて、全国にその名を知られるようになった。

流山のみりん醸造業者としては、「万上」の銘柄を出した堀切家と、「天晴」の銘柄を出した秋元家が有名である。堀切家は、2代目紋次郎が文化11年(1814)に白みりんの醸造に成功して販売を始め、のち大正14年(1925)に野田醤油株式会社と合併して今に至っている。



一方、秋元家は5代目三左衛門が天明2年(1782)に酒とみりんの醸造を開始し、何度か銘柄名を変えながら昭和前期には廃業している。本資料は、この両家に関係する資料からなっている。堀切家の資料は、万上みりんが合併後、醸造設備を新しく切り替えていった際に倉庫に保管された古い道具類で、さまざまな桶類や麹蓋、圧搾袋や焼印などが含まれている。これらによって機械化以前のみりん醸造法を知ることができる。

また秋元家関係の資料は、その分家が販売していたみりん・酒類のラベルや下絵・石版などで、町内の印刷業者、自盛堂に残されていたものである。両方あわせて千葉県を代表する産業のひとつである流山のみりん製造・販売の実態を示す基本資料として貴重である。

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平成28年11月29日、コミケ出展発表

松戸市がコミケに出展、スマホ向けゲーム紹介
ゲームを市の新たな産業に位置づけようと取り組んでいる千葉県松戸市は平成28年11月29日、12月下旬に東京ビッグサイトで開かれる日本最大の同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」に、開発中のスマホ向けゲームを紹介するため出展すると発表した。

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市によると、自治体のコミケ出展は岡山県倉敷市や鳥取県の例があるが、珍しいという。松戸市は今年3月、市内のゲーム製作会社などと「松戸コンテンツ事業者連絡協議会」を結成。コミケで紹介するゲームは、協議会参加企業が開発中で、来年1月末に無料配信予定。

高校生が主人公で、小説形式の文章を読み進めていき、選択肢を選ぶことでストーリーが変化する。市の担当者は「若いクリエイターやその志望者の支援に取り組んでいきたい」としている。

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神使浅間神社の猿

猿にまつわる場所を訪ねて
小山の浅間(せんげん)神社の参道石段の真ん中辺り。本殿に向かって右側に猿の石像がある。これは浅間神社の神使(しんし・眷属神=けんぞくしん)が猿であるためだ。像は大きな口を開けて、左手で何かを食べている。今年が申年であるためか、既に黒くなっていたが、バナナやドングリ、飲料、飴などが供えられていた。

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神使は読んで字のごとく、神意を伝える神の使い、もしくは神の同族、従者で様々な動物が神使となっている。一番馴染み深いのが稲荷神社の狐。こちらは神使というより、狐自体が信仰の対象となっている。弁天様は蛇。

市教育委員会の入っている京葉ガスビルに隣接する池田弁財天には、多くの蛇の置物が奉納されている。ほかには、天満宮の牛、八幡宮の鳩、伊勢神宮の鶏、厳島神社の鹿、諏訪大社の鶴、大黒天の鼠など、様々な動物が神使となっている。

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猿は日吉大社でも神使として祀られているほか、庚申塔の台座部分に「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が掘られている例などがある。浅間神社に話を戻すと、浅間(あさま)は火山を意味するという。浅間神社のほとんどは富士山を信仰の対象としている。一部に浅間山を信仰するものもあるという。

浅間神社の総本宮は富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)で、同社の神使が猿であることから、全国の浅間神社の神使が猿になったという。富士山が申の日に現れたという故事から猿が神使になったとする説や、単に猿が山の使いとしてふさわしいからという説がある。

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また、小山の浅間神社の杜は、極相林として県の天然記念物の指定を受けている。極相林とは、日照・気温・湿度等の自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位(高木・亜高木・低木・草本)ごとに定着し、長期的に安定した森林のことをいう。

浅間神社には、タブノキ等を主体とするこうした植生が今も維持されている。山岳信仰の神社といえば、根本の松戸市役所と新京成線を挟んで対峙している金山神社がある。同社で猿の石造物などを見かけた記憶がないが、見落としているだけで、あるいはどこかにあるかもしれない。頂上には富士嶽淺間大神が祀られている。

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少々強引かもしれないが、猿といって思いつくのは、豊臣秀吉である。小金城主・高城氏は小田原の北条氏と連合して安房から攻め込んできた里見氏を相模台と矢切(国府台)で2度撃退した。そのような縁(えにし)もあって、秀吉が天下統一の仕上げとして関東に乗り込んできた時には、北条氏に味方をして戦った。

若き小金城主・高城胤則(たねのり)は、小田原城に籠城して戦い、小金城は重臣らが守っていた。小金城は天正18年(1590年)5月5日、矢切の渡しを渡って進軍してきた秀吉の家臣・浅野長吉(のちの長政)の軍勢に攻められ落城した。

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小金城があった大谷口には、「血染めの茅(かや)」という小金城落城にまつわる悲しい伝説が伝わっている。小金城の姫が逃げる途中で手足を野山の茅で切ってしまい、真っ赤に染まった。その後、この山に血染めの茅が生えるようになったという。

豊臣秀吉が織田信長から「さる」と呼ばれたという話は、天下をとった秀吉一派が後に作って広めた、というような話を半藤一利さんの本で読んだことがある。信長は部下にあだ名をつけるのが好きで、文献で秀吉が信長から「禿げ鼠(はげねずみ)」と呼ばれていたというのは確認できたが、「さる」と呼ばれていたという記録はないという。いわく、自分が「さる」と呼ばれていたという話を広め、神の使いである猿にあやかろうとしたのではないか、というのである。

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浅間神社の極相林

松戸市小山664-1(浅間神社)
東葛観光歴史辞典に文が残っているので電化する。松戸駅発車の電車が上野に向かって三分ほど過ぎると線路に沿った左手に小高くこんもりとした樹木が見えてくる。これが松戸市内でも大変珍しい浅間神社の極相林である。浅間神社は古来から富士信仰の社で天宝四年(1833)6月1日に創建されている。

境内面積1万1407平方メートルで比高20メートルの山頂に本殿が祀られていて、120余段の階段を登っていくと途中に一合目、二合目と記した石柱が建っている。頂上の本殿にたどり着くと富士山に登った気分になって身が引き締まる。

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神域一帯には第一層として、高木のヤブニッケイがほぼ全域に繁茂し、第二層として中木のタブノキ、ツバキ、ムクノキ、モミジ、アオキなどが200種類が茂り、さらに低木が第三層として育っていて大変安定した植物相林が形成されている。このような樹林を極相林という。

極相林を形成するまでには永年の間に植物の移り変わりが繰り返される。何も生えていない土地に草が生えて、やがてその草原に日光を受けて育つマツなどの陽樹林ができる。林が茂るに従って日光は下まで届かなくなる。と、次第に陽樹の植物は元気がなくなり代わりに薄暗い場所でも元気に育つことができる陰樹の植物、ヤブニッケイ、タブノキ、ムクノキなどが育ってきて安定した林になる。これが極相林であり植物の移り変わりの最終の姿と言える。



浅間神社の極相林は昭和41年12月2日に千葉県の文化財に指定された。

タブノキ⇒クスノキ科、暖帯性の常盤高木で本州、四国、九州の暖かい海に近い地域に分布し、花は五月頃咲く。

ヤブニッケイ⇒クスノキ科、東北地方南部から台湾にかけて分布する常盤香木で芳香がある六月頃黄緑色の花が咲く。

ムクノキ⇒ニレ科、関東地方以南に分布する落葉高木で五月に花が咲き、秋になると実が食べられる。葉は漆器等を磨くのに利用され、材は器具材として用いられる。

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浅間神社は富士山に宿る山の神で浅間と呼ばれる女性神、木花咲耶姫(コノハヤサクヤヒメノミコト)が祀られている。初めは富士山の周辺の静岡や山梨に多く創建されたが、今や全国に1300社ほどあり、その大半は静岡、長野や関東地方に広く分布している。御神徳は極めて高く、病難、危難を払い除き、安産と子育ての神として有名である。

祭事も1月1日(元旦祭)、2月中(節分祭、記念祭)、7月1日(大祭)、7月中(弁天社祭、水神社祭)、10月19日(白旗宮祭)、11月中(七五三祝祭、新穀感謝祭)、が執り行われるが、とりわけ富士山山開きの七月一日の祭事は盛大である。

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東京や埼玉あたりからの七浅間巡り(小山、三郷戸ヶ崎、葛飾区、江戸川区にかけての七浅間巡り)の熱心な信者が白装束に富士講だすきで参拝、里神楽や縁日も出て境内はたいへん賑わう。神輿は担ぎ手の多くが勤め人なので祭礼日が平日の時には日曜日に出すようである。

(※流山の浅間神社と同様に、富士山本宮浅間大社の末社なため、本家の富士山山開きの七月一日以降の第一日曜日に神輿は出されている)浅間神社は極相林に包まれ都会と思えない静けさである。この貴重な原生林を末永く保存していきたいものである。

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浅間神社

千葉県天然記念物極相林
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。浅間神社は上野からの電車が江戸川を越え、線路の右手に見える森の中にある。標高28メートルの墳丘上だ。地名小山の発祥元。野趣ある石段には富士山に模して一合目、二合目の標識が立つ。

麓の案内板には極相林とあり、昭和41年千葉県天然記念物に指定された。極相林とは、この東葛の地で何千年と茂ってきた在地の森林からなり樹種はケヤキ、スダジイ、アカガシ類などである。「鎮守の森の樹木調査研究」によると、東葛地域の鎮守の森の評価では第一位で、面積約一ヘクタールである。

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浅間神社は富士山信仰の一つで、木花開耶姫命が主神。大正5年に近くにあった源義家を祀る白幡神社を合祀し義家の神霊も加わる。山開きは7月1日と富士山と同じで富士登山が都合でできない老若男女の参拝が多いという。現在でも東京や埼玉から白装束に鈴付き金剛杖の姿で「六根清浄」を唱えながら浅間巡りの人々がやってくる。

悲劇もあった。第二次坂川堀継ぎ工事は天保7年(1836)、赤圦から栗山下まで竣工。先立つ天明4年には浅間神社をもとに事件が起こる。検分に来た幕府普請役に上村30人が立ち会う。工事に反対の下村7ヶ村の農民は神社で酒を飲み検分役を襲う。牢死を含め双方に死傷者が出る惨事となった。

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県指定天然記念物

昭和41年12月2日指定
国道6号の脇に位置する浅間神社は、山岳信仰の神社として富士山を祀っている。この神社が所在する台地は、標高28mの独立した台地で、参道斜面を除けば20度以上の急斜面で囲まれている。南側を国道6号が、北側をJR常磐線が走る市街地だが、神社の中に入ると生い茂る極相林の樹木によって周囲の景色は遮断され、まったく別の世界が広がる。



この台地は低地に囲まれ、独立しており、植生は方位によって異なる。高木は、南東面で常緑樹であるタブノキ、ヤブニッケイが優占するが、北東面、北西面では落葉樹であるムクノキが優占し、これにヤブニッケイが混ざる。林の下層ではヤブニッケイやアオキが多く生育しており、林全体としては常緑樹に囲まれうっそうとしている。

タブノ林は海岸に多い林として知られているが、内陸であっても湿潤な環境では成立する。浅間神社の森はその典型であり、学術的に貴重である。また、ここは、開発が著しい市街地に存在する極相林であり、人々の信仰によって育まれた、地域にとっても重要な場所である。

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平成27年11月28日、現地説明会

鰭ケ崎三本松古墳、調査で明らかになっていく古代の流山
平成27年11月28日(土曜)、鰭ケ崎三本松古墳で現地説明会が開催されました。当日は天候にも恵まれ、474人の見学者が訪れました。鰭ケ崎三本松古墳は、全長25m(現存長)を測る市内最大の前方後円墳です。鰭ケ崎・思井土地区画整理事業のなかで、流山市教育員会が平成27年7月から発掘調査を実施しています。

これまでの調査で、全長が約40mと今残っているよりも1.5倍ほど大きかったことが判りました。人物や馬などの形象埴輪、円筒埴輪もたくさん出土しています。また、古墳の周りは室町時代から江戸時代にかけて、人々の生活の場として利用されていたことも明らかとなりました。

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樹木が伐採された墳頂部(後円部)からは、眼下に宮園や松戸市街を見下ろすことができ、古墳が高台につくられていたことが良く判ります。また、見学会では古墳から出土した埴輪も展示され、見学者の目をひいていました。

見学者からは「発掘調査前の三本松古墳は、うっそうとした雑木林に覆われていたので、古墳の全体を見るのは初めて」「古墳の大きさにびっくりした」などの感想が寄せられ、大盛況で終了しました。

古墳の調査はまだまだ続きます。これからの調査では、古墳に埋葬された人の棺を納めた主体部や埴輪列などが出土してくることが予想されます。最新の発掘調査の様子や今回の現地説明会当日配布資料は、流山市立博物館ホームページ「鰭ヶ崎三本松古墳の調査状況の調査成果」でご覧になれます。

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博物館小企画展

「鰭ヶ崎三本松古墳」
平成28年9月19日(月曜日)まで、博物館では、「鰭ヶ崎三本松古墳」の小企画展を開催しています。会場には、出土した埴輪や近代瓦、発掘調査中の写真などが展示されており、調査前から現在までの様子を解説パネルと共にご覧になれます。
 
鰭ヶ崎三本松古墳は、古墳時代後期(6世紀後半)に築造された市内最大の前方後円墳です。埋葬室は土が取られた際になくなってしまったため埋葬者は分かりませんが、古墳の大きさや出土物などから、当時この地域を開拓した権力者が埋葬されていたのではないかと考えられています。

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流鉄流山線鰭ヶ崎駅から北に5分ほど歩いた標高20mほどの台地上に立地しており、推定墳丘長40m、現存墳丘長25m、後円部径17m、前方部8m、比高差2.5mの大きさを誇っています。

昭和30年代後半に古墳の裾ぎりぎりまで土が取られ急な崖となり、豪雨などによる土砂崩れの危険があることから、現物保存ではなく記録保存のための発掘調査を現在実施しています。

展示期間は9月19日(月曜日)までの9時30分から17時まで(月曜休館※9月19日は開館)。入場料は無料です。問い合わせは博物館(電話04‐7159‐3434)まで。

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流山市指定有形文化財

鰭ヶ崎三本松古墳の碑(下総国鰭崎邨古冢碑)
「下総國鰭崎邨古冢碑(しもうさのくに ひれがさきむら こちょうひ)」と刻まれたこの碑は、江戸時代の後半の文政11年(西暦1828年)、鰭ヶ崎村の名主渡辺睦(庄左衛門)が建てたものです。

碑には『睦の祖父である渡辺充房と父である寅が天明の飢饉の時、古墳を掘って財宝を掘り出し食べ物にかえてようとした村人がいたが、これをやめさせ私財を投じて農民を飢えから救った。』と記されています。

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碑の文章は江戸時代の儒学者成島築山(なるしまちくざん)が作成し、幕末の三筆と称される書家、市河米庵(いちかわべいあん)が書いています。また碑の上の方に四角く囲まれた額(篆額)の書者は、幕府の役人戸川安恵(とがわあんけい)です。

碑は当時の一流の人々がかかわって建てられたものです。鰭ヶ崎三本松古墳は、出土する埴輪から、6世紀後半の築造と考えられ、前方部から後円部までの全長25メートル、高さ2メートルの本市では最大の前方後円墳です。

東葛飾地区で数少ない前方後円墳で、そこに葬られた人は地域の長クラスの人ではないかと見られています。古墳は裾のぎりぎりまで土が取られ急な崖となっていることから、区画整理事業のなかでは古墳を現状で残すことが困難となっています。

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講師、下津谷達男(日本考古学協会員)

「市内最大の前方後円墳、鰭ヶ崎三本松古墳に迫る」
流山の平井・鰭ヶ崎地区の区画整理事業に伴って発掘調査が行われている市内最大の前方後円墳である鰭ヶ崎三本松古墳。調査によって今までよくわからなかった事が明らかとなってきました。調査に関わった専門家や担当調査員がこの古墳の実態に迫ります。

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下津谷達男

考古学ひとすじ
東葛人物事典に文が残っているので電化する。下津谷さんは野田生まれの野田育ち、生粋の野田っ子である。王朝文学にあこがれ、國學院大學に進学した。その後、下津谷さんを考古学の世界に引き込んだのは田中則雄さんだという。

田中則雄さんは野田高等女学校に奉職。日本史を担当しておられた。そして、流山、野田あたりに小円墳があるのを知り、発掘指導を國學院大學の樋口清之教授にお願いし、その連絡係を当時学生であった下津谷さんに依頼した。

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このとき発掘した古墳の一基は経16メートル、高さ1・5メートル、埴輪が東側だけに巡らされているという注目された古墳であった。そのあと東深井古墳群の発掘調査が始まり、ここに帆立貝式前方後円墳が柏市側と流山市の二つの台地に対峙する形で発見、副葬品として人物埴輪などを発掘している。

この発掘に関わっているうちに下津谷さんはいつの間にか、考古学の虜になって、大学院修士課程から助手、講師と考古学一筋の道を歩む。そしてこの頃設けられたという博物館学科を専攻され、博物館学へと歩んでいく。

「モノは持ってるだけでは資料にならない。資料化するための調査、研究、整理、分類、修理などの人員や空間が必要」と俄然雄弁になる。86歳になられた今も(※この資料発行当時)、野田地方懇話会会長を始め、流山、野田、鎌ケ谷市の市史編さん審議会委員などを務め、また、考古学や博物館学の講演、古墳などの見学会にと、忙しい毎日を送っておられる。

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三本松の古塚碑

千葉県流山市大字鰭ヶ崎字塚ノ腰1265
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。三本松古墳は、流鉄鰭ケ崎駅の北部300メートルの台地の上にある前方後円墳である。

全長25メートル、後円部17メートル、前方部8メートル、台地平坦部との比高は2・5メートル乃至1・5メートル(沖積地と台地の比高は12メートル)の前方後円墳は小型ながら市内では最大で、他には東深井古墳群の第9号墳しかない。(他は円墳)

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江戸川左岸でも市川市の法皇塚古墳、弘法寺古墳があるのみで貴重なものである。村に人々には昔から古墳として認識されていたと考えられ、後円部の墳頂には文政11年銘(1828)の名主渡邉睦が建立した古塚碑があり、これは江戸後期の考古学、歴史的価値ありとして平成15年に市指定文化財とされている。

古塚碑のテンガク(題字)は幕府の勘定奉行も勤めた戸川安恵によっており、撰文は幕府の奥儒者成島譲築山が当たり内容は次のとおり。

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「下総国葛飾郡鰭ケ崎村の丘上に塚があり、古く貴い景勝の地として又神の霊応ありとして伝えられている。天明4年(1784)の大飢饉の折、塚を掘ろうとした村民の不心得を名主の渡辺充房と寅の父子が諭し私財を投じ救援したので渡辺家は栄えた。孫の睦が名主の折に古塚の霊験は益々あらたかとなり塚は信者を集めた。」

「塚の奥に洞窟があり白狐が出現したが神の霊応を解せぬ人が多いので睦は碑を立てて周知させ神の使いを丁重に遇した。渡辺に人あり、昔鬼の腕を切り(渡辺綱)今神の魂を安んじる。欲を制し義をもって人を助け、仁をもって強暴を感服させ、正に仁にして義、天地の恩恵、神仏の利益を万人に施してきた。睦より陰�コの報い、積善の喜びが延べられたのを聞き、ここに銘記し、今後共末長い安寧と健勝を祈る」(成島譲撰)

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古墳に併置されていたはずの埴輪のうち人物埴輪の頭部二件が保存されているが、他は盗掘されて持ち去られており、円筒型埴輪の破片が採集されているだけ。

土師器質(弥生式土器系の素焼き赤褐色の土器)のものと須恵器質(朝鮮系ろくろ形成高温素焼きの暗青色の土器)のものがあり、焼成・調整の技法を著しく異にする種の埴輪があったらしい。

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今回何年ぶりかで現地を訪れたが、幕末の三筆と言われる書家の市川三亥の惚れ惚れする達筆は健在で、市の文化財に指定された故か雨除けの覆いが仮設されてあった。

稲荷明神の祠が大小二座さらに年月に耐えて鎮座しているが建替えが近いのだろうか。渡辺本家の御子孫は現在は鰭ケ崎に在住ではなく市外へ移られたようである。

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柏市消防局「にじいろ救命女子」

女性隊員が情報発信グループ結成
柏市消防局の災害現場で働く女性の消火隊、救急隊員13人が3月3日のひな祭りに合わせて、情報発信グループ「にじいろ救命女子」を結成する。講習会など啓発行事やインターネットを介して、消防の最前線で活躍する女性の姿を伝えたいという。

柏市の消防吏員は約460人。このうち女性は21人で5%に満たないが、全国的には高い割合という。近年は女性を毎年複数人採用しており、職場の環境も整っているといい、こうした実情を広くPRすることが、グループ結成の目的だ。

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2005年に同局初の女性救急隊員になった太田夏子さん(37)によると、女性の消防隊員がいることで「男性に話しにくいことも話せる」をはじめ、災害現場でさまざまな利点が生じる一方、女性というだけで驚かれることもしばしば。太田さんは「一見、男社会だが、女性の必要性は実感しており、これをアピールしていきたい」と話す。

にじいろ救命女子は結成と同時にホームページ(HP)を立ち上げ、月1回更新予定のブログでは、消防署員の献立レシピなどを紹介していく。母親や親子を主対象とした防火、応急手当ての講習会、育児イベントなどにも積極的に参加する予定という。メンバーのヘルメットには、7色の虹をデザインしたおそろいのステッカーを貼る。

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東葛の消防の事始め

松戸では明治37年消防組が、流山には明治39年11月
東葛事始め事典に文が残っているので電化する。消防とは、現在は私たちの家や地域を火災または地震など災害から守ってくれる行政を意味するが、かつてはただ消化する、延焼を防ぐために周辺を破壊(破壊消防)するということであった。

江戸時代、大名は江戸城の防火のために藩邸から火消し人足を出すことを義務付けられ(大名火消)、旗本には明暦の大火後若年寄の支配下に定火消があり、その火消屋敷は江戸城の北部と西部の十ヶ所に置かれた。他方、町方では町人自身の町火消が消火に当たったが、次第に鳶人足の雇用が一般化した。

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明治維新後、武士の消防組織は廃止され、町火消は町奉行所を改組した南北市政裁判所の監督下に置かれ、明治5年消防組と改組され、のちに警視庁が管掌し、国内最初に制度化された。明治27年「消防組規則」が制定され全国的に統一され、費用も市町村が負担し、府県知事が指定した警察署長が指揮、監督し、敗戦まで警察の一組織とされた。

昭和14年、軍部の指導により昭和7年に組織されていた防空のための機関の防護団と統合して警防団となった。また、空襲がひどくなった昭和19年3月には学徒動員の学生も参加して鉄道や工場の脇の建物は建物疎開として壊され空き地にされた。

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松戸市の場合は、明治37年に松戸町消防組が設置され、昭和18年には警防団常備消防部が設置された。流山町に消防組ができたのは明治39年11月で、新川村は大正3年4月、八木村は同6月で、これら3町村はのちに合併したので昭和26年4月に江戸川町消防団となった。

これらの仕事は相変わらず町民の非常勤による消防であった。戦後は警察制度の改革の中で47年消防団令の公布、施行され、警防団は廃止され、各市町村に消防団が設置された。また同年、消防組織法の施行により警察から分離して市町村が独自に責任を負う自治体消防制度となった。

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こうして、松戸市は昭和23年に警防団常備消防部を消防団常備部に改称し、同29年に消防本部及び消防署を設置した。また、東京都と消防相互応援協定を締結し、昭和25年以降市川市、流山市、三郷市とも同様の協定を締結して協力体制を作った。

流山町は昭和39年に消防団常備部を設置し、庁舎は40年に完成した。翌41年4月に消防本部、消防署が設置された。昭和38年に、消防法の改正により救急業務が消防の任務となり、同35年以降300件程度の救急出動件数がうなぎ上りに多くなり、市民生活を守っている。

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※文を追加しておく

俺が思う地区としての流山南部の成り立ち
当然ことながら、流山本町よりも鰭ケ崎の村の成立は古い。しかし、どうしても洪水の常襲地帯、三年に一度、米が収穫できればいい程の低湿地地帯の鰭ケ崎という地区。江戸時代以前は小金城の勢力圏内と見てもいいだろう。小金城から鰭ケ崎を越えた台地上の地区の、思井の犬塚に小金城の忠犬小金丸と高城下野守の伝説が残されている。

鰭ケ崎の地区は今の江戸川が洪水になるたびに農地は荒れ、だからといって生活の場を移転することも出来ずに生きていったことが推理できる。長男が田畑を継ぐとして、次男や三男は分家し、職人などの所へ弟子入りし、職人としての人生もある。それに加えて、農民としては新たな開墾地を切り開いて生きていくことも選択肢の一つになる。

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そこでどこの場所にするかということになるが、実家から動ける範囲の行動圏内ならば、共存共栄の農耕民族のコミニティのまま、崩すこなく同様の生活をして代替わりしていくことになる。そんな背景もあり、今では南流山という住所になっているが、かつての馬場や木村という地区に農地が増えていく、馬場の地区には流れてきた山と神社があった。

徳川家康が江戸に入り、流山河岸が幕府の御用河岸として認められると、周辺地域の中心部として賑わう事が約束される。そこで赤城神社の元和6年(1620)の再建(鎌倉時代創建の伝説もあるが、実際の証拠はこの年号となる)。この再建には鰭ケ崎の村を代表した人の名前も残っている。これは本家として分家の所にも出さねばならないだろう。

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家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。その後、江戸川が河川整備され、流山に河岸が設置されると水運の重要拠点として、また商業地として栄える下地が出来るという事。そこで六軒百姓の伝説につながっていく。

六軒百姓の伝説は元禄(1688年~1704年)の時代から、このタイミングも赤城神社の元和6年(1620)再建から70年以上が経過している。どのタイミングでも流れてきた人々はいるかと思われるが、馬場や鰭ケ崎の親戚の一族という背景基盤があって流山の広小路周辺に出て行ったのではないだろうか。財源的な支援も想像に難しくない。

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元和6年(1620)再建には飯島重左衛門の名が残っている。これは秋元本家と、堀切家以前に醸造業が成り立っていたことになり、元和6年の時点で人が集まる工場があり、各地の農村部から一定の量の米を買っていた事につながる。雇用があれば民家が建ち並び、街場が形成される。なので赤城神社近辺の集落は完成していたと見てもいいだろう。

流山村は寛永3年(1626)に検地が行われた天領、馬場(宿)に江戸幕府の御用河岸、流山河岸が設置されると、小金宿に居住している元小金城の家臣達も恩恵を受ける。これは同時に鰭ケ崎からは年貢の運搬などにも利用され、小金の宿場町への物資運搬の仕事も成り立ち、小金道(もう一つの小金道)を使っての経済的波及効果も増加する。

もちろんこれ以外にも、親村としては鰭ケ崎だけでなく八木郷の士族や小金城の家臣が帰農したことまで関連してくる話。高城氏に仕えた家臣が開発した土地として、七右衛門新田や伝兵衛新田など地名として名前が残っている松戸市北部の場合もあるので、流山市南部の農家の中にも家系として、繋がっている人物もいても不思議ではない。

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毎年11月27日、遊行寺の一ツ火

神奈川・藤沢で暗闇の中念仏唱える法要
神奈川県藤沢市の遊行寺で11月27日、「遊行寺の一ツ火」が行われる。約700年の歴史を持つ法要で、「報土入り」と「御滅灯(おめっとう)」から構成される。「御滅灯」では本堂内の明かりがすべて消され、暗闇の中で念仏が唱えられる。

その後火打ち石で打ち込まれた火が順に灯明へと移され、徐々に明るくなっていくさまは、念仏により世界が「極楽浄土」に生まれ変わることを表現しているという。元は年末に行っていた行事で、「一年の悪行を懺悔(ざんげ)し、来年の善行を志す」という意味もあるとされる。

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藤沢の遊行寺で11月27日、「歳末別時念仏会 一ツ火(ひとつび)」が行われる。法要自体は、前段の「報土入り」(詰時)と後段「御滅灯(おめっとう)」(一ツ火)により構成。後段「御滅灯」(一ツ火)は、本堂内の火が次々に消され、最後にこの大光灯を報土役が消し、後灯を後灯役が消し火打ち石で火を起こす。

打ち込まれた火は闇から次第に灯明へと移される。宗祖一遍上人以来700年の歴史がある法要。自己修行のため、祖師の命日・彼岸会などに当たって一定の期日を定めて念仏ざんまいに専念するもの。お念仏により、光明降り注ぐ「極楽浄土」に生まれ変わった歓喜にひたるこの法要は、本宗独特のものだという。

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遊行寺と呼ばれ、親しまれている同寺は時宗の総本山で「藤澤山無量光院 清浄光寺」といい、時宗の法主が遊行上人といわれ「遊行上人がおいでになる寺」ということから、「遊行寺」と呼ばれるようになったという。この法要は、時宗教団にとってもっとも重要な行事とされる。

総本山近侍司の林陽善さんは「普段慌ただしく過ごしている生活から離れ、次第に暗闇になる空間で自己を見つめ、ともされるともしびで新たな気持ちを自分に吹き込んでいただきたい。念仏に包まれ次第に一体となることを実感してほしい」と話す。

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毎年11月26日から、ししきりまつり

君津市清和市場、諏訪神社
起源は明らかではありませんが、昔、イノシシやシカが多く、農作物に害を与えることから、毎年11月26日から10日間にわたり村民が総出で狩猟に当たり、獲物を神前に供えて御狩祭を開いたのが起こりです。豊作と鳥獣から作物を守ることを祈願するお祭りです。

祭りでは、まず境内に肉(現在は鶏肉)の入った桶が置かれます。次に、昔から決まっている「社家」と呼ばれる神事に立ち会う四家が、かみしも姿で肉を切り、神社に奉納します。このあと、見物人が我さきにと肉を取り合います。この肉を食べると「風邪をひかず、丈夫になる」と伝えられています。

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ししきりまつりは「猪鹿切り祭り」とも書き、猪、鹿など収穫期の農作物を荒らす獣を狩り、獲物を神前に供えて五穀豊穣を祈願したもので、全国的にも珍しい千年続く行事として当地に伝えられており、房総のミカリ習俗として千葉県無形民俗文化財に登録されています。

毎年霜月二十六日(11月26日)からの10日間、村人総出で狩猟を行い、師走五日(12月5日)に祭事が行われたと伝えられております。この祭りは「房総のミカリ(御狩祭り)習俗」として千葉県無形民俗文化財に登録されています。

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昔、猪や鹿が多数生息し農作物に害を与えることから、毎年霜月二十六日(11月26日)から師走五日(12月5日)の10日間、村人総出で狩猟を行い、獲物を神前に供えて五穀豊穣を祈願したのが起源とされています。全国的にも珍しい行事で千年も続き今に伝えられております。

師走五日には、総代、社家、来賓、地元青年団が諏訪神社に集まり、宮司による払い言葉、大払い、祝詞湊上、太鼓奏楽、来賓も加わって菱餅撒きが行われ、その間社家による獣肉(現在は鶏肉)を切り包む儀式が行われます。肉は神前に供えられた後に来場者による激しい奪い合いが行われます。この肉を食べると風邪をひかない等のご利益があると伝えられています。

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息災願い肉の争奪戦

君津・諏訪神社で奇祭
鳥獣から農作物を守る願いを込めて行う神事「ししきり祭」が5日、君津市清和市場の諏訪神社(石井昭平宮司)で行われた。神事の最後に、食べれば無病息災の御利益があるという肉を奪い合う慣例があり、老若男女が争奪戦を繰り広げた。

作物を荒らすイノシシやシカを11月26日から10日間かけて狩猟し、最終日の12月5日に獲物を神前に供えたのが始まりとされる。農耕の神を祭る諏訪神社の信仰の一つで、いつから始まったかは不明だが、少なくとも江戸時代には行われていたという。

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御狩祭(みかりさい)とも呼ばれ、県の記録選択文化財に指定されている。現在は鶏肉を使い、社家(しゃけ)という神事に立ち会う家の主人がかみしも姿で肉をとりわけ神前に奉納。

肉の入ったおけが社殿の外に運ばれふたが解かれると、待ち構えていた住民の争奪戦が始まり、おけはあっという間に空になった。

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