本みりんの日
イイ味醂の日
全国味淋協会が制定。「い(1)い(1)み(3)りん(0)」の語呂合せと、最も鍋物等で需要の多い時期であることから。みりんは蒸した糯米に焼酎と麹を混ぜて醸造した酒です。現在はほとんど調味料として使われますが、かつては甘い酒として飲用されることも多かったようです。みりんのような酒の起源は、奈良時代にあるといわれますが、焼酎を原料にしたのは室町時代からです。
流山では安永年間(1772年から1781年)にみりん醸造が始まり、白みりんは天明2(1782)年に天晴みりんが、文化11(1814)年に万上みりんが醸造に成功し、販売を開始したといわれています。江戸川流域の良質な糯米を利用した流山のみりんは、大量消費地である江戸を間近にひかえ、その生産は順調に伸びていき、全国的にも有名になりました。
明和3年(1766) 初代堀切紋次郎流山に移住、酒造開始
安永年間(1772~1781) 流山でみりんの醸造始まる
天明2年(1782) 5代目秋元三左衛門、みりんの醸造成功(天晴みりん)
寛政7年(1795) 堀切、みりんの醸造開始
文化11年(1814) 2代目堀切、白みりんの販売開始(万上みりん)
明治6年(1873) オーストリアの万国博覧会で天晴・万上みりん、有功賞牌授与
明治10年(1877) 万上みりん、宮内省御用達を拝命
明治10年(1877) 天晴みりん、オーストリアの万国博覧会で入賞
大正14年(1925) 万上みりん、野田醤油(後のキッコーマン)と合併
昭和15年(1940) 天晴みりん、帝国酒造に売却
ミリンは元々調味料ではなかった。
「みりん」といえば日本独特の調味料。江戸時代より古くから、みりんの原型となるものはあったとされています。しかし、みりんが大きく世に広まったのは200年以上も昔、江戸の時代。 今でこそ「みりん」は調味料として認知されていますが、江戸時代はどうだったでしょう?
当時の川柳にはこうあります..
味淋酒が 効いたで嫁は 琴を出し
江戸川柳辞典(濱田義一郎:東京出版:1976)より
夫婦で晩酌。嫁は「みりん」を飲んでいい気分になってお琴を出して奏でている。そんなひと時でしょうか。当時「みりん」はお酒としても一般に広まっていたのですね。
白味淋発祥の地・流山
そんな江戸の下戸や女性に人気だった「みりん」実は千葉県流山市が発祥の地なんです。当時の主流は関西の「赤味醂」でした。現在主流となっている淡く澄んだ「白味醂」は、天明2年(1782年)に流山で造り酒屋を営んでいた五代目秋本三左衛門が造りあげ「天晴味醂」として売り出したのが最初と言われています。流山の黄金色で淡く上品な白味醂はたちまち江戸の町で大評判となりました。
そして、文化11年(1814年)二代目堀切紋次郎が万上味醂として白味醂を売り出し、「天晴」と「万上」は加村河岸(流鉄流山線流山駅からまっすぐに江戸川土手を目指した辺り)から高瀬船に積まれ江戸の町へ運ばれて行きました。加村絵図から加・流山の歴史が見えるの記事にある地図の浮島、ここが本当の加村河岸の機能をしていたとされる。
味淋に名高き流山
江戸の町で人気を博した「流山の白味醂」物流の発達していなかった当時、どうやって白味醂は全国に広まっていったのか。それに大きく関係していたのは参勤交代で江戸にやってくる大名たちだったと言われています。帰国のする大名は江戸の土産として「流山の白味醂」を持ち帰り、流山を味醂の町として広めてくれました。
さらに、明治6年(1873年)ウィーンで開催された万国博覧会で「天晴」と「万上」が有功賞牌を受けたことで、大正・昭和にかけて流山の味醂は全国津々浦々まで行き渡り「味醂に名高き流山」とまで歌われるようになりました。
みりん香る町 流山を再び現代に
流山で白味淋が生まれてから約200年。近年の流山市は新しい鉄道、駅やショッピングモール、新興住宅地と大きな発展と遂げていると思います。地元で生まれた新しい世代・流山市に期待を抱いて新居をかまえる人たち、しようとしている人たち。そんな人たちがまだまだ増えていこうとしている中で私達は「流山の味淋」を伝え、後世に残していかなくてはなりません。みりんカクテルプロジェクトは「味淋に名高き流山」から発信する新しい試みです。
かつては飲み物として愛されていたみりん。そんな歴史あるみりんを現代に再び飲み物として楽しんでみようと始まったのがキッカケ。そして2010年3種類のみりんカクテルが誕生しました。「モリノマチ」「流山」「tsu-ne」
これらのカクテルはTwitterで集まった仲間と南流山のダイニングバー「リゾートダイニング海風(現・もんじろう)」の当時のスタッフによって考案され、実際に商品としてデビューを果たしました。Twitterでたまたまつながった地域の人々と飲食店のスタッフが、町の名物を活用したメニューを考案する。現代ならではの現象でしょうか。
そして2011年、何名かの仲間が再び集まり「みりんカクテル」の活動を再開することとなりました。今回のテーマは「みりんカクテルをもっとたくさんの人に飲んでもらえるよう広めよう」というもの。
私たちは考えました。どんな活動をしたら、たくさんの人々にみりんカクテルを飲んでもらえるだろうか。そしてひとつの大きな目標を立てました。「流山の色々な飲食店で色々なみりんカクテルを飲めるようにして来る人も楽しめるようにしよう」これが「みりんカクテルプロジェクト」これからの将来、流山のみりんが何を生みだせるのか。大きなチャレンジは始まったばかりです。
みりんの事始め
江戸っ子に好評の産地は流山だった
東葛事始め事典に文が残っているので電化する。みりんと言えば、キッコーマン流山ブランドで製造する「本みりん」を思い浮かべる。すなわち流山で改良開発されて、文化文政の頃から江戸市中で人気を博して以来、「流山の味醂か、味醂の流山か」と言われるほどになり、明治以降は地理の教科書や鉄道唱歌にも登場した甘い酒(アルコール分14パーセント)のことである。
現在ではほとんど料理の調味料として固有の香りや風味、てりや艶、防腐や煮崩れさせぬ作用が重宝されている。元々は江戸時代からも、多分に下戸や女性や子供にも飲みやすい低アルコール飲料とされていたものである。昭和30年代頃までは全国のみりんの出荷高の三分の二は飲用であった。本直しと称して味醂に焼酎(アルコール分25~35パーセント)を加え、アルコール度を上げた甘くて弱い酒、屠蘇袋を浸して屠蘇酒にもされる。
ちなみに、酒すなわちアルコール飲料を製法により分類して、味醂は混成酒とされている。醸造酒である清酒の製造から出る清酒粕を直接蒸留したり、米・麦・サツマイモ・トウモロコシなどを発酵させて蒸留して造る焼酎(蒸留酒)にモチ米やウルチ米を混ぜて製造する混成酒なのである。
①醸造酒・清酒、ビール、果実酒(ブドウ酒、リンゴ酒など)紹興酒②蒸留酒・焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ(茅台酒、テキーラ、ラム、ジン、ウォッカなど)③混成酒・味醂、白酒、薬酒、リキュール、醸造酒であるブドウ酒、蒸留酒である焼酎、混成酒である味醂酒はすべて元々ポルトガルの宣教師がもたらせたものであるが、現在味醂の産地としては流山のほか、京都の伏見、愛知の碧南が著名である。
米の麹を焼酎に混ぜ(大正時代以降はエチル・アルコールを起用)て、二・三ヶ月間摂氏25度で熟成させ、モロミを造り、圧搾・濾過して味醂酒を得る。熟成には冬期は三ヶ月、春秋は二ヶ月と気温により長短がある。
明和3年(1766)に流山に来て、安政2年(1773)に赤みりん(味醂酒を長期間熟成させたもの)の醸造を開始した初代の堀切紋次郎が東葛では最初のようである。文化11年(1814)になり、二代目紋次郎が白みりんを開発したことがみりんの革命となった。
それまでの赤褐色の関西系のとは異なる、紋次郎の透明で淡黄色のみりんが彼の粘り強い販売努力も功を奏して、江戸で人気を得て、10年後の文政7・8年(1824・25)頃には「流山味醂酒」の看板が江戸市中で見られるに至ったという。彼が詠んだ和歌「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味醂醸す相模屋」に因んで「万上みりん」の商標が生まれた。
流山では秋元家も味醂醸造で栄えたが、その赤みりんの醸造に本腰を入れたのは五代目秋元三左衛門のようで、天明元年(1781)であった。初代堀切紋次郎のそれより8年後である。流山でのみりん造りが盛業を得たのは、原料の米や焼酎の産地が近く調達が容易であったこと、大消費地江戸に近く舟運の便も良かったことなどによるが、それはお隣の松戸にも通じることだ。
松戸でも一時は「味醂と白酒は松戸の土産」と言われて、明治時代にはそれらが輸出されてもいたのだが、その大野屋竹内仁兵衛酒造所の創業は文政8年(1825)である。(※この時代には今現在のような、明確な市境も無く、水運によってつながっていた、街と街とで技術連携などもあったように思う。)
流山でなぜ味醂が作られるようになったか
東葛なぞふしぎ事典に文が残っているので電化する
今でこそみりんは調味料としてのみ台所に存在するが、昔は屠蘇酒として高価な物であった。古文書には慶長7年(1602)にすでにみりんの市販が始まっている。慶長7年といえば、関ヶ原の合戦から2年目。家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く前の年である。
つまりみりんは江戸の初めから、お寺の祝い事には使われ天海僧上も晩年の家康に不老酒として、すすめたのもみりんの一種であったと言われる。甘いものが御馳走だった江戸時代、味醂は甘い飲み物として、特に女性に人気があった。
当時のみりんは、上方ものの赤みりんが主流だった。そこへ味も濃く色も白い新たな白みりんが登場、江戸っ子の注目を集めると同時に、上方の人にも格好の江戸土産として大繁盛するのである。『味醂見てみな、嘗めてみな、ひかる小金の、ひろがる味が、語りだします、聞かせます、白帆白壁、川端柳、むかしなじみの、流山』
と相馬流山の唄の文句にもあるように、江戸から明治、大正にかけてあずま名物白みりんの発祥地として、流山は有名だったのです。なぜ流山にみりんが生まれたかの理由は、大きく三つ上げられる。まず第一は江戸川の水運である。
江戸川は承知の通り、純粋な自然河川ではない。徳川幕府が水害から江戸を守るため莫大な費用をかけて造り上げたセミ人工河川である。太日川と言う流路定まらない不安定な川を今日のように直線にし、川幅を広げて東北や北関東の諸物資が、この江戸川によって江戸に運ばれるようになるわけだが、その江戸川の原形が出来たのは寛永12年から18年(1635~1641)であった。
名実ともに太日川が江戸に通ずる江戸川に生まれ変わると、流山は利根川行路の一角を担うことになる。特に流山の河岸が賑わう元禄時代(1688~1704)になると、利根川の関宿、野田方面は浅瀬が出来て、関宿まわりで江戸川に出るルートは難しくなり、特に夏の渇水期には船の運航が覚束なくなるため、利根川の布施河岸と流山の加村河岸の間に陸路が開かれ、布施で陸揚げされた物資は三時間、馬の背にゆられて流山に運ばれる短縮ルートが開かれる。
こうした短縮ルートは布施と松戸の納屋河岸にも、三ツ堀と野田河岸間にも生まれるが、やはりその中心は布施、加村の陸路であった。そうなると地元の農民は競って馬で駄賃かせぎをするようになり、流山には米や雑穀、乾物などの物資が続々流れ込むようになり、商人、船頭、旅人相手の料亭や旅館が出来るようになった。
一方また元禄期には本多伯耆守正永の四万石の下総飛び地領が流山にあり、領地を管理する加村会所が現在の流山博物館のある台地にあった(本拠地は静岡県藤枝市)ため、中相馬二十一ヶ村の年貢はこの加村河岸に集められ、高瀬舟に積まれて江戸日本橋に運ばれた。加村河岸が一名本多河岸と言うのもそのためである。
第二は消費地江戸に近かったことだ。江戸通いの地舟、寄り舟で賑わうようになると流山は、江戸と一日の時間で結び付くことになり、江戸の情報は川舟経由で日々新たに伝わってくる。「万上」の堀切も「天晴」の秋元も、共にこの地の利を背景に販路を拡大していったのである。
第三は原料である米の産地であった事である。利根川、江戸川べりの米は良質で「本多米」とも言われ、日本橋市場で高い評価を得ていたのだ。味醂の原料は米と糯米と焼酎であり、その糯米を手近に確保できたことも極めて有利な条件であった。白みりんがようやく世に認められ始めた、文政7年(1824)あたりの歴史年表を見ると・・・
『この頃百姓の衣類は次第に贅沢になり、しばしば取り締まり令下る』などの記事が見える。特に財力を持つ町人たちは生活も華美になり、家庭でみりんを使った料理に楽しみ、甘い酒の「ほんなおし」(味醂の一種)は好んで女性に飲まれるようになる。
このような世の流れでの中で、堀切紋次郎と秋元三左衛門の両家は味醂、酒、醤油の総合醸造から、味醂醸造の独自の技術を生み出し、江戸町民の趣向に合った競争力の強い製品を世に送り出すことに成功する。また紋次郎も三左衛門も二郷半領番匠免(現在の三郷市)の出身である。
古利根川と江戸川に挟まれた低湿地は台風前に刈り入れをすませる早稲の産地であった。二人は大量に消費する粳米と糯米の質を見分け、買い付けのルートを持ち農民の米の品質向上に注文と協力を得やすい立場にあった。二郷半領の農民もまた味醂と結びつくことによって、「江戸川米」と言われる品質の良い糯米の産地になっていった。
さてその白みりんの元祖は堀切家では二代目の堀切紋次郎であった。先祖は千葉之介常胤に連なる名家といわれる。明和3年(1776)、一代目堀切紋次郎が流山に移り住んで相模屋と称して酒造業を始めるが文化(1804~1818)の中頃には衰微し、そのため二代目紋次郎は妻八重の親戚、野田の高梨家の後援を得て白味醂の試醸に成功。
文化11年(1814)に「流山白味醂」として発売するのである。発売当時は主人自ら草履履きで、宣伝につとめ販路を拡大して、あずま名物として、天下にうたわれるようになるのはそれから十年後の文政7・8年(1824~1825)の頃である。
その後を継いだ三代目堀切紋次郎は風雅の道をたしなみ相模屋と称した堀切家の味醂が、幕府により禁中に献上されることが決まるや、喜びの余り次のような歌を作る。『関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや』
商標「万上」の万の字はこの歌の「一力」を意味し、「上」は「上なき味醂」を意味する。独力で創り出した天下に並びなき味醂の本家は相模屋であるという、誇り高き商標だったのである。
もう一方の天晴味醂の秋元家も二郷半領番匠免の出身で四代目までは豆腐製造を営み、五代目の三左衛門(双樹)が味醂づくりを始めたとある。しばしば秋元家に草鞋を脱いだ小林一茶もおそらくこの白味醂をたしなんだことだろう。今日、キッコーマンの味醂は秋元、堀切家ゆかりの流山工場で生産されている。
県指定有形民俗文化財
流山のみりん醸造用具
流山は、京都府の伏見、愛知県の三河と並ぶみりんの名産地である。江戸川沿いの河岸として発展した流山は、江戸へのみりん供給地として生産を伸ばし、江戸時代末期から明治時代にかけて、全国にその名を知られるようになった。
流山のみりん醸造業者としては、「万上」の銘柄を出した堀切家と、「天晴」の銘柄を出した秋元家が有名である。堀切家は、2代目紋次郎が文化11年(1814)に白みりんの醸造に成功して販売を始め、のち大正14年(1925)に野田醤油株式会社と合併して今に至っている。
一方、秋元家は5代目三左衛門が天明2年(1782)に酒とみりんの醸造を開始し、何度か銘柄名を変えながら昭和前期には廃業している。本資料は、この両家に関係する資料からなっている。堀切家の資料は、万上みりんが合併後、醸造設備を新しく切り替えていった際に倉庫に保管された古い道具類で、さまざまな桶類や麹蓋、圧搾袋や焼印などが含まれている。これらによって機械化以前のみりん醸造法を知ることができる。
また秋元家関係の資料は、その分家が販売していたみりん・酒類のラベルや下絵・石版などで、町内の印刷業者、自盛堂に残されていたものである。両方あわせて千葉県を代表する産業のひとつである流山のみりん製造・販売の実態を示す基本資料として貴重である。
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