でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年08月


昭和17年8月31日、青木功誕生日

千葉県我孫子市出身のプロゴルファー
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共にAON (エーオーエヌ) と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位である。

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我孫子ゴルフ倶楽部

作者青木功、勝負論 (新潮新書)
五十年闘ってきたプロ中のプロが、負けない術、「自分本位に考える」法、良い流れのつかみ方などを惜し気もなく明かす。一流と二流の差は?稼げる条件は?スランプから立ち直るには?真のライバルとは?競争心、闘争心、挑戦心、好奇心を原動力に今も挑戦を止めない「世界のアオキ」が語り尽くした勝負の核心。

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プロゴルファー・青木功さんが2014年に『週刊新潮』に連載されていた「おれのゴルフ」を一冊にまとめたものです。青木功さんは、現在73歳。膝の手術によるブランクから復帰され、いまも現役のプロゴルファーとしてシニアツアーで戦っておられます。

青木さんが賞金王を獲得したり、ハワイアンオープンで優勝したりしていた時代、僕はけっこう日曜日の夕方にゴルフ中継を観ていたんですよね。当時はテレビゲームもレンタルビデオもない時代で、その時間にやっているテレビ番組のなかで、いちばん面白かったのが、ゴルフ中継だったから。

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のちに自分でクラブを握ってみて、あまりの難しさに驚いてしまったのですが(ベタですけど「止まっているボールを、なぜまともに打てないんだ……って思うんですよ)、当時は、青木さんや尾崎将司、中島常幸選手などがしのぎを削っていたのです。

そのなかでも、なぜか僕は青木功選手を贔屓にしていました。あの飄々とした、人を食ったような雰囲気と、それでいて勝負には妥協しない姿勢が好きで。関東出身で結婚してから九州にやってきた僕の母親が、青木さんのざっくばらんな喋りを聞くたびに、「ああ、なんだかこの人が喋るのを聞いていると、故郷にいるみたい」と喜んでいたのが影響しているのかもしれません。

この新書のなかで、青木さんは、これまでのプロゴルファーとしての人生や、自分のゴルフに対しての姿勢について振り返っておられます。そして、まだまだ好きなゴルフを続けていきたい、ということも。好きなゴルフをやって生活していけて羨ましいな、と思いがちなのですが、プロゴルファーというのも、そんなにラクな稼業ではないのです。

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晴れてプロテストに合格してもすぐにトーナメントに出場できるわけではない。日本には約5000人のプロゴルファーがいるのだけれど、試合に参加するには更にツアーを管理するJGTO(日本プロゴルフツアー機構)の予選を勝ち上がる必要がある。その中でツアーに参戦できる選手は200人にも満たないというから、本当に狭き門なのである。

何とかツアーへ出場できるようになっても、トーナメントの賞金だけで生活していける選手はごく僅か。そりゃあ、優勝すれば数千万円もの大金がドカッと入ってくるが、それは百数十人の中の1人だけ。予選落ちすれば賞金はゼロ。交通費はもちろん、宿泊代、キャディ費などの経費を支払うと大赤字になる。

それだけじゃない。賞金ランキング60位以内のシード選手でも、経費や税金などを差し引くと年収は400万円ぐらい。一部の選手を除いて稼ぎの安定しない現実を考えると、華やかに映るプロの世界は、とても「毎日ゴルフできて楽しい」とは言っていられないのだ。

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しばらく前に、石川遼選手の年間数億円という収入が話題になっていましたが、プロゴルファーの中で、そんなに稼げる人は、ごくひとにぎりなのです。これを読んでいて驚いたのは、プロゴルファーの中でも、プロ野球であれば一軍クラスであろうシード選手になっても、年収は400万円ぐらいということでした。

野球やサッカーのプロ選手に比べれば、選手寿命は長めだし、レッスンプロといった仕事もあるとはいえ、ほんとうに「ごく一部の超高収入者と、それ以外」の世界なんですね。「賞金ランキング60位くらいの選手の名前を言ってみて」と問われても、たしかに、ひとりも思い浮かばないのだけど……青木選手は、「ゴルフとの出会い」を、こんなふうに振り返っています。

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思い返すと、おれがゴルフという存在を知ったのは中学校1年生の夏休みのことだった。千葉県我孫子市の家の近くにあった『我孫子ゴルフ倶楽部』で、キャディやボール拾いをすれば金がもらえると聞いて通いだしたのだ。ゴルフそのものに興味を持ったわけではないし、何か特別に買いたい物があったわけでもない。ただ、その小遣いでお腹を満たしたいだけだった。

その頃はまだゴルフをやったことがないから、見ていて「あんな小さなボールを打って楽しいんだろうか」なんて不思議に思っていた。そんなある日のことだ。キャディに付いたお客さんがあまりにもチョロを連発するので、堪え切れずに目の前で「クスッ」と笑ってしまった。すると、そのお客さんがラウンド後におれを練習場へ連れて行き、クラブを差し出して「ボールを打ってみろ」と言う。

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おれは小学生から野球をやっていたので、止まっているボールなんて簡単に打てると思っていたら、なんと、尻もち寸前の大空振りをした。その後も「おかしいな」と首を傾げて何度もトライしたが、1発もまともに当たらない。それで今後はそのお客さんに笑われてしまった。

それがもう、あまりに悔しくてね。以来、「ちゃんと飛ばせるまでやってやる」と、ゴルフにのめり込んだわけ。考えてみれば、あのお客さんに出会わなければ、おれはゴルフをしていなかったかもしれない。

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このお客さんは、中学生に笑われて、ちょっとムカッとしてやらせてみたのだと思います。でも、それがきっかけになって、「世界のアオキ」が生まれた。人生というのは不思議なもの。青木選手は、「最初にうまくいかなかったからこそ、のめり込んでいった」のだよなあ。また、この本には、道具へのこだわりなども書かれているんですよね。

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振り返れば、おれは、親父に買ってもらったクラブから現在使っている「テーラーメイド」社のクラブに至るまで、自分で手を加えなかったものは一つもない。ソールを削ったり鉛を貼ってバランスを変えたりと、理想のショットが打てるまでとことんいじってきた。

自宅にも工房がある。そこにはそれまで使ってきたクラブを始め、スパイクやボールなどゴルフに関わる全ての道具が保管してあって、同時にシャフトやグリップの交換など、クラブを調整するための機材も置いてある。どういうわけか、自宅にいるとおれは調整や修理をする必要がなくても、何となく工房へ入ってしまう。それだけクラブを触っていたいんだろうね。



このあと、青木さんは「最近の若いプロゴルファーが、何でもかんでもメーカーのクラフトマンに任せっきりで、自分でクラブ調整はしないらしい」ことに苦言を呈しています。なんだかもう、『プロゴルファー猿』みたいだなあ、と。青木選手は、とにかくゴルフが好きで、「すべてをゴルフのために」と考えているのです。

ツアー中に着るものも、奥様があらかじめコーディネートして「1日目はこれとこれ」などと、決めてくれているのだとか。青木さんの場合は、「どんな場合でも、手を抜かない習慣をつける」というのを重視していて、相手がアマチュアとかプロとかは関係ない、という感じみたいです。

ゴルフ好き、青木功好き、そして、海外で仕事をすることを考えている人にも、おすすめしたい新書です。好きなことをやって生きている人って、なんでこんなに魅力的なのだろう。巻末に、笑福亭鶴瓶さんとの対談が載っているのですが、その中に、こんなやりとりがあります。

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我孫子ゴルフ倶楽部が

世界基準に通用するゴルフ場へと大改修
もと浅野造船所の重役であった加藤良氏が、華族の社交場であったゴルフ倶楽部を庶民のために「平等で自由にして民主的且つ、エチケットマナーを重んじるゴルフ倶楽部」にしたいという信念で1930年に創立したところから始まった。

日本人によるゴルフ場設計の草分けと言われる赤星六郎氏の設計思想は、プリンストン大学留学を含め米国滞在中に特にドナルド・ロスなどの東海岸のクラシックコースに触れることで影響を受けており、利根川と手賀沼に挟まれた地形を巧みに生かして完成されたコースは、戦略性の高い関東屈指の名コースとなった。

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やがて、名物の深いバンカーや小さなグリーンで鍛えた選手達がゴルフ界を席巻し、林由郎や青木功などの小技が上手なプレースタイルが「我孫子流」と呼ばれるまでになった。

「日本女子アマチュア選手権」、「日本シニアゴルフ選手権」、「日本女子オープンゴルフ選手権」などの舞台となった日本を代表するコースだが、理想はワングリーンであるという考えのもと、100周年までに道具やボールの進化に対応し、新時代に通用する戦略性の高いコースへの改修を決断し、4年前に改修委員会を設立した。

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山神宮の大杉

千葉県我孫子市岡発戸1110
東葛伝説民話事典に文が残っているので電化する。林由郎、青木功など名プレイヤーを輩出した我孫子ゴルフ倶楽部は日本有数の名門ゴルフ倶楽部だ。昭和5年、当時の染谷正治我孫子町長が地元に住んでいた国際的に活躍したジャーナリスト杉村楚人冠に現在の東我孫子周辺の山林開発を相談したことが開設のきっかけであった。当時9番ホールで開場。翌年に18ホールが完成した。

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今も自然豊かな我孫子ゴルフ場だが、かつては色々な伝説を残している場所であった。馬頭観世音を祀ってあった観音山は小高い丘で老松と桜が多く、土地の者は桜の頃、ここで近在の人も交えて花見を楽しんでいた。

現在の5番ホールと8番ホールの間の松並木はその馬頭観世音堂への参道の名残とのことだ。その後、この観音堂4番ホールと5番ホールとの間にある明神山の山神宮の境内に遷された。山神宮は杣(そま)業を生業にしている人達が信仰を厚くしている大山咋命が祭神である。

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明神山には山神宮の他に明治42年に合祀された春日大明神社、八幡社、八坂社があった。昼なお暗く古木や大樹が鬱蒼と茂り、キツネやタヌキが住んでいた。地元の農家の人達は泣いたり、イタズラをしたりした時など「稲荷様がコンコンと鳴いて来ッゾ、しゃあめえやつだ」と、叱られたものだったと古老は語る。山神宮様の傍らに樹齢三百年ほどの大杉があり、御神木と呼ばれている。この大杉は何時の頃か、落雷のため焼け焦げてウロが中に出来ている。

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ゴルフ場の建築をしていた昭和5年の暮、数人の人夫達が休憩の間に伐り根や伐り枝などを集め焚き火をして暖を取っていた。突然、火が枯れ草に燃え広がり、その大杉のウロの中に火が入ってしまった。

ウロは空洞のため煙突となって、たちまちその御神木は三丈余(約9メートル)の高さのところから紅蓮の炎が吹き出し、折しも冬眠中のアオダイショウやマムシ、山かがしなど数十匹が苦しみ這い上がり、ウロの上部から飛び出してバタリ、バタリと音を立てて大杉の周りに落ち、白い目を見せて死んだ。

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ここの蛇は神様のお使いと恐れられていたこともあり、人夫達は大変驚いた。焚き火をした人夫の一人は理由がわからない病で亡くなったという。その後、ゴルフ場が開設されてプレイヤーの打った球がこの御神木のウロに引っかかったことがあった。

キャディは人が止めるのも聞かずに登ってその球を取ったところ、不思議なことにそのキャディも焚き火をした人夫と同じ運命をたどった。今、この大杉の存在を知る者は少なくなったが、杉の幹に注連縄が飾られ、毎年5月17日、山神宮で「さんじん様」の祭礼が行われる。ゴルフ場の職員、氏子、地元関係者ら40人が集まり詣でる。

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文を追加しておく
柏ICで降り、千葉・柏方面(16号線)へ進む。若柴交差点を左折し、1番目の信号(GS)を右折。道なりに進み6号線・JR常磐線のガードをくぐり北柏駅入り口交差点を過ぎ、1番目の交差点を左折。

約6.2km道なりに進み、出光GSの信号を左折。坂道を昇り、1番目の信号を右折し、356号線へ出たあと、200m先の1番目の信号を右折。道なりに700m先がコース。

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令和元年、八木南団地自治会

神輿渡御その
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加台の神輿会の方々に紹介いただきまして、八木村の開発具合を見学して、八木南団地自治会の神輿渡御に参加させていただきました。夜の神輿渡御という今まで経験したことのないような状況、良い経験をさせていただきました。場所が変われば持ち上げられる人間も変わってくる、この団地は戦後の一つの世代が引っ越してきた人達ではなく、子を産み育て実家の近くに分家した人なども多い。

ただ商店の方は、となると跡取り問題や経営の行き詰まり、どうしても大規模ショッピングセンターの存在などにより、一つの店舗では経営が成り立っていかなくなってしまい。この団地では廃店舗らしき建物をかなり見かけた。もっともイマドキは自家用車が一家に一台以上ある家庭も多いのでいくらでも買いに行けるという話ですが。

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八木郷発祥の地、八木村思井
流山市域の南部にあり、台地の東側斜面と前面に広がる低地、入り組んだ谷津からなる。思井のこの地区は元々八木村八ヶ村発祥の地と言われ紀州(今の和歌山県)から熊野神社を勧誘するために御札を頂いてきたが、その幣束のつつみに椎の木の種が入っていて神社境内に実生したと伝わる。

神社は以前は思井だけでなく芝崎、中、古間木、前平井、後平井、西平井、加の元八木八ヶ村で主守りしていたが、西平井、加が。次に後平井がそれぞれの地区に神社を祀ったので、現在残った5地区で主守りしている。椎の木は一村抜けると一本枯れると言われている。

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八木郷を含む荘園の風早庄(風早荘)は、現在の松戸市北部、流山市南部および三郷市を含み、松戸の風早神社を惣社(総代社)(創建:不 詳、祭 神:経津主命、武甕槌命、天児屋根命)としていました。この熊野神社は八木八区の鎮守であったとされています。

下総国は国府を葛飾郡(現.市川市)に設置。中世、葛飾郡に下河邊庄、下河邊野方庄、八幡庄、松戸庄、風早庄、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿 俣 庄、大結牧などの荘園が形成された。

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「シイの木」伝説

鳥居脇にあるシイの木と絡めて語られる
4、500年前、疫病が流行した際に、周辺8村あるいは8部落(思井、中、芝崎、古間木、前平井、後平井、西平井、鰭ケ崎)が相談して鎮守を迎えることに なり、紀州の本社、熊野神社から守札を受領。この守札を祀ろうとして取り出した際に、紛れ込んでいたシイの実が落ちたので、これを蒔いたところ8本(8幹)のシイの木(八木八幹)が成長。

そこで、そのシイの木を神木として扱うことにすると共に村を統合して、名称を八木村とした。その後いくつかの部落が自らの鎮守を持つようになると、幹が1本ずつ枯れ、5部落で5本の幹になったという。一方、周辺(松戸市、流山市、柏市)が平将門を射殺した際の矢に使われたとも伝えられる「小金ヶ原の矢竹」で知られるように矢竹の産地であっ たこ とから、「矢の木」が転訛したとの説もあるようです。

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流山市と千葉銀、観光振興で協定

利根運河の景観活用、古民家生きるまちへ
歴史的資源の古民家を観光誘客やまちづくりに生かそうと、流山市と千葉銀行は連携協定を結んだ。観光地づくりのかじ取り役を担う組織「DMO」の設立やその運営支援を通し、地域活性化に官民協働で取り組む。DMOは2020年度内の設立を目指す。

みりん醸造や水運で栄え、国の登録有形文化財の見世蔵や土蔵が残る流山本町と、近代化産業遺産で自然景観が豊かな利根運河。市はこの二つの地域への誘客を狙い、歴史的建造物の店舗に対する改装費や賃借料を補助。商家を使ったレストランや納屋を改装したカフェなどこれまでに9件を建物再生に活用した。

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一方、相続や事業継承の難しさ、修繕費の負担を理由に取り壊される建造物も多い。再生を働きかけても実現しなかった建物は10件ほどあり、歴史的景観が失われつつあるという。特に、利根運河沿いに古くからあり登録有形文化財に申請中の「割烹新川屋本館」の売却話は、行政だけでは対応できない現状を再認識する機会になったという。

景観が損なわれることを避けるため、市は5月、市土地開発基金を活用し約1億3千万円で土地、建物を購入。今後、観光拠点として整備する方針だ。市は「購入は異例の対応で、同じようなことを次はできない。DMOであればスピード感のある対応ができる。事業の柱として古民家再生に取り組みたい」と説明する。

ここは坂川なんだな
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千葉銀行は古民家活用チームの編成や、DMOが昨年8月に立ち上がった大多喜町で古民家を活用した観光振興に取り組んだ実績がある。流山市との協定は大多喜町に次いで2例目。

流山版DMOは構想段階だが、官民が出資し常勤の職員を2人程度配置することを検討する。井崎義治市長は「官民連携により市の観光資源が魅力あるものになると確信している」と期待を込めた。


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「流山の文化、崙のおかげ」

地域根差した出版たたえ「崙書房」に市感謝状
経営難で今月いっぱいで解散し、半世紀の歴史を閉じる流山市の地方出版社「崙(ろん)書房」の功績をたたえ、同市は24日、感謝状を贈った。同席した作家は「崙のおかげで流山の文化がある」と称賛した。感謝状を受け取ったのは社長の小林規一(のりかず)さん(72)をはじめ社員の金子敏男さん(71)、吉田次雄さん(68)。

井崎義治市長が「創業以来、地域に根差した出版物を数多く刊行し、地域文化の向上に貢献した」と三人をねぎらった。小林さんは「五十年に一年足りず、やめる決断に至った」と無念さをにじませながらも、「流山の崙書房を名乗ってきた。まちの景観や空気、支えてくれた人々、流山という場所に感謝の気持ちでいっぱい」と謝辞を述べた。

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最古参の金子さんは、自身も出版に携わった全六巻の「利根川図志」(赤松宗旦)を手に取り、経営難を乗り越えてきた時代を懐かしんだ。吉田さんは、著者の取材に同行しながら仕事を覚えた思い出を披露、「地域に愛された会社の一員として働けてうれしい」と話した。書き手として同社を支えた著者二人も同席。

作家のリーダー的存在で「新・利根川図志」などの著書がある旅行作家の山本鉱太郎さん(89)は「こんな出版社が田舎にあるのかと驚いた。崙と心中すると決めていたのに」と声を詰まらせた。

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熱心な読者から書き手に転じ、「牧」シリーズなどを出版した郷土史作家の青木更吉(こうきち)さん(86)は「小林さんにつつかれ、応援してもらって十五冊を書き上げることができた」と感謝した。崙書房は一九七〇(昭和四十五)年に創業。県内の歴史や自然、地理、人物などを取り上げた本を出版してきた。

七七年にスタートした新書サイズの「ふるさと文庫」は、地元の書き手が中心となって執筆、利根川、新選組、流山電鉄といった地域にまつわる題材を掘り下げた。シリーズは今年五月までに二百十七タイトルを数えた。しかし、同社の書籍を扱う地域の書店が相次いで廃業、読者の減少もあり売り上げが落ち込んでいた。

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「母になるなら、流山市。」

首都圏で大型ポスター広告を展開
千葉県流山市(井崎義治市長)は、人口減少、高齢化社会の中にあって、この10年間で人口は約3万人増え、30~40歳代の年齢人口ボリュームが一番多い、全国的にも稀有な自治体です。転入数から転出数を差し引いた転入超過数は、仙台市や千葉市等の大都市をおさえ、全国8位、政令市を除けば全国1位。

また、合計特殊出生率は1.57と、全国平均1.44をはるかに超え、子どもも増えています。流山市では、平成22年度より継続して首都圏駅で広告キャンペーンを行っています。子育て世代を中心に「共感した。」と多くの反響を呼び、あの広告が流山市に転入するきっかけのひとつだったと言われるほどです。

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「母になるなら、流山市。」には、子育てをしながら、自らの特技や好きなことを活かして流山市で夢を叶えてほしいとメッセージを込めています。縦1030mm×横2912mmと、横幅は約3メートルに及ぶ大型ポスターを採用。

東京都中央区より流山市に転入され、子育てと仕事をしながら、さらに自身の夢にも向かおうとする勝 和香(かつ わか)さんが今年の“流山市の顔”に決まりました。「母になること」は、やりたいことを制限されたり、あきらめることではなく、新たな可能性と出会えること。

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勝さんの笑顔や表情、子どもを見るまなざしから、それを表現しようと試みました。11月5日(月)より11日(日)まで首都圏駅に駅貼り広告を掲出します。特設PRサイトの公開は10月25日予定。

さらに同日から、東京メトロ千代田線、半蔵門線車内窓上ワイド広告を2週間展開、これと連動した特設PRサイトには、勝さんの活動内容や流山市への思い等を掲載します。

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米国人の国際交流員を任用
流山市は、欧米からの観光客の誘致を強化するため、海外向けの情報発信を担うアメリカ人の国際交流員を任用しました。流山市役所では、辞令の交付式が行われ、国際交流員として流山本町・利根運河ツーリズム推進課に任用されたユカ・ハマテさんに井崎義治市長から辞令が手渡されました。

アメリカカリフォルニア州から来日したハマテさんは、日本人の父親とマレーシア人の母親の間に生まれたハーフの30歳。父親の故郷で、自分のルーツでもある日本の魅力を発信したいと働いていた半導体メーカーを辞めて日本にやってきました。

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ハマテさんの任期は7月29日からの1年間で、外国人の視点を活かし市のイベントや観光スポットの魅力をSNSなどで海外に伝えるほか、市の観光客誘致策に助言するなど、市の職員として観光振興に取り組むということです。

流山市の国際交流員 ユカ・ハマテさん「まだ流山市全体をまわっていないが本町や利根運河を自分が探検して写真を撮ったり、ブログを書いたり、まずは家族や友人に薦めたい」

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小島英揮氏、徳力基彦氏が登壇

ビッグビートがBtoBマーケティングイベントを開催
ビッグビートは8月2日(金)に東京ミッドタウン日比谷 BASE QにてBtoBマーケティングイベント「Bigbeat LIVE」を開催する。セミナー参加費は無料。元AWSでコミュニティマーケティングを推進した小島英揮氏、ブロガーの徳力基彦氏や、sansan、ABEJA、大日本印刷やアドビなどの企業のマーケティング担当者や経営者が登壇する。

「母になるなら、流山市」のキャッチコピーが話題となり、常住人口推移が右肩上がりとなっている流山市・市役所マーケティング課 課長、河尻和佳子氏も「行政×マーケティング」をテーマに登壇予定だ。

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神社神道の生業としての神社の神職である神主や巫女によって行われるものは、日々の勤しみとしての祝詞や神楽がありこれらは祈りとしての祀りであり巫(かんなぎ)でもある、個人の祈願記念として祓いや地鎮祭などは、神社に依頼しされ神職によって行われる。

神仏習合のや他の宗教との習合や影響で、神道の神事には密教・仏教を初めとし時には儒教など、特に道教の陰陽五行思想などを由来とするものもある。

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神を供応する形式の祭では、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会などを神事とすることが多く、最も重要な神事は神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為であることが多い。

神意を伺う行為には間接的なものもあり、神前での相撲などの結果如何で吉凶を占う神事もある。このような行為の宗教的な意味合いは強く意識されていないが、同じようなものが多くあり、流鏑馬、競馬(くらべうま)などの競技や、物や動物を使ったものがある。

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毎年家の代表として神社の神事を流山に住む人間同士で行い、これを何十年と繰り返してウチの親父は生きてきた。もっともこれを特別な事とも思わない人もいれば、休みの日にわざわざそんなとこに出ていくなんてよっぽどヒマでやることないんだな。って斜めにしか見られない人も当然のように存在する。しかし、価値を理解できる人間が必要。

未来は何年も前から決まっている、組織は計画性を持って動いているからだ。実際につくばエクスプレス開業も決定してから、バブル崩壊など時期的に遅れることはあったにせよ、無事開業に至った。そうなると何年も前から工事は進められていた。俺がこの家の跡取りとして決まってから既に30年以上経っている、将来絶対に順番は回ってくる。

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ここは最後の休憩
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ここは灯りがあるから
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何枚か撮っておく
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ここからクライマックス
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広場に帰ってきた
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祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。

農耕社会においては、収穫祭が古いものであるが、その他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える。『金枝篇』に載せられている例でいえば、ヨーロッパのキリスト教以前の色を濃く留めている風習の一つで、収穫した穀物を使い人形状のパンまたはクッキー(人体の象徴)を作り、分割する祭礼があり、聖餐との類似が指摘できる。

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キリスト教仏教などの世界宗教にも祭礼がみられるが、教義より儀式慣習によるところが大きい点で、祭の要素は、本質的に民族宗教に顕著であるともいえる。狩猟民族でも、獲物を捧げ豊猟を祈願する儀礼がみられる(熊送りなど)。

また、先にも述べたが、キリスト教の復活祭ボロブドゥール遺跡で行われているワイシャックのように、キリスト教・仏教などの世界宗教に基づく祭りもある。一方、アングロ・サクソン諸国ハロウィーンなどのように、世界宗教以前の信仰に基づくものや世界宗教が伝来した各地で習合した形で伝わっている事例もある。

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「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。

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「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

祀り」は、(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男福娘弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。


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その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。


この祀りは神楽(かぐら)などの巫女太神楽などの曲芸獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿るが、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神地蔵供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。

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祭り」は御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は、漢字の本来の意味において葬儀のことであり、現在の日本中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。

古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。

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奉り」は、奉る(たてまつる)とも読み。献上や召し上げる・上に見るなどの意味もあり、一般的な捉え方として、日本神話の人格神(人の肖像と人と同じような心を持つ日本創世の神々)や朝廷公家に対する行為をさし、これは、神社神道の賽神の多くが人格神でもあるが、皇室神道に本質がある「(みこと)」に対する謙譲の精神を内包した「まつり」である。

その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦にあるように釣針(古くはも釣針も一つの概念であった)や弓矢は、(さち)といい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。

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古くから漁師猟師は、獲物(えもの)を獲る(える)と神々の取り分として、大地にその収穫の一部を還した。このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なりわい)から、現在の醸造酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にもあり、地鎮祭上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり、この二つの「まつり」が一致した祭政一致といわれるものであったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ。

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古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政したといわれ、平安時代には神職が道教陰陽五行思想を取り込み陰陽道陰陽師という思想と役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。

またこうした政と祭りに一致は中央政府に限らず、地方や集落でも、その年の吉凶を占う祭りや、普請としての祭りが行われ、「自治としての政」に対し資金調達や、吉凶の結果による社会基盤の実施の時期の決定や執政の指針とした。

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そして代表者が締め

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そしてせっかくだから
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何枚か撮っておいて
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戦国時代、流山、柏、松戸、沼南、我孫子の一帯は、小金城主高城氏の支配下にあった。天正18年(1590)この小金城は浅野長政らによってあえなく落城となるのであるが、その時小田原城に加勢篭城していた高城氏に変わって、小金城の留守を預かっていたのは安蒜備前守、平川若狭守、吉野縫殿介以下二百騎三百名だったという。小金城落城後、これらの重臣たちはそれぞれの地に戻ったが、その中の一人吉野縫殿介は流山の芝崎に戻り定着した。

吉野家は以来四百年続き、現在の当主吉野縫殿介さんで十八代目
(※吉野家の豪華な山門は八木村芝崎と言うよりも、宮園から富士見橋に向かう道沿いに、屋敷までの通路が、本当にポッカリと穴が開いているのが見付かるかと思う。一度興味があったから入ってみると、本当に立派な山門があった。近くを通る人に聞いたら上の道に行けるというので旧道八木道まで通ってみたが、一度は行ってみることをオススメする。)

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そしてこの団地の地主は芝崎村名主吉野家という事を知る。この吉野家も農協で活躍されていたそうで、同世代の秋元大吉郎も親しくしていたんだと、世間話をしたオヤジが言っていた。そうなると商工会議所ではウチのジーサンが現役時代という事、俺の目線にはとても大事な話だ。

それだけでなく、俺の生まれた年、昭和56年に八木中が開設され、俺の学生時代を送った平成一桁の時代には八木中だが、ウチの親父の時代には南部中の学区。そういえば元八木地区に住んでいる四ツ葉会の人は来なかったな。

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令和元年、八木南団地自治会神輿渡御、無事終了

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令和元年、八木南団地自治会

神輿渡御その1
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この日は幼稚園の前で手を合わせる所からスタート、今の俺は葬式に出るような身分じゃないけど、戦後の復興と今の流山に繋がる旧流山町を支えた人達がいたことを歴史を調べている俺は感じてもいいだろう。明治末期生まれの岡本静江さんの子供だから昭和一桁ぐらいだと思ってあづまやのバーサンに聞いたらピッタリ同級生なんだってよ。

昔は一緒に遊んだりもしたけど、偉くなっちゃったりしたら、どうしても合わなくなって行って、それっきりだそうだ。これはしょうがないのかもしれない。生まれる家が違えば将来性も当然の事ながら変わってくる。俺も保護司の孫で子供だから、捕まるような人が増えてくると、関係を切っていく事も多い。ただでさえ赤城神社の神社委員は決まっている。

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ここから八木村
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そしてケーヨーデイツー
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デイツーの中を通ると近道
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ここは駅の向こう側
鉄道の新駅(というよりもつくばエクスプレス開業自体が新線)により、需要と供給を計算し、駅前になる土地を大規模開発区画造成、豊四季から、又はおおたかの森方向からの新しい道路が整備され、周辺農地を新築住宅が建てられる状態まで整備する。これは路線は違うが南流山駅でも南柏でも江戸川台でも同様なことが言える。

旧道八木道の方じゃなく内側に区画整理で引っ掛かった家が新しくて広い新築住宅を建てている。この日、八木南団地という地区を新たに見学させていただいたが、駐車場を一ヵ所にまとめるなど、流山本町とは違った環境が見て取れた。ウチらが普段自治会館に集まっているのが、八木村の各地区だとコミニティーホームになるのか。

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向こうには旧道八木道
道を越えると芝崎、という事は芝崎村名主吉野家の存在もあるということ。この吉野家も旧流山町の岡本家も、ひいては秋元大吉郎元市長も元々は豪農。戦前、戦後と地域社会を支えたのは、しっかりとした家柄で、深く故郷を知っていた人物。大規模農家の大地主、農家同士の連携もあり、このような人達によって日本の経済成長は支えられた。

戦国時代、流山、柏、松戸、沼南、我孫子の一帯は、小金城主高城氏の支配下にあった。天正18年(1590)この小金城は浅野長政らによってあえなく落城となるのであるが、その時小田原城に加勢篭城していた高城氏に変わって、小金城の留守を預かっていたのは安蒜備前守、平川若狭守、吉野縫殿介以下二百騎三百名だったという。

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小金城落城後、これらの重臣たちはそれぞれの地に戻ったが、その中の一人吉野縫殿介は流山の芝崎に戻り定着した。吉野家は以来四百年続き、現在の当主吉野縫殿介さんで十八代目。

吉野家の豪華な山門は八木村芝崎と言うよりも、宮園から富士見橋に向かう道沿いに、屋敷までの通路が、本当にポッカリと穴が開いているのが見付かるかと思う。

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第三コミュニティーホーム
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そして八木中
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この酒屋の間を降りていく
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ここが会場の公園
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会場に着くと神輿の組み立て
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そろそろ出来上がり
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自治会館も結構立派
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出店もそれなり
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ここからはカラオケ
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そして笠原久恵議員
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流山市と千葉銀、観光振興で協定

利根運河の景観活用、古民家生きるまちへ
歴史的資源の古民家を観光誘客やまちづくりに生かそうと、流山市と千葉銀行は連携協定を結んだ。観光地づくりのかじ取り役を担う組織「DMO」の設立やその運営支援を通し、地域活性化に官民協働で取り組む。DMOは2020年度内の設立を目指す。

みりん醸造や水運で栄え、国の登録有形文化財の見世蔵や土蔵が残る流山本町と、近代化産業遺産で自然景観が豊かな利根運河。市はこの二つの地域への誘客を狙い、歴史的建造物の店舗に対する改装費や賃借料を補助。商家を使ったレストランや納屋を改装したカフェなどこれまでに9件を建物再生に活用した。

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一方、相続や事業継承の難しさ、修繕費の負担を理由に取り壊される建造物も多い。再生を働きかけても実現しなかった建物は10件ほどあり、歴史的景観が失われつつあるという。特に、利根運河沿いに古くからあり登録有形文化財に申請中の「割烹新川屋本館」の売却話は、行政だけでは対応できない現状を再認識する機会になったという。

景観が損なわれることを避けるため、市は5月、市土地開発基金を活用し約1億3千万円で土地、建物を購入。今後、観光拠点として整備する方針だ。市は「購入は異例の対応で、同じようなことを次はできない。DMOであればスピード感のある対応ができる。事業の柱として古民家再生に取り組みたい」と説明する。

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千葉銀行は古民家活用チームの編成や、DMOが昨年8月に立ち上がった大多喜町で古民家を活用した観光振興に取り組んだ実績がある。流山市との協定は大多喜町に次いで2例目。

流山版DMOは構想段階だが、官民が出資し常勤の職員を2人程度配置することを検討する。井崎義治市長は「官民連携により市の観光資源が魅力あるものになると確信している」と期待を込めた。

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「流山の文化、崙のおかげ」

地域根差した出版たたえ「崙書房」に市感謝状
経営難で今月いっぱいで解散し、半世紀の歴史を閉じる流山市の地方出版社「崙(ろん)書房」の功績をたたえ、同市は24日、感謝状を贈った。同席した作家は「崙のおかげで流山の文化がある」と称賛した。感謝状を受け取ったのは社長の小林規一(のりかず)さん(72)をはじめ社員の金子敏男さん(71)、吉田次雄さん(68)。

井崎義治市長が「創業以来、地域に根差した出版物を数多く刊行し、地域文化の向上に貢献した」と三人をねぎらった。小林さんは「五十年に一年足りず、やめる決断に至った」と無念さをにじませながらも、「流山の崙書房を名乗ってきた。まちの景観や空気、支えてくれた人々、流山という場所に感謝の気持ちでいっぱい」と謝辞を述べた。

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最古参の金子さんは、自身も出版に携わった全六巻の「利根川図志」(赤松宗旦)を手に取り、経営難を乗り越えてきた時代を懐かしんだ。吉田さんは、著者の取材に同行しながら仕事を覚えた思い出を披露、「地域に愛された会社の一員として働けてうれしい」と話した。書き手として同社を支えた著者二人も同席。

作家のリーダー的存在で「新・利根川図志」などの著書がある旅行作家の山本鉱太郎さん(89)は「こんな出版社が田舎にあるのかと驚いた。崙と心中すると決めていたのに」と声を詰まらせた。

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熱心な読者から書き手に転じ、「牧」シリーズなどを出版した郷土史作家の青木更吉(こうきち)さん(86)は「小林さんにつつかれ、応援してもらって十五冊を書き上げることができた」と感謝した。崙書房は一九七〇(昭和四十五)年に創業。県内の歴史や自然、地理、人物などを取り上げた本を出版してきた。

七七年にスタートした新書サイズの「ふるさと文庫」は、地元の書き手が中心となって執筆、利根川、新選組、流山電鉄といった地域にまつわる題材を掘り下げた。シリーズは今年五月までに二百十七タイトルを数えた。しかし、同社の書籍を扱う地域の書店が相次いで廃業、読者の減少もあり売り上げが落ち込んでいた。

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「母になるなら、流山市。」

首都圏で大型ポスター広告を展開
千葉県流山市(井崎義治市長)は、人口減少、高齢化社会の中にあって、この10年間で人口は約3万人増え、30~40歳代の年齢人口ボリュームが一番多い、全国的にも稀有な自治体です。転入数から転出数を差し引いた転入超過数は、仙台市や千葉市等の大都市をおさえ、全国8位、政令市を除けば全国1位。

また、合計特殊出生率は1.57と、全国平均1.44をはるかに超え、子どもも増えています。流山市では、平成22年度より継続して首都圏駅で広告キャンペーンを行っています。子育て世代を中心に「共感した。」と多くの反響を呼び、あの広告が流山市に転入するきっかけのひとつだったと言われるほどです。

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「母になるなら、流山市。」には、子育てをしながら、自らの特技や好きなことを活かして流山市で夢を叶えてほしいとメッセージを込めています。縦1030mm×横2912mmと、横幅は約3メートルに及ぶ大型ポスターを採用。

東京都中央区より流山市に転入され、子育てと仕事をしながら、さらに自身の夢にも向かおうとする勝 和香(かつ わか)さんが今年の“流山市の顔”に決まりました。「母になること」は、やりたいことを制限されたり、あきらめることではなく、新たな可能性と出会えること。

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勝さんの笑顔や表情、子どもを見るまなざしから、それを表現しようと試みました。11月5日(月)より11日(日)まで首都圏駅に駅貼り広告を掲出します。特設PRサイトの公開は10月25日予定。

さらに同日から、東京メトロ千代田線、半蔵門線車内窓上ワイド広告を2週間展開、これと連動した特設PRサイトには、勝さんの活動内容や流山市への思い等を掲載します。

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米国人の国際交流員を任用
流山市は、欧米からの観光客の誘致を強化するため、海外向けの情報発信を担うアメリカ人の国際交流員を任用しました。流山市役所では、辞令の交付式が行われ、国際交流員として流山本町・利根運河ツーリズム推進課に任用されたユカ・ハマテさんに井崎義治市長から辞令が手渡されました。

アメリカカリフォルニア州から来日したハマテさんは、日本人の父親とマレーシア人の母親の間に生まれたハーフの30歳。父親の故郷で、自分のルーツでもある日本の魅力を発信したいと働いていた半導体メーカーを辞めて日本にやってきました。

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ハマテさんの任期は7月29日からの1年間で、外国人の視点を活かし市のイベントや観光スポットの魅力をSNSなどで海外に伝えるほか、市の観光客誘致策に助言するなど、市の職員として観光振興に取り組むということです。

流山市の国際交流員 ユカ・ハマテさん「まだ流山市全体をまわっていないが本町や利根運河を自分が探検して写真を撮ったり、ブログを書いたり、まずは家族や友人に薦めたい」

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小島英揮氏、徳力基彦氏が登壇

ビッグビートがBtoBマーケティングイベントを開催
ビッグビートは8月2日(金)に東京ミッドタウン日比谷 BASE QにてBtoBマーケティングイベント「Bigbeat LIVE」を開催する。セミナー参加費は無料。元AWSでコミュニティマーケティングを推進した小島英揮氏、ブロガーの徳力基彦氏や、sansan、ABEJA、大日本印刷やアドビなどの企業のマーケティング担当者や経営者が登壇する。

「母になるなら、流山市」のキャッチコピーが話題となり、常住人口推移が右肩上がりとなっている流山市・市役所マーケティング課 課長、河尻和佳子氏も「行政×マーケティング」をテーマに登壇予定だ。

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神社神道の生業としての神社の神職である神主や巫女によって行われるものは、日々の勤しみとしての祝詞や神楽がありこれらは祈りとしての祀りであり巫(かんなぎ)でもある、個人の祈願記念として祓いや地鎮祭などは、神社に依頼しされ神職によって行われる。

神仏習合のや他の宗教との習合や影響で、神道の神事には密教・仏教を初めとし時には儒教など、特に道教の陰陽五行思想などを由来とするものもある。

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神を供応する形式の祭では、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会などを神事とすることが多く、最も重要な神事は神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為であることが多い。

神意を伺う行為には間接的なものもあり、神前での相撲などの結果如何で吉凶を占う神事もある。このような行為の宗教的な意味合いは強く意識されていないが、同じようなものが多くあり、流鏑馬、競馬(くらべうま)などの競技や、物や動物を使ったものがある。

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毎年家の代表として神社の神事を流山に住む人間同士で行い、これを何十年と繰り返してウチの親父は生きてきた。もっともこれを特別な事とも思わない人もいれば、休みの日にわざわざそんなとこに出ていくなんてよっぽどヒマでやることないんだな。って斜めにしか見られない人も当然のように存在する。しかし、価値を理解できる人間が必要。

未来は何年も前から決まっている、組織は計画性を持って動いているからだ。実際につくばエクスプレス開業も決定してから、バブル崩壊など時期的に遅れることはあったにせよ、無事開業に至った。そうなると何年も前から工事は進められていた。俺がこの家の跡取りとして決まってから既に30年以上経っている、将来絶対に順番は回ってくる。

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暗くなっていく

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毎年8月28日、揖夜神社の穂掛祭

島根県松江市東出雲町
毎年8月28日に行われる揖夜神社の穂掛祭は神前にお供えをして田の神に感謝する祭りです。西揖屋から神社までの陸路約1kmを名物の鈴なり提灯を連ね、美装した舟行列が町中を練り歩き、大変にぎわいます。

穂掛祭は近郊近在に名の知れた賑やかな祭礼です。その年実った稲穂を榊に掛けて穂掛榊を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭です。この後、神宮や氏子達に護られた御神輿は、近くの灘から神船に移され、海路崎田鼻の神石「一つ石」へむかわれます。その神船は、満艦飾の各町内のお供船が一列に並んで曳航する例になっています。「一つ石」での豊作豊漁祈念の祭事が終わると、神船は夕方西揖屋の西端の灘に到着されます。
 
夜になって東へ向かわれる陸路の還幸行列がこの祭の賑わいの最高潮です。露天の並ぶ神社までの道を、鈴なり提灯を先導に、各町内が笛太鼓の囃子方を乗せた屋台車を中心とした行列で通り、沿道は大勢の人でにぎわいます。

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毎年8月28日に行われる「穂掛祭」は、その年稔った稲穂を榊(さかき)に掛けて穂掛榊(ほかけさかき)を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭です。この祭は海上と陸上の二つの祭りに分けられます。

海上の祭は「一つ石神幸祭」と呼ばれます。夕刻になると揖夜神社から、神官や氏子達に譲られた御神輿(おみこし)が出発し、近くの灘から神舟に移されます。海路崎田鼻の神石「一つ石」へ向かうと「一つ石」での豊作豊漁祈念の祭事が執り行われ、終わると神舟は夕方西揖屋の西端の灘に到着します。

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陸上の祭はその続きとなり、夜には東へ向かう陸路の還幸(かんこう)行列がこの祭の賑わいの最高潮となります。各町内は笛太鼓の囃子方(はやしかた)を乗せた屋台車を中心に、鈴成提灯や幟を押し立てて先導し、人々は行列となって御神輿の後に従います。道路の両側にたくさんの露店がありその間を大行列が通る姿は、東出雲町の夏の風物詩となっています。

前日27日に神職たちは中海の袖師ヶ浦で禊をしたあと、社務所で甘酒や焼米などの神饌を作る。当日には午前中の祭礼の後に用意した神饌を境内75箇所に奉る。盛大は船神事と美しい鈴成提灯が幻想的な一夜を演出します。当日は周辺に交通規制がかかりますのでご注意ください。

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揖夜神社(いやじんじゃ)は島根県松江市東出雲町揖屋に鎮座する神社である。意宇六社の一つ。旧社格は郷社、後に県社となる。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。また隣接する安来市の比婆山には関連神蹟として古事記に記された伊邪那美神のご神陵がある。

『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。神階は『日本三代実録』によれば貞観9年(867年)に従五位上、貞観13年に正五位下に昇叙されたとある。

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神社に所蔵された文書によれば南北朝時代には「揖屋大社」と称し、戦国時代から「揖屋大明神」と称していた。平安時代末から南北朝時代まで荘官として派遣されていた大宅氏が「別火」と呼ばれた神職に就き当社を支配した。室町時代以降は出雲国造の命を受けて神魂神社の神職の秋上氏が神主を兼任していた。江戸時代には井上氏が別火となり現在に至っている。現在でも造営にあたり出雲国造家から奉幣を受ける。

祭神は伊弉冉命(イザナミ)つまり日本版アダムとイブのイブにあたる国生み・神生みのお母さまですね。この神社のすぐ近くにある黄泉の国(死後の世界)への入り口が「黄泉比良坂(よもつひらさか)」です。「伊賦夜坂(いぶやざか)」とも呼ばれています。

古事記によると、この世界を作る時(天地開闢 てんちかいびゃく)に混沌とした中から沢山の神様たちが次々と登場しますがなかなか上手くいきません。最初は性別の無い神様たち、続いて男女の性別のある神様たちがチャレンジしますがなかなか上手く行かず、初めて成功(性交?)したのがイザナギ(男神)とイザナミ(女神)です。

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豊漁祈念と同時開催される

田の神様への感謝の祭り
東出雲町(ひがしいずもちょう、現・松江市)にある揖夜神社では、毎年8月28日に穂掛祭が開催されています。穂掛祭は、その年実った稲穂を榊に掛けて穂掛榊を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭りで、同日に行われる海路崎田鼻の神石「一つ石」で豊作豊漁祈念の祭事が終わると、神社までの道を、鈴なり提灯を先導に、各町内が笛太鼓の囃子方を乗せた屋台車を中心とした行列で通り、沿道は大勢の人でにぎわいます。

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毎年8月27日、「諏訪神社鎌打ち神事」

石川県鹿島郡中能登町金丸
「諏訪神社鎌打ち神事」は、毎年8月27日に金丸の諏訪神社と藤井の住吉神社で行われる神事で、神木(タブの木)の前で風鎮祭を行い、新稲穂と2丁の左鎌を奉納した後、神木に鎌を打ち込み、五穀豊穣、無病息災を願う。神木タブノキに鎌を打ち込んで、五穀豊穣や無病息災を祈るお祭りです。

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能登の諏訪祭りの鎌打ち神事

七尾市江泊町、中能登町金丸、中能登町藤井
信州の諏訪大社を総本社とする諏訪神社には、本殿を設けず神木を祀って特殊神事を行い、古い諏訪信仰を伝承するところがある。特に能登の次の3社の鎌打ち神事を中心とする伝承は、民俗学的に注目されるのである。

(1)七尾市江泊町日室の諏訪神社
8月25日に権現迎えと称して、七尾で打たせた2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する。27日に、その鎌を山頂の諏訪神社に遷して風鎮祭を行ってから、その鎌を当元が拝殿後方のタブの老樹に打ち込む。鎌は約20センチ、魚形を呈する。

(2)中能登町金丸の鎌宮(かまのみや)諏訪神社
境内奥のタブの神木を祀り社殿はない。8月27日は前方にゴザを敷いて風鎮祭を行う。かつては同地の旧家が2挺の左鎌(約22センチ)を奉納 し、これにシデと稲穂をつけて神前に供え、祭典後、当番代表が神木に鎌を打ち込む。

(3)中能登町藤井の住吉神社に合祀の諏訪神社
諏訪神社は建物がなくヤマサカキの老樹を祀っていたが、明治40年住吉神社に合祀された。しかし合祀後も風鎮祭を継承し、8月27日住吉神社にて祭典後、神職・区長が境内のタブの巨樹に2挺の鎌(約27センチ)を打ち込んでいる。

鎌は諏訪明神のシンボルとされ、信州の諏訪大社では薙鎌(なぎがま)と称し、今も分社の神霊として薙鎌が授与され、7年目ごとの御柱祭の御柱には薙鎌を打ち込む古例を伝えているが、一般には鎌打ちの行事はほとんど見られなくなった。したがって、能登の鎌打ち神事は諏訪信仰の伝承をよく伝えたものとして注目される。

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諏訪神社鎌打ち神事由来
神代の時代、大国主命、少彦名命と共に邑知潟(ろうちがた)周辺を平定されたとき、建御名方命が弥柄(やえ)鎌の利鎌(とがま)を持って、生い茂る葦原を薙ぎ倒し刈り分けて害虫・害鳥悉(ことごと)く退治され、二神を先導し給いて、そこを拓く神功を立てられた。

その時の鎌が左鎌であったと言う。それから年を経て大変な凶作にあったとき、古事に従い、タブの木を神木として祭り、左鎌を打ち込んでお祈りをしたのがこの祭りの始まりと言われている。この祭りは石川県の無形文化財に指定されており、祭礼日は毎年八月二十七日(昔は七月二十七日)と定められ、お諏訪様祭り・鎌祭り、あるいは風鎮祭と呼ばれて親しまれてきた。

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神事次第
毎年二丁の左鎌(雄鎌・雌鎌)を注文して造り、祭壇に利鎌と金鎚・種々の山の幸・海の幸を供え祭典が執行される。その後、社殿右側に茂る推定樹齢三百年以上の椨(たぶ)の木に一丁目は神職、二丁目は区長によって打ち込まれる。続いて参詣している区民が一打ちずつ心を篭めて打ち込み、二百十日の無事と五穀豊穣・家族の無病息災を願うのである。いつの頃からか、その夜は盆踊りをして行く夏を惜しみつつ

「二十七日 お諏訪の祭り 雨が降らねば 風が吹く」
と唄われるようになった。この祭りは、あの苦しかった世界大戦中も途切れることなく藤井の里の人々によって守り継がれ、現在に至っているのである。

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町内2箇所の神社で石川県無形民俗文化財

鎌打ち神事が行われました
鎌打ち神事は、長野県の諏訪神社から受け継いだ神事で、ご神木のタブの木に神聖な左鎌(ひだりがま)2丁を打ち込むことで、台風などの天災を鎮めるといわれ、「風鎮祭(ふうちんさい)」や「鎌祭り」とも呼ばれています。

毎年、8月27日に藤井区の住吉神社と金丸区正部谷地区の鎌の宮諏訪神社で、古式にのっとり営まれています。このうち、正部谷地区の鎌の宮諏訪神社では、梶井重明(かじいしげあき)宮司による祝詞奏上に続き、橋本一成(はしもとかずなり)正部谷町内会長や杉本栄蔵町長らが玉串奉天を行いました。

ご神木の注連縄を張り替えたあと、烏帽子に狩衣(かりぎぬ)を身につけた今年の宮当番 小山外紀(こやま そとのり)さんが、高さ3メートルの位置まではしごに登り、多くの地区住民が見守る中、御幣や水引で飾りつけられた鎌を打ち込んでいきました。



姉妹都市、石川県能登町
平成24(2012)年1月17日、流山市の市制45周年の節目に、姉妹都市の盟約を結びました。能登町は、平成17(2005)年、能都町・柳田村・内浦町が合併して誕生しました。

石川県の北部、日本海に突き出した能登半島に位置し、朝市で有名な輪島市に隣接しています。町の東~南側は富山湾に面し、その海岸線の大半は能登半島国定公園に含まれます。九十九(つくも)湾などの景勝地を有する海岸と、陸地の約8割を占める丘陵地で構成される町域は、緑豊かな「里山・里海」の風景を今に残しています。

古くから漁業や商業で栄え、新鮮で多様な海の幸や、揚げ浜という伝統製法で作られる天然塩などが特産となっています。平成15(2003)年7月に能登空港が開港したことから、首都圏から約1時間でのアクセスが可能になり、観光や活性化の追い風となっています。

【町制施行】 平成17(2005)年※合併
【 人  口 】 19,247人(平成27年1月1日現在)
【 面  積 】 273.46平方キロメートル



歴史と流山市とのつながり
江戸時代には、加賀百万石で知られる前田家の所領に組み込まれ(一部を除く)、その頃には水運を生かした商業などで栄えていた能登町。合併前の旧内浦町には、古くからの酒造りの技を受け継ぎ、日本四大杜氏に数えられる「能登杜氏」が生まれ、時代が下るにつれその酒造技術を生かし全国で活躍するようになりました。

昭和初期には、白みりん発祥の地として醸造業がさかんであった旧流山町に、能登杜氏をはじめとした旧内浦町民が数多く移り住むようになりました。こうした繋がりから、昭和60年ころからは流山市民・旧内浦町民の間での交流が活発に行われるようになり、合併により能登町が誕生したのちも友好関係を醸成させてきました。
 
東日本大震災の発生により飲料水の確保が困難となった際には、能登町からいち早く「のと海洋深層水」が支援物資として届けられ、流山市民の大きな助けとなるなど、多方面で信頼関係を深めています。



里山里海の風土
平成23(2011)年6月には、「能登の里山里海」(能登町を含む4市4町)が、国連食糧農業機関(FAO)が定める「世界農業遺産」に認定されました。景観や伝統的な農林漁法、文化・祭礼などが評価されたもので、能登町では、農家民宿の集落でもある「春蘭の里」の豊かな里山景観などが該当しています。

祭りの王国
古から受け継がれた祭りが年間を通じてさかんに開催される能登半島。特に夏は祭りのシーズン、能登の祭りの主役はキリコと呼ばれる大きな奉燈です。能登町の「あばれ祭」は毎年7月、2日間にわたって繰り広げられ、高さ7メートルのキリコ40本以上が大松明の火の粉の中を乱舞する迫力を楽しめます。その昔、悪病が蔓延したときに盛大な祭礼をしたところ、神霊が病人たちを救ったのが始まりと伝えられていて、2基の神輿を海や川に投げ込むなど個性的な神事が、今も連綿と受け継がれています。

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