昭和17年8月31日、青木功誕生日
千葉県我孫子市出身のプロゴルファー
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共にAON (エーオーエヌ) と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位である。
我孫子ゴルフ倶楽部
作者青木功、勝負論 (新潮新書)
五十年闘ってきたプロ中のプロが、負けない術、「自分本位に考える」法、良い流れのつかみ方などを惜し気もなく明かす。一流と二流の差は?稼げる条件は?スランプから立ち直るには?真のライバルとは?競争心、闘争心、挑戦心、好奇心を原動力に今も挑戦を止めない「世界のアオキ」が語り尽くした勝負の核心。
プロゴルファー・青木功さんが2014年に『週刊新潮』に連載されていた「おれのゴルフ」を一冊にまとめたものです。青木功さんは、現在73歳。膝の手術によるブランクから復帰され、いまも現役のプロゴルファーとしてシニアツアーで戦っておられます。
青木さんが賞金王を獲得したり、ハワイアンオープンで優勝したりしていた時代、僕はけっこう日曜日の夕方にゴルフ中継を観ていたんですよね。当時はテレビゲームもレンタルビデオもない時代で、その時間にやっているテレビ番組のなかで、いちばん面白かったのが、ゴルフ中継だったから。
のちに自分でクラブを握ってみて、あまりの難しさに驚いてしまったのですが(ベタですけど「止まっているボールを、なぜまともに打てないんだ……って思うんですよ)、当時は、青木さんや尾崎将司、中島常幸選手などがしのぎを削っていたのです。
そのなかでも、なぜか僕は青木功選手を贔屓にしていました。あの飄々とした、人を食ったような雰囲気と、それでいて勝負には妥協しない姿勢が好きで。関東出身で結婚してから九州にやってきた僕の母親が、青木さんのざっくばらんな喋りを聞くたびに、「ああ、なんだかこの人が喋るのを聞いていると、故郷にいるみたい」と喜んでいたのが影響しているのかもしれません。
この新書のなかで、青木さんは、これまでのプロゴルファーとしての人生や、自分のゴルフに対しての姿勢について振り返っておられます。そして、まだまだ好きなゴルフを続けていきたい、ということも。好きなゴルフをやって生活していけて羨ましいな、と思いがちなのですが、プロゴルファーというのも、そんなにラクな稼業ではないのです。
晴れてプロテストに合格してもすぐにトーナメントに出場できるわけではない。日本には約5000人のプロゴルファーがいるのだけれど、試合に参加するには更にツアーを管理するJGTO(日本プロゴルフツアー機構)の予選を勝ち上がる必要がある。その中でツアーに参戦できる選手は200人にも満たないというから、本当に狭き門なのである。
何とかツアーへ出場できるようになっても、トーナメントの賞金だけで生活していける選手はごく僅か。そりゃあ、優勝すれば数千万円もの大金がドカッと入ってくるが、それは百数十人の中の1人だけ。予選落ちすれば賞金はゼロ。交通費はもちろん、宿泊代、キャディ費などの経費を支払うと大赤字になる。
それだけじゃない。賞金ランキング60位以内のシード選手でも、経費や税金などを差し引くと年収は400万円ぐらい。一部の選手を除いて稼ぎの安定しない現実を考えると、華やかに映るプロの世界は、とても「毎日ゴルフできて楽しい」とは言っていられないのだ。
しばらく前に、石川遼選手の年間数億円という収入が話題になっていましたが、プロゴルファーの中で、そんなに稼げる人は、ごくひとにぎりなのです。これを読んでいて驚いたのは、プロゴルファーの中でも、プロ野球であれば一軍クラスであろうシード選手になっても、年収は400万円ぐらいということでした。
野球やサッカーのプロ選手に比べれば、選手寿命は長めだし、レッスンプロといった仕事もあるとはいえ、ほんとうに「ごく一部の超高収入者と、それ以外」の世界なんですね。「賞金ランキング60位くらいの選手の名前を言ってみて」と問われても、たしかに、ひとりも思い浮かばないのだけど……青木選手は、「ゴルフとの出会い」を、こんなふうに振り返っています。
思い返すと、おれがゴルフという存在を知ったのは中学校1年生の夏休みのことだった。千葉県我孫子市の家の近くにあった『我孫子ゴルフ倶楽部』で、キャディやボール拾いをすれば金がもらえると聞いて通いだしたのだ。ゴルフそのものに興味を持ったわけではないし、何か特別に買いたい物があったわけでもない。ただ、その小遣いでお腹を満たしたいだけだった。
その頃はまだゴルフをやったことがないから、見ていて「あんな小さなボールを打って楽しいんだろうか」なんて不思議に思っていた。そんなある日のことだ。キャディに付いたお客さんがあまりにもチョロを連発するので、堪え切れずに目の前で「クスッ」と笑ってしまった。すると、そのお客さんがラウンド後におれを練習場へ連れて行き、クラブを差し出して「ボールを打ってみろ」と言う。
おれは小学生から野球をやっていたので、止まっているボールなんて簡単に打てると思っていたら、なんと、尻もち寸前の大空振りをした。その後も「おかしいな」と首を傾げて何度もトライしたが、1発もまともに当たらない。それで今後はそのお客さんに笑われてしまった。
それがもう、あまりに悔しくてね。以来、「ちゃんと飛ばせるまでやってやる」と、ゴルフにのめり込んだわけ。考えてみれば、あのお客さんに出会わなければ、おれはゴルフをしていなかったかもしれない。
このお客さんは、中学生に笑われて、ちょっとムカッとしてやらせてみたのだと思います。でも、それがきっかけになって、「世界のアオキ」が生まれた。人生というのは不思議なもの。青木選手は、「最初にうまくいかなかったからこそ、のめり込んでいった」のだよなあ。また、この本には、道具へのこだわりなども書かれているんですよね。
振り返れば、おれは、親父に買ってもらったクラブから現在使っている「テーラーメイド」社のクラブに至るまで、自分で手を加えなかったものは一つもない。ソールを削ったり鉛を貼ってバランスを変えたりと、理想のショットが打てるまでとことんいじってきた。
自宅にも工房がある。そこにはそれまで使ってきたクラブを始め、スパイクやボールなどゴルフに関わる全ての道具が保管してあって、同時にシャフトやグリップの交換など、クラブを調整するための機材も置いてある。どういうわけか、自宅にいるとおれは調整や修理をする必要がなくても、何となく工房へ入ってしまう。それだけクラブを触っていたいんだろうね。
このあと、青木さんは「最近の若いプロゴルファーが、何でもかんでもメーカーのクラフトマンに任せっきりで、自分でクラブ調整はしないらしい」ことに苦言を呈しています。なんだかもう、『プロゴルファー猿』みたいだなあ、と。青木選手は、とにかくゴルフが好きで、「すべてをゴルフのために」と考えているのです。
ツアー中に着るものも、奥様があらかじめコーディネートして「1日目はこれとこれ」などと、決めてくれているのだとか。青木さんの場合は、「どんな場合でも、手を抜かない習慣をつける」というのを重視していて、相手がアマチュアとかプロとかは関係ない、という感じみたいです。
ゴルフ好き、青木功好き、そして、海外で仕事をすることを考えている人にも、おすすめしたい新書です。好きなことをやって生きている人って、なんでこんなに魅力的なのだろう。巻末に、笑福亭鶴瓶さんとの対談が載っているのですが、その中に、こんなやりとりがあります。
我孫子ゴルフ倶楽部が
世界基準に通用するゴルフ場へと大改修
もと浅野造船所の重役であった加藤良氏が、華族の社交場であったゴルフ倶楽部を庶民のために「平等で自由にして民主的且つ、エチケットマナーを重んじるゴルフ倶楽部」にしたいという信念で1930年に創立したところから始まった。
日本人によるゴルフ場設計の草分けと言われる赤星六郎氏の設計思想は、プリンストン大学留学を含め米国滞在中に特にドナルド・ロスなどの東海岸のクラシックコースに触れることで影響を受けており、利根川と手賀沼に挟まれた地形を巧みに生かして完成されたコースは、戦略性の高い関東屈指の名コースとなった。
やがて、名物の深いバンカーや小さなグリーンで鍛えた選手達がゴルフ界を席巻し、林由郎や青木功などの小技が上手なプレースタイルが「我孫子流」と呼ばれるまでになった。
「日本女子アマチュア選手権」、「日本シニアゴルフ選手権」、「日本女子オープンゴルフ選手権」などの舞台となった日本を代表するコースだが、理想はワングリーンであるという考えのもと、100周年までに道具やボールの進化に対応し、新時代に通用する戦略性の高いコースへの改修を決断し、4年前に改修委員会を設立した。
山神宮の大杉
千葉県我孫子市岡発戸1110
東葛伝説民話事典に文が残っているので電化する。林由郎、青木功など名プレイヤーを輩出した我孫子ゴルフ倶楽部は日本有数の名門ゴルフ倶楽部だ。昭和5年、当時の染谷正治我孫子町長が地元に住んでいた国際的に活躍したジャーナリスト杉村楚人冠に現在の東我孫子周辺の山林開発を相談したことが開設のきっかけであった。当時9番ホールで開場。翌年に18ホールが完成した。
今も自然豊かな我孫子ゴルフ場だが、かつては色々な伝説を残している場所であった。馬頭観世音を祀ってあった観音山は小高い丘で老松と桜が多く、土地の者は桜の頃、ここで近在の人も交えて花見を楽しんでいた。
現在の5番ホールと8番ホールの間の松並木はその馬頭観世音堂への参道の名残とのことだ。その後、この観音堂4番ホールと5番ホールとの間にある明神山の山神宮の境内に遷された。山神宮は杣(そま)業を生業にしている人達が信仰を厚くしている大山咋命が祭神である。
明神山には山神宮の他に明治42年に合祀された春日大明神社、八幡社、八坂社があった。昼なお暗く古木や大樹が鬱蒼と茂り、キツネやタヌキが住んでいた。地元の農家の人達は泣いたり、イタズラをしたりした時など「稲荷様がコンコンと鳴いて来ッゾ、しゃあめえやつだ」と、叱られたものだったと古老は語る。山神宮様の傍らに樹齢三百年ほどの大杉があり、御神木と呼ばれている。この大杉は何時の頃か、落雷のため焼け焦げてウロが中に出来ている。
ゴルフ場の建築をしていた昭和5年の暮、数人の人夫達が休憩の間に伐り根や伐り枝などを集め焚き火をして暖を取っていた。突然、火が枯れ草に燃え広がり、その大杉のウロの中に火が入ってしまった。
ウロは空洞のため煙突となって、たちまちその御神木は三丈余(約9メートル)の高さのところから紅蓮の炎が吹き出し、折しも冬眠中のアオダイショウやマムシ、山かがしなど数十匹が苦しみ這い上がり、ウロの上部から飛び出してバタリ、バタリと音を立てて大杉の周りに落ち、白い目を見せて死んだ。
ここの蛇は神様のお使いと恐れられていたこともあり、人夫達は大変驚いた。焚き火をした人夫の一人は理由がわからない病で亡くなったという。その後、ゴルフ場が開設されてプレイヤーの打った球がこの御神木のウロに引っかかったことがあった。
キャディは人が止めるのも聞かずに登ってその球を取ったところ、不思議なことにそのキャディも焚き火をした人夫と同じ運命をたどった。今、この大杉の存在を知る者は少なくなったが、杉の幹に注連縄が飾られ、毎年5月17日、山神宮で「さんじん様」の祭礼が行われる。ゴルフ場の職員、氏子、地元関係者ら40人が集まり詣でる。
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柏ICで降り、千葉・柏方面(16号線)へ進む。若柴交差点を左折し、1番目の信号(GS)を右折。道なりに進み6号線・JR常磐線のガードをくぐり北柏駅入り口交差点を過ぎ、1番目の交差点を左折。
約6.2km道なりに進み、出光GSの信号を左折。坂道を昇り、1番目の信号を右折し、356号線へ出たあと、200m先の1番目の信号を右折。道なりに700m先がコース。
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