令和元年、加岸大杉神社祭礼
神輿渡御その6
人間自分の目線からしか物事を判断できない。俺の世代は戦後二世代目、親世代が職場を求めて地方から上京し、子供が大きくなるにつれて関東近郊の通勤に便利なベッドタウンにマイホームを買った親に連れられて引っ越してきた人間が多い。そんな人達は土地は買わないと手に入らない、と思い込む。
さらに土地には坪単価や面積といった単位が付く。戦後流山市もベッドタウンとして大規模都市開発され人口増加し、コミニティ全体の人数は増えた。このコミュニティという言葉も大きな意味から小さい単位の物まで数多く存在している。水運で栄えた流山本町、周辺地区から嫁や婿が嫁ぐとなれば玉の輿だった歴史を持つ。
実際に六丁目自治会長の井戸さんと坂巻市議会議員は親戚同士、ウチのジーサンの母親は木村の染谷家から嫁に来ている。そうなるとやはり三郷との関係、ウチのウラの安藤さんは三郷から婿に来た。ウチのバーサンも三郷だし寺田お茶屋さん、自盛堂印刷所も同じ集落から嫁入りしている。
流山の経済は埼玉の農家が支えていると言ってもおかしくない話で、ウチのバーサンは三郷から嫁に来た、という事を最大限に利用して商売していた。本人が言う(おりゃ、早稲田の学校出たんだぞ)って、お客さんが流山橋を渡って来る埼玉県民なんだから、最高のセールストークだよね。
商都流山と周辺農村部のこのような関係は珍しい事でもなく、歴史上では数多くの婿や嫁が流山に来て、玉の輿となっている。さらに渡し舟からの延長で嫁入りの道と言うのなら流山の逆側の入口、加岸の羽口の渡しにも言える事。吉川の三輪野江方向からの道もある。水運の重要拠点であった流山の一つの側面である。
そうなると平和台というコミニティでは根郷の岡本家の影響も少なからずあり、流山本町に準ずると言ってもおかしくないわけか。この関係性もあり、台原神社は根郷と同じ松戸神社の管轄。という事は流山南部中の学区の中でも南流山駅を使用するため引っ越して来た住民は南流山のコミニティのが大きく扱う人間も出てくる。
時期は変わるが、新しい駅が出来て旧住民と触れ合い、コミニティが大きくなるという視点ではおおたかの森と東初石は西原や駒木台、江戸川台と一部コミニティがかぶっている所があっても変ではないということ。初石は東と西で学区が違うのもポイントの一つ。
八木村だからといっても、ウチの親父の時代には元八木八ヶ村は流山南部中に通っていた。なので人間同士の交流は至る所に残されている。ウチの近所のバーサンが言うには昭和40年代後半まで流山線に乗ると土手を走るバスが見えたんだって、ということはこの時代まで南流山駅は無くマンションも建設されていない事になる。
南流山の土地持ってるから大丈夫だと、中学もろくに行っていない土地成金は、これからとても惨めな未来が待っているという事になる。南流山の土地は元々一面の田んぼだった。それを知らない南流山中学校の生徒はチヤホヤするのだろうと思うけど、全部を知っている流山本町の商店の子供は通っていないからね。
オリジナル酒「流山おおたかの森」
竹とっくりや看板などで個人美術館のようです
流山消防署のそばにある加5丁目の有限会社かごや商店で出している「流山おおたかの森」。「純米吟醸酒流山おおたかの森」は、清酒を50%も精米し、まろやかなワインのような味が、また、「蔵元の梅酒流山おおたかの森」は、国産梅を清酒に7か月も漬け込み甘さがすっきりとした飲み口がそれぞれ人気です。
商工会女性部長も務める同店の金子早苗さんは、流山グリーンフェスティバルで「流山のよさは緑の豊かさだと改めて実感しました。森のまち流山を売り出したいと考えました」と語っていらっしゃいます。
また、市食品衛生協会の役員でもある連れ合いの金子勇さんは「おおたかの森をその地域だけのものにしないで、流山全体のイメージアップにしてまちを盛り上げたい」と語っていらっしゃいます。勇さんがそれまで勤めた会社を辞めたときに「記念にしよう」と初めてつくった自社ブランドのお酒が「下総美人」。
このアイデアから始まり、交通事故に遭い、周囲の方々からやさしくしていただいた感謝の気持ちをあらわしたお酒が「やさしさをありがとう」というお酒。「むこ殿」、「かしゃっぱ」、「笑顔がいちばん」などオリジナルのお酒を次々に考案。ことしは、お酒のおつまみもと、初めて自分の畑で育てた流山産きく芋で「きく芋の、もろみ漬け」を発売しました。
勇さんは、もともと手先が器用。竹筒のとっくりをつくってご近所の方々に喜んでいただくことも。店内には、竹とっくりをはじめ、木を彫ってつくった看板やお盆など手づくりの装飾品が所狭しと並んで、さながら個人美術館のようです。
TX開業1周年を前に考案した「流山おおたかの森」のラベルは、近所の写真学校へ通う若者が撮ったという市野谷の森の写真が和紙にプリントされていて、緑を基調に、森の街・流山がイメージされています。早苗さんは、「夢と人生には定年がありません。どんな仕事も女性が元気でないといけませんよね」と笑顔で語っていらっしゃいました。
かごやの息子さんは俺の9歳年上
今年念願の流山北小学校の第一期生が見付かった。昭和47年生まれという、かごやの息子さんが北小学校が出来て最初の入学だそうだ。そうなるとジンジさんも当然の事ながら流山北小学校を卒業している。これは流山市だけでなく、関東近郊の大体の都市で戦後の人口増加におけるベッドタウン造成が行われ、都市は人口を伸ばしている。
流山街道のような都市と都市をつなぐ交通インフラが整備され、鉄道開通や新たな橋などの建設のタイミングで県や国などの予算で区画造成、建売住宅の建設販売、となると鉄道駅からのバス路線なども経営が成り立つことになり、さらなる住民増加をもたらすと共に学校の増設という問題へと行きつく、これは今現在の流山市が抱えている問題。
三郷流山橋、23年度までの開通目指す
外環道と常磐道へアクセス向上、渋滞緩和と経済効果
三郷地域の渋滞緩和や物流の利便性向上を目的に県は、本年度から埼玉・千葉県間を流れる江戸川に架かる「三郷流山橋有料道路」の建設計画に動き出す。事業主体は県道路公社(さいたま市浦和区)。工事区間は三郷市前間から千葉県流山市三輪野山までの延長2キロで、事業費は84億円。2023年度までの開通を目指す。
周辺地域の慢性的な渋滞の緩和や、東京外かく環状道路(外環道)と常磐自動車道(常磐道)へのアクセス向上などによる経済効果が期待される。県土整備政策課などによると、三郷市は、つくばエクスプレスの開業により都心と直結し、JR武蔵野線・新三郷駅周辺には一戸建て住宅街と大型商業施設からなる「新三郷ららシティ」がオープンするなど、人口と交通量が増加している。
現在、三郷市と流山市の間に架かる一般道の「流山橋」は慢性的に渋滞し、地元から新たな橋りょう建設の要望が出ていた。同課によると、有料道路は流山橋と並行して整備する。建設は短期間に整備を進めるため、民間からの借り入れが可能となる県道路公社が担う。2車線を予定するが、交通量に応じて4車線化も検討する。
通行料金は普通車が150円、軽自動車が100円、大型車が250円などで、徴収期間は30年間を見込む。開通すれば、現在、渋滞が激しい周辺の四つの橋から、1日当たり計約1万1千台の車が有料道路に流れることが見込まれ、新三郷市街地から流山市街地の車による移動時間も30分から20分に短縮される見通しだ。
県の試算によると、渋滞緩和による経済効果は1日当たり約140万円で、年間5億円以上の効果が見込まれる。今月2日には外環道・三郷南インターチェンジ(IC)―高谷ジャンクション(JCT)が開通。有料道路の整備により、外環道や常磐道へのアクセスも向上し、観光や物流面での経済波及効果も期待できる。
上田清司知事は同日の定例会見で「(年間5億円以上の経済効果は)単純に渋滞緩和の経済効果だけしか入れていない。実際にはこれの2倍、3倍の経済効果が得られると思う」と述べた。県は同有料道路の建設計画について、同意を求める議案を18日開会の定例県議会に提出する。
おおたかの森地区の人口増加により学校の増加、流山新橋の建築に伴い区画分譲と、更なる区画造成、住宅建築からの販売促進、団塊ジュニア世代のマイホーム需要を考えると急がなくてはならない。
県の予算で橋が建設されるということで県道となる。同時に県道の両側の地区も県の予算で区画造成される、東谷自治体の場所の住宅造成と同じ形になる。
農地の大規模開発からの都市化というと、俺の個人的な感覚では東松戸病院に通っていた、東松戸の駅を通り抜ける道が思い当たる。今思うと紙敷、大慶園に行くのにもこの道を使った。
ウチの親父に話を聞くと、以前この道は有料道路だったみたいだ、この時代に松戸に住んでいた人が「缶ジュースが90円の時代に自転車からもしっかり50円取りやがる」と教えてくれた。
高校当時は原野の中の駅しかなかった東松戸、そこからの区画造成、何年か前に小学校が開校。今では大規模マンションが作られるなど、時代が進んだな。東松戸駅の大規模開発と住宅整備には、実際問題建築業界のバブル崩壊という事、南流山のような平地ではないと言う事も大きく関連してくる。
駅前開発と住宅整備、さらには採算が見込めるためどこにでもあるチェーン店の進出、これにより一つの駅前、一つの学校の範囲でしか物を考えられない人が増えていく。そうなると一番近い権力者と勘違いされている、土地成金がチヤホヤされるに至る。
しかし、人の目線は10代の時のままではなく、20代、30代になると少しづつ変わってくる。10代の時からチヤホヤされている人間は、時代が変わってもチヤホヤされると思って育っているので、「土地を持っているだけ、木村の農家でしょ」と、冷静に考えられる人間相手には極端に弱い。
つーことは土地成金は流山では何の権力も持ってない人達に持ち上げられて勘違いしてたのか。東松戸駅の開業は1998年、高校生の時にディズニーランドからの帰りに、灯りも屋根も付いていないホームを見ている、と言う事はこれが東松戸駅の建築途中だったもの。
1999年の秋に事故があり、通院時に更地の中の東松戸駅の姿を見ている。あれから20年弱、日本経済もバブル崩壊から動いているのだから、住民の増加、南流山と同じように開発以前を知らない人も多くなっているだろう。同様に土地成金が勘違いされているころだ。
新しく引っ越してきた新住民は、どうにかして地元の住民と知り合い、土地に馴染みたいわけよ。そうなると土地成金を持ち上げ、チヤホヤしてれば大丈夫、というなら一番楽だからね。今まで生きてきて「チヤホヤされるのが当たり前」だったということになる。しかし、現実は厳しいよね。
駅を使用するために引っ越してきたベッドタウン住民は駅が無かった時の事を想像するのは難しいかと思う。武蔵野線も元々は貨物線だし、後から駅を作り始めたら間に合っただけだし、新松戸も同じでしょ。知らない人は一生考えたりしないんだろうけど、俺からしたら当たり前だし。
南流山駅が出来る前に流山本町は成立しているのだから、南流山駅が出来るに伴って住宅造成された、と順に理解できるかと思う。この時代の変化をウチのジーサンと親父は間違いなく知っている。と言う事は俺もこれを聞いて育っている。これは将来を考えるととても大きい。
流山という地区は元々根郷と宿だけがそう呼ばれていた。変わっていった家という概念、間違いなく将来がある俺の家柄。千葉県北西部に家を買い、移り住んできた世間の大体の人間は、かつての田畑が区画造成され、住宅販売されてからベッドタウンの土地を知る。村と村の間がコンクリートの道路でつながり、現在の流山の状態しか知らない。
歴史なんて考えずに日常生活を続けていく、一般的なサラリーマンは色々な学校を卒業すると、都内へ働きに行くので通勤駅の方向を向いて生きている。そのような人が多い中、先祖代々のコミニティの中で、流山本町の組織的な中心部、広小路三叉路を向いて、自分の未来を考え、生きている人間が俺ということ。珍しいからこそ価値がある。
山車は出発
赤城保存会イベントニュース
赤城保存会は、「流山の祭り囃子・神楽等」(市指定無形文化財)の保持団体で、昭和49年に発足した市民ボランティアの皆さんです。現在は若い人を含め13人で活動しています。毎年大盛況の一茶双樹記念館で行われる赤城保存会伝統芸能公演、今年は7月28日に開催されます。
大杉神社のお祭り。屋台がたくさん出て大勢の人で賑わっていました。境内特設舞台では赤城保存会による伝統芸能公演「稲荷山三番叟(いなりやまさんばそう)」というお神楽がおこなわれていました。
この神楽は7月28日(日)18時30分から一茶双樹記念館の夏まつり「小江戸風物詩」でも公演されます。今回見逃した方は是非一茶双樹記念館でご覧ください。無料ですが要申込みで、7月11日より受付を開始します。
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