でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年06月


令和元年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その6



人間自分の目線からしか物事を判断できない。俺の世代は戦後二世代目、親世代が職場を求めて地方から上京し、子供が大きくなるにつれて関東近郊の通勤に便利なベッドタウンにマイホームを買った親に連れられて引っ越してきた人間が多い。そんな人達は土地は買わないと手に入らない、と思い込む。

さらに土地には坪単価や面積といった単位が付く。戦後流山市もベッドタウンとして大規模都市開発され人口増加し、コミニティ全体の人数は増えた。このコミュニティという言葉も大きな意味から小さい単位の物まで数多く存在している。水運で栄えた流山本町、周辺地区から嫁や婿が嫁ぐとなれば玉の輿だった歴史を持つ。




実際に六丁目自治会長の井戸さんと坂巻市議会議員は親戚同士、ウチのジーサンの母親は木村の染谷家から嫁に来ている。そうなるとやはり三郷との関係、ウチのウラの安藤さんは三郷から婿に来た。ウチのバーサンも三郷だし寺田お茶屋さん、自盛堂印刷所も同じ集落から嫁入りしている。

流山の経済は埼玉の農家が支えていると言ってもおかしくない話で、ウチのバーサンは三郷から嫁に来た、という事を最大限に利用して商売していた。本人が言う(おりゃ、早稲田の学校出たんだぞ)って、お客さんが流山橋を渡って来る埼玉県民なんだから、最高のセールストークだよね。




商都流山と周辺農村部のこのような関係は珍しい事でもなく、歴史上では数多くの婿や嫁が流山に来て、玉の輿となっている。さらに渡し舟からの延長で嫁入りの道と言うのなら流山の逆側の入口、加岸の羽口の渡しにも言える事。吉川の三輪野江方向からの道もある。水運の重要拠点であった流山の一つの側面である。

そうなると平和台というコミニティでは根郷の岡本家の影響も少なからずあり、流山本町に準ずると言ってもおかしくないわけか。この関係性もあり、台原神社は根郷と同じ松戸神社の管轄。という事は流山南部中の学区の中でも南流山駅を使用するため引っ越して来た住民は南流山のコミニティのが大きく扱う人間も出てくる。

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時期は変わるが、新しい駅が出来て旧住民と触れ合い、コミニティが大きくなるという視点ではおおたかの森と東初石は西原や駒木台、江戸川台と一部コミニティがかぶっている所があっても変ではないということ。初石は東と西で学区が違うのもポイントの一つ。

八木村だからといっても、ウチの親父の時代には元八木八ヶ村は流山南部中に通っていた。なので人間同士の交流は至る所に残されている。ウチの近所のバーサンが言うには昭和40年代後半まで流山線に乗ると土手を走るバスが見えたんだって、ということはこの時代まで南流山駅は無くマンションも建設されていない事になる。

南流山の土地持ってるから大丈夫だと、中学もろくに行っていない土地成金は、これからとても惨めな未来が待っているという事になる。南流山の土地は元々一面の田んぼだった。それを知らない南流山中学校の生徒はチヤホヤするのだろうと思うけど、全部を知っている流山本町の商店の子供は通っていないからね。

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オリジナル酒「流山おおたかの森」

竹とっくりや看板などで個人美術館のようです
流山消防署のそばにある加5丁目の有限会社かごや商店で出している「流山おおたかの森」。「純米吟醸酒流山おおたかの森」は、清酒を50%も精米し、まろやかなワインのような味が、また、「蔵元の梅酒流山おおたかの森」は、国産梅を清酒に7か月も漬け込み甘さがすっきりとした飲み口がそれぞれ人気です。

商工会女性部長も務める同店の金子早苗さんは、流山グリーンフェスティバルで「流山のよさは緑の豊かさだと改めて実感しました。森のまち流山を売り出したいと考えました」と語っていらっしゃいます。

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また、市食品衛生協会の役員でもある連れ合いの金子勇さんは「おおたかの森をその地域だけのものにしないで、流山全体のイメージアップにしてまちを盛り上げたい」と語っていらっしゃいます。勇さんがそれまで勤めた会社を辞めたときに「記念にしよう」と初めてつくった自社ブランドのお酒が「下総美人」。

このアイデアから始まり、交通事故に遭い、周囲の方々からやさしくしていただいた感謝の気持ちをあらわしたお酒が「やさしさをありがとう」というお酒。「むこ殿」、「かしゃっぱ」、「笑顔がいちばん」などオリジナルのお酒を次々に考案。ことしは、お酒のおつまみもと、初めて自分の畑で育てた流山産きく芋で「きく芋の、もろみ漬け」を発売しました。

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勇さんは、もともと手先が器用。竹筒のとっくりをつくってご近所の方々に喜んでいただくことも。店内には、竹とっくりをはじめ、木を彫ってつくった看板やお盆など手づくりの装飾品が所狭しと並んで、さながら個人美術館のようです。

TX開業1周年を前に考案した「流山おおたかの森」のラベルは、近所の写真学校へ通う若者が撮ったという市野谷の森の写真が和紙にプリントされていて、緑を基調に、森の街・流山がイメージされています。早苗さんは、「夢と人生には定年がありません。どんな仕事も女性が元気でないといけませんよね」と笑顔で語っていらっしゃいました。

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かごやの息子さんは俺の9歳年上
今年念願の流山北小学校の第一期生が見付かった。昭和47年生まれという、かごやの息子さんが北小学校が出来て最初の入学だそうだ。そうなるとジンジさんも当然の事ながら流山北小学校を卒業している。これは流山市だけでなく、関東近郊の大体の都市で戦後の人口増加におけるベッドタウン造成が行われ、都市は人口を伸ばしている。

流山街道のような都市と都市をつなぐ交通インフラが整備され、鉄道開通や新たな橋などの建設のタイミングで県や国などの予算で区画造成、建売住宅の建設販売、となると鉄道駅からのバス路線なども経営が成り立つことになり、さらなる住民増加をもたらすと共に学校の増設という問題へと行きつく、これは今現在の流山市が抱えている問題。




三郷流山橋、23年度までの開通目指す

外環道と常磐道へアクセス向上、渋滞緩和と経済効果
三郷地域の渋滞緩和や物流の利便性向上を目的に県は、本年度から埼玉・千葉県間を流れる江戸川に架かる「三郷流山橋有料道路」の建設計画に動き出す。事業主体は県道路公社(さいたま市浦和区)。工事区間は三郷市前間から千葉県流山市三輪野山までの延長2キロで、事業費は84億円。2023年度までの開通を目指す。

周辺地域の慢性的な渋滞の緩和や、東京外かく環状道路(外環道)と常磐自動車道(常磐道)へのアクセス向上などによる経済効果が期待される。県土整備政策課などによると、三郷市は、つくばエクスプレスの開業により都心と直結し、JR武蔵野線・新三郷駅周辺には一戸建て住宅街と大型商業施設からなる「新三郷ららシティ」がオープンするなど、人口と交通量が増加している。

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現在、三郷市と流山市の間に架かる一般道の「流山橋」は慢性的に渋滞し、地元から新たな橋りょう建設の要望が出ていた。同課によると、有料道路は流山橋と並行して整備する。建設は短期間に整備を進めるため、民間からの借り入れが可能となる県道路公社が担う。2車線を予定するが、交通量に応じて4車線化も検討する。

通行料金は普通車が150円、軽自動車が100円、大型車が250円などで、徴収期間は30年間を見込む。開通すれば、現在、渋滞が激しい周辺の四つの橋から、1日当たり計約1万1千台の車が有料道路に流れることが見込まれ、新三郷市街地から流山市街地の車による移動時間も30分から20分に短縮される見通しだ。

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県の試算によると、渋滞緩和による経済効果は1日当たり約140万円で、年間5億円以上の効果が見込まれる。今月2日には外環道・三郷南インターチェンジ(IC)―高谷ジャンクション(JCT)が開通。有料道路の整備により、外環道や常磐道へのアクセスも向上し、観光や物流面での経済波及効果も期待できる。

上田清司知事は同日の定例会見で「(年間5億円以上の経済効果は)単純に渋滞緩和の経済効果だけしか入れていない。実際にはこれの2倍、3倍の経済効果が得られると思う」と述べた。県は同有料道路の建設計画について、同意を求める議案を18日開会の定例県議会に提出する。

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おおたかの森地区の人口増加により学校の増加、流山新橋の建築に伴い区画分譲と、更なる区画造成、住宅建築からの販売促進、団塊ジュニア世代のマイホーム需要を考えると急がなくてはならない。

県の予算で橋が建設されるということで県道となる。同時に県道の両側の地区も県の予算で区画造成される、東谷自治体の場所の住宅造成と同じ形になる。




農地の大規模開発からの都市化というと、俺の個人的な感覚では東松戸病院に通っていた、東松戸の駅を通り抜ける道が思い当たる。今思うと紙敷、大慶園に行くのにもこの道を使った。

ウチの親父に話を聞くと、以前この道は有料道路だったみたいだ、この時代に松戸に住んでいた人が「缶ジュースが90円の時代に自転車からもしっかり50円取りやがる」と教えてくれた。




高校当時は原野の中の駅しかなかった東松戸、そこからの区画造成、何年か前に小学校が開校。今では大規模マンションが作られるなど、時代が進んだな。東松戸駅の大規模開発と住宅整備には、実際問題建築業界のバブル崩壊という事、南流山のような平地ではないと言う事も大きく関連してくる。

駅前開発と住宅整備、さらには採算が見込めるためどこにでもあるチェーン店の進出、これにより一つの駅前、一つの学校の範囲でしか物を考えられない人が増えていく。そうなると一番近い権力者と勘違いされている、土地成金がチヤホヤされるに至る。




しかし、人の目線は10代の時のままではなく、20代、30代になると少しづつ変わってくる。10代の時からチヤホヤされている人間は、時代が変わってもチヤホヤされると思って育っているので、「土地を持っているだけ、木村の農家でしょ」と、冷静に考えられる人間相手には極端に弱い。

つーことは土地成金は流山では何の権力も持ってない人達に持ち上げられて勘違いしてたのか。東松戸駅の開業は1998年、高校生の時にディズニーランドからの帰りに、灯りも屋根も付いていないホームを見ている、と言う事はこれが東松戸駅の建築途中だったもの。

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1999年の秋に事故があり、通院時に更地の中の東松戸駅の姿を見ている。あれから20年弱、日本経済もバブル崩壊から動いているのだから、住民の増加、南流山と同じように開発以前を知らない人も多くなっているだろう。同様に土地成金が勘違いされているころだ。

新しく引っ越してきた新住民は、どうにかして地元の住民と知り合い、土地に馴染みたいわけよ。そうなると土地成金を持ち上げ、チヤホヤしてれば大丈夫、というなら一番楽だからね。今まで生きてきて「チヤホヤされるのが当たり前」だったということになる。しかし、現実は厳しいよね。

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駅を使用するために引っ越してきたベッドタウン住民は駅が無かった時の事を想像するのは難しいかと思う。武蔵野線も元々は貨物線だし、後から駅を作り始めたら間に合っただけだし、新松戸も同じでしょ。知らない人は一生考えたりしないんだろうけど、俺からしたら当たり前だし。

南流山駅が出来る前に流山本町は成立しているのだから、南流山駅が出来るに伴って住宅造成された、と順に理解できるかと思う。この時代の変化をウチのジーサンと親父は間違いなく知っている。と言う事は俺もこれを聞いて育っている。これは将来を考えるととても大きい。

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流山という地区は元々根郷と宿だけがそう呼ばれていた。変わっていった家という概念、間違いなく将来がある俺の家柄。千葉県北西部に家を買い、移り住んできた世間の大体の人間は、かつての田畑が区画造成され、住宅販売されてからベッドタウンの土地を知る。村と村の間がコンクリートの道路でつながり、現在の流山の状態しか知らない。

歴史なんて考えずに日常生活を続けていく、一般的なサラリーマンは色々な学校を卒業すると、都内へ働きに行くので通勤駅の方向を向いて生きている。そのような人が多い中、先祖代々のコミニティの中で、流山本町の組織的な中心部、広小路三叉路を向いて、自分の未来を考え、生きている人間が俺ということ。珍しいからこそ価値がある。

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山車は出発

赤城保存会イベントニュース
赤城保存会は、「流山の祭り囃子・神楽等」(市指定無形文化財)の保持団体で、昭和49年に発足した市民ボランティアの皆さんです。現在は若い人を含め13人で活動しています。毎年大盛況の一茶双樹記念館で行われる赤城保存会伝統芸能公演、今年は7月28日に開催されます。

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大杉神社のお祭り。屋台がたくさん出て大勢の人で賑わっていました。境内特設舞台では赤城保存会による伝統芸能公演「稲荷山三番叟(いなりやまさんばそう)」というお神楽がおこなわれていました。

この神楽は7月28日(日)18時30分から一茶双樹記念館の夏まつり「小江戸風物詩」でも公演されます。今回見逃した方は是非一茶双樹記念館でご覧ください。無料ですが要申込みで、7月11日より受付を開始します。

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令和元年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その5
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<地域と歩んで 崙書房の半世紀>

(上)昭和から令和 郷土編む
「ふるさと文庫」シリーズで知られ、県内の歴史や自然、地理、人物などをテーマに、昭和、平成、令和と数々の郷土の本を出版、編纂(へんさん)してきた流山市の崙(ろん)書房出版が経営難を理由に七月三十一日に解散、業務を終える。

本づくりだけではなく、熱心な読者から転じた多くの書き手たちを育てた同社には、郷土作家らから感謝の声が絶えない。関東の地方出版社の雄が、来年の創業五十周年を前に、惜しまれつつ、その歴史を閉じる。崙書房は一九七〇(昭和四十五)年、初代社長の小野倉男さんが創業した。




当初は、「利根川図志」「新編常陸国誌」、長塚節や横瀬夜雨の全集など常総(常陸、下総、上総)地方の基本文献の復刻が中心だった。七七年に「利根運河-利根・江戸川を結ぶ船の道」(北野道彦著)の出版を皮切りに、その後の崙書房の顔となる新書サイズのふるさと文庫がスタートした。

目録には利根川、新選組、流山電鉄といった地域にまつわるタイトルがずらりと並ぶ。今年五月三十日に発行した二百十七タイトル目の「房州那古寺界隈(なごじかいわい)」(大場ヤス子著)が最後の文庫となった。




一九九八年に三代目社長として経営を引き継いだ小林規一(のりかず)さん(72)は、昨年から「このままでは企業としてやっていけなくなる」と危機感を募らせていた。崙書房を支えてきた地域の書店が、ここ十五年で相次いで廃業していった。直接、取引する書店はピーク時、県内に二百~三百店あったが、現在では六十店ほどまで減少。

「地域に関心を持ち、本を読んでくれた世代が高齢化し、読者が減ってしまった」ことも経営を厳しくした。崙書房では、愛読者が自分が興味を持ったテーマを持ち込み、膝詰めで議論しながら出版にこぎ着け、新しい郷土作家としてデビューするサイクルが出来上がっていた。

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「読者の減少は書き手が減ることにもなってしまった」と小林さんは残念がる。かつて年間二十~三十冊だった出版点数も、ここ数年は四、五冊まで落ち込んでいたという。首都圏を中心に地域出版は次々と姿を消しているといい、小林さんは「自分が住む地域に興味を持たない人はいない。地域ごとに出版社があっていいはず」と訴える。

一方で「プロの作家でも学者でもない地元の人たちが、みんなに知ってほしいと思う地域のテーマについて丹念に調べ一冊、一冊本にしていった。著者と読者が同じ視点で本がつくれたことは楽しかった。残念だけど、悔いはない」とも話す。

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七二年入社の古参で編集担当の金子敏男さん(71)は東京都内の高等専門学校の機械工学科を出た後、「本が好きという理由だけで会社に入った」という。見よう見まねで編集作業を覚え、写植から活版、コンピューターと「印刷の歴史は一通りやってきた」と胸を張る。

「もう、いいでしょう。ファンがいるうちにやめるのが幸せ。後はAI(人工知能)にやってもらいましょう」と笑った。残った本の仕上げや書店からの在庫の引き揚げなどに追われる小林さん。「書棚の片隅に崙書房の本が置かれていたらうれしい」とさみしそうに漏らす。

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<地域と歩んで 崙書房の半世紀>

(下)読者から書き手へ
崙(ろん)書房出版は、読者から書き手に転じた郷土作家の作品を多く発表してきた。これまで十五冊の本を出した流山市の郷土史作家、青木更吉(こうきち)さん(86)もその一人。「崙書房に書かせてもらったから現在の自分がある」と自身の作品を受け止めてくれた同社に感謝する。

東京都葛飾区の小学校で教諭を務めていた一九七九(昭和五十四)年、ふるさと文庫で第一作の「流山の伝承遊び上・下」を書いた。「素人がどんどん書いているのを見て、書こうという気になった。ふるさと文庫がなかったら読み手で終わっていた」と振り返る。




歳時記、わらべ歌と「子どもの民俗」三部作を書き上げ、退職後、免許証を持たない青木さんは折りたたみ自転車を抱えて電車に乗り、幕府の放牧場だった県内の牧を歩いて回った。

「売れないかも…」と申し訳ない気持ちで原稿を持ち込むと、崙書房社長の小林規一(のりかず)さん(72)は、いつも「これは崙書房にとって出さなければならない本です」と、一度も出版を見送らなかったという。「素人にとって、それがうれしかった」と青木さんはしみじみと口にする。




一九二三(大正十二)年、関東大震災直後の流言飛語の影響で、香川県から来た行商団が福田村(野田市)で自警団に暴行され、幼児を含め九人が殺害される事件があった。地元の住民が口をつぐむ暗い歴史を、二〇一三年、同人誌「ずいひつ流星」を主宰する流山市の辻野弥生さん(78)が「福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇」にまとめ、ふるさと文庫に収めた。

知人から「野田の人間には書けない」と記録を託されていたテーマで、編集担当の金子敏男さん(71)が背中を押してくれたという。辻野さんは、崙書房二代目社長の白石正義さんにもインタビュー。販売を一手に引き受けて茨城県に販路を広げ、書店を巡って自社の本が片隅に追いやられていないか目を光らせる八十歳の姿が当時のタウン誌に掲載された。




「流山に引っ越してきて、地元に出版社があることが誇りだった。ベストセラーはなくとも、地域を知るために大事な出版社だった」と辻野さんは惜しむ。流山市立森の図書館は、企画展「ありがとう崙書房出版」を二十日~七月二十日に館内のギャラリーで開く。

二百点に上るふるさと文庫をはじめ創業当時からの看板、四十五周年記念会の写真などを展示する。市内在住のノンフィクション作家佐野真一さんは「千葉の良心が いや、日本の良心が静かに消えた」と自筆の一文を寄せている。同館では、カウンター前に崙書房の特設コーナーを開設している。

司書の高橋道子さん(70)は「埋もれている地域の出版社の本を読んでもらいたかった」。館長の川島威史(たけし)さん(41)は「図書館には本が残る。展示が、郷土に目を向け崙書房の本を読むきっかけになれば」と願っている。市立中央図書館でも七月二十四日~八月三十一日に展示を行う。




「ありがとう崙書房出版」展

森の図書館で7月20日まで開催中
令和元年6月20日(木曜日)から7月20日(土曜日)まで森の図書館で「ありがとう崙書房出版」展が開催されています。流鉄流山駅のそば流山市流山2丁目にある崙書房出版は、1970年(昭和45年)創業。房総の歴史、地理、自然、人々、生活などにテーマを求め、千葉の風土に根差した出版社として地域の方々に愛されてきました。

この崙書房出版が、今年7月末をもって解散することとなったことから、これまでの感謝の気持ちをこめて、読者や筆者の皆さんと一緒に企画した展示会です。展示されている主なものは、「利根川図志」復刻版全6巻をはじめ、人気シリーズ「ふるさと文庫」約200冊、流山にゆかりの著者の本、「崙書房出版小史」。




「第2回ヌーベル文化賞」賞状、建設省関東地方建設局河川部の「利根川百年史発刊記念式典」での感謝状、創業当時の旧社屋の写真、本町界隈にあった旧社屋の絵、崙書房出版創立45周年記念会の写真など、多くの貴重な資料が展示されています。崙書房出版は、「読み手」を「書き手」に変えた地方出版としても有名。

読者から筆者になられた代表として流山市平和台にお住まいの青木更吉さんの写真も展示されています。青木さんは、「歴史とロマンの里 流山」をはじめ「流山の江戸時代を旅する」「みりん香る街 流山」「流山の伝承遊び」「東葛のわらべ歌」など、15冊を崙書房出版から上梓されていらっしゃいます。




流山市内にお住いのノンフィクション作家・佐野眞一さんは、著書「だれが「本」を殺すのか」(2001年、プレジデント社)の中で「首都圏にも地方出版社があることは案外知られていない。埼玉県浦和市のさいたま出版会、 千葉県流山市の崙書房、神奈川県秦野市の夢工房、東京都八王子市ののんぶる舎などがその代表格」として崙書房出版の小林規一社長についてかなりのスペースを割いて紹介されています。

今回の展示会にも直筆のメッセージを寄せてくださっています。いま、私たちが手軽に全国の地方出版の本を読めるようになったのは、1975年(昭和50年)、東村山市立図書館など東京三多摩地区の5市立図書館が、それまで大部分が販売の大きなルートに乗りにくく、入手困難な地方出版物を独力で調査収集し、「地方出版物展示会」を開催。

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全国各地の地方出版物への関心が高まりました。こうした機運もあって、翌1976年(昭和51年)に地方小出版流通センターが設立され、多種多様な出版物が自由に出版され、読者はそれらの出版物に自由に接し、読むことができるようになりました。当時の公立図書館司書の熱意を感じます。

「広報ながれやま」6月11日号の4面「おとなりさん」では、崙書房出版で編集を担当される市内にお住いの金子敏男さんと吉田次雄さんが紹介されています。インターネットの急速な普及に加え、コミック人気などの影響もあり、情報の獲得手段が大きく変貌したことで、活字を主力にした出版業界は衰退。




小林規一社長は、30年ほど前には200店舗ほどあった取り引き先の書店が現在60店舗ほどに激減したことも「地域出版の活動範囲を狭めた」とおしゃっています。崙書房出版は、1970年(昭和45年)に地方出版の先駆として千葉県流山市に創業しました。

常総(常陸・下総・上総)地方の基本文献の復刻「利根川図志」「東葛飾郡誌」「利根川治水史」など多数を世に出し、1976年(昭和51年)には地方小出版流通センターが設立され、1977年(昭和52年)に人気シリーズ「ふるさと文庫」が創刊されました。

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第1回配本は「利根運河」「七夕の大水」「猿島茶に生きる」など10冊で、現在は217冊が刊行されています。さらに1987年(昭和62年)には建設省関東地方建設局河川部の「利根川百年史発刊記念式典」において「永年、利根川図志等の出版活動を通し利根川に関する歴史を広く人々に紹介された」として感謝状が贈られました。

1988年(昭和63年)5月1日現在の流山駅前に移転。1989年(平成元年)にはヌーベル文化賞を受賞。1990年(平成2年)「利根川叢書」の刊行を開始。1991年(平成3年)には首都圏出版人懇談会を発足。1993年(平成5年)「手仕事の匠たち」、93ブックインとっとり「地方出版文化功労賞次席」を受賞。




2015年(平成27年)創立45年、翌年9月24日に有志によって45周年記念会を開催。2019年(令和元年)7月末に解散予定となりました。「ありがとう崙書房出版」展は、6月20日(木曜日)から7月20日(土曜日)までの9時から17時(月曜休館。

7月15日は開館、16日休館)まで森の図書館で開催中です。主催は森の図書館(指定管理者・株式会社すばる)、協力・提供は崙書房出版。お問い合わせは森の図書館(電話04-7152-3200)へ。なお、7月24日(水曜日)から8月31日(土曜日)には、中央図書館でも展示を開催予定です。

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令和元年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その4
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高張提灯について
江戸初期には武家で使われていた照明用具だが、時代が移るにつれて芝居小屋や遊廓でも利用されるようになり、現代では、通夜、葬式の時などに用いられることが多い。卵形をした大きな提灯で、竿の先に高く吊るし、門前に張り出すように掲げたのでこの名称がある。提灯には、家紋や屋号を入れていた。

長い竿を用いて高く吊るし上げた提灯。祭り、あるいは葬儀において用いられる。祭礼においては神輿行列のサイズを皆に教えるための効果があるようだ。神輿の大きさから一歩外に開いた間隔で進む、これによりこのサイズに道を開けてください、って昔はジジババから言われて誰でも知っていたんだそうだ。




あんばさまはもともとは水上交通の標識となっていた霞ヶ浦に面した阿波の巨大杉のことであったが、現在ではその巨大杉を祀る大杉神社(あんばさま総本宮/茨城県稲敷市阿波958)を指している。

平安時代まで、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等は1つにつながった内海「香取海」であり、舟で容易に往来できたこともあり、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等の水辺に面した地域で広く信仰されて来た。柏市内でも多くの神社に合祀されていることが多いが、そのまつり(祭礼)が定例的に行われているのは手賀地区だけである。

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徳川中後期にかけて江戸は既に世界一の人口を擁する百万都市であり消費物資の物流路は唯一舟運に頼っており、この大動脈が銚子から利根川、関宿から江戸川へ、小名木川、隅田川経由で、東北や関東各地の米穀、木材、魚介物その他産品が大量に供給され江戸の生活が成立しておりました。

ですが、舟運には利根川筋に難点が在ります。江戸川流頭の分流点関宿から鬼怒川合流点付近の部分に冬季渇水や土砂堆積でしばしば航行不能になり木下河岸から陸路行徳河岸へ、布佐から松戸、布施から流山など3ルートを馬の背に頼り、更に江戸川で船に積み替えていたのです。

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なお鮮魚など急送産品は時間短縮の為に常時、木下街道などの鮮魚(なま)街道を経由したとも聞きます。銚子から江戸への水運は高瀬舟で関宿経由10~15日を要したので急ぎの貨客は利根川べりの木下(きおろし、印西市)、布施、船戸(柏)瀬戸(野田)等で一旦陸揚げされ陸路江戸川べりの行徳(木下街道経由)、松戸、流山などで再び船積み、江戸川を下って中川船番所・小名木川を経て江戸に運ばれた。その頃の流山は江戸川べり随一の河岸として栄えた。

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明治維新をむかえ、世は文明開花の時代となった。政府は西欧化に傾倒し、追いつけ追い越せと、殖産興業をうながす政策を次々と打ち出していった。その一環に交通網の整備と交通手段の動力化、すなわち蒸気機関の導入があげられる。より早くより安全に、そしてより正確に、物資の輸送が求められる時代となったのである。

明治五年(一八七二)の鉄道開業は、日本における近代化の象徴的なできごとであった。この年、新橋-横浜間で営業を目的とした鉄道が、本格的に稼働を開始したのである。当時、陸蒸気(おかじょうき)とよばれた蒸気機関車は、衆目を魅了していった。




明治三〇年代ともなると、鉄道網は各地に拡大され、利根川水運にも大きな影響をあたえはじめる。たとえば、江戸川筋では、やや遅れて明治四四年(一九一一)千葉県営軽便鉄道として野田-柏間の鉄道が開通した。それまで高瀬船に積まれていた醤油樽の多くは、貨車に積まれることになったのである。

のち、この鉄道はいく度かの移譲・合併、路線の延長を経て、昭和五年(一九三〇)には大宮-船橋間六二・九キロを全線とする鉄道網となってゆく。昭和一九年(一九四四)三月、当時、総武鉄道株式会社としてあったこの路線は、東武鉄道に合併され、今日にいたっている。

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陸蒸気に象徴される先端技術が、河川交通にも応用され、舟運は一時、頂点を極めることとなる。明治四年(一八七一)利根川水系にはじめて蒸気船「利根川丸」が登場、そして、明治一〇年(一八七七)には、外輪蒸気船「通運丸」第一号が就航することになった。

これは、両脇に外輪を持つ船体構造で、高瀬船とはことなり、多少の風雨に影響されることもなく、しかも桁違いのスピードを持っていた。通運丸は当初、東京深川扇橋から江戸川を遡上、思川の生井河岸(小山市)までの就航であったが、その後、利根川筋の銚子、霞ヶ浦の土浦、北浦の鉾田、あるいは東京湾沿岸など、次第に航路を拡大していった。

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他方、明治一四年(一八八一)には銚子汽船会社が設立され、翌年より銚子-木下間に「銚子丸」を就航させた。そして、この蒸気船運用の成功により、各地には回漕問屋を母体とする汽船会社が次々と設立され、同業者間の競争が熾烈を極めていったのである。もっとも、蒸気船が加わったことにより、旧来からの高瀬船がすぐに消滅したかというと、そうでもなかった。運賃の安さもあって急ぎの貨物以外の需要はまだまだあったからである。

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明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。

大正8年(1919)には深川から浦安に定期船が運航された。土地の人は通船といって親しんだ。通運丸は石川島造船所で造られた外輪式蒸汽船で、明治10年から42隻造られた。きっすいが浅く内陸河川に適していた。利根川の通運丸は、大正8年に当時の運行会社が撤退した後、別地で稼働していたが昭和初期に廃船となった。

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今考えると中学校の増加時期と新築住宅の販売開始は見事にリンクしているのか。俺の学生時代の平成一桁の時代なら市野谷は畑のまんまで真っ暗だし、水道局までの道で同級生の女の子が下半身を露出させた男に出会った、なんて話も聞く。

という事は北千葉浄水場は県の施設、県の予算で周辺道路も区画造成され北千葉浄水場に支柱がある流山インターから茂侶神社までの陸橋は将来的には県道となる。それと共に常磐自動車道は国、となると若葉台の人口増加で西初石中学校開設の時期が見えてくる。

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そうなると南丁字路の道(県道47号)は軍事的な理由で現在の柏の葉公園にあった基地に物資を運ぶために整備された道。そうなると八木北小学校周辺の道路が整備された時期も見えてくる。都市計画も古く、だからあんなゴチャゴチャしているのか。八木北小学校は元は鏑木学校という私塾が元々の始まり。

そうなると、八木村には常盤松中学が元々あって、そこから学区が分離独立し、増えて行ったのか。そうなると南柏駅開業の影響もあって、先に東部中が増えて、さらに八木中、西初石といった順番。旧流山町では南流山中学校が分離しただけだから分かりやすい。もちろん駅開設とそれに伴う人口増加があった事は言うまでもない。

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豊四季駅も軍事的な理由で整備されたんだから(おすわさま)の神輿渡御で使われているルート(県道279)も軍事的な理由で、という事になる。延長線上には航空隊営門跡と記されている。今では周辺に多数のショッピングセンターが開業しているが、ウチの親父がバイクでかっ飛ばすと気持ちよかったってよ。そりゃ空港だからね。

豊四季駅に影響を受けたのは長崎小と八木中となっている。八木南小学校の場所に八木中が出来て田んぼの真ん中に新たな八木南小学校が建築された。今現在八木南小はとても小さい学校だが、おおたかの森のように新築住宅が販売されると同時に人口増加の弊害が生じてくるのは市議会議員の人も感じているだろう。

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新川の方は間違えると嫌だから書かない。誰か詳しい人が書いてくれ。下花輪の人は西初石が無かった時には新川小学校まで行っていたのか。絶対に流山小学校に来た方が近い、なのでかごやの女将さん(早苗ちゃん)が言っていたように流山小学校に来た。

という事は神田さんや藤原さん(娘じゃないよ親父さんね)はこの当時の学区を跨いで流山に集まった。かごやが加岸で小谷米屋が三輪野山、そしてジンジさんの出陣式がマックの所で行われるが、あそこは下花輪なんだな、という事は、和田掘りの水路が境目になっているのか。

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今上落堀が東遷されて和田掘りが埋め立てられたが、和田掘りは違った形で名前が残されているという事。流山本町の外に住んでいる四ツ葉会のメンバーは野々下だか長崎に住んでいるようなので、俺んときは常盤松行ったんだって言ってたな。そういや旧道諏訪道が(県道278)ということは見事に同時期に県の予算で整備されたという事か。同様に軍事的という意味。

おすわさまの周辺道路になる。そうなると自分の学生時代を過ごした時期から、時代が進むと子供が過ごす学区は狭くなっているというのもポイントの一つ、その間に区画造成され新築住宅として販売される。実際に南部中が現在の場所に建設された当時加村台は見事な山。そこから需要と供給を計算して値崩れを起こさないようにして新築住宅が販売される。

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令和元年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その3



郷土出版へのこだわり守る

地域の宝を蓄積できたことに感謝、崙書房出版
流鉄流山駅から徒歩1分の小さな木造住宅。崙書房の1階には書棚が所狭しと並び、2階の事務室では4人が活動する。昭和45年(1970年)の創業以来、およそ半世紀にわたり、流山をはじめ千葉県から茨城県までの常総地方の郷土の歴史や地理、自然や人物などをテーマに、風土に根差した出版を続けてきた。

3代目代表・小林規一さん(松戸市在住)を支えるのは、編集を担当する市内在住の金子敏さんと吉田次雄さんだ。同社は、「千葉縣東葛飾郡誌」「利根川図志」「新編常陸国誌」など、常総地方の基本文献の復刻から始まった。




昭和53年(1978年)の流山市郷土資料館(現・流山市立博物館)の開館からは、流山市郷土資料館友の会(現・流山市立博物館友の会)から多数の書き手が輩出された。また、新書判の人気シリーズ「ふるさと文庫」は、昭和52年(1977年)の創刊から5年間で100冊という驚異的なペースで刊行された。

金子さんは、同社の創業間もない昭和47年(1972年)に入社。現在の社員の中では最古参で、まさに生き字引きだ。「例えば、千葉県史だったらほんの1ページにしかならないような流山の小さなことを、深く掘り下げて1冊にする。




「郷土のものへのこだわり」に価値を感じているのは、入社当時も今も変わりません」と語る。同社で最も「新人」の吉田さんの入社は平成3年。手掛けた中で特に印象深い作品に、山本鉱太郎氏の「新・利根川図志」を挙げ、「現場に足を運び、丁寧に聞き取りをし、文章に書き留めていく。

その姿に感銘を受け、また自分も関われることに喜びを感じました」と著者とともに取材に歩いたことを振り返る。出版業界からの転職であったが、前職にはなかった、編集に携わる醍醐味を感じた瞬間だった。最盛期に300店舗ほどあった取引書店も、近年は60店舗ほどに激減。




時を同じくして、同社に原稿が上がってくるペースも少なくなり、結果的に出版できる書籍も減ったことから、今年7月をもって解散の道を選択した。惜しむ声も多く寄せられたが、金子さんは「先輩から引き継ぎ半世紀、やり切ったという気持ちです」と力強い。

同社の歩みをたどる「ありがとう崙書房出版展」が森の図書館(6月20日~7月20日)と中央図書館(7月24日~8月31日)で開催される。「崙書房の営業は終わりますが、書籍は残ります。今までにさまざまな材料を世に送り出すことができました。今後はこれらを活用して、読んだ皆さんに新しいものをつくってもらえたら」と吉田さんは願いを込める。




カネキ地所、跡目相続
ヨシマサさんは、流山での神輿会、下総五鳳会の結成というのも大きな実績と言えるものだろう。馴染みがない人も多いだろうが、神輿会とはそのまま神輿を担ぐ会であって、一つの地区の一つの神社だけでなく、他の町の神社とも連携し、色々な集団で、共に政治(※祭礼)を行っていこう、と共に連携し動いている人達もいる。

この旗振り役、初代の五鳳会の頭にヨシマサさんがなり、今では7代目の頭に伝統文化が継承されている。もちろんこの神輿会の中というのも一つのコミニティ。ここで育った人間は将来の後継者として期待されながら成長する。俺が赤城四ツ葉会で育てられたように下総五鳳会の、この後を継いだ2代目の中政さんにジンジさんは育てられている。

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この五鳳会に所属していた地元数名が、宿の地元の人達で神輿会を結成し、赤城神社の祭礼で御輿を出せるように出来ないか、と動き始めたのが赤城四ツ葉会結成に繋がっている。地元で、となると人数的にも必要であり、神社委員、自治体としても深い連携が必要になってくる。実際問題、赤城四葉会の結成後に各地域の神輿会が結成された。

この結成の時に参加したのがウチの親父で、それまでは丁目ごとに何人か出すようになっていた。しかしただでさえ宿という地区は婿が多いので、親子関係が難しい人も多い。子供と親で違う景色を感じている人もいる。ただ、このコミュニティの中で育った俺としては、今後の将来の事も含めて色々活性化を考えていかないといけない。

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この後、地域ごとに神輿会が出来たが、一番新しい根郷神輿会は町会をバックに普段は別の所に住む親戚の参加など、現役世代の人数増加中、一番古い四ツ葉会は世代交代の跡取り不足で、戦後の世代の年寄りばかりという、地区ごとの特徴もある。なので俺に掛かる期待も大きい。

祭の時に写真撮ってブログに貼り付けたら盛り上がるんじゃないか、そりゃそうだよ、神輿担いでいる方からしてみりゃ、写真があったら自慢できるし、イマドキは女の子の方が活発で、男の方がどうしても臆病だから人と関わり合いたくない人も多い。今まででは一定以上の成果を上げて来たと思う。

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俺がブログ始めてから、流山の町の見え方も変わったベッドタウン住民も多いかと思うが、本来の日本の文化としては俺の生き方が正しい。多数決が好きな人も多いが、社会は多数決ではなく、その人それぞれに生きてゆく方向性がある。

これはつくばエクスプレスの開通というタイミングなららおさら、旧市街地の歴史を知らない人達は、鉄道の駅からの距離でしか土地の価値を判断できない人が大多数、農地しか持っていない土地成金を持ち上げても、しょうがない事かな。

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元は江戸川沿いに町場があって、そこから道路を引き、大きな田畑を区画造成、住宅販売される。時代によって鉄道路線が増えてくるが、町場があった所に駅開設なんか出来るはずがなく、流山本町の外になる。田んぼの中に南流山駅が出来ると田んぼを持っていた農民は大きなマンションを建て、駅を使用するためのベッドタウン住民が増える。

木村という同じ村の中では人脈もあろうかと見えるが、それはあくまで一つの駅前でしか通じない話で、江戸川台とかで南柏で、南流山の土地を持っている、って話をしたらどうなるか想像も出来ないのか。土地を持っている事にあぐらをかいて、中学もろくに行っていない、って結構難しいもんなんだな。これからさらに厳しい現実を見ていくのかね。

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俺がブログを始めてやりたかったのはコミニティの可視化、水運で栄えた旧市街地から、区画造成を繰り返し新築住宅が販売される。戦後の一世代目の時代には、ベッドタウンとして新住民が増えて行ったが、学生時代を終えると実家から出て通勤に便利な鉄道駅前のマンションで家庭を築いて行く。しかしこれは一つの方向の目線でしかない。

時代はつくばエクスプレスの開通というタイミング、当然の事ながら実家にある程度近いとならば、親の世話も見れ、何かあった時には駆け付けられる。時間に余裕があるので、親が死んだ際の実家の処分も柔軟に判断できる。しかし、流山本町という先祖代々の地区で、毎年の祭りで神輿を担ぎ、地道に活動している人間とは差がついてくる。

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流山職人伝、山本文男

神仏師、石井光龍
平成26年10月23日、旧県道沿い加5丁目にある、流山で唯一の神仏具店の仕事場で、神仏師・石井慶信(※この当時77歳)さんとお会いした。仕事場で、定盤の前に座り「天狗面」と「烏天狗」の修理をしているところだった。頂いた名刺に「神輿・堂宮・仏壇・製造・修理。石井神仏具店。神仏師・石井光龍」とある。慶信さんは5代目・光龍という。

ルーツを伺うと初代・光龍(石井辰ヱ門)は、文化5年(1808年)生まれ。流山村・宿で大仏師を開業。江戸護国寺の寺侍(てらざむらい)をしていた2代目・幸吉は明治4年、現在地に神仏具店を開業する。3代目・龍太郎、4代目・榮龍(えいりゅう)と受け継がれ、いずれも光龍を襲名している。




慶信さんは父・榮龍、母としの長男。昭和12年1月28日、加岸生まれ。父・榮龍は戦争中、陸軍に応召されたが無事に帰還。しかし、42歳で亡くなる。慶信さん12歳の時。神仏師としての慶信さんの技術は、15歳の時から5年間、行徳の7代目神輿師・後藤直光に弟子入りして習得したもの。

慶信さんは神輿の製造技術を特に厳しく直光から仕込まれ、神輿師の称号も得ている。当時、行徳には後藤、浅子という2軒の神輿屋がいたという。流山に帰ってからも、慶信さんは7代目・後藤直光亡き後、後藤神仏具店へ行き、各地の御神輿を製作している。

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仕事場に職人の神様、聖徳太子の掛け軸が掛かり、正面の神棚には天照皇大神宮を祀る社が鎮座する。壁に東葛各地の寺社からの感謝状が並んでいる。修理中の天狗面の裏面に「昭和8年7月10日、加神仏師、三代目石井光龍修膳仕(つかまつ)る」と墨書してある。

修理をする場合、まず古い漆(うるし)や彩色、金箔を洗い落としてから解体し、虫食いや破損した部分を新しく作り直していく。その後、仏像の場合は、胡粉(ごふん)を塗り、面相描きや彩色をし、仏壇や厨子(ずし)の場合は漆を塗り、金箔を真綿で押していく。「ノコギリやカンナ、彫刻刀、漆塗り刷毛やヘラなど、作業の種類も多く、カンナだけで数十種類あります」と石井光龍師。

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流山本町周辺は、江戸時代からの町場は限られたコミニティの中で代替わりが行われ、それに加えて東武野田線、常磐線、武蔵野線の駅開業に伴い、駅前を大規模開発。さらに平和台など流山線の需要と供給を計算した区画造成。戦後時代の人口増加につながっている。今現在はつくばエクスプレスの開通と駅の増加というタイミング。

江戸川台駅開業も、南柏駅開業、武蔵野線南流山駅開業、これらは全て流山本町の外の出来事。流山本町の中では強いコミニティを維持したまま、毎年の祭礼を繰り返し、着実に代替わりが行われている。これは代々の家の関係の下で決められている話、そして俺のような確実に順番が回ってくる人間は、自分の立場と役割を自覚している。

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ということは、流山都市計画道路3・3・2号新川南流山線の工事にも関連し、西平井の田畑を所有している農家が、区画造成され大規模都市化が行われる、という事で特別な存在だと勘違いし、中学も行かない土地成金になる未来が想像できる。土地を持っているだけで、地位や名誉も手に入るわけではなく、将来性の面で大きく変わってくる。

一面の農地だった南流山駅周辺に道路が引かれ、田んぼを持っていた農民が税金対策のためマンションを建てて現在に至る。まさか南流山駅のマンションに住んでいる人は、江戸時代からコンクリートのマンションが建っていた、とか勘違いしている人間はいないだろうがな。これからはセントラルパーク周辺、八木の農家の土地に順番が回ってくる。

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令和元年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その2
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江戸時代の交通は、人は陸の上を、物は水の上を、が大原則でした。関東地方の農村で生産された物資が船で運ばれ、百万都市の江戸を支えていました。江戸で消費される米、味噌、醤油、薪、炭などが、利根川や霞ヶ浦の沿岸から船で運ばれていました。

江戸の人々の生活を支えていたのは関東地方の農村でした。逆に船によって、江戸文化とか、粋(いき)に代表される江戸っ子の流行なども関東地方の農村に広がっていきました。




古来、利根川は太平洋ではなく、東京湾に注いでおり、江戸はたびたび水害に見舞われていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸を水害から守り、新田開発の推進、舟運の開拓、東北と関東との交通・輸送体系を確立することを目的に、河川改修事業を命じました。

関東の各河川を江戸につながるようにしたのです。現在の道路網整備と同じと考えて下さい。この河川改修事業の最たるものが、利根川東遷(とうせん=東へ移すこと)事業でした。




関東郡代(かんとうぐんだい 関東地方の幕府領を支配する代官)伊奈忠次(ただつぐ)・忠治(ただはる)親子により東遷事業が完成すると、1665年、霞ヶ浦・銚子から利根川・関宿・江戸川を経由し、江戸へと至る水運の大動脈が完成。

奥州(東北地方)からきた物資も那珂湊から涸沼に入り、海老沢河岸から陸運を使い、小川や鉾田を通って霞ヶ浦や北浦へ入り、江戸に送られました。(動力のない、風力と手こぎの船では黒潮と親潮がぶつかる海域を乗り切るのはほとんど不可能でした)




霞ヶ浦の土浦・高浜・木原・古渡・麻生、利根川筋の佐原・木下・守谷・境、鬼怒川筋の水海道・石下・宗道・結城、小野川筋では伊佐津など、各河川筋に河岸(かし:川の港町)が開かれ、水運とともに栄えました。

また土浦・野田・銚子の醤油、石岡・石下・佐原・神崎の酒、流山の味醂(みりん)、猿島のお茶などの産業も発達しました。当時の河岸は現在の鉄道の駅と同じです。駅に電車が着くように河岸には高瀬船が着きました。

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駅の周辺にいろいろなお店があるように、河岸にも河岸問屋(運送業者:荷物の受け渡し、送り状の発送、手数料の徴収、旅人の乗船斡旋などを業務としていました)があったり、食堂・酒場・旅館などが軒を並べていました。現在の利根川の形になったのは、明治後期より開始された大規模な改修工事によるものです。

明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域で足尾鉱毒事件が発生しますが、日清・日露戦争のさなか銅の産出は止められず、江戸川を経由して人口密集地である東京や江戸川河口の行徳の塩田へ被害が拡大することを避けるためにも、銚子河口へ水を流すことが決まったとされています。

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この頃の利根川下流の両岸は千葉県香取郡でしたが、当時千葉県は財政基盤が弱く利根川の治水事業に予算を割くことができず、洪水が頻発して、直接利根川に面していなかった茨城県にも被害を及ぼしました。

このため明治18年(1885年)には、茨城県と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない千葉県南部の政治家の間で、茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡(十六島)を茨城県側に譲渡する計画が出ました。

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鹿島参宮
東国三社と呼ばれる鹿島神宮、香取神宮、息栖神社は香取海のまわりに鎮座します。鹿島神宮は『常陸国風土記』に「香島の天の大神」とあり、社伝では神武天皇元年(紀元前 660 年とされる)の鎮座とする古い神社です。もともとの鹿島神は水に縁の深い神のようで、流海の沿岸を開拓する人々の拠り所として発祥したのかも知れません。

鹿島神宮は約600社ある鹿島神社の総本社で、関東最古の神社です。香取神宮とペアで関東の東を護っています。「神宮」と名のつく神社は今ではいくつもありますが、平安時代から伊勢の他に神宮と呼ばれたのは、鹿島神宮と香取神宮だけ。別格の格式を持ちます。

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『古事記』によると、鹿島神宮の主神タケミカヅチ(建御雷命)は天孫降臨に先立って地上に降り、出雲のオオクニヌシ(大国主命)に国譲りをせまった神です。神宮社伝によると、タケミカヅチは出雲平定後も東征の旅を続け、鹿島に至って鎮まりました。

『日本書紀』の一書(「一書曰」とはじまる別伝の記述)によると、香取神宮の祭神フツヌシ(経津主命)も天孫降臨に先立って地上に降り悪神をこらしめました。息栖神社が祀るアマノトリフネは速舟の神で、出雲平定で副使を務めたといいます。




このように、東国三社が祀るのは国土平定の神です。鹿島神は東国平定が進む時代のヤマト政権に重視されました。戦闘の勝敗は神意によるとされたことから、平定事業は武神の加護を要したのです。

奈良時代の防人(さきもり)は鹿島の神に無事を祈って東国を出立し、戦国の武士は鹿島の神に戦勝を祈願し、近代の兵士は鹿島の神に武運長久を祈って出征しました。

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あんばさま
大杉神社(通称あんば様、稲敷市阿波)は航海者の守り神で、後に病除けの神となります(阿波(あば、『風土記』の「安婆」は阿波(あわ)、安房(あわ)にゆかりのありそうな地名です)。

「あんば様」は船霊(ふなだま)さまの親神で、「常陸の内海」を往来する人々の安全を護る神として信仰を集めました(平家の横暴を憎んだ神が常陸坊海尊(武蔵坊弁慶とともに源義経の家来として活躍したと言う)をこの神社に遣わしたという伝説があります)。

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大杉神社のホームページには、そびえ立つ大杉が神の依代(よりしろ)となって神社仏閣がつくられたとあり、境内には現在も樹高40メートル、樹齢800年以上といわれるご神木(次郎杉)が聳えます。

あんば信仰は内海地方に留まらず、広く東日本(内海航路に関係する地域で、伊豆下田から太平洋岸を北上し日本海側を南下して酒田付近まで)に及んでいます。

いまの阿波は台地のはずれですが、中世までは岬で、岬の入り江は避難港であったようです。阿波の岬は南に榎浦、東に香取海、北に三叉沖の難所を控え、大杉は遥か沖からも見えたに違いありません。沖を行く舟人は彼方の大杉に航海の無事を祈ったことでしょう。




当然としてそこに派生する産業は、農業や牧畜や漁労以外には水上交通路としての繁栄が有った。それを示すのが江戸時代になると利根川筋を利用した水運で有った様です。この水運従事者達の守護神が「あんば様」で有ったのです。現在では「夢むすび大明神」としての役割を担っている様で、ご覧の様な立派な社殿が建っている。

なお「あんば様」は船乗り達によって、例えば、北前船によって北海道や東北地方まで広く伝承された様です。千石船が遭難した時に「天狗に助けられる絵馬」等見られるが、それは「あんば様」と「常陸坊海存」との関係が有るのだと言う。

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水上安全の守り神は、江戸時代になると悪疫退散の神として信仰を集めます。『武江年表』(斉藤月岑著、1898年成立)の享保12年(1727年)の項に「6月上旬から本所の香取神社の境内に常陸の国、阿波の大杉大明神が飛び移られたということで、貴人賤民の別なく大勢が集まり、万灯や屋台、山車を出し、綺麗な揃いの着物で参詣したが、ほどなく禁止を命じられた」(意訳)とあるので、あんば様は江戸でも知られた存在だったのでしょう。

享保18年(1733年)に江戸ほか各地で疫病が大流行し、この疫病に「あんばさま」のお札が「霊験あらたか」とされて以来、「大杉講」が組織されて門前町の阿波が賑わいました。『利根川図志』には「参詣者はみな利根川の押砂河岸(神崎大橋の近く)に舟を着け、1里余を徒歩で阿波に向かう」(意訳)とあります。現在の埼玉県、千葉県の各地に大杉神社が分社され、正月に代表が大杉神社に参詣してお札を受け各戸に配るという風習が長く続いたようです。

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古代には霞ヶ浦から印旛沼、手賀沼あたりまで一つの大きな内湾だった。大杉神社のある場所は、その内湾に突き出ていて、見る方向によれば島に見え「安婆嶋」といった。そこに大きな杉の木が立っていて、内湾を船で行く人々にとって交通標識の役割を担っていた。そうした人々は、その杉の木を「あんばさま」と呼び、水運の守り神として、信仰の対象にしていたそうだ。

そして、いつの頃からか神社が建立されるようになったのだろう。厄除けの神様になったのは、神護景雲元年(767)に大和国からやってきた勝道上人が病苦にあえぐ人々を救うために、大杉に祈念すると三輪明神が飛び移り病魔を退散させたという伝承が元のようだ。現在の大杉神社は、様々な御利益の中でも、日本唯一の「夢むすび」の神を売りにしている。

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戦後の第一世代でも、もちろん大事な歴史であり、政治も当然の事ながら存在する。中学の卒業生にはお祝いの電報が市長から贈られるが、誰が市長だっただろう、戦後すぐのヨシマサさんは中村世代、ウチの親父は田中世代、伊原塗装屋さんや大塚タカハルの娘(大塚家の女将さん)は石塚世代。

ジンジさんは秋元世代、俺は眉山世代になる。武田県議会議員や小谷米屋さんも石塚世代か。任期がそれぞれなので一概には言えないが、市長の二代目後に子供が卒業しているのがわかるかと思う。そうなると伊原塗装屋さんの子供は井崎世代になるんだな。

動画はコチラ

動画その2

動画その3

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