でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年05月


昭和55年5月31日、眞鍋かをり誕生日

日テレジェニック2000
眞鍋かをりは、日本のマルチタレント、元グラビアアイドル。本名同じ。姓の「眞鍋」の「眞(真)」は本人の意思により旧字体の「眞」を使用。ラテ欄では「真鍋」と表記される事が多い。愛媛県西条市出身、所属事務所はアバンギャルド→アヴィラ→ノースプロダクション(旧イースト・プロダクション、業務委託を経て正式移籍)。



愛媛県西条市に長女として生まれる。弟と妹がいる。愛媛県立西条高等学校卒業後、横浜国立大学教育人間科学部(国際共生社会課程)に入学。大学入学前に初めて1人で入った渋谷の吉野家を出たところでスカウトされて芸能界入り。1999年、雑誌「ホットドッグ・プレス」のドリームガールグランプリを受賞。

2000年、東洋紡水着キャンペーンガールと日本テレビ主催の日テレジェニックに選出される。同年、日テレジェニックのメンバーとしてシドニーオリンピックのサポーターガールを務める。2001年、DVD作品「TERRORS 闇夜〜DARKNESS〜」にてドラマ初主演、映画「ウォーターボーイズ」でスクリーンデビューを飾る。志賀高原観光大使に任命される。2003年3月、大学卒業。



2004年6月30日、ブログ「眞鍋かをりのココだけの話」を開設。あっけらかんとした日常生活の着眼点と発想の面白さ、自らを「オイラ」と称する独特の文体からたちまち人気ブログとなる。ブログ内の画像で眼鏡美人姿を披露したことがきっかけで、トラックバック数日本記録を樹立するに至り、マスコミから「ブログの女王」の称号を受ける。

2005年8月、自身のブログをまとめた「眞鍋かをりのココだけの話」(インフォバーン刊)を発売。発行部数はブログ本としては異例の20万部を突破する大ベストセラーとなる。この年の話題の人物として、年末の紅白歌合戦に審査員として出演。2007年4月、テレビ東京のスポーツニュース番組「メガスポ!」でニュースキャスターに初挑戦。7月、第4回納豆クイーンに選ばれる。10月、第20回メガネベストドレッサー賞の芸能人部門に選ばれる。

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2008年11月、フードアナリスト4級の資格を取得するとともに、日本フードアナリスト協会のイメージキャラクターに就任。2009年9月、所属事務所・アヴィラと旧所属事務所・アバンギャルドに対し契約解除を通知、12月に契約解除の確認を求めて東京地裁に訴訟を起こした。

2011年12月13日、アヴィラとの契約関係は2009年12月31日で終了していると東京地裁が判断を下したことを受け和解したことを発表。

2010年10月31日、ブログ「眞鍋かをりのココだけの話」を閉鎖、2011年5月31日よりlivedoor Blogにて「眞鍋かをり Official Blog」を開設。新ブログでは眞鍋の趣味である「一人海外旅行」を中心に日頃の何気ない日常を綴り、元祖ブログの女王のブログ再開ニュースは一躍ネットで話題になった。



2012年1月20日、ノースプロダクションに所属。2月23日、眞鍋が元THE YELLOW MONKEYのヴォーカルである吉井和哉と交際中であることが報じられ、眞鍋もレギュラー出演していたニュース番組で報道を認めた。12月、歯の矯正をしていたことから「Go!クリニック スマイル大使」に任命される。

2013年2月19日、眞鍋が7月の参議院選挙に自民党から出馬することを週刊誌の「女性自身」が報じた。しかし、眞鍋はレギュラー出演していたラジオ番組(大竹まこと ゴールデンラジオ!)で報道を否定した。同月、GREEの有料メルマガ・Webマガジンサービス「Magalry」にて眞鍋かをり執筆による「Magalry 30女が◯◯について本気出して考えてみた」を連載開始。

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ファザコンである。ボーイフレンドができると必ず父親に紹介する。恋愛中は人格が変わり、恋人に甘えまくるとのこと。一人旅(海外旅行)をするのが大好きで、旅行先では外国人男性にナンパされることが多い。そのため、あらかじめイミテーションの結婚指輪をはめて、その結婚指輪をナンパしてきた外国人男性に見せ、男性からの“お誘い”をお断りしている。

以前からドイツの“ビール祭り”に参加したいと思っていたのだが、一人旅好きの眞鍋もさすがにこのときばかりは(酔っ払っている外国人たちの中に日本人の女が1人で入り込むのは気が引ける)と思い、インターネットの旅仲間を募集するサイトで女性の旅仲間を探して予約した。当日はミュンヘン中央駅で待ち合わせをし、初対面の日本人女性3人と合流、眞鍋を含め女性4人でビール祭りに参加した。

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ワインを飲むのが大好きで、以前は1日にワイン1本を飲んでいた。飲みすぎて二日酔いの状態で仕事をすることもあった。そのため(これではまずい)と思い、ワインの量を減らす努力を続けた。今は1日に2,3杯しか飲んでいないとのこと。酒に酔うと涙もろくなる。特技:アナウンス(アナウンススクールに通っていた経験がある)、イラスト。大型スクーターを所有し、警視庁のグッド・ライダー宣言をしている。

趣味:一人海外旅行(『外国へ旅に行こう』と思いついたその日に出発することが多い。ノープランでホテル予約や観光をしており、自身のブログでも度々海外旅行記が掲載されている)好物:納豆、お酒、チーズ。あまりのチーズ好きのため、2010年11月にC.P.Aチーズプロフェッショナルを取得した。「うめ」と名付けた犬を飼っている。

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スポーツ:30歳を超えてから運動に目覚め、ゴールドジムに通いだした。自宅でも毎日シャドーボクシングやランニングを行っており、ダイエットに成功中とのこと。最近では格闘技にも挑戦中だとブログで明かした。2006年2月、スキンケアブランド「プロアクティブ」の日本市場キャスターに就任。ニキビで悩んで「引きこもりだった」ことを告白。同社から「NO!ニキビーナス」の称号を贈られる。

体が柔らかく、チアリーダーのように左右に大きく開脚してジャンプしたり「I字バランス」のように足をハイキックして垂直に振り上げたりすることができる。同郷(愛媛県)の声優・水樹奈々とは2009年12月13日に、映画『レイトン教授と永遠の歌姫』の試写会で初対面を果たしている。優木まおみ、杉崎美香(いずれも『NIPPON@WORLD』で共演)などと仲が良く、ブログでもたびたび飲み会をしている様子などがアップされている。

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2009年衆議院選挙を前に出演見合わせ騒動が起こった。事の発端は前衆議院議員の城内実(当時)が第45回衆議院議員総選挙に立候補する際、以前、眞鍋対談した時に撮影したものをポスターに使用したため眞鍋が急きょ出演見合わせとなった。テレビ局側は眞鍋が特定の立候補者を支持しているとため出演を見送ったという説明が告げられた。もし、眞鍋が写真を選挙ポスターに利用したまま番組に出演した場合、公職選挙法第151条の3項「選挙放送の番組編集の自由および」同第152条「あいさつを目的とする有料広告の禁止」に抵触する可能性がある。

しかし、眞鍋本人は出演見合わせとなったことに納得しておらず、ブログにて写真は勝手に使われ困惑していると特定の立候補者支持を否定し、所属事務所も同様に支持を否定したが、城内は以前、眞鍋対談した際に撮影したものをポスターに使用し撮影した内容について「事前に承諾を得た」と主張、意見の食い違いが起きた。しかし、眞鍋のテレビ出演の見合わせを受け、城内側はこのようなことになり不本意であるとコメントしポスターの撤去と対談の動画の削除を行った。その後眞鍋は番組に復帰した。



『週刊文春』2010年5月6日・13日号ゴールデンウィーク特大号の特集記事「総追跡33本 この女のナゾを解く!」にて、眞鍋かをりの年齢詐称を掲載した。記事には所属芸能事務所(アヴィラ)との民事訴訟が東京地方裁判所にて争われた中で、原告(眞鍋かをり)の生年月日が「昭和55年5月31日生」となっていた。しかし、2010年当時の眞鍋の芸能プロフィールには「昭和56年(1981年)3月31日生まれ」と、丁度10か月後の鯖読みとなっていた。

『週刊文春』の記者が生年月日の件を、眞鍋に対して直撃取材した所「ごめんなさい、今はタイミング的にお話出来ないんです」と、記者に避けられたが、結果として眞鍋は事実を認め、2012年時点では「1980年(昭和55年)5月31日」の生年月日をプロフィールに使用している。選択的夫婦別姓制度に賛同している。自分の名前では「小俣」さんや「脇」さんとは結婚できない、と言う。

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2004年6月30日から開設している自身のブログ「眞鍋かをりのココだけの話」には、驚異的な数のトラックバックがあり、一記事に対するトラックバック数がトラックバックスパムも含め3000を超える場合もある。その数は日本一と言われており、「ブログの女王」と呼ばれた。当時ヤクルトに在籍していた古田敦也選手に「打倒眞鍋かをり」と、古田の公式ブログにてトラックバック数の目標にされたこともある。

2005年12月5日には眞鍋のブログがニフティの「ココログ」に開設されている縁から、ニフティが開設したサイト「ブログ普及委員会」の委員長に就任した。2006年1月、安全にPCを利用するための啓発活動として、キャッチフレーズ「マナベにまなべ」を掲げ「CHECK!PC」キャンペーンのイメージキャラクターに起用される。また自身のPCが多数のスパイウェアに感染していたと告白。これについては高木浩光にスパイウェア対策ソフトを売るためのFUDの可能性を指摘された。

かつてはブログにおける一人称として「オイラ」を使用していたが、私生活で"オイラ"といわなくなったので「私」を使用するようになったとインタビュー記事で述べている。2011年7月4日、Twitterを始める。開始から1日でフォロワー数が1万人を超えた。

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平成29年5月20日から展示会

漁師町時代の浦安、漁具など、市郷土博物館に
学生時代から50年近く浦安の漁業を調査してきた「漁村文化研究会」が、収集した漁具など漁業関係資料650点を市郷土博物館に寄贈した。同館が所蔵していなかった漁法の網、漁業組合の大漁旗や木札など、漁師町時代の浦安を伝える貴重な資料。20日から同館で一部資料の展示会が開かれる。

同会の活動は、埋め立て開発のため、浦安で漁業権が全面放棄された1971年に始まった。東邦大で非常勤講師をしていた常見純一元淑徳大教授(文化人類学、故人)が「浦安で漁業に関する町民文化が失われていく」と学生に呼びかけ、「漁村問題調査研究自主ゼミナール」を結成。

漁村文化研、50年近く調査、街の歴史を知ろう
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同会の中心メンバーである栗山堯男さん(71)、中西一善さん(67)、西野洋一さん(66)は学生時代にゼミに入ると、同大卒業後も調査を続け、途中で研究会に名を改めた。調査開始当時の浦安は、ノリの養殖などに使われた小型の木造船「べか舟」が次々とトラックで運び出され、漁具が山積みされていた。

栗山さんらは、漁法を漁師らに聞くとともに、漁具などを収集。解体される直前の漁業組合事務所では、処分されるはずの木札や旗、ノリ箱などを譲り受けた。栗山さんは「亡くなった元漁師の仕事着をもらったこともある。地元の人の思いがこもっている」と話す。 

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同会は資料の散逸をふせぐため、98年に同市に650点を寄託。2010年からは、市郷土博物館と共同で資料整理に取り組んだ。資料の分類、撮影、収蔵番号の割り振りや、使い道の分からない漁具は新たな聞き取り調査も行った。今年3月、資料の図録や解説を収めた報告書「浦安の漁撈(ぎょろう)用具1」(A4判、190ページ)をまとめた。

「ようやく調査結果の一部が日の目を見ることになった」と中西さん。西野さんも「浦安には130を超える漁法があった。今回の報告書を第一歩に漁法についてもまとめたい」と語る。報告書は税込み1000円で、20日から市郷土博物館で販売される。展示会は6月25日まで

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「浦安の農業」見つめ直す

元農家らの証言も紹介、市郷土博で企画展
浦安市でかつて行われていた農業にスポットを当てた企画展「浦安の農業ノラとハマと暮らす」が同市猫実の市郷土博物館で開かれている。同館によると、浦安市の農地は1979年(昭和54)以降ゼロ。海に面し、漁師町として栄えたことで知られる浦安だが、埋め立て前まで全域が農地として活用されていたことはあまり知られていない。

そこで同館は農業の歴史を見つめ直そうと、2009年から3年かけて、市内の元農家ら約30人を対象に聴き取り調査を実施。証言をまとめた報告書を作成するとともに、企画展を開くことにした。

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今回の調査などから、浦安の農業は(1)塩害の影響を受けやすかった(2)漁業との兼業が多かった(3)ノリ干し場として田んぼを利用していた-などの特徴が明らかになった。明治後期ごろには土地の特性を生かしたハス(レンコン)づくりが盛んだったらしい。

昭和30年代になると、工業用水のくみ上げによる地盤沈下などで農業環境が悪化。1969(昭和44)年の地下鉄東西線開通により、急速に宅地への換地が進み、浦安の農業は終焉(えん)を迎えた。

同館の島村嘉一主任学芸員は「現在の浦安では農業が行われていないが、昔は生産に関わった土地だということや、先祖が自然ととともにどのように暮らしてきたかを学んでもらいたい」と話していた。会期は12月7日まで。

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ディズニーだけじゃない!

千葉・浦安には楽しい郷土博物館もある!
千葉県浦安市にある東京ディズニーリゾートは、超人気スポットだ。だが、その地はかつて良好な漁場だった。漁師の漁業権全面放棄によって、埋め立てが進み現在の浦安市がある。そんな、浦安の歴史を学ぶことのできる「浦安市郷土博物館」は、特にお子さま連れにオススメの施設だ。

海と暮らすがテーマの「浦安のまち」、海を駆けるがテーマの「船の展示室」、海とともにがテーマの「テーマ展示室」で浦安の昔と今と未来を学ぶ。

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浦安市郷土博物館は、四つの基本コンセプトにより設立
浦安市郷土博物館は、市民参加をモットーにした「すべてに開かれた博物館」、体験を重視した「生きている博物館」、何度来ても新しい発見がある「リピーターを呼べる博物館」、博物館も学校であると位置づけた「学校教育に生かせる博物館」という、四つの基本コンセプトにより設立され運営されている。

この基本コンセプトには、この博物館が市民主体の市民文化の発信基地になり、生涯にわたって学習できる施設となりうるようにとの願いが込められている。未来の浦安を築くエネルギー源となりうるためにも、この郷土博物館の存在意義は大きい。

浦安の人々はいつの時代も海とともに生きてきた。テーマ展示室は、「魚介類の宝庫・浦安」「オカのくらし」「変わり行く浦安」の3つで構成されている。ここでは、多種多様な漁法に用いられた「道具」の数々に、次々と興味が生まれる。

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屋外展示場・昭和27年頃の「浦安のまち」
終戦、そしてキティ台風の被害から復興し、浦安が漁師町として最も活気に満ちあふれていた昭和27年(1952年)頃の情景が再現されている。暮らしの中心であった清らかな境川沿いに密集した町並。チャンコやオッカアの威勢のいい声がこだまするようだ!自分のことより他人のこと、そして、なによりふるさと「浦安」を思う町民気質。

この町を愛し、暮らしてきた人々のぬくもりを、貝殻を敷き詰めた道を行き来しながら、当時の景色の中で感じてみよう!この「浦安のまち」には、江戸時代の末期頃に建てられたとされる「三軒長屋」や、明治の後期頃に建てられたとされる「漁師の家」など、県や市の指定文化財が多い。

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特に、県指定有形文化財である「三軒長屋」は、一軒の間取りが「9尺2間(6畳1間)」の典型的な庶民の長屋で、全国的にみても現存する貴重な建物だ。

「江戸川」の看板を掲げた船宿では、博物館ボランティア「もやいの会」の方々と交流し、昔話や生活道具を使った体験ができる。また、四季折々の年中行事や昔遊び、貝むき、海苔すき(冬季のみ)なども体験できる。

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山本周五郎「青べか物語」の世界へ
昭和20~30年代頃の情景をイメージした屋外展示場「浦安のまち」の一角に一軒の「天ぷら屋」がある。ここは、山本周五郎・著「青べか物語」に登場する「天鉄」をイメージして設えてある。こちらでは、作品の雰囲気を味わいながら、お茶をのみ休息をとることができ、「青べか物語」の資料館にもなっている。

山本周五郎は、昭和3年8月から浦安に住み始め、その後1年あまりこの地で過ごした。その生活は、けっして楽しいことばかりではなく、失業による貧困。病気そして失恋。やがて、浦安滞在中のそれらの見聞が名作「青べか物語」に結実した。

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浦安を代表する船「べか舟」
「べか舟というのは一人乗りの平底舟で、多くの貝や海苔採りに使われ、笹の葉のような軽快なかたちをしてい、小さいながら中央に帆桁もあって、小さな三角帆を張ることができた」(新潮文庫より引用)山本周五郎の傑作「青べか物語」の「べか舟」を紹介した一節である。

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漁業の最盛期には千数百隻の「べか舟」が、境川や船圦川に係留されていた。だが、昭和46年の漁業権全面放棄後、浦安のまちから次第に姿を消し始め、今日では市内に数隻しかない。「船の展示室」では、浦安の海を縦横無尽に駆けた船が観られる。浦安の船は数多くの漁法にあった船が造られ、その種類の多いことが特徴だ。

貝漁に使われた「マキ船」、大きな帆で風を受けて打瀬網を引く「打瀬船」、刺し網漁で使用された「小網船」などが展示されている。さらには、投網で仕留めた新鮮な魚を乗船客に振る舞った「投網船」には、実際に乗ってみることもできる。また、「仮屋」と呼ばれる木造船の製造場では、べか舟製造の実演を観たり、船釘打ちなどの体験もできる。

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浦安亭で、浦安の歴史を学ぼう!
「浦安亭」とは昭和30年代まで、堀江の一番通り近くにあった寄席。多くの著名な芸人がここの舞台を踏み芸を磨いた。この博物館での「浦安亭」というコーナーでは、名調子の講談師が、浦安のさまざまの出来事を語る。

漁業で栄えた浦安のまちに、押し寄せる近代化への波。漁師の苦渋極まる選択。さらには、昭和24年この地を襲った「キティ台風」の様子・・・。浦安のまちの歴史を学ぶことのできるここ「浦安亭」は必見コーナーだ。

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「浦安市郷土博物館」は、さまざまな昔の生活体験ができる市民参加の体験型博物館だ。何度でも訪れて、その都度新しい発見がある博物館でもある。なんといっても、豊富な展示内容なのに、入場無料とはウレシイ!ところで、こちらへ訪れるには車がオススメだ。駐車スペースとして、博物館地下駐車場や、浦安市役所向かいの無料総合駐車場が利用できるからだ。

さらにウレシイことに、館内の展示解説を「音声ガイド」で、英語、日本語、浦安弁の中から、好みのチャンネルで受けることができる。その「音声ガイド」の機器は、事前予約不要で訪問当日受付へ申し込めば、これがまた無料で貸し出してもらえる。これは、是非受けたいオススメのサービスだ。

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浦安市郷土博物館

よみがえった『青ベカ』の町
房総の博物館・美術館に文が残っているので電化する。浦安市役所前のゆったりした文化ゾーンに建つガラス張りの建物が、浦安市郷土博物館である。平成13年4月1日、市制施行20周年を記念して建てられた。浦安は漁師町として長い歴史を持っていたが、昭和46年に漁業権を全面放棄した。

以後、複合都市としての方向付けのもとに、海面の埋め立てが行われ、ディズニーランド、マンションの建設など新しい都市へと変貌していった。貴重な郷土資料の散逸を防ぎ、収集、保存を図るため、資料館から新たに博物館へと生まれ変わった。

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入口の広場には冨中直樹(文化勲章受章)の金色の母子像「慈愛」がある。敷地面積35万8678平方メートル、地上2階、地下2階、鉄筋コンクリート、一部鉄骨造りである。

1階入口から入るとマスコットの「アッサリ君」が迎えてくれる。右手に受付、小さな店(メンコ、ベーゴマ、お手玉など昔懐かしいものが売られている)、障害のある人達が働くカフェレストラン、視聴覚室がある。



左手の壁に、冨中直樹の「懐かしい古き浦安」のレリーフがある。その一角のレファレンスでは、浦安に関する書籍をはじめ、コンピューター画面で様々な情報を得ることができる。基本コンセプトは「すべてに開かれた博物館」「生きている博物館」「リピーターを呼べる博物館」「学校教育に生かせる博物館」である。

市民のための博物館、ふれあいのある博物館を目指して、300余名の「もやいの会」がボランティア活動をしている。「もやい」とは、漁師にとって何よりも大切な船を結ぶ綱を指す言葉で、人と人、ふるさと浦安と人、市民と博物館、過去と未来を結んでいきたい、という願いを込めて名付けられた。

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展示の構成は室内展示と室外展示がある。室内には、テーマ別展示室と船の展示室がある。屋外展示場では「うらやすのまち」を再現している。館内の展示開設は、英語、日本語、浦安弁で音声ガイドをし、受付で貸し出している。

一階のテーマ別展示室(海とともに)の入口は、なだらかなスロープになっていて、浦安の海に案内する。干潟のジオラマ(模型)が広がる。浦安の海を象徴する広大な干潟と、オオヨシキリ、ハマシギ、シオマネキ、ヒトデなどの生き物にとっての干潟の大切さを見ることができる。壁面の水槽にはアカエイ、マイワシ、シロギス、タイ、マコガレイなどが泳ぎ、浦安の海の豊かさを思わせる。

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漁業については、映像や実際使われた猟具を用いて紹介している。四ツ手網の展示があり、刺網の10種類以上のメカニズムの説明もある。豊富な魚介類がとれることから、多くの漁法が発達した。貝をとる工夫として腰タブ籠(腰マキ籠)がある。海中に入って腰でマキ籠を引き、籠についた爪で海底をかいてアサリやハマグリを採るのである。

「貝むきができないと嫁にいけぬ」と言われた。貝むきの技術を映像で紹介している。貝の種類に合わせて、包丁や道具が展示してある。採れた貝は行商によって売られ、今に生きる行商の暮らしも見られる。

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「浦安の言葉」コーナーでは、軽快なテンポとウイットに富んだ浦安弁の世界を味わうことが出来る。「えーいしゃどこへ行くだか」(おい、お前どこに行くんだ)なあ(こ)(さん)やくしゃ(あいつ)など。

昭和30年代迄堀江のフラワー通りにあった寄席・浦安亭を再現し、映像で講談師が浦安の出来事を名調子で語る。変わりゆく浦安の歴史の中で、大きな災害や事件を取り上げ、郷土のために立ち向かう先人の姿を写真や文書、映像で紹介している。

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一階の地下へ行く通路から、ガラス越しに船の展示が見られる。浦安には数多くの漁法があり、船も漁法にあった船が造られた。マキ船、打瀬船、小網船、投網船、ベカ船を見ることができる。

地下一階には、大漁旗が飾ってあり、投網船に自由に乗ることが出来る。船の原動力になるディーゼルエンジンが展示されている。船大工さんが、船の造り方を実演している。

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船の展示場から屋外展示場に出ると、昭和27年頃の「浦安の町」があらわれる。川にはベカ船、打瀬船が泊まっている。川岸の右手には焼玉エンジン(昭和30年代迄買い出し船などの大型船に使用されていた)の小屋がある。

橋を渡ると、海苔製造所、漁師の家(文化財)、船宿、タバコ屋(文化財)が並んでいる。裏手には、豆腐屋、魚屋(文化財)、三軒長屋(文化財)、天ぷら屋、寿司屋、銭湯がある。船宿「江戸川」は、江戸川沿いの船宿をモデルに再現した建物で、「もやいの会」会員の案内所になっている。



天ぷら屋「天鉄」は、堀江のフラワー通りにあった天ぷら屋「天鉄」を再現したもの。作家山本周五郎が、昭和初期の浦安をモデルに書いた小説『青ベカ物語』の中では、主人公がよく行く店として登場する。ここでは当時の雰囲気にひたりながらお茶を飲み、休息をとることができる。小説の中の長さんや蒸気河岸の先生が、ひょっこり現れるような気がする。

モデルの船宿吉野家の長さんこと吉野長太郎さんはご健在で、二十艘ほどの船を持ち、今も繁盛しているようだ。博物館を支える四つの文化団体がある。投網保存会、船大工技術保存会、浦安囃子保存会、千葉県無形民俗文化財に指定されたお洒落保存会で、浦安の伝統文化にふれられる。(※歴史や伝統も一部の人間以外にとっては価値が理解できないもの、だからこそ自分の個性になり評価になる)

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県指定無形民俗文化財

浦安のお洒落踊り
幕末から明治・大正にかけて関東、東北地方を中心に流行した手踊りで、地域によっては小念仏、万作踊り、飴屋踊りなどとも呼ばれている。浦安では踊り手が互いに競うように派手な着物や襦袢で「おしゃらく(おしゃれ)」して踊ったことから「お洒落踊り」と呼ばれるようになったという。

昭和初期頃までは、「お十夜(十月十夜の念仏法要)」や「晦日籠り(月末の忌籠り)」などの行事があるたびに、お寺やお堂に老若男女が集まり、唄や踊りを楽しんでおり、お洒落踊りもこの時に踊られたものである。また、漁師町であった浦安では、海が荒れて漁に出られない日なども、小屋でみんなが集まりお洒落踊りを楽しんだという。
 


曲目は手踊りと段物に分かれ、手踊りは下座と呼ばれる囃子方に合わせて踊るもので、段物は、狂言風の芝居仕立てになっている。唄はだいたい1人で唄い、踊り手は5~6人、囃子方は三味線が2~3人と太鼓、鉦、尺八といった編成となっている。
 
主な曲としては「高砂」「木更津」「宮坂」「世直し」「下妻笠松峠」「日高川」「いちゃいちゃ踊り」「鉄火か節」「日蓮記」「新川」「地曳」「白桝粉屋」「桜づくし」「広大寺」「細田の川」「清澄」などがある。
 
浦安のお洒落踊りは第二次大戦後、他の娯楽に押されて一度は廃れかけたが、昭和47年(1972)に有志が浦安お洒落保存会を結成し、消滅寸前のお洒落踊りを復活して今に受け継いでいる。

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平成28年5月14日から、茂野柰園展を開催

5月29日まで一茶双樹記念館で開催中
平成28年5月14日から「小林一茶の世界に迫る 茂野柰園展」が一茶双樹記念館で開催されています。茂野柰園さんは山形県鶴岡市の大正時代から続く商家に生まれ、筑波大学芸術学群で書を専攻されました。千葉県立東葛飾高等学校講師などを経て、市内西深井で小学生から成人対象の書道教室「三友書園」を主宰しています。
 
日展に2度入選(平成6年・25年)され、読売書法会理事を務められるなど、実力派の書家である茂野さんは、書を志して30年、流山に住んで30年がたち、地元流山が小林一茶ゆかりの地であることに目を向け、一茶の句に触れ、その心を筆で形にしたいと考え、一茶の句を学び、作品の創作に没頭されました。

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こうして生み出された茂野さんによる一茶の俳句作品は、これまで、1月に「流山市立博物館」、4月に「運河駅ギャラリー」においてそれぞれ展示され、いよいよ5月、一茶ゆかりの場所である一茶双樹記念館にお目見えすることになりました。
 
一茶双樹記念館では、掛軸、額、屏風、扇、篆刻など、さまざまな形や素材の作品が双樹亭内に飾られるとともに、木の枝や切り株などに描かれたダイナミックな作品が、縁側や軒先、庭園内に置かれ、屋内外ともに心地の良い空間を創り出しています。

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小林一茶は動植物を多く詠んだことで知られ、とりわけ小動物に注がれる一茶の愛情がにじみ出た句は数多くあり、今回の展示会でも次のような作品を見ることができます。「蟻の道雲の峯よりつづきけん」、「蝸牛そろそろ登れ富士の山」、「恋猫の源氏めかする垣根かな」
 
会期2日目の5月15日には、茂野さんによる「展示解説&ミニ講演会」が開催されました。茂野さんが書を学ぶ中で、のめり込み、自身の書の礎としたものとして、中国戦国時代の金文、漢代の隷書「楊淮表(ようわいひょう)紀(き)」、日本の空海、良寛が挙げられます。講演会では、これらの名品の拓本や複製をご紹介いただくとともに、茂野さんの臨書作品をじっくりと鑑賞しました。

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みりん醸造で財をなした五代目秋元三左衛門(俳号:双樹)と小林一茶の連句を屏風にし、兄弟のように心を通わせた二人の思いをたどるなど、尽きない興味を原動力とし、これからも、一茶の心を形にする創作活動を続けていかれるとお話されました。

講演会に参加者された流山の郷土史家・青木更吉さんからは、一茶が流山を第二のふるさととしていかに大切にしていたかについてのお話をいただき、また、今回の茂野さんの作品制作に大きな役割を果たした、柏の森かずおさんからは、木の素材制作と茂野さんの作品制作の秘話も披露していただきました。

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流山本町の「一茶双樹記念館」では、5月14日(土)から29日(日)までの間、流山にお住まいの書家茂野柰園さんによる「小林一茶の世界に迫る~茂野柰園展~古典の中に現代書を求めて」を開催中。和紙に書かれた作品のほかに、切り株など多様な素材に描かれた書の世界に触れることができます。

双樹亭の建物や庭とも相まってとても心地の良い空間となっております。今日の発句はその作品の中から。一茶がふるさと信濃柏原に戻った頃の一句。特別展を記念して、茂野柰園さんの書によるクリアファイルも制作販売しております。なかなか素敵な記念品です。

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青木更吉

日の目を見ない歴史や民俗にスポットを当てる
東葛文化ユニーク事典に文が残っているので電化する。「ボクはおばあちゃん子でした」という青木さんは、茨城県の御前山(ごぜんやま)で生まれ、幼い頃から「お前は先生になる学校に行くんだよ」といって育てられ、ごく自然に教職の道に進んだ。(※昭和8年1月8日生まれ)

師範学校から、茨城大学教育学部に学んだのち、取手の中学で四年ほど教鞭をとり、東京の葛飾区の小学校に転任。以来三十四年間、同区内の小学校で教員を務めてきた。教育者として一貫してやってきたことは、すべての学力の基礎になる作文に力を入れ、文集をつくることであった。



しかし時代が変わり、親も進学のための点数稼ぎに忙しくなり、文集などは歓迎されなくなった。1960年代から激変が起こり、町から村から子供たちの遊ぶ姿が、消えていった。昭和28年から教職に就いて、遊びの全盛期を見てきた青木さんは、「これでいいのだろうか」と強い疑問を覚え、子供の民俗に目を向けるようになった。

そして、ぜひ記録しておかねばと、聞き書きを始める。歴史は文献によるところが多いが、民俗となると、聞き書きが基本となるため、多くの時間と労力を要する。学校勤務のかたわら、土、日を利用して歩く一方、たくさんの資料も読み漁った。苦労した分、青木さんがそこから得たものには、測り知れないものがあった。

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聞き書きに訪れると、寝たきりのお年寄りが、心の張りを得たように、次々と思い出しては枕元の紙に書き付けておいてくれた、という感動的な場面もあった。二年かけて取材したものを、一年かけて本にまとめるというペースで、通算十年かけた労作、『流山の伝承遊び』『東葛のわらべ歌』『下総の子ども歳時記』は、崙書房出版から(ふるさと文庫)として出版された。

聞き書きの範囲も徐々に拡大し、子供の民俗をほぼ網羅している。その内容に触れてみると、むかしの子供たちの豊かな遊びや、たくましい知恵に、改めて感心させられる。また、これらの遊びを体験した人なら、強い郷愁にかきたてられ、思わず笑ったり、目頭が熱くなったりするに違いない。

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本の中にも出てくる(アワントリ)という子供の行事は、お正月の三が日後に行う楽しい行事の一つだった。ある時、その材料となる竹を無断で切ってしまった子供たちに代わって、青木さんが謝りに行ったという、なつかしい思い出もある。

しかし、このアワントリも、代々のしめ飾りを焼いてあげる代わりに、お金をもらうという行為があり、「乞食のような真似をしてはいけない」という、学校現場からも禁止が出たりして、だんだん廃れていった。「遊びこそ人間を学ぶ場であり、それは本や親から教えられて分かるものではない」と青木さんはつぶやく。

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また、(歴史に学ぶ)という姿勢を大切にしてきた青木さんを、突き動かした一つのドラマがあった。それは、華々しく散った白虎隊の影で、その存在があまり知られていない(二本松少年隊)のことである。

幕末の戊辰戦争で犠牲となった会津藩。そしてその巻き添えとなった二本松の少年たちは、集団自決こそなかったが、戦死した者、生き残った者、それぞれ悲しい運命を生きた。

(二本松少年隊)という名がつけられたのも、戊辰戦争から五十年も経ってからであったという。少年たちは、出陣が認められると、江戸見物でも行くように嬉々としたと言われている。

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一方、太平洋戦争もいよいよ逼迫の度を深めた昭和20年のある日、師範学校の生徒だった青木さんのお兄さんは、「アメリカ軍がいつ攻めて来るかわからない、一日も早く銃を取って、国民を守りたい」と逸る心を、おばあちゃんに訴えた。

すると、「お前は、なじょしてそんなに急いで戦に行きたいんだ、そんなに急いで行くことはねぇ」と、おばあちゃんは涙ながらに諭したという。そしてそばに居た青木さんも、お兄さんと全く同じ思いだった。

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この時の自分たちの姿と、二本松の少年たちの姿が重なり、他人事とは思えなかった。そして(今やらねばいつやる、おれがやらないで誰がやる)と、三年あまりに及ぶ執念の取材が実って、平成3年、新人物往来社より、『物語・二本松少年隊』を出版した。

その時、長年の友人から、「日の目を見ない歴史にスポットを当ててくれた」と言われたことがうれしかった。青木さんが、もう一つ筆を進めてきたのが『東京初空襲を忘れるな』という、小学生向けの読み物である。

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太平洋戦争が始まって間もない昭和17年4月18日、アメリカ軍の奇襲を受けて、東京の水元国民学校高等科一年の男児が、銃撃死したその記録である。敗戦から50周年に合わせて出版の予定である。(※この出版物は20年以上も前の文ということが分かるかと思う)

戦争は、いつも痛ましい犠牲者を生む。二本松少年隊の悲劇も、東京初空襲も、歴史の中に埋没させてはならないという、青木さんの強い思いが籠められている。(※二本松少年隊も検索してみると、石碑も完成し、今では手厚く祀られているようだ)



二本松の少年たちは、毎朝食事前に切腹の作法を母親から教わったという。まだ12、13歳の少年が、喜々として出陣したということ、また青木さん兄弟も何の疑いもなく、戦に出たいと強く望んだという事実、その痛ましいまでの健気さに、教育というものの怖さを感じないではいられない。

「このような歴史の教訓が、なかなか生かされないのが現実で、残念なことです」平成3年、青木さんは「葛飾区・郷土と天文の博物館」がオープンしたのを契機に、定年を少し前に退職をした。「経済的なことより、自分に残された時間を大切に考えて退職しました」



現在は、週四日そこに勤務して、団体でやって来る子供たちを、博物館やプラネタリウムに案内する。学校とは違った自由な雰囲気で、子供たちと接することができるという青木さんの表情は、とても幸せそうだ。また、長い付き合いで、愛着のある葛飾のことを、仲間と共に著わした『葛飾だーいすき』という本もある。

卒業論文のテーマに、夏目漱石を取り上げ、初任給で『夏目漱石全集』を買い込んだという青木さんは、もともと文学青年で、書く事が好きだった。その青木さんは、流山市の文化団体(博物館友の会)に設立当初から参加し、主力メンバーとして、様々な研究に取り組み、大きな成果をあげてきた。

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「東葛の泥メンコ」や「流山の放浪芸・ヨカヨカ飴屋物語」など、滅びようとするものや、注目されることのない日陰の存在に目を向けたものが多い。「読み書きに疲れたら、ラケットの素振りをやるんです」という青木さんの、テニス歴は長く、教員仲間のテニス大会では、負け知らずの時期もあったとか。

現在、流山市立博物館友の会の副会長をつとめ、新聞の連載なども引き受けている。「ミリンのことも頭にあるし、まだまだやりたいこと、書きたいことがいっぱいある」と、気力充分の青木さんである。

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流山の伝承遊び

青木更吉、崙書房出版、昭和54年10月発行
東葛文献百科事典に文が残っているので電化する。子供の遊びには時間、空間、仲間の三つが必要だという。ところが今の子供たちは塾通いやおけいこ事で遊び時間がない。遊び場所も道路で遊ぶのは危険になったし、自然の中で遊ぶには開発が進んで自然が少なくなったなど、広い遊びの空間に恵まれていない。

同様に遊び仲間にしても、昔はガキ大将を中心とした地域の幅広い年齢層の子供たちが一緒だったので、遊びは大きい子から小さい子に伝承されていたが、今のように同年齢の子の遊び集団になってくると、伝承遊びは伝わっていかないで姿を消すことになる。そこへ今度は遊ばなくなった子供たちの中で三無(無気力、無関心、無感動)が問題になってきた。

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長年、学校という教職の場にあって子供の遊びに関心を持っていた著者は、こうした子供たちの現状がいつも頭の隅に引っかかっていた。そしてこんな時こそ、子供たちの昔の遊びを見直してみようと思い付いた。

昔の子供たちはどんな遊びをしたのか、その実態をつかむため、明治末から戦前までの流山での遊びを一年かけて、40人余りの人達に取材してまとめたのが本書である。

本書は上、下二冊からなっている。上巻では「自然の中で」「幻の賭博遊び」の二項について書かれている。子供たちは草花遊び、魚・虫・小鳥とり、川泳ぎ、下駄スケートなど、山野を遊び場にして自然の中をのびのびと走り回った。

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そんな中に兵隊ごっこがある。古くから戦争を真似た遊びにはいくさ遊びと言われていたが、国中が戦勝ムードに酔っていた日清・日露戦争では兵隊ごっこと言うようになった。

このことを著者は芝居じみた遊びがいくさごっこで、兵隊ごっこになると野山を駆け回る組織的な遊びに発展し、戦争そのものが飛行機を中心とする兵器の戦いに発展すると戦争ごっこと名称も変わったのではないか、と推察していて興味深い。

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すでに戦前に消滅してしまった幻の賭博遊びというのはトッコ(紋合わせ遊び)とナメカタである。両方とも流山では特に盛んであったというが、これについても著者は、江戸時代から水運(交通)、経済(酒、味醂)の中心地であった流山に出入りの商人たちが持ち込んだ博打行為が子供の遊びにまで反映したものと分析している。

下巻にはビー玉、ベーゴマ、たが回し、自転車乗り、泥棒ごっこなど、特に男の子の「勝負事の遊び」と、羽根つき、まりつき、せっせっせなど、わらべ歌を歌いながら遊ぶ女の子の「技を競う遊び」、それに天神講や稲荷講の「祭りと遊び」の三項がある。

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ヒョッタンコ(城とりと鬼ごっこを合わせた遊び)やキシャゴ(おはじき)、なっこ(お手玉)、アイコッシ(じゃんけん)など流山独特の呼び名があったこと、流山でもあのシカの皮の柔らかいボールを蹴り上げるけまり遊びをしていたこと、などを知る。

しかし、筆者は言う。この本は流山に限定して昔の遊びをまとめてあるが、流山の遊びの特殊性を探るためでなく、問題を具体的にするためであると。また著者は、この本をただ昔の子供の遊びを懐かしむために読んで欲しいのではない。現在の子の遊びにオーバーラップさせて、子供にとって遊びとは何かを考える資料にして欲しい、と願っている。

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会員の本

青木更吉著『歴史ロマン利根運河』
流山市立博物館友の会会報におどり第109号に文が残っているので電化する。月刊「とも」に3年間連載していた「歴史ロマン利根運河」を『手賀沼ブックレットナンバー11』として刊行させてもらった。青木さんは、最初と最後に私の編集で本が出せたと言われる。

最初の本は確かに崙書房のふるさと文庫『流山の伝承遊び上・下』(1979)である。しかし、今度の本が最後であるというにはまだ早い。なぜなら、歩いて聞く、聞いて歩く、青木流を貫く体力は気力と共に十分あるからである。利根運河を知る貴重な本が、また増えたという喜びがある。

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青木更吉著『歴史とロマンの里、流山』
青木さんが流山に引っ越して来たのは昭和39年。その時の住所表記は「東葛飾郡流山町加604番地」。加という地名は珍しいと、流山の字を扱った「一字一音地名」から本書は始まる。この章から始めて流山に関する歴史、地理、民俗が多様な対象に即してある時は論文調に、また軽妙なエッセイ風にと綴られている。

読者は、本書通読後、「流山」が人々がその中で生きてきた歴史であり、そして人々が現にその中で生きている地理であるということを実感するに違いない。本書は青木さんの流山に関する三部作目である。この際、今までの『みりんの香る街、流山』『流山の江戸時代を旅する』も是非お薦めしたい。

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平成26年5月28日まで滞在

八千代市民と交流、バンコクこども親善大使
八千代市の国際交流事業の一環で来日したタイ王国バンコクの「こども親善大使」の小学生らが平成26年5月22日、同市役所などを訪れ、秋葉就一市長らと記念品交換や昼食会で交流した。市文化伝承館では茶道も体験。日本の伝統作法と「おもてなしの心」に触れた。

訪問したのは、バンコクの小学5年生10人と引率の教員ら親善大使。市役所で秋葉市長らに出迎えられると、流ちょうな日本語で「はじめまして」とあいさつ、自己紹介した。秋葉市長は「ようこそ八千代市へ」と声を掛け、唐傘などの記念品を手渡した。

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大使たちは日本の民俗・伝統文化を体験できる八千代市文化伝承館で茶道にも挑戦。和室で正座し、市茶道連盟メンバーに教わりながら丁寧なお辞儀などお点前を学んだ。大使のポーンピルンさん(10)は「日本の長い歴史の(中で培われた)文化を体験できた。タイに帰ったら茶道の丁寧さを家族や友人に伝えたい」と笑顔を見せた。

大使たちは21日に来日し、28日まで滞在。市内でのホームステイ、市立南高津小学校での授業を体験した他、東京ディズニーランドの観光などを楽しむ。八千代市とバンコクの「こども親善大使」の派遣・受け入れは1989年にスタート。昨年度までに200人以上の子どもが行き来している。



「伝承文化の散歩道」作成

八千代市文化伝承館職員、木原善和さん
「ウォーキングの際、別の感動を味わってほしい」。ささやかな願いを込めて伝承文化の散歩道と題したコース図を作成した。第1号は、2008年8月発行の「萱田・ゆりのき台周辺」。萱田地区は古い地域で長年勤務する市文化伝承館がある。

新萱田の弁天宮と水神宮、八千代警察署北側の石仏群、飯綱神社、伝承館などを巡る全行程は2・8キロで一時間弱の移動時間。新興住宅街の住民に萱田の良さを伝える狙いもあった。

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昨年11月には21号「麦丸地区周辺」(全行程6・2キロ、移動時間約二時間)が完成した。1~21号までで八年の月日が流れていたが「市内全域を網羅するまでは続けなければ、と思っていた。」その思いが原動力となった。

それぞれのコース図の裏面にはポイントごとの簡単な説明文を付けており、健康増進に取り組みながら知的好奇心を満たすことができる。「市内には多数の石仏があり、結構古いものもある。」

「小さな石仏など見落としてしまうようなことを拾い上げた」と話す。一部は隣接する千葉市や佐倉市の地域を巡る柔軟な設定。散歩道21コースは伝承館で無料配布している。

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伝統文化の振興を図るため、八千代市域に残る民俗文化と日本の伝統文化を承継、育成、振興させる事業を実施し、施設を提供することを目的とした施設です。舞台付きの和室や庭園を備えた本格的な茶室があります。周辺には、飯綱神社、飯綱近隣公園、ガキ大将の森、七百余所神社、新川などがあります。

主催事業として、花見、茶会、邦楽演奏、昔遊び、物づくり、子ども茶道入門、子ども邦楽教室、子ども日舞入門などの講座を実施しています。市内には、古くから残っているお祭り・昔話・わらべ唄などがあります。

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文化伝承館は、このような民俗文化や日本舞踊・三味線・茶道・華道などの日本古来の伝統文化を、保存・継承や発展させるための活動を手助けするための施設です。この類の施設は、県内ではここ“文化伝承館”ただ1か所しかありません。

館内には和室I・II、茶室、研修室の4室があります。各部屋にはそれぞれに愛称が付いています。市内に古くから残る伝統の地名で、これも立派な無形の伝統文化として末永く伝承・継承しようとして命名しました。

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飯綱神社三十三年式年大祭

(三十三年祭)のお神輿
同館ロビーには昭和30年ごろまで使われていたお神輿が展示してあります。飯綱神社の大祭は、33年に一度。なぜ33年なのかは、飯綱神社の創建に係わる話に十一面観音菩薩があり、その観音菩薩が33に化身(変化)し、三十三年目に元の十一面観音菩薩に戻るという、言い伝えによるものとの説があります。

草田の鳴竜
同館の入口天井に写真が張ってあります。「雨乞い祈祷の絵馬」の写真です。昔、日照りが続いたときときに、祈祷をしたら竜が出てきて雨を降らしたという言い伝えを描いたものです。この下で柏手を打つと「ビビーン」と言う竜の声が聞こえます。これが草田にいる竜の声です。なぜ、声が聞こえるかは、実際に行って確かめてみては…。ただし、この竜は雨乞いの竜なので手のたたき過ぎにご注意を。

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八千代地域に残る無形の民俗文化財と日本の伝統文化を保存・継承・育成し、これを振興・発展させるための施設で、博物館的機能と公民館的を合わせ持ち活動しています。無形の文化を扱うため、展示はわずかです。館の内外施設のほか、周辺環境(神社および境内)も含めた場所が活動の場であり、展示の場となっています。

八千代の民俗行事再発見、わらべ唄やあそびの体験学習をする伝承文化を習おうなどの主催講座を開催。茶室前の日本庭園、今では少なくなった「さらそうじゅ(夏椿)」などの日本固有の植物が植えられており、縁側から眺める風情はまた格別。この庭園は晴れている日より、雨がしとしと降っているような日にぜひ訪れてみたい庭です。



日本庭園にある「つくばい」も必見!つくばいとは、茶室に入る前に手や口を清めるために使われるものです。ただし、ここにあるつくばいは、他のところにあるものとちょっと違う。なぜなら、水が下に落ちるときに耳を澄ますと琴の音に似た音がするからです。これを水琴窟(すいきんくつ)と言います。

水琴窟がある日本庭園は県内に数か所しかありません。一度聞いてみる価値アリ。また、茶道や日本舞踊などのお稽古をするための部屋を貸し出したりなど、様々な用途で市民に利用される施設です。これ以外にも同館ではいろいろな展示品や講座・催しを行っています。ぜひ足を運んでみてください。

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八千代市文化伝承館

飯綱神社の歴史や資料
房総の博物館・美術館に文が残っているので電化する。市内に古くから残っているお祭りや昔話、わらべ歌、獅子舞、神楽など無形の民俗文化や日本の伝統文化の保存、継承、育成を目的として古い歴史を持つ飯綱神社の隣に、平成8年(1996)に開館した。無形の文化伝承が目的のため、展示は少なく、練習活動が主である。

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展示はホールや研修室の一部で行っている。飯綱神社の歴史と文化財及び祭りに関する資料、飯綱神社で使われた古い神輿、絵馬や獅子舞、神楽に関する資料、市内に残る季節ごとの儀礼行事に関する資料等を展示している。施設は和室、茶室、研修室、ロビーと日本庭園から成り、庭園には「つくばい」と水琴窟が作られていて美しい音が聞かれる。

学校が終わった子供たちが当館にやって来る。ロビーや庭でおはじき、お手玉、メンコ、竹とんぼ、コマ回し等昔遊びを楽しんでいる。また、ボランティアグループの協力を得ながら、昔話を基に紙芝居を作ったり、凧や水鉄砲、リリアン編み、数珠玉のネックレス作り、木の葉で虫などを作ったりと、遊びや物作りの体験を通して子供たちにも伝承文化が伝えられている。また子供のための日本舞踊教室や、茶道教室も開かれている。

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文を追加しておく
市内に残っている古くからのお祭り、昔話、わらべ歌などを保存、継承するのが主な事業の一つ。また、茶会や邦楽演奏などの「伝統文化に親しむ会」、子どもたちに楽しんでほしい昔あそび・物づくりなどの「伝承文化を習おう」他、さまざまな主催事業を展開中だ。

9月には十五夜の月見、重陽の節供におくる邦楽演奏、万華鏡作り、など多彩な講座が行われるとのこと。八千代市文化伝承館が開館したのは1996年5月。市内の伝統文化団体から「専門の活動の場が欲しい」との要望があったことから、その民意を反映する形での設立となった。

「利用者となる市民の要望をできる限り取り入れたいと、意見聴取会も開き、建設の参考にしました」と語るのは、今年4月から就任した酒井館長。八千代市文化伝承館という名称も公募により決まり、創立当初は県内外から多くの団体が視察に訪れたという。

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毎年5月27日、海軍記念日

日本海海戦記念式典
日本海海戦記念式典は、日露戦争における日本の帝国海軍の日本海海戦の勝利を記念して行われる式典のことである。1905年(明治38年)5月27日、日本の帝国海軍は、日本海海戦にて、ロシアのバルチック艦隊を破り歴史的な勝利を収めた。

これを記念して、同日(5月27日)は海軍記念日に制定された。 この海軍記念日は戦後になり廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。

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日本海海戦100周年記念式典
日本海海戦は1905年の5月27日に行われました。それからちょうど100年経った2005年、この区切りを記念して、日本海海戦100周年記念行事が行われました。到着後まず向かったのが記念宴に出席する三笠保存会会員の受付。招待状のハガキを提出して記念宴費を支払うと、領収書と共に記念品の引換券を渡されました。

そして隣の記念品配布所に行くと・・・・、そこには昨年の旅順旅行でお世話になった三笠保存会広報課の方が。思いがけない再会でした。そして頂いた記念品は、百周年記念純米酒、記念切手、名札、記念遺墨展のパンフ、「日本海海戦に学ぶ」入選論文集、記念式典の式次第。

そして中身を見ながら会場に向かいました。青空の下で式典に参加したいという期待通りになりました。そして会場にはすでに大勢の参加者が。翌日のニュースによると、当日の参加者は約1000人。今の日本の状況を考えるとこれが精一杯かもしれませんね。

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10:30、予定通り式典が開式されました。まずは日露両国の国歌吹奏で始まり、次に両国戦没者に対して1分間の黙祷がささげられました。黙祷後、まずは増田大会会長、名誉会長の中曽根元首相、防衛政務次官が式辞を述べました。内容はほぼ同じで、日露戦争や日本海海戦の意義、歴史に与えた影響、現在の日露友好関係などに関することでした。

さて、我々の世代にとって中曽根さんは、物心ついてまず最初に「日本の総理大臣」として認識した方です。その当時と比べるとずいぶん年をとられたなという感じもしましたが、それでも挨拶は元首相らしい力強い語り口でした。そしてこの5月27日という日は、何と中曽根さんの誕生日だったそうです(だから名誉会長に選ばれたのかな??)。
 
次にロシア、イギリス、アメリカの公使や駐在武官が挨拶。ロシア公使の方も挨拶しにくいだろうなと思ってはいましたが(特に中曽根さんのあとだから・・・)、日露戦争を教訓として今後の両国の友好関係を強調するなど無難にまとめていました。

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帝政ロシアの領土は広大なため、地政学的に3方面(北極海も入れれば4方面)に艦隊を維持する必要があった。黒海(オデッサ、セバストポリ)、バルト海(リガ、リエパーヤ)、極東(ウラジオストック、一部は租借地の旅順に分遣)を根拠地(北極海はアルハンゲリスクだが小規模であった)として、ロシアはほぼ同規模の3つの艦隊を保有していた。

バルト海艦隊はスウェーデンとの大北方戦争のさなかの1703年、ピョートル大帝によってフィンランド湾奥のクロンシュタットで編成された。最初の司令官となったのはノルウェー生まれのオランダ人コルネリウス・クルイス(Cornelius Cruys)であり、その指揮下でバルト海海域で大北方戦争を戦った。



1714年のハンゲの海戦ではスウェーデン海軍相手に艦隊創設以来初となる勝利をおさめ、大北方戦争でのロシアの戦勝に貢献した。以後、バルト海艦隊はスウェーデンやプロイセンとの戦争において活躍する。クリミア戦争の時点では蒸気船を持たなかったバルト海艦隊は、1860年代に入ると、南北戦争で海軍を強化したアメリカ合衆国から技術を導入してモニター艦を配備した。

また造船廠の建設、近代的な軍艦の建造、バルト海沿岸の砲台建設などを推進した。また極東のカムチャツカ半島や沿海州には独自の小艦隊(シベリア小艦隊)があったが、バルト海艦隊からも艦船を抽出して極東に回航させて分艦隊を置き、後の太平洋艦隊の母体となった。

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1904年、ロシアと日本との軋轢が高まり、2月8日、旅順港に停泊中のロシア軍艦に日本の水雷艇が奇襲攻撃(宣戦布告は10日、但し最後通牒は6日に手交されていた)し、日露戦争が始まった。同日に仁川沖海戦、4月13日には戦艦ペトロパブロフスクが触雷して沈没(太平洋艦隊司令長官マカロフ中将も戦死)。さらに8月10日の黄海海戦、同月14日の蔚山沖海戦などによって太平洋艦隊はその戦力を失いつつあった。

10月、ロシアはバルト海艦隊の主力を引き抜き第二太平洋艦隊を編成して極東方面に増派することとした。翌年2月さらにバルト海艦隊の残りの艦からさらに第三太平洋艦隊を編成し、極東へ送り出した。この結果、ロシア艦隊は、ロンドン条約により黒海の外に出撃できない黒海艦隊を除いてほとんど全てが日露戦争に動員された。

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3日間にわたる海戦の結果、第二・第三太平洋艦隊のうち、ウラジオストックになんとか逃げ込めた駆逐艦以上の艦艇はただ2隻のみ。これに対し日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらほとんど無いという、ほぼ無傷といっていい軽損であった。日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。

最新鋭戦艦4隻を擁し、世界最大・最強レベルと思われていた巨大艦隊が日本海海戦で忽然と消滅した事実は、日本の同盟国イギリスや仲介国アメリカすら驚愕させた。また、この大敗が反ロシア帝政の植民地や革命団を大いに活気づけ、やがてロマノフ王朝倒壊につながった。

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日本では、第二次世界大戦以前に5月27日を海軍記念日としていた。1905年5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定された。1945年を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。日露戦争は、アジアの小国日本が白色人種の欧州の大国ロシアに初めて勝利を収めた。

その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち、これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。

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産業革命を達成した西欧列強の嵐がアジアを襲ったときいち早く近代化(明治維新)を達成し西欧に立ち向かったのが日本です。その象徴的な出来事が日露戦争であり日本海海戦そして戦艦三笠です。人類の歴史において、多分、トラファルガー海戦に匹敵する近代史上最大にして最高のターニングポイント、歴史の潮流を変えた日それが日本海海戦ではないかと思っております。

赤城神社の軍人凱旋記念碑、ここに先祖の名前が刻まれている。俺から見るとウチの親父は一代前、ジーサンが二代前、という計算をすると、刻まれている先祖は四代前になる。三輪野山の消防第八分団に在籍している小谷米屋さんは六代目ということなので、この碑に名前があるのが小谷米屋さんの二代目。小谷米屋さんをモノサシにして悪いが四代の時代の流れは見事に一致している。



小谷米屋さんはなんとなく俺より年上な感じがするので昭和56年生まれの俺と何歳違うかも聞いてみたい。時代的な事もあることながら、小谷米屋さんはデッカイ寄付金を寄付した立場、ウチはその金で記念碑を建てるために動いた立場として名前が残っている。まぁ商売と家柄からして違いがあるのは当たり前、実際問題こんなもんだろう。

さらに今年は須賀という名前も発見した、去年アド街で一躍行列店になった小西屋蕎麦屋さんのことだ。新選組に蕎麦を打ったのが二代目だから明治末期となると違うのかな、と思ったが、今の小西屋の御主人が六代目なのか。看板娘は七代目の世代にあたるんだな。

色々な事を考えると、この名前が残っている須賀藤蔵という方は小西屋の三代目なのだろう、時代的に二代目が幕末、三代目が明治末期と考えると納得できる。(今考えると須賀家は、お茶屋の寺田さんと同じ、六軒百姓の一人になるので、蕎麦屋だけに限った話でもなく、釣具屋など他の家の可能性もあるのか)



木ノ村、平井の名前もある。木ノ村とは同級生もいたが根郷神輿会の木ノ村さんのように木ノ村書店の親戚、平井というのはもちろん平井舟。現在は土手拡張工事の区画整理で店舗を移転し、子孫が茶豆蘭として営業している。なお、この時代の話なので当然のことながら堀切紋次郎と秋元三左衛門の名前もある。街の歴史を勉強していくと全部現在に繋がってるから面白い。

現在を生きる流山町の代々の住人である寺嶋、横尾、大塚、豊田などの名前も存在している。この石碑に名前が残っている当時の町長、佐久間亀蔵町長の孫が赤城神社神社委員の佐久間さん、定年退職まで秋藤で働いていた。娘さんは俺と同じくらいの年齢という事で、当時の町長と街の若手だったウチの四代前、二代違う事から何となくそこらへんの雰囲気も見て取れる。さらに現在の「街の動ける若手」という自分の立場も理解できる。

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