でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年03月


雷様は稲の妻?

七十二候「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」
3月30日より、春分の末候「「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」。この時期より秋分にかけて、雷の発生が多くなるシーズンです。雷を発生させる寒冷前線や積乱雲は、雹や大雨を降らせたり、そして落雷では人身被害や火災、停電を起きたりと、何かと厄介ですが、古来より雷は稲作に恵みをもたらすとされ、篤く信仰されてきたのです。

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春秋去来・山の神は春、里に下りてきて田の神となる
農事と歳時記は密接に関連しています。日本を含めアジアの農耕民族は、稲作とともに一年のサイクルを繰り返すと言っても過言ではありません。そんな稲作農耕民にとって春雷は、米作りの時期の開始を告げる音でもあるのです。雷と言う字は読んで字のごとく、「雨」が「田」の上をおおっているさま。

稲の生育を見守る田の神は、冬の間山へと戻り、山の神となり、春の訪れを告げる春雷とともに再び里に下りてくる、という春秋去来の信仰があります。石川県の能登地方では山から下りてきた田の神を屋敷にお迎えし饗応する「アエノコト」と称する民俗行事が知られています。

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雷の別名は稲妻。そのままの意味では、稲の妻(奥さん)ということになりますが、「つま」とは古語では配偶者双方を指したので、この場合は「つま」で「夫」の意味となり、つまり雷は「稲の夫」であり、雷は稲をはらませる(実らせる)、とされてきたのです。

決してこれは迷信ではなく、実際落雷が稲の豊作と関連しているのは科学的事実。稲作に限りませんが、農作物の生育に欠かせない栄養素の一つが窒素。窒素は多く空気中に含まれ浮遊していますが、マメ科の植物は多く窒素を吸収して固着するので、マメ科の蓮華を米に先立ち田んぼに植えて、土にすきこむ農法がかつてはよく行なわれました。

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なんと、雷もまた、落雷によって空気中の窒素を土中に固着させる作用があるんだとか。つまり水田に落雷するほど、土中・水中に窒素が増えて、稲の実りがよくなる、というわけです。

雷の月別平均落雷件数を見ますと、冬の間は日本海側の豪雪地帯に局所的に発生していた落雷が、三月から四月にかけて全国的に発生し始め、五月、六月と夏に向けて急速に発生するのが見て取れます。

そして、八月をピークにして秋の稲の刈り入れシーズンを迎えるとガクッと数が減ります。まさに、稲作は雷とともにはじまり、雷とともに終わるものだ、ということがわかりますし、農民たちも強く実感していたのでしょう。

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聖域と生殖をあらわす雷の文様
私たちのごく身近にも、雷をかたどった意匠があります。神社の注連飾りや玉ぐし、お正月飾りの鏡餅などにたらされている段々に折られた紙を紙垂(しで)といいますが、これは一説では雷光、稲光をかたどったものといわれています。大相撲の横綱の土俵入りで紙垂がたらされますよね。相撲も本来、五穀豊穣を祈る神事。

ちなみに宮沢賢治は教鞭をとった花巻農学校で「注連縄の本体は雲を、〆の子(細く垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷(稲妻)を表わしている」と教えたそうです。落雷があると稲が育ち豊作となり、かつ邪悪なものを払うと信じられて、神聖なもの・場所や、生命の豊穣をもたらす食物や生殖の縁起物には必ず飾られるわけです。

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家紋にも稲妻紋というものがあります。しかし基本的には呪符(呪いを封じたりこめたりする)の一種であったため一般的には使用されず、陰陽道の家系の中御門中納言家成の子権中納言実教を祖とする藤原北家四条家流の山科家の専用紋であったり、桃太郎伝説の本場の中岡山藩主の伊東氏だったり、神社関連の家紋である場合がほとんどのようで、聖域をあらわす文様として扱われていたようです。

また、ラーメン丼の縁によく描かれている文様は「雷文(らいもん)」といいますが、これ、古代中国やギリシャなどで盛んに青銅器や土器、絵画の文様の縁取りとして使われていました。器は古代には呪術や祭祀に使われ、生命を生み出す神聖なものともされていました。その縁を雷文で縁取るのは、やはり同じように結界の意味・意図があったのではないでしょうか。



神聖なはずの雷様が、どうして魔である鬼と同じ姿なの?
そんな神聖なものとしてあがめられてきた雷様。でも、雷神の絵や彫像を見るとどうもおかしい。もっとも有名な俵屋宗達の「風神雷神」の屏風画でも、半裸で牙をむき、角をはやした鬼のような姿で描かれています。多くの場合、虎の毛皮をまとった姿で描かれることも多い。

どうして地獄の使者であり悪者の代表のような鬼とそっくりなのでしょうか。連太鼓(太鼓を輪形にいくつも並べた雷神の持ち物)こそ敦煌石窟の壁画にも見られ、大陸からシルクロードを渡ってきたアイテムだとわかりますが、それ以外はほぼ鬼の姿で描かれますよね。

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このところ陰陽師安倍清明を主人公にした物語や映画がヒットしたり、風水ブームが定着したりと、鬼門だとか裏鬼門なんていう呪術用語が一般的になり、丑寅の鬼門から入ってくる魔を鬼といい、鬼が虎の毛皮をまとい牛の角を生やしているのは丑寅の鬼門が由来、なんていうことも多くの人がご存知の事。

そう、牛の角と虎の毛皮、恐ろしげな風貌は鬼をあらわす典型的なイニシャルなんです。雷様はまごうことなく鬼なのです。雷は激しい自然現象で畏怖の対象でもあったので、恐ろしげな鬼の姿と重なったのでしょうか。



雷様が鬼の姿に似るのには、実はもっと深い理由があります。先述したとおり、田の神は山の神が春になり里に下りてきたもの。つまり田の神とはもともと山の神です。そして山の神とは、日本の土俗信仰では多くの場合「鬼」の姿をとったのです。

(時に天狗や河童の姿となることもありますが、全て同じものの異相です)山岳信仰では山は祖霊が帰る場所であり、死者の領域。だから、冥府の番人である鬼は山の神とも重なるわけです。山から下りてくる神・秋田の「なまはげ」が鬼の姿をしているのも同じ理由です。



昔話の登場人物たちが出てくるテレビの某CMで、鬼のキャラクターが雷様のアルバイトをしてる、という設定がでてきます。

まさに山の神である鬼は春、雷神として里に下りてきて田んぼの米作りを手伝う「アルバイト」のようなことをするんですから、製作者にそういう知識があるのか、単なるまぐれかはわかりませんが、なかなか真実をついていて神がかってるな、とびっくりしました。

古い伝承や伝統が失われているように思える現代でも、やっぱり連綿とした過去と今とは、深いところではつながっているのかもしれませんね。

最近の夏前後の集中豪雨の被害は、行き場をなくした雷神の嘆きのように感じなくもありません。田畑が少なくなり、実らせる作物も見当たらない町に下りてきた雷様は、どこに落ちればいいのかと、とまどっているのかもしれません。

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運河地域の観光振興に

平成29年3月30日、体験農園に物販店舗オープン
流山市西深井で民間が経営する体験農園「カナルファーム」に、農作物などを販売する店舗「カナルファームido(いど)」が完成し、平成29年3月30日にオープニングセレモニーが開かれた。同市の「流山本町・利根運河ツーリズム推進事業補助金」を運河地域で初めて活用した事業で、同地域の観光振興に役立てる。

カナルファームは、無農薬野菜の収穫などの体験メニューを提供する農園。農園を経営する農家が、母屋隣の井戸小屋を改修して店舗にした。店舗内には150年前の井戸が残されており、商品の陳列台として活用している。

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同店舗オープンにより、同農園で取れた農産物や手作りジャム、流山のみりんを使ったお菓子、地元作家の小物などを販売できるようになり、商品を通して流山をPRする。店主の矢口優子さんは「初めて流山に来たお客さんにも、流山が分かるようなお店にしたい」と意気込む。

オープニングセレモニーで井崎義治市長は「農商工を組み合わせていこうという姿勢に感銘した」と同地域の観光振興に期待する。

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採れたて野菜や果物、ジャム、みりんを使った焼菓子を販売
平成29年3月30日(木曜日)、利根運河地区で初めて市の流山本町・利根運河ツーリズム推進事業補助金を活用した店舗「カナルファームido(いど)」がオープンしました。

同店舗は、無農薬・減農薬で野菜や果物を栽培している農園「カナルファーム」で採れた農作物のほか、無添加の手づくりジャムやシロップ、みりんを使った焼菓子などを販売します。

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店舗名のido(いど)は、母屋に隣接する井戸小屋を改修したことに由来しています。店内には古井戸がそのまま残っており、小物などを展示するスペースとして、新たな役割を担っています。
 
また、同店舗と農園の「カナルファーム」という名前は、利根運河を建設する際に設計と監督を担ったオランダ人技師・ムルデルが、かつてこの家の離れに寄宿していたことが由来となっています。

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オープンに先立ち店舗の前で、同農園と店舗の店主・矢口優子さんと池森政治流山商工会議所会頭、井崎市長、石原副市長によるテープカットが行われました。

井崎市長は「開店までの努力に敬意を表します。カナルファームは現在の観光の重要な要素である体験ができるとあって、市のツーリズムの活性化と集客に期待しています」と挨拶をしました。

池森会頭は「商工会議所では、農商工の連携に力を入れています。同店舗は農業と商工が結びついた店舗で、さらにSNSを使った宣伝もうまく活用されており、モデルケースとなっていくよう今後に期待しています」と述べられました。

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店主の矢口さんは「開店の準備を始めて1年間、とても長かったですが、周りの方々に支えられてこの日を迎えることができました。農園で採れた新鮮野菜を市内の方に食べていただくだけでなく、人口が増えている流山市をより知っていただけるような店舗にしたい」と話をされました。

カナルファームidoでは、今後、農作物やジャムなどの加工品のほか、野菜の収穫体験や、農園で採れた野菜を使った料理教室なども行う予定です。また、敷地内にはきれいな観光トイレもありますので、利根運河におさんぽで訪れた際にはぜひ、お立ち寄りください。

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流山本町・利根運河ツーリズム

レトロでおしゃれなエリアで休日を
流山市の北部には利根川と江戸川を結ぶ利根運河が東西に流れ、中心部には明治時代以降の古い建物が集まっています。市は、観光客を呼び込めるポテンシャルが高いのはこの2つのエリアととらえ、さまざまな事業を展開しています。同エリアの観光振興を担当する「流山本町・利根運河ツーリズム推進室」の中山洋子さんに、とことん聞いてきました。

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「休日は、流山に行こう!」
ほのぼのとしたイラストマップが描かれ、その周りに古民家や料理の写真が並ぶ紙面。「広報ながれやま」10月11日号です。流山本町の歴史散策を楽しんだり、利根運河の水辺の自然に親しんだりと、秋の休日の流山観光を提案しています。

市の広報紙という括りから一歩抜け出した趣がありますが、「今までの広報にはない、”手書き感”のあるイラストマップを入れました」と中山さんは話します。古い土蔵や店舗を利用したカフェ・レストランやギャラリーなど観光スポットの写真からはおしゃれな雰囲気があふれていて、イラストマップと巧みに調和しています。

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この紙面づくりには「一度見て終わりではなく、保存し繰り返し見てもらえる特集を」という市長の意向もあったそう。あえて市民向けの広報に地元を扱ったのは、休日になると近隣の街や東京に出かけてしまうことが多い市民に、身近な観光資源を知ってほしいとの願いが込められています。若い人や女性の視点を意識してつくられたというこの広報、男女の別なく世代も超えて好評を博しました。

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市が支援、古い建物が新しい名所に
流鉄流山駅の西側に位置する流山本町は、松戸市から野田市へ抜ける流山街道沿いにあり、商業や水運を利用したみりんなどの製造業で栄えました。当時の姿をとどめる土蔵や店舗などの歴史的建造物が、使われないまま今でも多数残っています。

そこで市は、古き時代の風情を生かして観光資源とするため、平成23年度に「流山本町・利根運河ツーリズム推進事業補助金」制度を創設しました。建物の外観を保持しすることを条件に、改装費や家賃の一部を支援します。

物件は出店希望者が探してもよいのですが、市でも空き店舗を探し、持ち主と折衝を行い、出店希望者とのマッチングを図っています。飲食店やギャラリー、民芸品販売など業種は問いませんが、単なる空き店舗対策ではないため、その事業が「地域に根差し街の活性化につながるものであること」をポイントに審査します。

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この事業の1号店は、平成24年4月にオープンした「遊食伊太利庵 丁字屋 栄」。大正12年建築の足袋販売店の建物で、外観をそのまま残すだけでなく、足袋店の屋号「丁子屋」も受け継いだイタリアンレストランです。

また、「蔵のカフェ+ギャラリー 灯環(とわ)」は同年11月の開店。地元女性が補助金を活用して夢を実現したという店です。建物は国登録有形文化財の土蔵で、2階にあるギャラリーはカフェ利用客でなくても無料で見学できます。

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身近に感じる観光地として
「流山本町・利根運河ツーリズム推進室」は、補助金事業のほかにもさまざまな取り組みを行っています。流山本町地区への足となる流鉄流山線は、来年3月で開業100周年。車両を利用したイベントや地元を題材にしたアニメとのコラボ企画など、今年度は記念事業が目白押しです。

中山さんは「街は歩いて楽しんでほしいので、訪れるときはぜひ流鉄で」と言います。また、通水125周年を迎えた利根運河では、今年10月に記念式典を開催しました。中山さんは「流山本町地区では暗くなると、店先などに設置された行灯がいっせいに点灯します。夕暮れ時もぜひ散歩してみて」と教えてくれました。

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温かみのある灯りが道沿いに続き、それは幻想的。行灯は地元の幼馴染の二人が一つ一つ切り絵をあしらい組み立てたもので、商店などが購入・設置し、今では80基にまで増えました。このように地元の人々による自発的な取り組みは街づくりに欠かせないもの。

中山さんは、地元と一体となって街の活性化につながる観光振興を目指していきたいと考えています。街のよさを認めた人がリピーターになったり、口コミが広がったりして、訪れる先として「流山」の名がじわりと浸透しつつあると、中山さんは手応えを感じているようです。

そして、暮らす人々の温もりが伝わり、訪れる人に親近感を持ってもらえるような場所、知名度の高い”THE観光地”とは一味違う街を思い描いています。都心に近い住宅地としてのイメージが定着している流山市ですが、観光地としての取り組みにも注目が集まりそうです。

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ムルデル碑

東武野田線運河駅下車徒歩五分
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。流山と野田の境を流れる利根運河のほとりは、家族連れの散策にいい所である。春は桜花爛漫、夏は近くの森でしきりにカッコウが鳴いている。

かつてこのあたりには料理屋や雑貨屋、畳屋、鍛冶屋、自転車屋、魚屋など30軒以上の店が並び、毎日何百艘もの高瀬船や川蒸気通運丸などが往来していたが、今は割烹旅館新川から江戸川にかけての土手上には、一軒の人家もなくひっそり閑としている。

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東武野田線の運河駅で降りて、運河橋を渡り、左に折れて三分も歩くと赤御影石のムルデルの碑が見えてくる。ムルデルは利根運河の工事を完成させたオランダの土木技師で、昭和59年その功績をたたえて流山市博物館友の会を中心とする有志たちが寄金して顕彰碑が建てられた。

ローウェンホルスト・ムルデルは、嘉永元年(1848)4月、オランダのライデン市で生まれる。デルフトの工業大学で土木工学を学び、卒業すると水利省の技師となり、スエズ運河のボートサイトにオランダの交易所を作ったり、ハーグ市の上水や下水用の運河計画などに従事していた。

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ちょうどその頃、日本では築港や護岸、運河などを手がける優秀な西欧の土木技師を欲していた。明治4年、日本の民部省はオランダ医師パウダインにすぐれた土木技師の選任を依頼し、明治5年ファンドールンら多くのオランダ人技師たちが日本に招かれている。その後、お雇い外国人としてムルデルも来日した。

日本に来て最初の仕事は、明治12年12月に行われた新潟港の調査であった。その後、東京湾計画、富山県常願寺川、神通川、庄川などの調査、見沼代用水の改良計画、三角築港など多くの調査や工事にかかり、明治18年2月に、ムルデルは利根運河計画書を内務省に提出している。そしてついに明治21年7月、千葉、茨城両県知事を迎えて、地元民待望の利根運河開削式が行われたのである。ムルデル40歳の時であった。

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西深井村の矢口伊之助宅の離れを宿舎として現場監督にあたった。工事は三つの地区に分けられて請負制で行われた。政府と取り決めた工期は約二年、工事に従事した人夫の数は約二百二十万人。工事はまさに人海作戦。クワやツルハシで掘り、モッコで泥を運ぶという原始的なやり方。

言葉も不自由なら生活習慣も全く違う中で、毎日三千人近い労働者たちを叱咤激励し、ついに明治23年2月25日通水にこぎつけた。ムルデルにしてみれば6月18日に行われる利根運河開通式まで日本に滞在していたかったが、任期満了による日本政府の帰国命令。

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5月11日横浜を立ち、万感の思いをこめて母国オランダへと向かっていった。帰国後ムルデルはハーグに住み、多くの論文を発表し、結婚もし、明治34年3月6日ナイメーヘン市で53歳の生涯を閉じた。いま市営墓地で永遠の眠りについている。なお、碑文の全文は次の通り。

「A.T.L.ローウェン・ホルスト・ムルデル(1848~1901)はオランダのライデンに生まれた。土木技師となり、来日したのは明治12年(1879)ムルデル31歳の時であった。それからおよそ11年間、ムルデルは日本政府のお雇い外国人技師として利根川、江戸川、鬼怒川の改修や新潟港、三角港の建設計画等にあたった。明治23年(1890)に完成した利根運河は、我が国土木史上屈指の大事業で、ムルデルが日本で手がけた最後の仕事であった。」

そして碑文の裏面には、「この碑は昭和59年(1984)4月8日、流山市民が中心となって結成したムルデル顕彰碑建立実行委員会によって建立され、流山市に寄贈されたものである。」

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文を追加しておく
1987年(昭和62年)5月31日に流山市立運河水辺公園が開園し、1990年(平成2年)6月8日に利根運河に改称。2000年(平成12年)4月に北千葉導水路が完成し導水路としての役目を終えた現在では、水質改善を図ることを主眼に、年間20日あまり4-6時間/日の頻度で、吐出量2.0m³/sのポンプを用いて利根川から導水が行われ、環境用水として親水公園の整備などが行われている。

2006年2月、利根川水系河川整備基本方針が策定され、利根川からの500m³/sの洪水分派計画が削除された。2006年(平成18年)度には、土木学会が選奨土木遺産に、2007年(平成19年)11月30日には、経済産業省が近代化産業遺産に認定した。

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昭和14年3月29日、立原道造没

辰野金吾賞(建築設計)、中原中也賞受賞(満24歳没)
昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒、立原杏所などがいる。

学歴は東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。墓は東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。

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1914年(大正3年)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという。

1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。

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東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した1931年(昭和6年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。

翌1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。

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建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三・浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった。

帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌1937年(昭和12年)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。

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詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したが、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。

詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄、高木東六、高田三郎、別宮貞雄、三善晃などが作曲している。

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立原道造全集
最初の全集は、1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)にかけて、山本書店から刊行。戦後は角川書店から3度刊行している(1950-51年、1957-59年、1971-73年)。

決定版全集が2006年(平成18年)より2010年(平成22年)にかけ、筑摩書房全5巻(順に詩�T・詩�U・手記・建築図面・書簡)で刊行された。

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立原道造記念館
1997年(平成9年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立された。記念館は、2011年2月20日に閉館。2011年2月、信濃デッサン館内に「立原道造記念展示室」を新設。(※立原道造記念館が2010年9月26日で休館、さらに、2011年2月20日をもちましてついに閉館となりました。)

立原道造が生前、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)時代に東京市電(現在の東京都電車)の切符収集の趣味を持っており、自らコレクションした東京市電切符3,000枚が現存している。その切符などが「立原道造記念館」で、2010年3月から9月までの特別展覧会にて一般公開された。

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さよなら立原道造記念館
携帯もネットもない、道造が生きていた昭和のはじめは、まだまだ手紙というものがコミュニケーションの重要なツールでした。立原道造は特に手紙というものを自分なりの使い方で120%愛用していたと思います。

常にはがきをポケットにしのばせ気が向いたら、郵便局や駅でちょちょっと書いて出したり。新しい筑摩版立原道造全集の第5巻には絵や建築スケッチ入りのはがきや手紙の数々が載せられています。

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昭和初期のひとらしく、巻紙の手紙も幾つか残されており、その美しさに圧倒されます。また、写真パネルやネクタイなどの遺品資料、原稿などの資料がほどよい距離を保ちながら展示され、初めて来られた方、立原道造をご存知なかった方でも、興味深くご覧になれるように工夫されていました。

特に最後の展示は遺品を中心とした展示でしたので、たくさんのおしゃれなネクタイの色目や、最後にして初展示のバスケットなど、立原ファンにはこたえられない展示品もあったかと思います。詩人であり建築家でもあった道造の真骨頂、すばらしい建築スケッチや透視図など建築として、また絵としての才に舌を巻いた方も多かったかもしれません。

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コンパスやT定規など、大学時代に愛用された建築の勉強のための道具なども面白い展示品のひとつでした。こんなにたくさんのおしゃれなネクタイ、ボヘミアン・タイまであります。ほぼ全部展示されたのは、このときが最初で最後では。

ずらっと並べて展示された、直筆原稿のうつくしさ、また、さりげなくパネル化された手書きの野の花の絵など道造の世界が余すところなく展開していました。花のパネルの下のコーナーは、通常はヒアシンスハウスの模型が置かれていたのですが今回は遺品の一挙大展示ということで初めて出すバスケットが所狭しと展示されました。

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3階の踊り場には椅子がふたつ。実はこれ、道造の親友、生田勉氏のお宅にあったものなんです。でも、普通に椅子としてここに置かれ、アンケートを書くお客様たちが窓辺でほっと座るコーナーになっていました。最後には、市電切符の展示が写っています。

これは実は、初公開にして最後の展示となりました。道造は少年時代に、市電の切符を集めていたのですが、相当の数が保存されてきてはいたものの、なかなか展示にするまでに出来ず、この会期にあわせて、はじめて正確に計測され展示が実現しました。

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ほかにも、パステル画や、道造ファンののどから手が出そうな“ほんもの”の詩集『萱草に寄す』、『暁と夕の歌』など。3階のフロアを入ってすぐ左側の壁面はこんなふうに遺品のコーナー。まるで、「バー・コペンハーゲン」と名づけた屋根裏部屋に入っているような錯覚を与えてくれるコーナーでした。

立原にふさわしいランプ、そしてパステル画「二匹の魚」。この遺品たちもみな、大事に梱包されて上田の信濃デッサン館に、保存の旅に立ち、或いは元の所蔵主のもとに帰りました。これまでに何度も出された全集たちも道造デザインになる椅子とテーブルとともに勢ぞろい。本当にすてきな場所でした。



文京区弥生、東大弥生門のまん前にあります、立原道造記念館が2010年9月26日で休館、さらに、2011年2月20日をもちましてついに閉館となりました。9月26日は、道造と記念館を偲ぶ大勢の方々がお集まりくださり、ささやかなお別れの会が開かれ、97年開館から13年余りにおよぶ立原道造顕彰の場としての幕を閉じました。

カウンターには、道造が十代で書いたパステルや水彩をはがきにしたものや、筑摩版立原道造全集のご紹介、最新号の館報などが置かれ、受付内には、はがきや図録などさまざまな販売品が置かれていました



立原が描いたたくさんのパステル画や建築スケッチなどをもとにいろいろな絵はがきが造られ、また、新しい展示のたびに、整理・研究された資料をもとにした図録などが作られていました。さて、ではここで、もう一度外に出まして外観を改めて見てみましょう。エントランス詩碑を撮影する方も多かったです。



立原道造

夭折の詩人
東葛人物事典に文が残っているので電化する。わずか24歳と8ヶ月という若さでこの世を去った抒情詩人立原道造は大正3年、東京日本橋の商家に三人兄弟の次男として生まれた。長男は3歳で病没し、6歳のとき、父が亡くなったため、「立原道造商店」として家督を継いだが、実務は母や番頭が行っていた。

(※前年に養徳幼稚園に入園、立原道造商店は日本橋区橘町三丁目一番地の発送用木箱製造業)大正10年、久松小学校に入学、天文学が好きで、「子供の科学」を愛読する大人しい少年だったが、勉強は主席を通し、開校以来の神童と言われた。

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関東大震災で流山に
大正12年9月1日に発生した関東大震災で焼け出された一家は、両親が共に従兄弟の関係にあたる、千葉県東葛飾郡新川村大字北(現流山市)の豊島朋七方に身を寄せる。

当時の豊島家は当時東武野田線の初石駅まで他人の土地を踏ずに行けた、と言う大地主で10畳の座敷二間と15畳の広間が、使用人を含む立原一族50人あまりに占拠された。(※豊島家から東武野田線初石駅まで直線で1.3Km程)

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二学期から、道造は地元の新川小学校の三年生に編入する。のちに文学仲間に宛てた手紙の中で、作文が褒められたことや、川に落ちて級友たちの親切に触れたことなどを、懐かしんでいる。

12月には仮校舎ができ、久松小学校に復学する。昭和2年、名門府立第三中学校に進むが、ここでも常にトップクラスを通し、芥川龍之介以来の秀才と言われる。

しかし、昭和4年3月下旬から中学三年のほぼ一学期間、神経衰弱のため、再び豊島家に寄宿することになる。豊島家では、気ままにパステル画を描いたり、詩を詠んだりして穏やかな時間を過ごす一方で、筆まめな彼は流山の郵便局から母親や弟あてに、葉書や封書を送っている、

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堀辰雄との出会い
その後、旧制第一高等学校に進学、文学的才能を開花させてゆくが、なかでも詩誌「四季」の中心的存在である堀辰雄との出会いが彼の人生を大きく変えた。やがて東京帝国大学建築学科に進むが、文学以外でも建築家として優れた才能を発揮し、その年の最も優れた設計や製図に対して送られる辰野金吾賞を三年連続して貰っている。

昭和12年、大学を卒業して建築家として歩み始めるが、じわじわと病魔に蝕まれ、「そよ風をゼリーにして持ってきてください」という哀しくも美しい言葉を残し、昭和14年3月29日、この世を去った。



この二年前、「四季」の仲間だった中原中也が病没。彼を記念して設けられた中也賞の第一回受賞が決まり、喜んだのも束の間だった。彼が生前に出した詩集は「萱草に寄す」と「暁と夕の詩」の二冊のみである。

後輩の中村真一郎は「・・・彼は時代錯誤のように生き、不思議に透明で、夢のような甘美な純粋詩をその骸骨のような細い指先でそこらにまき散らしながら、通り過ぎて行った」と、述べている。

平成9年の命日、堀辰雄夫人の多恵子さんを館長に迎え、立原道造記念館が、東大弥生門の前にオープンしたが、設立者や館長の死を経て、残念ながら、平成23年2月閉館。その後は、信濃デッサン館で道造の作品を公開している。

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立原道造はなぜ流山に来たのか

新川小学校の三年に編入
東葛なぞふしぎ事典に文が残っているので電化する。立原道造が関東大震災で焼け出されて新川村北(現流山市北)の豊島家に身を寄せたのは大正12年9月9歳の時である。豊島家の現在の御主人の祖父にあたる朋七は道造の父と従兄弟同士で、朋七が東京の中学に通っていた頃の寄宿先が道造の生家だった。それで来易かったらしく、立原家一族が大勢で避難してきたのである。

道造は新川小学校の三年に編入し、豊島家から通学した。道造は大正3年東京市日本橋区橘町で生まれる。五歳の時に父が死亡し、以後立原道造商店として、家業の荷造り用木箱製造業は母トメが続けた。またこの父の生家も新川村平方原新田(現流山市美原)の狼家で、祖母のだいさんや父に似た叔父の新治郎がいた。

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その年の12月生家の仮建築が完成し、彼は東京の久松小学校に復学する。昭和2年東京府立第三中学校に入学する。先輩に芥川龍之介や堀辰雄がいて、彼は三中でも芥川以来の秀才と言われた。しかし三年の一学期に神経衰弱のため休学して、再び新川村の豊島家と狼家で療養することになる。

 十六はかなしき年ぞ灰色の
  壁にもたれて泣くことを知る

新川小学校の旧校舎の下見板に白墨で落書きされていた歌である。伊藤晃著書の『江戸川物語』の中で「立原道造のこと」として恩師の布留川先生から、ある晩こんな話を聞いた。と述べている。

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「私がこの学校に着任して間もなくのことでした。ある日の夕方、校舎の見回りしましたらね、妙な落書きを発見したのですよ。校舎の裏手の下見板に、白墨で書いてあったのです」

前述の歌である。伊藤氏は「それから30年もして私ははた、と気がついた。立原道造と旧新川村の因縁を詳しく知っていたからで、ことによるとあの歌は立原の歌ではないか、書いたのも立原少年ではないか」と書いている。

その頃彼はこれに似た啄木調の歌を何首か作っている。年も16位だったし、石川啄木や北原白秋を愛読し、自選の歌集「東葛集」「両国閑吟集」詩集「水晶簾」にまとめている。

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1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した。

1931年(昭和6年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。翌1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。

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高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。夏、堀辰雄に誘われ初めて軽井沢に行き、以後毎夏信濃追分に滞在する。昭和9年に創刊された詩誌「四季」に掘、三好達治、丸山薫らと参加し、津村信夫などとともに四季派を代表する詩人となった。

建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三・浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。



翌1937年(昭和12年)、大学を卒業。石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、七月に浅間高原の風物を背景にした詩集『萱草に寄す』の詩集を出版。12月にも二冊目の『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。

昭和13年最後の旅となる長崎に滞在中に吐血し、帰京後、中野の東京市立療養所に入所する。昭和14年2月結核が小康を保っていたころ、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞、病床の彼を喜ばせた。三月に入って友人達が見舞いに行くと詩人立原は「五月のそよ風をゼリーにして持ってきてください」と注文したと言う。

3月29日立原道造の生命は燃え尽きた。満24歳だった。流山は16歳の多感な少年道造の心を癒したふるさとだったのです。(※1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したが、同年3月29日午前2時20分、結核のため24歳で没した。)

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詩人立原道造の流山時代

東葛文学なんでも事典に文が残っているので電化する
「人混みの中で、その人が詩人以外の何者でもない、とすぐ判る人物には、私は今までに立原道造以外には会ったことがない」絵に描いた詩人の姿をして飄々と立原は歩いていた、と中村真一郎は書いている。

昭和12年、中村中也が病没、「四季」で同人だった立原は、中也の形見の黒い帽子かぶり、黒いマントを着て、よく街を歩いた。その二年後立原は死んだ。中也30歳、立原24歳。共に結核だった。



立原道造のその短い生涯の中で作った詩集は、『萱草に寄す』と『暁と夕の詩』の二冊のみである。いづれも昭和12年の7月と12月に発行された。彼はこの薄い二冊の詩集を「風信子叢書」と名付けて、昭和13年の夏にはシリーズの第三冊『優しき歌』を出そうと考えていた。しかし、三冊目はついに発行されずに彼は世を去った。

立原は大正3年(1914)7月30日、東京市日本橋区橘町で生まれた。前年長男一郎が3歳で死亡し、2年後に弟の達夫が生まれる。5歳のとき、父貞次郎が死亡し、以後「立原道造商店」として家業の発送用木箱製造業は母親のとめ(光子)が続けた。



大正12年9月、関東大震災で焼け出された立原一家は、旧新川村北(流山市北)の豊島家に身を寄せた。立原9歳の時である。彼は新川小学校三年に編入した。豊島家の現在の主人藤夫氏の祖父にあたる朋七氏は、彼の父貞次郎と従兄弟同士で、朋七氏が東京の中学に通っていたころの寄宿先が彼の生家だった。

また父貞次郎の生家も、新川村平方(流山市平方)の狼家で、祖母のだいさんや、父に似た伯父の新治郎さん一家が住んでいた。その年の12月、生家の仮建築が完成し、彼は東京の久松小学校に復学する。昭和2年、東京府立第三中学校(現都立両国高校)に入学、先輩に芥川龍之介や堀辰雄がいた。彼は三中でも芥川以来の秀才と言われた。

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昭和4年4月、中三の新学期に神経衰弱のため休学して再び豊島家で療養することになる。豊島家には彼より4歳年上の子息友七さんがいた。あるとき、二人で朋七の蔵書を整理したことがあった。朋七さんは漢籍などもよく読まれた読書家だった。蔵書を二人で分類して一冊毎に印を押して整理した。

おそらく本好きの彼は蔵書の中に興味ある本がないかと楽しんでやっていたことだろう。中二の頃から北原白秋の門下で、国漢の教師だった橘宗利の手ほどきを受け、短歌を学んでいた立原は、ときどき短歌も作った。ある日、三中の先輩だった伊達嶺雄(千葉農業専門学校園芸科在学中)が豊島家を訪れる。

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早速二人は田園から蛙を捕まえてきて、奥の座敷で何かしている。友七さんが見ると蛙を解剖しているのである。彼は蛙に題材をとった短歌を集めていた。(後になって解ったことだが、その頃三中では理科の実験で、蛙の解剖をやっていた)(※短歌を省略)

立原は豊島家から平方の狼家にときどき出かけて泊まっていた。新治郎の娘の、のぶさんは「運河へはよく父が自転車へ乗せて連れて行って置いてくると、暫くして周辺を散歩しながら帰ってきた」という。彼は自転車に乗れなかったらしく、いつも新治郎さんが荷台に乗せて送っていった。(※短歌を省略)

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「祖母が糸車を廻して糸を紡いでいるのをパステルで画きながら、静かに話をしている姿を思い出します」と、のぶさんは言う。その頃、彼が描いた利根運河のパステル画は、いま、文京区弥生の「立原道造記念館」に収蔵されている。立原の流山生活は、優しい穏やかな人達に囲まれて静かな日々であった。

二学期になって元気に登校した立原は、9月に橘先生に伴われて世田谷若林に北原白秋を訪ねている。その時のことを後に橘先生は「帰途、立原の感激と昴奮に輝いていた顔は、今でもよく思い出せる」と書いている。昭和6年、第一高等学校理科に入学、昭和9年、東京帝国大学工学部建築科に入学。



5月に堀辰雄の月刊誌「四季」の創刊に参加する。7月、近藤武夫の招きで信濃追分の油屋を訪れ、堀辰雄と共に8月末まで「村ぐらし」をはじめる。以後毎年夏は追分で過ごす。昭和12年、大学を卒業。石本建築事務所に就職する。この年『萱草に寄す』と『暁と夕の詩』が刊行される。

昭和13年9月、山形、仙台、盛岡を旅し、11月下旬、南方への旅に出発する。しかし冬の長崎の旅は彼の結核を悪化させ、途中で帰京する。12月下旬、中野の東京市立療養所に入所する。昭和14年2月、第一回中原中也賞授賞が決まり病床の彼を喜ばせた。3月29日、立原道造の生命は燃え尽きた。満24歳。

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室生犀星は、「立原は五尺八寸もあった。色が白くてクリクリした小気味のよい顔立ちの美青年型で」と、その面影を偲んでいる。立原道造は、浅間高原に咲く淡黄色のゆうすげ(萱草)を愛した。それは現実をはなれた夢幻の世界のものであった。(※詩を省略)

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毎年3月28日、花生神社祭礼風流

島根県隠岐の島町
隠岐島後にある都万村津戸(つと)では、毎年3月、花生神社の神幸祭で百手(ももて)的神事が行われます。「弓祭り」ともいわれるこの行事は、氏子全員の厄を背負う二人の役主(やくぬし)が矢を放ち、悪魔退散を祈る悪魔祓(ばら)いの神事です。
 
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当日は、神社で祭典が行われた後、境内からほど近い海岸まで行列し、砂浜で百手的神事が始まります。まず、役主のうち年長者が「カンの矢」と大声で叫びながら、2本の矢を放ち魔人を里の外に追い払います。

次に、約20メートル離れた所に作られた直径2メートルの大的と直径50センチの小的に、2人の役主が計6本の矢を射って悪魔退散を祈ります。このときは作法が重視され、弓を引く役主の姿には張りつめた気迫が宿り、神聖な雰囲気があたりを包みます。

毎年3月28日の例祭で、百手行事が特徴的。役主が、「カンの矢」と大声で叫びながら東西の山を目指して矢を放つ所作の豪壮さと優雅は見物です。※百手行事は午前11時30分頃から

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隠岐の島で伝統行事「花生神社祭礼風流」 
約300年続く、島根県隠岐の島町津戸の花生(はないけ)神社の伝統行事「花生神社祭礼風流」が28日、同神社などであり、悪魔退散を祈願する百手的(ももてまと)神事が古式ゆかしく営まれた。百手的神事は近くの津戸漁港であった。氏子から選ばれて神事を執り行う「役主(やくぬし)」の大前を介護士竹林諒さん(23)、小前を郵便局員古川清士さん(46)が務めた。かみしも姿の2人はゆったりとした所作を披露し、最初に竹林さんが「カン(神)の矢」と叫び、東西の空に矢を1本ずつ放った。




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平成28年3月27日、「復興会館」完成の式典

我孫子・布佐に災害拠点
東日本大震災の液状化で大きな被害を受けた我孫子市布佐(ふさ)東部地区に、多目的施設「ふさ復興会館」が完成し、平成28年3月27日、記念式典があった。地域の活動の場や、災害時の現地支援の拠点となる。
 
同地区は一二・五ヘクタールが液状化し、民家百十棟が全壊した。震災による市内の全壊家屋の八割を占める。復興会館は「災害時の拠点や、みんなが集まって話し合う場が近くにほしい」との住民の要望を受けて実現した。

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市の担当者によると、別の地区に転居する被災者が相次ぎ、住民の間には地域社会が崩壊してしまうとの危機感があったという。復興会館は木造平屋百七十五平方メートル。ホールと会議室に加え、キッチンやシャワールームを備える。震災のことを伝えるため、館内には当時の写真を展示している。
 
式典には被災者ら約三十人が出席。星野順一郎市長は「地域コミュニティー再生の場として日ごろから活用してもらいたい」と話した。同地区被災者の会の代表井上正則さん(73)は「震災から五年がたち、復興もほぼ完成に近いところにきている。非常に立派な建物ができて、会の活動も一区切りになる」と話した。

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「ふさ復興会館」

震災の経験ふまえ“工夫”
5年前の東日本大震災で、液状化により広い範囲で被害を受けた千葉県我孫子市布佐地区に新たな地域の施設が完成した。震災の経験をふまえ、随所に工夫が凝らされている。

千葉・我孫子市の交差点脇に建つ平屋の建物は、3月末に完成した「ふさ復興会館」。50人ほどを収容できるホールや、大きな鍋なども収納可能なキッチンなどを設置している。一部、復興交付金を活用し、市が建設。普段は地元自治会が管理している。

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5年前の東日本震災では、布佐地区の12.5ヘクタールで、液状化が発生し、住宅や道路などに被害が出た。こうした震災の記憶を風化させないため地域の歴史や被害などを記した看板を表に設置。また、5年前の被害の状況と現在を比較した写真を廊下に展示している。

もうひとつの大きな役割は「災害時の拠点」。災害が起きたとき、市と住民が協力して災害対応の拠点として機能する。震災の経験をふまえシャワールームは2か所、車いす対応のトイレも設置されている。

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布佐二丁目自治会・加藤年史会長「自治会活動ばかりでなく地域でいろんな団体や個人が活動しているけど、そういう人たちが自由に使えるような会館にしたい。(震災から)年数たてば忘れられるのではなくて、ずっと後世に伝えていく、知ってもらう。

頼れるところがあることが住民にとって大きいのでは、安心材料になるけれども避難は住民と自治会で、連係プレーをちゃんとしていかなくてはならないことは常に頭に置いておかなくては」将来的には、非常食や浸水時の移動用のボートなどの装備も必要と考えている自治会。今後、市に要望していきたいとしている。

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地価急落・対策費高額

液状化の被災地、去るか残るか
東日本大震災では、首都圏の各地が液状化に見舞われた。千葉、茨城両県では計2万5千戸が被災。傾いた住宅を再建したうえでなお、地盤対策の負担が続く地域もある。あきらめて土地を離れる人、未知の対策に不安を持つ人。住民一人ひとりが重い決断を迫られている。

都心からJR成田・常磐線で1時間。千葉県我孫子市の布佐(ふさ)駅から徒歩10分圏の都(みやこ)地区に、約2千平方メートルの空き地が広がっている。大震災による液状化で壊れた13軒の住宅が解体され、更地のままになっている。

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40年余り警視庁に勤めた井上正則さん(73)の土地135平方メートルもある。1984年に建てた住宅が被災し、玄関付近は60~70センチも沈下した。震災から1カ月後、車で15分ほど離れた地区外に中古の住宅を探し、夫婦で引っ越した。元の家は市の事業で取り壊されたが、土地の買い手はつかない。

跡地を毎週訪れ、野菜を作る。「ただ草を生やしておくよりはいいから」。この地区を含む布佐東部地区は、利根川の堤防が決壊してできた沼を戦後、川砂で埋め立てた。震災で約12・5ヘクタールが液状化し、住宅110戸が全壊した。

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市は将来に備え、ポンプで宅地の下から一帯の地下水をくみ上げる「地下水位低下工法」による地盤対策を計画した。だが、1戸あたり年5千~1万円のポンプ維持費を永久的に負担することになる。同意は2割に満たず、市は断念した。井上さんも「子や孫にまで負担をさせられなかった」。

震災前の都地区に549人いた住民のうち120人が去った。井上さんは空き地を前に「相場より安くてもいいから売れればいいが……」と切なげだ。周辺の路線価は、震災前の1平方メートル約4万円の半値近くだ。

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残った人も複雑だ。4代続く米店を営む根本貢一さん(66)は液状化で店舗兼住宅が全壊。近所の人らに励まされ、3年前の春に再建してプレハブで店を構えた。だが、周囲に10軒近くあった商店はほとんど消えた。スーパー、中華店、床屋、井戸端会議の場だった酒店もない。

お年寄りの姿もめっきり減った。根本さんの妻(64)はいう。「どこからが『復興』といえるのかしらね」私有地のため、国が費用の半額、市が最大100万円を補助しても1戸あたり200万円弱の個人負担が生じる。一部の地区では個人負担額が420万円まで跳ね上がり、断念したケースも出ている。

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小中一貫教育

教員ら研究会、我孫子・布佐中
我孫子市の布佐中学校を主会場に、小中一貫教育推進中学校区の公開研究会が開かれた。市内の教職員、地元の保護者ら約六百人が授業の様子を見学し、一貫教育の狙いなどの説明に熱心に耳を傾けていた。

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市では十三小学校、六中学校の市立全校で二〇一九年度に、地域の小学校と中学校が一体となって指導に取り組む一貫教育をスタートさせる。市教育委員会は一四年度、布佐中学校区を「推進地区」に認定し、布佐中学校は布佐、布佐南両小学校と協力し、小中一貫教育を先行実施している。

研究会では、英語などの授業が公開されたほか、児童生徒らが、地元のみこしから創作された「だしお音頭」や吹奏楽を披露した。「我孫子市が推進する小中一貫教育」をテーマに講演した京都産業大学の西川信広教授は「地域と一体化した“布佐学園”になってほしい」と呼び掛け、小中の教員同士の交流も求められることを説いた。

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布佐の地名の由来

郵便番号270-1101
東葛地名事典に文が残っているので電化する。旧布佐町は、明治22年までは布佐村。はじめ南相馬郡に属していたが、明治30年から東葛飾に所属。布佐町、江蔵地、布佐下、浅間前、大作、相島、三河屋の各新田の七ヶ村が合併して布佐町となった。昭和30年我孫子町に合併、同45年我孫子市になる。

布佐郷の名は、古代にすでに存在したことが「和名抄」に記されていて、「古語捨遺」に「好麻の生ずるところ、これを総ノ国と請う」とあり、また「下総に布佐の郷あり、けだし州名によりて起る所なり」とある。古代では麻をフサと読んだという。現在、成田街道(国道356号)沿いの新木と布佐との境に「これより東 布佐郷」の標柱が建っている。

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布佐は中心部の東西にJR成田線が通り、それに並行するように北に成田街道がある。市街は駅周辺から街道筋に展開するが都心から50分余りのところにありながら、まだ地方の田舎町という落ち着いた佇まいがある。田山花袋が若き日の柳田國男をモデルに書いた『野の花』に、明治30年頃の布佐の町を次のように記している。

「自分の故郷は下総国某郡船越(布佐がモデル)という田舎の駅であるが、小さな町の割には随分と富豪も多く、家並も整って人間も新知識に富んだ者が比較的多い所である」街中の約3キロほど成田街道筋を歩くと、今もその残照がそこここに感じられる。

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駅近く西の台地に鎮守竹内神社がある。境内に「日露戦争旅順陥落英文記念碑」があり、柳田國男、井上二郎など当時著名な名士7人の名が刻まれている。ここの祭礼は各町内自慢の山車が競い合い、神輿の宮入は豪快さで知られるが、盛大な祭礼は布佐河岸時代の繁栄と心意気が偲ばれる。

昭和5年、利根川に架けられた栄橋上から望む街中は、河岸問屋の蔵や黒瓦の屋根が所々に点在している。近隣センター「ふさの風」がある所が気象学者岡田武松の屋敷跡。「天気晴朗なれど波高し」の予報を出し、日露海戦を勝利に導いた。街道を挟んで、日本民俗学の父と言われている柳田國男や画家の松岡映丘の実家松岡家がある。

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柳田、岡田は幼馴染で共に文化勲章を受章している。人口が3000にも満たない布佐の町で、道一筋隔てて文化勲章受賞者を二人も輩出している。松岡家の先に布佐御三家の一つで、大正時代、親子二代の代議士を出した榎本家がある。

文政年間、あの渡辺崋山も訪れた家で、薬医門の重厚さ、庭園の石灯籠の見事さに戦前の地主、豪商の実力をみることができる。ちなみに布佐御三家は榎本家、「花妻」の酒造で知られる斉藤家、新田名主の井上家。布佐は昭和初期に利根川の堤防が整備されるまで商家も民家も川に向かって店構えや玄関があった。

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水運の街ならではの家並であった。(※川ありき、立地に恵まれたからこそ、街が存在している、これは流山も同様)土手道と成田街道が合流するあたりから「都」地区になり、網代場と呼ばれる場所に馬頭観世音を祠る御堂がある。この網代場に貞享4年松尾芭蕉が来訪し、「布佐の夜は生臭し」と、その印象を『鹿島詣』に記している。

このあたりは美味な鮭がとれる所として『利根川図志』にもあるが、観音堂の裏手にある道がかつての鮮魚街道で、銚子で陸上げした魚を松戸河岸へ馬で運ぶ起点であった。明治3年末曾有の大洪水があり、利根川の土手が決壊して切れ所沼が出来た。ここが昭和35年、埋め立てられて宅地になり、東日本大震災の時に大被害を被った。

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利根川図志

岩波文庫、昭和13年11月、校閲柳田國男
東葛文献百科事典に文が残っているので電化する。日本の有名な三大地誌といえば、鈴木牧之の『北越雪請』と近藤富蔵の『八丈実記』、それに赤松宗旦の『利根川図志』があげられる。

江戸時代もいよいよ終わりに近づき、安政年間に入ると、アメリカやロシアの船がしきりと我が国をうかがい、幕府の鎖国政策もゆるぎ始め、内外ともに風雲急を告げる時であった。

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その頃、茨城県の布川に「関東の母」とも言われる利根川と取組んでいる一人の医者がいた。赤松宗旦であった。彼は父が永年かけて集めた資料をもとに、さらに調査を続け、安政元年(1854)49歳のとき『利根川図志』の編集執筆にかかり、安政5年(1858)に全六冊を完成した。

いわば利根川事典みたいなもので、埼玉県栗橋から河口の銚子に至る利根川についての伝説や漁法、祭礼、物産、神社仏閣、薬草、名所旧跡などが絵入りで詳細に書き記してある。



楽しい細密画
この本の特徴は68点の細密な図があり、文字を読まなくとも絵を見ているだけでも楽しい。山形素真、湖城喜一、玉蘭斎貞秀、一立斎広重といった画家を動員してのビジュアルな本で、いわば歴史図鑑のはしりといえよう。

布川の魚市風景の図、地蔵市の図、布川の大明神の宵祭の図、利根川の藻刈舟の図などは当時の民俗を知る上でたいへん興味深いし、利根川の様々な珍しい漁法も描かれている。

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そのほか、河童のような妖怪変化の絵、成田山新勝寺、布施弁天、印旛沼などの図もある。図だけではなく、カハボタルとか鮭虫、平将門の桔梗ヶ原、女化の原の狐女房、静御前などの珍しい話も出てくる。

カハボタルというのは、夏や秋の雨の夜にあらわれる蛍火のようなもので、水の上を50~60センチ離れて幾つも飛び回る。あるいは集まり、あるいは散り、時には高く低く矢のように早く走ったりする。

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時には水中から青い火がヒラヒラと燃え上がって、漁をしている舟の舳に乗ったりする。舟棹で力任せに叩きのめすと、カハボタルは砕け散って舟一面が火のようになる。例えようのない生ぐさい臭いが漂い、それはまるで油や膠のようにヌルヌルとして落ちない。その正体は不明である、といったことが記されている。

鮭虫とは、秋の彼岸の頃になるとサケが遡ってくるが、それに先立っておびただしい数の白蛾が上流に向かって飛んでくる。太陽が昇らないうちに死んで落ち、そのため利根川の水面は白い布を敷いたようになる。これが見られると、その年は豊漁になるという。蝶に似ている虫で、これを鮭虫という。

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利根川の鮭の最も美味しい所は、故郷の布川だと力説する。佐原あたりまでは海の塩を含むため肉の色が薄く、味も甚だ劣るが、それから更に六キロほど遡ると安食、さらに十二キロ遡った小文間あたりが最高。すっかり塩気も抜け、身が引き締まって脂ものり、肉の色も紅となって、それ以上遡ると鮭も疲れて色も味も悪くなっていくと説く。

平将門のことについては詳しい。私たちは戦前、将門は足利尊氏と共に朝廷に刃向かった逆賊として教えられてきたが、取手、守谷、水海道あたりの認識は全く違う。将門は伯父に領土を横領され、しかも讒言によって逆賊の汚名を着せられた悲劇の英雄としてみている。

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そして今日でも、この地方の人々がキュウリを丸ごと食べないのは、将門の家紋の九曜紋が輪切りにしたキュウリと似ているからである。取手の長禅寺の落慶式の日、見物に集まった群集の中から、将門は美しい桔梗を見つけて愛妾とした。ところが欺かれて敵の大将藤原秀郷に内通。

将門には常に七人の影武者がおり、本当の将軍は誰だかわからないようになっているが、本物はこめかみが動く男だと教えたため、将軍はこめかみを射抜かれて死ぬ。恩賞どころか桔梗御前は殺され、将門を裏切った祟りで、いまでも桔梗の墓のまわりにはキキョウの花が咲かないという。

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『利根川図志』には、こうした伝説がたくさん出てきて読み物としても面白い。ほんとうは、奥利根の源流から銚子まで徹底的に調べあげたかったのであろうが、交通もままならず、資料も資金も乏しく、茨城、栃木、埼玉の境にある古河から始まって、栗橋、関宿、取手、木下、印旛沼、佐原、香取神宮、潮来、小見川を経て銚子で終わっている。

つまり『利根川図志』と言っても古河より上流は記されていないということである。文章は推敲に推敲を重ね、彫師や版元を決めるために江戸へ何度も足を運んでいる。

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彫師は渡辺与四輔と江戸中橋紺屋町の浅倉銕五郎、版元は江戸日本橋一丁目の須原屋茂兵衛、京都の出雲路文治郎、大坂の河内屋喜兵衛と決まった。印刷部数は六百二十部で全六冊、価格は一分二朱。出版にあたっては、布川の船問屋の杉野惣作も出資したようだ。

そして利根川流域の河岸の旅籠屋や知人などにも販売を依頼した。その後、万延元年(1860)五百部増刷したが、幕府ではこの種の本の流布を嫌がり、何かと圧力をかけてきたのでなかなか売れず、莫大な借金を抱え赤松家の暮らしは困窮していった。



世に送り出した柳田國男
では、なぜ宗旦は本職が医者なのに、こんな金の掛かる面倒な地誌にあえて挑戦したのであろうか。宗旦は、文化3年(1806)7月14日布川村に生まれ、父の跡を継いで産科医師となり父親譲りの文才があって多くの句を詠んでいる。風流人でもあったためまさに千客万来、各地の医者や儒教者、画家、砲術家、剣客などが相次いで訪れている。

おそらく、宗旦は若い頃から斎藤月岑の『江戸名所図会』(全七冊)などもベストセラーとなった多くの絵入り名所地誌を見ており、きっと刺激され、いつの日か利根川に関してこの種の出版をしたいと思ったに違いない。それは同時に父の遺志でもあり、たくさんの資料を集めていたのもそのためであった。

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『利根川図志』の再版分は思うように売れず、生活は苦しくなっていくばかり。本当は栗橋以北についての続編も書きたかったのであろうが、過労がたたってか、文久2年(1862)4月21日、57歳で世を去った。死因は不明。墓はいま布川の来見寺にある。

明治になって宗旦の『利根川図志』全六冊を世に送り出したのは、実は少年時代布川に住んでいた民俗学者の柳田國男であった。明治20年夏、國男が13歳のとき、長兄のいる茨城県布川の松岡鼎の元に預けられた。布川に約二年間いたが、その間に小川家の土蔵で『利根川図志』を発見した。

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絵や地図が実に豊富で、しかも利根川について何でも書いてあるのにビックリし、全巻読んですっかり『利根川図志』の虜となってしまった。もし柳田が『利根川図志』と出会わなかったら、青春の一時期利根川沿いに住んでいなかったら、あるいは柳田民俗学は誕生せず、ただの高級官僚として平凡な生涯を終わっていたかもしれない。

昭和13年11月、柳田は岩波書店に熱心に勧めて出版させ、多くの人々に読まれるようになった。

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