でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2019年02月


毎年2月28日、大仏追善供養

JR総武線船橋駅下車徒歩10分
船橋市本町3丁目の不動院にある石造釈迦如来坐像は、延享3年(1746)8月1日の津波によって亡くなった人々の供養のため建立されました。

文政7年(1824)、漁場の境界をめぐる争い中で、船橋の漁師が、相手方の侍を殴打したため、漁師総代3人が入牢し、うち2人が亡くなるという事件があり、先の津波で亡くなった霊とともに供養を行うこととなりました。文政8年(1825)から毎年2月28日に行われるこの行事は、石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつけます。これは、牢内で食が乏しかったのを償うためといわれています。

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船橋の海は、江戸時代初期から中期にかけて幕府に魚介を献上する「御菜(おさいの)浦(うら)」とされた好漁場でした。元禄16年(1703)、大地震による海底地形の変化のため、幕府へ献上することは中止されましたが、その後、この漁場をめぐり近隣の漁師たちとの争いが多くありました。

「大仏追善供養」は、文政7年(1824)にこの漁場争いにより入牢し、死亡した2名の漁師総代と延享3年(1746)の津波により死亡した人々を供養するために、文政8年(1825)から毎年行われております。

供養の日には、大仏の顔や肩に白米の飯を盛り上げるようにつけます。これは、牢内で食が乏しかったのを償うためといわれています。供養が行われるのは石造釈迦如来坐像で、先の津波によって溺死した漁師ならびに住民の供養のために建立されたものです。

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船橋の不動院で「大仏追善供養」

津波で亡くなった漁師・住民弔う
船橋・本町の不動院(船橋市本町3)で2月28日、1746年の津波で溺死した漁師や住民の供養、漁場を守ろうと命を懸けた漁師を弔う「大仏追善供養」が行われた。1746年の津波で多くの漁師や住民が溺死したことや、江戸時代に漁場の境界を巡る争いの中で、船橋の漁師が相手方の侍を殴打したことで3人が入牢(にゅうろう)したが、牢内では十分な食事を取ることができず餓死したといわれている。

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1825年以降、津波で亡くなった人、命懸けで漁場を守ろうとした漁師を供養するため、同行事は毎年2月28日(明治以前は1月28日)に行われるようになった。今年の供養にも近隣の住民と地元の漁師が多く参加。「二度と海の惨事が起きないように」との願いを込め、大仏の顔や肩などに白飯を盛り付けた。

大仏についた白飯を食べると1年間風邪をひかずに過ごせるとの言い伝えから、大仏から取った白飯を口に運んだり、持参した袋に入れて持ち帰ったりする姿も。「今日は船橋の漁場を命懸けで守ってくれた先輩方を供養する日。行事を通して、歴史を風化させないよう、毎年皆さんと一緒に供養をしたいと思っている」と船橋市漁業協同組合・組合長の滝口宣彦さん。

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平成3年2月27日、指宿洋史誕生日

高校は千葉県立柏高等学校
千葉県流山市出身のプロサッカー選手。アルビレックス新潟所属。ポジションはFW(CF, WG)。小中高と柏レイソルの下部組織に所属(高校は千葉県立柏高等学校に通っていた)。柏レイソルU-18所属時の2008年夏に行われたU-18ビジャレアル国際ユース大会で3位になり、注目を集めた。

しかし柏レイソルのトップチーム昇格はならず、2008年9月にはアルビレックス新潟の入団テストを受けたこともあった。日本でサッカー指導しているスペイン人サッカーコーチのジョアン・サルバンスの目に止まり、スペイン、セグンダ・ディビシオン(2部)のジローナFCの入団テスト参加を持ちかけられる。

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2008年11月に行われた1週間の入団テストを経てクラブに認められ、2009年1月2日にジローナへの入団が発表された。契約期間は2012年夏までの3年半。Jリーグを経験せずにスペインのプロクラブと契約したのは日本人初である。入団前から地元では指宿に対する期待が高かった。

「FIFA選手の資格および移籍に関する規約」で18歳に満たない選手の海外移籍は原則的に禁止されているため、誕生日である2月27日までは試合に出場できなかったが、同年4月19日のエルクレス戦にて後半36分から途中起用されプロデビューを果たした。

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同年8月にはU-20日本代表に招集され、アルクディア国際ユーストーナメントのレバンテUD戦で決勝点を挙げて勝利に貢献した。2009年9月、セグンダ・ディビシオンB(3部相当)のレアル・マドリード・カスティージャへのレンタル移籍がクラブ間で合意するも、契約の最終段階で暗礁に乗り上げ、この移籍は白紙になった。

10月、ジローナFCからテルセーラ・ディビシオン(4部相当)のレアル・サラゴサB(es:Real Zaragoza B)へレンタル移籍し、2009-10シーズンは2桁得点を挙げて期待に応えた。2010年8月、セグンダ・ディビシオンBのCEサバデルにレンタル移籍した。

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2010年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表に招集された。初戦のアラブ首長国連邦戦ロスタイムに決勝点を決め、準々決勝の韓国戦では2ゴールを決めてひとり気を吐くも、2-3と逆転を許して敗れた。

2009年9月、セグンダ・ディビシオンB(3部相当)のレアル・マドリード・カスティージャへのレンタル移籍がクラブ間で合意するも、契約の最終段階で暗礁に乗り上げ、この移籍は白紙になった。10月、ジローナFCからテルセーラ・ディビシオン(4部相当)のレアル・サラゴサBへレンタル移籍し、2009-10シーズンは2桁得点を挙げて期待に応えた。

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2010年8月、セグンダ・ディビシオンBのCEサバデルにレンタル移籍した。2010年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表に招集された。初戦のアラブ首長国連邦戦ロスタイムに決勝点を決め、準々決勝の韓国戦では2ゴールを決めてひとり気を吐くも、2-3と逆転を許して敗れた。

2010-11シーズンはCEサバデルで2桁ゴールを挙げ、クラブのリーググループ優勝、および昇格プレーオフを勝ち抜き、クラブのセグンダ・ディビシオン(2部)への昇格に貢献した。2011年7月21日、セビージャFCは指宿の移籍を発表した。契約期間は3年。



2011-12シーズンは指宿はセグンダ・ディビシオンBに所属するBチームのセビージャ・アトレティコ(3部相当)でプレーすることになった。同年11月、Bチームでの好調及び負傷者が出たこともありトップチームに帯同し、5日のマヨルカ戦で出場機会はなかったものの初の1部リーグでのベンチ入りを果たした。

2012年1月21日のレアル・ベティス戦とのセビリアダービーで後半39分からアルバロ・ネグレドに代わって途中出場し、トップチームでのデビューを果たした。クラブ公式サイトにおけるセビージャFC側のメンバー表にも掲載されるようになった。セビージャ・アトレティコでは前シーズンを上回る得点ランク2位となる20得点を挙げた。

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2012年8月22日、ベルギー2部リーグ所属のKASオイペン(de:K.A.S. Eupen)へのレンタル移籍(2013年6月30日迄)が発表された。2013年6月16日、国立競技場で開催された東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチにゲストプレイヤーとして出場した。

2013年7月11日、スペイン バレンシアCFのBチームで セグンダ・ディビシオンB所属のバレンシアCF・メスタージャへの完全移籍が現地メディアで報道された。契約期間は2年(2015年6月30日迄)。同16日、指宿本人が自身のツイッターで公式に移籍を認めた。

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2014年7月にハンガリー1部リーグのデブレツェニVSCへの移籍が報道されたが、アルビレックス新潟への完全移籍がチームにより正式発表された。身長195cmの長身と体の強さに加えて足元の技術にも定評があり、将来の日本代表を担う逸材と期待されている。

柏レイソルU-18時代には3トップの左ウイングでプレーしていた。「手本にしたいのはフレデリック・カヌーテやエマヌエル・アデバヨール、好きなのはディミタール・ベルバトフ」とインタビューで答えている。目標とする選手はズラタン・イブラヒモビッチとも語っている。

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千葉県立柏高等学校

千葉県柏市布施254
千葉県柏市布施に位置する県立高等学校。略称「県柏(けんかし)」。千葉県第3学区(柏市、流山市、野田市、我孫子市、鎌ケ谷市)に属している。最寄駅(北柏駅)からは遠いため、生徒の約98%が自転車通学をしている。

2006年6月にエアコンが各教室(普通教室(普通棟の2階~4階の24教室)のみ)に設置された。同年7月に運転開始。特別教室にもエアコン設置終了。2012年9月から2月まで体育館の耐震工事が行われる。

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校舎の一部にアスベストが使われていたが、2006年12月に除去工事がおこなわれた。普通棟と特別棟をつなぐ渡り廊下は1階・2階・3階のみ(4階にはない)。1階と3階の渡り廊下は吹きさらしのために、雨天時は2階のみが使用される。

東京理科大学の野田キャンパスや麗澤大学の講義の一部を高校生のうちから聞くことができ、それが大学の単位として認められる。2015年度から、東葛飾高等学校が中高一貫校となった事もあり、ケンカシが進学指導重点校となった。

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布施の地名の由来

郵便番号〒270-1162
東葛地名事典に文が残っているので電化する。柏市布施は市の北東部にある。布施は戦後の市町村合併で現在の地名に落ち着くまで幾多の紛争があった地区である。布施の歴史は古く、大同2年(807)創建された紅竜山東海寺は利根川近くの亀の甲山と呼ばれる台地の上にあり、本尊は弁財天。

布施弁天の名で知られ、浅草、江ノ島と共に関東三弁天に数えられていて、今も広く信仰を集めている。元禄11年(1698)布施村が田中藩本多領になると、本多氏の信仰は篤く、しばしば献納、寄進を行い、堂宇も整い、諸大名の帰依もあり繁盛した。

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東海寺の傍らを通る脇往還は、古くから武蔵、下総、常陸をつなぐ重要な街道で、布施の地名も古代に旅人や里人を保護し食べ物などをあたえる布施小屋があった事からこの地名が付いたのではと言われている。利根川東遷以前この辺りには蘭沼(いぬま)と呼ばれる沼があり、古くから渡船場があった。

元和2年(1616)徳川幕府は江戸防衛を兼ねて利根川、江戸川筋に16の定船場を定めるが、布施の渡船場、七里の渡しもその一つとなった。享保の頃になると、参勤交代の大名たちも利用するようになり往来はさらに多くなり、根戸近くの分岐路に、今も文化7年に建てられた大きな常夜灯や道標があり、往時の賑わいが偲ばれる。

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明治21年4月、市町村制の交付があった。内務大臣山縣有朋は、地方自治による政治訓練、国会開設への移行への試みを目的とした。南相馬郡のうち、布施村、根戸村、宿連寺村、久寺家村、印旛郡のうち、呼塚新田、根戸村新田、松ヶ崎新田、柏堀ノ内新田の八ヶ村合併で一村を誕生させることになった。

明治22年4月5日、人口、財力豊かな第一勢力布施村を意識した「ふせ村」とも読める富勢(とみせ)村が生まれた。次に町会議員を選ぶ時に騒動が起きた。選挙管理者であった元戸長の坂上氏が選挙管理制度を誤って解釈してしまった。

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制度では選挙、被選挙権がともに地祖納入者か、または二円以上の直接国税を納入している者のみに限定しているのに、この時「二円未満の地祖納入者は選挙人の資格なし」と誤解をしたのだ。

この時点で議員定数12人のうち、布施村6名、第二勢力の根戸村6名で釣り合いが取れていたのだが、郡長から選挙の無効、やり直しが命じられた。当然布施村が有利で9対3となり、村長、助役とも布施村の議員から選ばれた。



天領農民の誇りを持った根戸村議員はその後、町議会をボイコット、本来の村役場と別に根戸村内東陽寺に第二村役場を開設した。しかし、結局は根戸村の住民が死亡の際に埋葬許可書が発行されなかったり、集めた地祖を直接郡に持参して却下されたり、色々と煩わしいことが発生した。

幸い、翌23年になって仲裁役があらわれた。隣町村である我孫子町長子熊甚左右衛門、、手賀村染谷大太郎、千代田村椎名啓介らが和解を成立させた。根戸村からの条件として、�@戸数により議員を選出�A根戸村より助役一人、書記一人、3期に1度は根戸村から村長を出す事�B失態した元戸長の坂上氏を退職させること、であった。

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その後も両村は紛糾が激しく、10年後には富勢尋常小学校の開校に際しても対立する。当時の様子は、明治44年に発行された『富勢村史』に記してあるという。

意訳すると、「各々が村の名前を残そうと主張し、布施は大きな村だが民心は根戸の方が団結し、明治の連合戸長役場時代は親村として羽振りが良く天領住民だったことから布施の住民を私領農民として眼中にも無かった」と。

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善照寺

遊行上人ゆかりの寺
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。普龍山善照寺は、柏市内唯一の時宗のお寺である。本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)。開創は乾元元年(1302)、一遍上人の弟子の真教上人(二世遊行上人)による。また、その弟子の聞空上人によるという説もある。

時宗の開祖一遍上人や真教上人は、日本各地を遊行し「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた札を配り、念仏修行を勧めた。以後の各世代聖人もそれにならった。旧布施村の古記録には、江戸時代の享保12年(1727)2月8日、第五十代遊行上人の一行70名の来寺が記されている。

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遊行上人は10万石の大名の格式で、たくさんの人足や馬も必要であった。そのため、善照寺だけの行事ではなく、布施村はもちろん、近隣の村々の人々も関わることになった。14日間の滞在期間中、布施村は遊行上人一色となり、善照寺の境内は参詣の善男善女で連日賑わったという。

「御移」といわれた遊行上人らの廻国の旅。以後も、享保14年(1729)、寛保3年(1743)、明和7年(1770)、文化10年(1813)などの記録が残っている。寺には、鎌倉時代の作と言われる阿弥陀三尊立像がある。

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銅造、鍍金漆箔の本尊阿弥陀如来立像と、脇待左に観音菩薩立像、右は勢至菩薩立像。柏市の指定文化財となっており、毎年8月21日と11月10日がお開帳。うち8月には、黒服に身を包んだ檀家の人々が集まり、施餓鬼法要が営まれる。

(※市町村合併は色々と難しいことも多い、流山の人達からは明治22年の時点で合併もせずに町だった事や、天領であった事などに対する事の大きさはあまり感じてないようだ。流山は街場として天領だったが、農民だとすると徳川幕府に献納する米ということになる、農民にとっては農業は生活全てだから、気持ちの面でも違ってくる。)

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「山荻神社の筒粥神事」

館山市指定無形民俗文化財
この神事は、毎年2月26日に、その年の農作物の豊凶(ほうきょう)を占うために行われます。はじまった時期は不明ですが、神社の言い伝えに、景行天皇(けいこうてんのう)が諸国巡幸(じゅんこう)の折、ここで五穀豊穣(ごこくほうじょう)を占ったとあり、古くからの神事と考えられています。

神事は、祈念(きねん)式の後にはじまります。まず、前日につくった粥に葦(あし)筒19本を入れて炊き上げ、神前に供えます。祈祷が終わった後、宮司により筒粥が1から19まで並べられ、順次2つに縦割りされます。筒の中の粥の量により、米など18品目の農作物の作柄と世情が判定され、結果が木版刷の紙札に記されて配られます。かつては、農家がこの結果を作付けの目安にしたといい、重要な神事であったことがわかります。

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館山市豊房地区にある山荻神社では、毎年2月26日に、その年の農作物の豊凶を占うために筒粥の神事をおこなっています。古来、事の吉凶を判定する法として神意を問うために占卜が種々おこなわれていましたが、粥を使用した粥占神事もその一つです。

山荻神社の伝承によると、景行天皇が諸国巡幸のときに、この神社で筒粥を使って五穀豊穣を占ったとされる古くからの神事といわれています。筒粥神事は、祈念式を終えると、前日に作った粥を葦筒19本に入れて炊き上げたものを神前に供え祈祷をした後に、宮司により筒粥が1から19まで並べ、順次2つに縦割りにします。

筒の中にある粥の量によって、米など18品目の農作物の作柄と世情を判定し、木版刷の紙札に記載して結果を知らせます。かつて農家はこの結果を作付けの目安にしたという重要な神事でした。平成5(1993)年に館山市の無形民俗文化財に指定されています。

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神事は、祈念式の後にはじまります。まず、前日につくった粥に葦筒19本を入れて炊き上げ、神前に供えます。祈祷が終わった後、神職により筒粥が1から19まで並べられ、順次2つに縦割りされます。筒の中の粥の量により、米など18品目の農作物の作柄と世の中が判定されます。

ちなみに農作物は、稲(早稲、中稲、晩稲)、もめん、あさ、大豆、小豆、大角豆(ささげ)、ひえ、きび、ご満(ごま)、なすび、いも、大こん、な(なたね)、ゑ(えごま油)、たばこ、麦 です。今では、山荻でつくっていないものもあるとのことでした。かつては、農家がこの結果を作付けの目安にしたといい、重要な神事であったことがわかります。今年の粥の入り具合は全体的によく、明るい年になるとの結果がでました。

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毎年2月25日、火渡り神事

滋賀県野洲市、菅原神社
2月25日は学問の神様、菅原道真の命日で、全国の天満宮では神事が行なわれる。梅の名所として知られる京都・北野天満宮では25日、梅花祭が行なわれた。道真の命日にあたるこの日、約900年前から毎年開かれる伝統行事で、午前10時過ぎから本殿で神事が始められた。道真の霊を「なだめる」が「菜種」の音に通じるとして、菜の花を冠につけた神職が、蒸し米などを奉納する。

菅原神社においても、毎年2月25日には祈念大祭である「天神まつり」が開催される。約800年前から続くとされる神事が朝9時より本殿前で厳かに行なわれた。お祭りが行なわれる日の境内は明るく活気に満ちている。が、その境内もこの神事の時だけは静粛であった。「火渡り神事」は、立春から始まった新しい年の繁栄と無事安全を祈る火の祭典として約40年前から始められた。護摩木を燃やした炭の上を素足で歩く奇祭である。

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この「菅原神社」では、毎年2月25日に祈念大祭である「天神まつり」が開催されます。この中の「火渡り神事」は、立春から始まった新しい年の繁栄と無事安全を祈る祭典と言われています。午前10時、約1万千本あまりの護摩木に火を点火。天高く燃え盛る神火の前で神事がとり行われます。拝殿前に白砂を盛って作られた祭場で祝詞、玉串奉献などの祭事が行なわれる。

この頃より、境内は県内外から集まった人で溢れる。この火渡りには約130人限りで一般参加ができる。毎年、地元の氏子のほか関東方面や京阪神から訪れた老若男女が無病息災などの祈願を込めて「火渡り」を体験して帰る。最近ではリピーターが増えてきたと聞く。参加料は一人1500円である。

参加希望者は、受付時に渡された足型守(あしがたふ)という紙を手に持ってその時を待つ。行事の進行を見守るその表情には硬さが感じられる。燃える火や燃え殻を見るとだんだん不安顔に変わってゆく。うず高く詰まれた護摩木の山に沿わせて、宮司が読み上げた特別祈願の大串が立掛けられる。燃やされる護摩木は約5000本とのこと。

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宮司が火付けを行なった後、世話人が水を撒いたりして燃え方を調整する。火の勢いが激しくなって、いよいよ始まりと緊張が高まる。護摩木が燃え終わる頃になると、裸の宮司による浄水を全身に浴びる行が寒水行(すごり)斎場で行なわれる。

午前11時ごろ、火がおさまると山のようになった護摩木の燃え殻を3m四方に広げます。この時、燃え殻の温度は約300度。午前11時30分ごろ、いよいよ火渡りが始まります。宮司が燃え殻の上を浄める。真っ赤に火照る炭火が見える。“大丈夫か”の思いが一瞬よぎる。

宮司が燃え殻の上を堂々と歩かれた。渡り終えて、ケロリとされている。40回近く体験されている“技”かと思う。宮司の指図で2~3名の神職が続く。ジ~と我慢する人、バタバタ慌てる人さまざまだ。この火渡り体験は先着130人限りで一般参加も出来ます。毎年、地元の氏子のほかに関東方面や京阪神から訪れた老若男女が無病息災などを祈願して体験しています。

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いよいよ一般参加者の順番が廻ってきた。内心はドキドキであろう。宮司さんにお尻を叩かれ飛び出してゆく。様々な表情、動きをしながら渡りが進む。渡り終えた後「足型守」に足型を押して“行”が終わりとなる。天晴れな勇気の持ち主だ。この足型守を部屋の壁に貼っておくと願いが叶うとされる。

約130人が渡り終わって神事は終了した。宮司の気合と祈りが利いたのか、ケガ人もなく無事済んだ。参加者の中には来年も来ると意気込む人もいた。コリゴリという人もいた。行事は午前中で終わった。「火渡り」にもコツがあるようだ。
足の爪先で歩くと、燃え殻がついて“やけど”のもと。気合を入れて、足のかかとでゆっくりと進む。そして、前の人が歩いた位置を歩くのがコツ。何人かが歩くと燃え殻をならして足跡を消すので要注意とのこと。

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参加者は、受付時に渡された足型守(あしがたまもり)という紙を手に持って熱い燃え殻の上を素足で一歩一歩ゆっくり進み、渡り終えた時に両足の裏に墨を付け足型守に足型を押します。この足型守を寝室の壁に貼っておくと願いがかなうと言われています。「火渡り」は寺では多く行われていますが、神社で行われるのは全国的にも珍しく、滋賀県下でも奇祭として知られています。

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毎年2月最後の日曜日、雷大般若祭

葛西に残る唯一の奇祭
長襦袢を身につけ、おしろいと真っ赤な口紅で化粧をし女装した男達が、真蔵院を中心に周辺の家々を、厄除けの黄色い布や御札を手渡しして回る、江戸川区東葛西の奇祭。江戸時代末期にコレラが蔓延した際、当時の和尚が『大般若経』を背負って家々を回ったところ、被害をまぬがれたことが由来といわれる。

また、ある結核にかかった妹のために、兄が妹の長襦袢をきて厄払いをしたことが、女装の始まりの有力説となっている。祭りは一時途絶えていましたが、地元有志が約30年前に復活。

昭和57年(1982年)に区指定無形民俗文化財(風俗慣習)となり、現在は雷不動(真蔵院/東葛西4丁目)の縁日がある2月27日前後の日曜日に毎年実施されています。
 
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参加したのは地元の男性36人。白粉に真っ赤な口紅、青のアイライン、頬紅が基本のスタイル。メイクは地元の美容院にお願いしたとあって、なかなかの出来栄え。髪をちょんまげに結ったり、頬にハートマークを描いたりするなど、少しでも個性を出そうという化粧に工夫を凝らす若者もいます。また、還暦を迎える人は赤い長襦袢を着ています。

8時45分、自慢の化粧を終えた若衆らは「オー!」「ヨッシャー!」などの雄たけびをあげ駆け足で本堂前の階段に整列し、その綺麗で(!?)個性的な顔を観客に披露。続いて、主催者や黒羽織姿の先達である三役が鏡割りを行い、若衆らはその御神酒でお清めをし、三本締めで勢いをつけます。

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つぎに三役の一人が本堂に上り「ほんぞーほーじー(本尊奉じ)」と声を上げながら本堂から「おひょうご箱(本尊の掛け軸を納めた箱)」を運び出しました。そして午前9時、「出立!」の合図で各々は経箱などを担ぎ、猛然と境内から町内へと飛び出しました。

大般若の一行は、三役がそれぞれ「おひょうご箱」「祈祷札」「御祝儀箱」を持って、先頭に立ち、後に不動明王の宝剣二振り(6尺大の木製剣)、手桶に入った塩を笹の葉で撒きながらお清めをする塩水役が続き、列の最後に、2人1組で1箱40キログラムから50キログラムにもなる100巻の大般若を入れた経箱6箱を前後に担いで後を追います。



竹の棒で経箱の側面を叩いてバンバンと叩き、「おめでとー」と威勢の良い掛け声を発しながら、各家庭の玄関先まで駆け込みました。昭和30年代まで一行は土足で玄関から裏口へと家の中を通り抜けていましたが、現在は住宅事情も異なるため、御祓いを受ける家々では、玄関先で御祝儀を手渡し、そのお礼として、御札と御供え物、厄除けの黄色の布切れを渡して手締めを行いました。
 
一行は、縦横無尽に雷町会内の約500軒(走行距離はおよそ10キロメートル)を4時頃まで駆け巡りました。
家々を廻って、住民にお札を渡します。そして大きな声で「おめでとう」と連呼します。住民の方では、飲み物、食べ物を用意して、皆さんに休憩してもらいます。真蔵院の隣には、雷香取神社があります。ご祭神は、日本神話に登場する経津主神(ふつぬしのかみ)です。

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