毎年2月28日、大仏追善供養
JR総武線船橋駅下車徒歩10分
船橋市本町3丁目の不動院にある石造釈迦如来坐像は、延享3年(1746)8月1日の津波によって亡くなった人々の供養のため建立されました。
文政7年(1824)、漁場の境界をめぐる争い中で、船橋の漁師が、相手方の侍を殴打したため、漁師総代3人が入牢し、うち2人が亡くなるという事件があり、先の津波で亡くなった霊とともに供養を行うこととなりました。文政8年(1825)から毎年2月28日に行われるこの行事は、石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつけます。これは、牢内で食が乏しかったのを償うためといわれています。
船橋の海は、江戸時代初期から中期にかけて幕府に魚介を献上する「御菜(おさいの)浦(うら)」とされた好漁場でした。元禄16年(1703)、大地震による海底地形の変化のため、幕府へ献上することは中止されましたが、その後、この漁場をめぐり近隣の漁師たちとの争いが多くありました。
「大仏追善供養」は、文政7年(1824)にこの漁場争いにより入牢し、死亡した2名の漁師総代と延享3年(1746)の津波により死亡した人々を供養するために、文政8年(1825)から毎年行われております。
供養の日には、大仏の顔や肩に白米の飯を盛り上げるようにつけます。これは、牢内で食が乏しかったのを償うためといわれています。供養が行われるのは石造釈迦如来坐像で、先の津波によって溺死した漁師ならびに住民の供養のために建立されたものです。
船橋の不動院で「大仏追善供養」
津波で亡くなった漁師・住民弔う
船橋・本町の不動院(船橋市本町3)で2月28日、1746年の津波で溺死した漁師や住民の供養、漁場を守ろうと命を懸けた漁師を弔う「大仏追善供養」が行われた。1746年の津波で多くの漁師や住民が溺死したことや、江戸時代に漁場の境界を巡る争いの中で、船橋の漁師が相手方の侍を殴打したことで3人が入牢(にゅうろう)したが、牢内では十分な食事を取ることができず餓死したといわれている。
1825年以降、津波で亡くなった人、命懸けで漁場を守ろうとした漁師を供養するため、同行事は毎年2月28日(明治以前は1月28日)に行われるようになった。今年の供養にも近隣の住民と地元の漁師が多く参加。「二度と海の惨事が起きないように」との願いを込め、大仏の顔や肩などに白飯を盛り付けた。
大仏についた白飯を食べると1年間風邪をひかずに過ごせるとの言い伝えから、大仏から取った白飯を口に運んだり、持参した袋に入れて持ち帰ったりする姿も。「今日は船橋の漁場を命懸けで守ってくれた先輩方を供養する日。行事を通して、歴史を風化させないよう、毎年皆さんと一緒に供養をしたいと思っている」と船橋市漁業協同組合・組合長の滝口宣彦さん。
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