でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2018年12月


赤城神社大晦日の用意

初詣の準備、二年参りとも言える
初詣とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参り(はつまいり)ともいう。二年参りとは、初詣(はつもうで)の形式の一つである。大晦日の深夜零時を境に前後にお参りすることから、2年にまたがってするため、この名がある。

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平成30年も残りわずかとなりました。今年は市民の皆さんにとって、 どのような1年だったでしょうか。今年は、4月に 「流山スポーツフィールド」 が下花輪にオープン。屋外スポーツなどの活動拠点が新たに誕生しました。

また、 待機児童ゼロを目指し、 認可保育園や小規模保育事業所を18カ所開園したほか、 学童クラブでは増設や教室の改修など、 より多くの児童が利用できるよう整備を進めてきました。

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9月には、 女子バレーボールオランダ代表の事前キャンプが実施され、 歓迎式典では1000人以上の方々が選手の流山市初来訪を盛り上げました。

12月には流山おおたかの森駅西口広場の整備が完了したほか、 同駅北口駅前では、 音響に優れた多目的ホールなどの整備を進め、 新たな交流拠点の誕生に向けて取り組んでいます。

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流山市は、昭和42年(1967年)1月1日に、千葉県20番目の市として産声を上げました。当時の人口は約4万3千人。今では約18万5千人と、現在も子育て世代を中心に増え続けています。今年は50周年を記念する行事を多数開催。

1月には記念式典と日本画家の(故)後藤純男氏の名誉市民推戴式を同日に開催し、式典の翌日から約1カ月にわたり「後藤純男回顧展」を、6月には「NHKのど自慢」の公開生放送などが行われ、いずれにも市内外から多くの方が訪れました。

そして12月には、50周年記念の締めくくりとして「第九演奏会」が行われ、約270人の市民の方などによる合唱や流山フィルハーモニー交響楽団によるオーケストラ演奏が披露されました。

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平成29年も残りわずかとなりました。市民の皆さんにとって、どのような1年だったでしょうか。今年は、1月1日に市制施行50周年の記念の日を迎え、同月に市制施行50周年記念式典を実施し 市政に対しさまざまな分野でご尽力いただいた方々や団体に表彰状・感謝状を贈呈しました。

6月には、キッコーマンアリーナで「NHKのど自慢」が初開催。公開放送日当日には、抽選に当選した1000人を超える方が来場され、大いに賑わいました。10月には、市の将来に関係する重要課題について市民の皆さんから請求があった時に、市民の意思を把握するための常設型の「市民投票条例」が市議会の議決を経て成立しました。

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流山市では、ふるさと納税していただいた個人の方の善意に対する感謝の気持ちと、市のPRを目的に返礼品を贈呈しています。4月には、�潟tァンケルの返礼品の種類を追加するとともに、ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」(インターネット)からふるさと納税が可能になりました。

また、10月には老舗百貨店・��島屋のふるさと納税返礼品カタログに本市のページができ、さらに市内の企業や農園で体験ができるチケットを追加するなど、流山ならではの多様な返礼品を用意し、市のPRに努めています。



ウチラ赤城四ツ葉会は

赤城神社があってこその集まり
流山の名前の元になった流れてきた山、赤城神社では大晦日は豚汁やお神酒も準備してお待ちしております。カウントダウンのためのスピーカー、夜中のためのライトも用意。今年もしっかりおみくじも用意しております、新春の運試しをしてはいかがでしょうか。今年も赤城神社の年越しはウチの親父の声でカウントダウンが行われます。

お正月には光明院の駐車場が臨時駐車場となっていますので安心してお越し下さい。本殿及び奥の殿の彫刻がとても丁寧な江戸初期の再建と最近の調査で判明しました、本殿は約四百年の歴史があり今年三月に市の文化財になりました。

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臨時無料駐車場も整備
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現在の三郷市の住人は武蔵野線が通ってから移り住んできた住人がほとんどかと思われるが、元々の住人は江戸川土手で初日の出を見て、東の方角流山橋を渡って、郷社赤城神社に参拝に来ていた。県境なんて明治になってから決められたもの、千葉県北西部と共に埼玉県東部の信仰を集めた神社なのだ。

深夜三時の片付け終了後、日が昇る五時には人が集まり始める。なので泊まりの赤城神社神社委員もいる。これが以前はある一定の人間が泊まりの担当だったのだが、「それじゃ大変だべよ」ってんで泊まりは町会からも出す。とは言っても以前と同じ人もいたりする。

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お正月限定御朱印
これは巫女さんの練習もかねて書いてもらったもの。この巫女さんは書道で段持ち、御朱印が好評なので時給もアップした。巫女さんの存在でも質問をいただいたので答えておくと、近所の宿の娘のお正月のバイトとしてこの10年ほど続けている。なので三姉妹で経験していたりもする。

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後は夜に集合だ。俺はやはりチャリンコの誘導係か、大注連縄の下が俺の定位置。自転車でお越しの方はフェンス際、奥から一列にお願いします。

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今年もやるよ、自転車のお飾り

正月準備
正月飾りを付けた車をとんと見なくなった。車に対する意識が変わったのか、それとも景気の悪さがそうさせるのか。恐らく、その両方だろう。車が庶民の家庭にまで普及し始めたころ、新しい車を買うと「新車下ろし」と称して、宴席を設けた。お酒を飲む口実でもあったが、そうやって、新車を買ったうれしさを、仲間たちと分け合ったのだ。

正月となれば正月仕様の車


車には夢がいっぱいあった。「いつかは○○」というテレビCMがそのあたりの事情を語っていようか。今は小さな車だが、そのうち、もっと大きな車を、という夢が持ち得た時代であった。バブルがはじけて正月飾りは激減、その後も回復することなく、過去の風俗になりつつある。

車はありふれた移動用の道具となり、地球温暖化も絡んで、かつてのような夢が持ちにくいことになった。金融危機に端を発した不況で、経営危機に陥っている米国自動車メーカーの最大の失敗は、車を取り巻くそんな環境の変化を見誤り、いつまでも大きく豪華な車を造り続けてきたことにあるのだろう。

GM社がこの危機に際してすがったブランドが、キャデラックやシボレーといった「昔の名前」であることに、それは象徴されている。日本メーカーのような低公害車が、そこにはない。

買ってきた
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しめ縄・しめ飾りの意味と由来
そもそも正月行事というのは、年神様という新年の神様をお迎えするための行事です。年神様は家々にやってきて、生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。そこで、お正月が近づくとしめ縄やしめ飾りを施し、年神様を迎える準備をします。

しめ縄(注連縄)には、神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示す意味があります。しめ縄が神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らないようにする役目も果たします。その由来は、天照大神が天の岩戸から出た際に、再び天の岩戸に入らないようしめ縄で戸を塞いだという日本神話にあるとされ、「しめ」には神様の占める場所という意味があるといわれています。

しめ飾り(注連飾り)というのは、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたものをいいます。代表的なのが、神様の降臨を表す「紙垂」(かみしで/しで)、清廉潔白を表す「裏白」、家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う「譲り葉」、代々栄えるよう願う「橙」などです。

もともとは、神社がしめ縄を張りめぐらせるのと同じ理由で、自分の家が年神様をお迎えするのにふさわしい神聖な場所であることを示すために始まったといわれています。しめ縄やしめ飾りを施すことで、その内側が清らかな場所となり、年神様が安心して降りてきてくださるわけです。



一夜飾りが、なぜダメか 
大晦日に門松や、松飾りを飾る事を「一夜飾り」と言いますが、一夜飾りは良くないと昔から言われています。その本当の理由をご存じでしょうか。一般には、「お正月の神様をお迎えするのに、たった一夜では誠意にかける」とか、「葬式の時には、『一夜飾り』になる為に、それに通ずるから避けた方がよい」という説などいろいろあります。

さらに「三十日は、旧暦では大晦日とされるために、一夜飾りと同じ意味である、二十九日は、(苦しみ)に通ずるから、門松などは二十八日までに飾るのがよい」と言われています。しかし本当の意味は、「新しい年の歳神様が、三十一日の早朝に、その家に来られる」からです。ですから三十一日の昼間や夜に飾ったのでは、間に合わないのです。

門松も松飾りも、歳神様をお迎えするものです。三十一日の早朝に歳神様が来られたときに、松飾りなどがない家には、「この家には、神を迎える意志はないのだな」と家の前まで来て下さっても、そこから家の中へは入られずに、そのままUターンして、お帰りになってしまわれます。

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歳神様は、毎年変わられますので、このときに歳神様をお迎え出来なかったときには、その年一年、その家に歳神様はいらっしゃらないことになります。今までの歳神様は、元旦の零時ちょうどにお帰りになられます。きちんとお飾りをして、歳神様をお迎えした場合には、三十一日の日に、それまでその家の方達を守って下さっていた歳神様といわゆる引き継ぎをなさられます。

この家には、どんな問題があるのか。問題と言うと、悪いことのようですが、良い方の問題も引き継がれます。良い方で言えば結婚問題、「年頃の娘さんがいらっしゃるから良縁を得られるように、それにふさわしい生活が出来る様に導いてあげて下さい。」とか、「来年は、この家に○月頃、新しく子供が誕生します。母子共に健康で過ごせるようよろしくお願い致します。そして神様のご意志にそった、神の子にふさわしい御子に育ちますようによろしくお願い致します。」

とか、「来年は、受験の子がいます。ですからその子の健康と、集中して学びが出来て、合格出来ますように導いてあげて下さい。」とかがあり、その他にも「このおばあちゃんが、口うるさくて、皆をしゅんとさせているから、そんな時にはおばあちゃんを黙らせて皆が明るく過ごせるようにしてあげて下さい。私も一年働きかけて、今このくらいまで来ております。後、よろしくお願い致します。」ほんの一例を挙げただけでも、大事なことがたくさんあると思いませんか。

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皆さんが願っている幸せがここにたくさん詰まっているのです。歳神様が来られるのが、元旦の朝であれば、三十一日に飾っても本当は問題ないわけです。どんなに遅くとも、三十日のうちには、松飾り等をして歳神様をお迎えさせて頂きましょう。

歳神様は、松の内までいらっしゃると言われていますが、七日までが松の内だとしたら、それ以降はせっかくお迎えした歳神様はその家にいらっしゃらないことになってしまいます。

歳神様は、その年一年、その家にいて下さいます。家庭内暴力、家庭内の殺人など、日常的な事件となってしまいましたが、神様の守りのないところでは、そうするといろいろなことが起ってしまう可能性があります。歳神様は、その年のそれぞれの人にとって大事なことのほとんどを担当して下さる、いわば福の神様なのです。

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年末年始の来客準備は「角上魚類」で決まり

新潟県寺泊漁港より直送
年末は大掃除に年賀状、お正月の準備など忙しい人が多いのでは?私も例に洩れず、バタバタしている一人ですが、そんな私がこの時期になると決まってお世話になるお店があるんです。それが、「角上魚類 流山店」さんです。「角上魚類」は日本一を目指す魚屋さんで、鮮度の良さと魚種の豊富さがウリです!

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理由その1.お惣菜が常時30~40種と豊富。大掃除でヘトヘトに疲れた時は、ここにお惣菜を買いに来るんです。スーパーのお惣菜もいいんですが、揚げ物以外にも「メローカマの照り焼き」や「イカめし」など、魅力的な惣菜がズラリと並んでいるので、手抜きに見えない食卓になるんですよ。

理由その2.年末年始でも料金が変わらないので、お財布にも優しい。年末年始は来客が多い我が家。出費もかさむ時期ですが、出来るだけ来てくれたお客様には美味しいお刺身やお寿司を食べて、満足して帰って欲しいんです。

値段だけを見ると、「ちょっと高いかも…」と思われるかも知れませんが、本マグロを扱っているし、この味は価格に見合っていると思いますよ。お正月には欠かせないカニや数の子などもありますよ。

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もちろん年末は混んでます
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以前ここはロイヤルボウル
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今日も流山橋まで渋滞が続いていた

三郷のコストコに向かう車かも
コストコホールセールは、高品質な優良ブランド商品をできる限りの低価格にて提供する会員制倉庫型店です。世界中にある数百ヵ所のコストコ倉庫店では幅広い品揃えに加え、専門店としての便利なサービスをも備えており、お買い物をより一層お楽しみいただけます。

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戦後、農家の次男や三男が産業に限りのある、地方から東京に向かった流れがあるなら、水運時代に栄えていた流山の商家に、時代の変化と共に商売替えを前提として、資格や経験を持った人間が婿入りした流れもある。川舟の時代じゃ無くなった流山は首都圏のベッドタウンとして鉄道駅周辺を大規模都市開発、人口増加へと向かっていった。

東京に出て行った人間が会社への通勤圏内に家を買い、家庭を築き子を育て、生活を続けている。ウチラの世代は戦後二世代目、ベッドタウンの子供の世代。今現在はつくばエクスプレス効果によって会社への通勤アクセスも便利になり、首都圏出身の戦後二世代目が住宅を買い求め、それによって駅前マンションの販売など再開発も進んでいる。

ウチに代々伝わる伝家の宝刀、ハリガネで
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こいつでお正月は移動しますね

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平成19年12月29日、初めて運行

臨時快速列車、エアポート常磐
エアポート常磐とは、かつて東日本旅客鉄道(JR東日本)が上野~成田空港間を常磐線(快速線)・成田線(我孫子支線・空港支線)経由で運行した臨時快速列車である。この列車は、常磐線経由では初の成田国際空港連絡列車で、2007年12月29日に初めて運行された。

列車によって所要時間にばらつきがあり、上野~成田空港間は最短1時間28分、最長1時間59分であった。起点は上野駅で終点は成田空港駅。使用路線は常磐線・成田線。

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各運転日には上下2往復が運行され、大宮総合車両センター所属の183系6両編成を使用し、下り上野発成田空港行は全車指定席(運賃の他に指定席料金510円が必要)、上り成田空港発上野行は全車自由席(運賃のみ)という設定がなされた。

側面の行先表示器や前面の愛称表示器への表記は行わず、特製のステッカーをそれぞれの表示器に貼付して運行していた。また、愛称表示ステッカーは青緑色の地で、右上に航空機マークが表記されていた。

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成田線区間が単線のため、上野~成田空港間の所要時間は他の成田空港連絡列車よりも劣るものの、常磐線(運転区間に含まれない取手・土浦方面も含む)およびその連絡路線沿線から成田空港へ行く際の乗り換え回数の軽減、所要時間の短縮、都心~成田空港を結ぶ列車の中では、安価でクロスシートでのサービスが提供されていることがメリットといえる。

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2007年末に初めて運行された際には、「エアポート常磐」と成田空港への鉄道アクセスに関するアンケートが車内で行われた。2008年に入ってからも、ゴールデンウィーク初頭や夏休みの初期と終盤に運転された。成田駅は我孫子支線から空港支線へのスイッチバックのため運転停車のみ行う。

ただし2008年1月・7月・8月の上り列車に限り旅客扱いを行った。年末年始・ゴールデンウィーク・夏休みといった多客期、とりわけ成田空港利用者が特に多いと予想される日に限って運行されていた。当初、JR東日本では利用動向を踏まえて定期列車化も検討するとしていたが、2008年8月31日を最後に運転は行われていない。

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成田線は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。いずれも全区間千葉県内を走行する。成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線は、正式な愛称や通称などはないが、本線・空港支線とは区別された名称で呼称される場合があり、「我孫子支線」が一般的な表記である。

また、直通する常磐線区間と併せて「常磐・成田線」として括っていることもある。現在は支線内(我孫子駅~成田駅間)運転のほか、常磐線快速電車が直通運転を行っているが、本線(佐倉・佐原方面)との定期列車の直通運転は行われていない。

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起点から終点へ向かう列車を下りとする定義に従えば我孫子方面が「下り」であるが、実際には我孫子方面が「上り」、成田方面が「下り」として運用されており、列車番号も我孫子から成田へ向かう列車に(下りを示す)奇数番号が付番されている。常磐線直通列車は我孫子駅で列車番号が変わる。

定期列車はすべて普通列車(各駅停車)で、途中駅発着の区間列車もなく、全列車が我孫子駅~成田駅間の全区間を通して運転する。線内運転列車のほか、常磐線経由の上野駅発着列車(常磐線内快速:一部は上野東京ライン経由で品川駅発着)が下り16本・上り17本(日中に限ると線内運転の列車と常磐線直通列車が1時間あたり各1本)運行されている。

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成田駅において成田空港方面への快速列車との接続が考慮されたダイヤ設定が行われている。品川・上野駅発着の列車の一部は我孫子駅で増解結を行う。増解結を行う列車は成田線内は基本編成10両編成での運転で、我孫子駅では5両の付属編成が増解結の対象となる。

本線・空港支線で見られるような多層建ては行っていない。なお、直通列車の場合でも昼間を除き我孫子駅での停車時間が長い列車が多く、上りは常磐線水戸駅・土浦駅・取手駅方面からの先行の快速上野、上野東京ライン経由品川行きに、下りは後発の快速から、乗り継げる場合が多い。

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時刻表上においては、常磐快速線直通列車を含め線内は全列車が普通列車であるが、成田発上野行き列車の車内放送では「快速 上野行き」と案内されている。駅に掲示されている時刻表にも「快速 上野行き」と表記されていた期間があり、利用者の間では成田発上野行きの列車は「快速」との認識がある。

これは、本線・空港支線における総武快速線直通列車と類似しているが、本線・空港支線の直通列車は千葉駅以東も含め全区間で快速として運転する点が異なる(千葉駅以東にも通過駅がある)。また、このような直通運転先の種別での案内は本線区に限らず行われている。

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全線単線で、全駅に列車交換設備がある。車両は常磐線快速電車と共用の直流電車(E231系5両または10両編成)を使用する。このほか、正月には成田山新勝寺への初詣客を乗せた団体専用列車が運行される場合が多い。

潜在的な需要があることや、総武本線経由に比べ成田駅で折り返す必要が生じる配線上の問題があるものの、成田空港へのアクセス路線となりうることから、沿線自治体で複線化や増発を要望しているがその動きは鈍い。

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我孫子駅における常磐線との立体交差構造物が複線規格で建設されているほか、多くの区間で複線化用地が確保されている。沿線自治体でも複線化するための資金を集めるため、募金活動を行っている。

2007年末から2008年夏の多客時には上野駅~我孫子駅~成田駅~成田空港駅間で臨時快速列車「エアポート常磐」が運行された。2012年3月17日、我孫子運輸区が新設され、松戸車掌区と松戸運転区(ともに前日の3月16日をもって廃止)、および成田車掌区から業務が移管された。

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江戸っ子に親しまれていた成田山新勝寺を東京と鉄道で結ぶ構想は早くから存在しており、1887年に本所~市川~佐倉~佐原間を結ぶ武総鉄道、1889年に佐倉~成田~佐原間を結ぶ北総鉄道(1972年に設立され、京成高砂~印旛日本医大間を運行している同名鉄道とは別)の構想が立てられた。

だが当初千葉県は、東京との交通手段において鉄道と利根川水運が競合することによる共倒れを恐れて、利根運河ができた以上同地域には鉄道は不要との見解を取った。そのため、本所~市川~佐倉間に総武鉄道(後の総武本線)がようやく開通したのが1894年であり、そこから成田方面に分岐する鉄道が築かれるまでにはさらに月日を要した。

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成田線

通称『我孫子支線』
東葛観光歴史事典に文が残っているので電化する。我孫子から出る成田線は、ほぼ成田街道(国道356号線)に沿っている。東葛の人達が成田詣でをするには、柏の呼塚河岸から舟に乗って手賀沼を渡って木下か安食へ出て、そこから陸路を成田へ向かった。

また、我孫子から成田道を歩いた人もいて、江戸時代に築かれた一里塚の跡が、東我孫子と湖北に残っていて昔を偲ぶことができる。ここへ鉄道が敷かれたのは、明治34年である。成田線の開通によって、徒歩か船かで成田詣でをしていた人達は、楽で速い汽車が利用できるようになった。

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成田線といっても我孫子から成田だけでなく、佐倉から成田、佐原を経て松岸までをも含めている。三方から成田山への参拝客を運ぶために作られた鉄道と言える。特徴ある駅名を持つ線である。我孫子は言うに及ばず、布佐、木下、安食、松崎(※大正9年9月1日、下総松崎駅に改称)と続き、まるで珍名道中だから乗客は駅名だけ見ていても楽しい。

成田線のホーム等で、奇妙な台を見かける。人が腰掛けるには高すぎるし、頑丈に出来過ぎている。何に使う台だろうと思ったら、野菜の行商のおばさんたちが籠を下ろして休む台だったのである。小林駅や木下駅などから朝の一、二番電車に乗り込む元気なおばさんたちは、成田線の名物である。

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濃紺の風呂敷で包んだ大きな籠に、新鮮な野菜、果物、漬物から餅や花まで詰め込んで背負い、東京に売りに行くのである。若い人は、100キロ近くにもなるという。そもそもの起こりは、関東大震災の時に鉄道不通区間を歩いて見舞いに行ったことが喜ばれ、東京市民の要望と相まって自然に生まれたと言われている。

昭和30年頃には3000人もいて、今では230人程に減ってしまった。老齢化とマイカー増加のライフスタイルの変化で、年々減ってきているという。(※この出版物発行当時から20年が経過した今は、さらに減っている事のように思う)それでも、早朝の成田線内は活気のある賑やかな話声が飛び交い、成田線ならではの風景が展開されている。

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行商のおばさんたちに変わって、成田線の主役になったのはいわゆる千葉都民のサラリーマンである。昭和40年代から沿線には大規模団地が出来始めた。利根川に近く空気は綺麗だし、何といっても緑が多く、距離的にも東京に近いのが利点である。

しかし、成田線は佐倉~成田以外は未だに単線である。我孫子~成田は一日わずか20往復で、昼間は次の電車まで一時間も待たなければならない。上野発の最終電車も20時53分だから、仕事が終わった後はおちおち飲んでいられない。

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成田線には無人駅もある。都心から一時間以内に無人駅とは珍しいが、東我孫子駅がそれである。初めての利用客は戸惑ってしまうが、それだけに駅はのんびりしている。(※多くの列車が当駅で上り・下り列車の行き違い待ちをする。周辺住民は天王台駅の方を好む。完全な無人駅ではなく、時間帯によっては駅員もしくは車掌が出張してくる)

せかせかした生活をしていると、こんなローカルムードも悪くないが、生活者にとっては何かと不便を感じるに違いない。成田空港が開設されて成田線も便利になるかと期待されたが、成田エクスプレスが走っているのは千葉を通る総武線から成田線。こちらの我孫子側は、経済の高度成長前の雰囲気と新興住宅地の両面を見せている。

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なぜ盛ん、成田線の行商部隊

東葛なぞふしぎ事典から
早朝から重い荷物を背負い、電車に乗って東京へ向かう人々の群がある。かつてカラス部隊と言われた行商のおばちゃん達である。大正12年9月の関東大震災のとき、救援物資を搬入するため千葉県の農家の主婦たちが支援活動に乗り出した。この震災の時に、自家製の野菜や卵を持って見舞いに行ったのが、この行商の始まりと言われている。

明治34年に成田鉄道が開通し、東京への道が開かれていた地の利の良さと、農家の現金収入獲得への切実な願いと重なって、行商の数は次第の増加する。特に昭和初期の農業不況や日照り、利根川の洪水といった災害によって、生活に困った当時の成田線沿線農家には、いい収入源であった。このあたりの行商は、基本的には農業経営と行商の二本立てであり、主に一家の主婦が担いで行商に出た。

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50キロほどの農作物を背負って、交通に便利な東京の台東区、港区、新宿区などの家庭に行く。行商の一人あたりの得意先は30戸程度で、一日か二日おきに各家庭を訪問する。国鉄や京成鉄道には行商専用の車両もあり、朝の風物詩となっていた。成田線の新木、布佐、木下、小林、安食、下総松崎あたりから、自分の背丈より大きな行商籠に野菜や卵をつめて列車に乗る。

当時、常盤、成田両線は普通でさえ通勤や通学の増加で混雑し、それに加えて行商人が乗り込む。そして、それぞれの人が得意先の希望を満たすために、車内で行商人同士の売買や、物々交換がなされた。これが大荷物とともに一般の乗客のひんしゅくを買ったため、改善を求められた。行商人に対して風当たりが強く、昭和14年には行商人の車内行動の自粛を要求され、また列車の制限もあった。

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安食駅4時58分の一番電車の乗り込み、お得意様に売りさばき、完売になった10時すぎには空になった籠の上下を重ねて、小さくまとめ帰り支度をする。帰りの電車では通路に新聞紙を敷き、その上に籠を置き、手帳に売上などのメモをした後は眠っていく。12時過ぎに安食駅に着き家路へと急ぐ。

家に帰ると今度は畑仕事が待っている。朝早く出かけるのも、農作業に支障を来さないためである。行商用の畑は一反から二反程度で小さく、そこに少しずつたくさんの種類の野菜を作っている。夕方には、次の行商のための野菜を収穫し洗うなどの準備をする。荷籠に野菜を詰めるのは夜なべ仕事である。そして翌朝午前3時には起きて行商に出かける。

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戦時中の統制によって一時中断され、「ヤミ行商」として水面下に潜っていたが、戦後復活し、昭和20年代には一大ブームを迎える。モノのない時代で東京に野菜を持っていけば面白いように売れた。当時、四千人いた行商のおばさんも現在はその数が減った。しかしそれでも、毎日安食駅、4時58分の始発列車には、六十歳代七十歳代の行商のおばちゃんが十人近くは乗り込む。

早朝人もまばらなホームに大きな荷物を背負って、地に足を付け一歩一歩力強く歩いている。電車を待つ間は、構内にある荷台に背負ったままの荷物を乗せ笑顔で話し合っている姿はたのもしい。行商の仲間たちが、年老いても行商を続けているのは、現金を得たい経済的な理由と、仲間との連携感、そしてお得意さんとの家族のような交流があるからだという。

(※歴史と文化のトーク&トーク第8回、「かごや」の金子早苗さんの記事のイベントの際に、カゴの種類の説明で、見世蔵の寺田さんが昔を懐かしんで「流山からも行商さんがいたんだよ」と、教えてくれたのでこの記事も流山の歴史の一つなのだ。(見世蔵の寺田さんと書いたのは結構流山でも寺田姓が多いため)流山の農家から流山線だけに限らず、野田線や常磐線を使って都内まで売りに行ったそうだ。)



文を追加しておく

京成電鉄の行商専用列車
行商人を専用に輸送する列車はその固定した需要から専用列車として京成電鉄の野菜行商専用列車、通称「なっぱ電車」が走り始めた。京成では正式には「嵩高荷物専用車」と称する。ただし、「嵩高荷物専用車」の対象は「京成行商組合」の加入者で、定期手回り品切符を発行の上で利用している。

これら農産物や食品の行商人は背に商品となる野菜などを担いでいたことから「カツギ屋」とも呼ばれ、京成のみならず国鉄でも見られた。常磐線(おおよそ神立駅以南)・成田線にも同様の専用車(出荷組合員指定車)が存在していたこともある。そのため、湖北駅~下総松崎駅のホームには、行商人専用の荷物置き台が現在でも設置してある。

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京成電鉄の「なっぱ列車」も次第に縮小され、1982年2月14日からは行商専用列車に代わり、上野行・西馬込行(専用車扱いは押上まで)各1本最後尾1両だけの専用車扱いで運行された。以降は「行商専用車」と称された。1998年10月1日より押上方面行の専用車設定は無くなり、以降は上野方面のみの設定となった。2013年3月29日の運行を以て廃止された。

廃止直前に行商車両が設定されていた当該列車は、普通(列車番号 732列車)芝山千代田発(7時46分発)京成上野行(9時52分着)で、平日のみの設定だった。この列車が到着する駅のホームでは、「当駅○時○○発(平日)普通上野行の最後部一両は 行商専用車です」との但し書きがあった。○の中には、その駅の発車時間を表す算用数字が入る。また、行商組合が休みの場合は、専用車は中止された。

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成田線

大株主は成田山新勝寺
東葛交通事典に文が残っているので電化する。成田線は明治26年に創設された下総鉄道会社(明治28年に社名を成田鉄道と改名)によって、明治30年に成田~佐倉間13キロを開通したことに始まる。

明治29年4月に関東鉄道株式会社の川越~大宮~野田~我孫子~木下~成田に至る鉄道敷設計画を譲り受けるが、我孫子~成田間32キロのみが明治34年に開通した。

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これにより佐倉~我孫子館が結ばれて総武線の各駅からも常磐線(当時名は日本鉄道土浦線)への連絡ができるようになった。成田~我孫子間の成田線は明治32年12月に着工。工事は大倉土木組(現在の大成建設)が全区を請け負った。

まず、明治34年2月2日に成田~安食間が開業。同34年4月1日に安食~我孫子間が開業。当時の駅は成田、安食、木下、布佐、湖北、我孫子の6駅で、同34年8月11日、下総松崎と小林の2駅が開業。昭和25年10月12日に東我孫子駅、同33年4月1日に新木駅が開業して現在の駅数となった。

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『あびこん』で年末感謝祭

我孫子市我孫子新田22‐4(手賀沼ふれあいライン沿い)
我孫子市のあびこ農産物直売所『あびこん』で年末感謝祭と、初売り&福引き抽選会が行われる。『年末感謝祭』は、12月28~30日の3日間。お買いもの1000円毎に福引券をプレゼント。お餅はもちろん、果物やお正月を彩るお花も販売。

年明けの『初売り』1月5日、『福引き抽選会』1月7日・8日で抽選に参加できるほか、正月料理に疲れた胃腸をいたわる新年粥を無料でサービスする。※なくなり次第終了。営業時間が日にちによって違うので注意。

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我孫子の魅力をCMに

東京メトロで7月放映
我孫子市は6月30日、交流人口の拡大や移住・定住のきっかけ作りに向け、市の魅力をPRする市民参加のCM撮影を手賀沼湖畔で行った。小学生から60代以上の市民や職員ら約30人が出演。完成したCMは7月上旬、地下鉄東京メトロ電車内の液晶モニター「メトロビジョン」で、1都4県にわたり放送される。

撮影はテレビカメラや小型無人飛行機「ドローン」を活用して実施。「物語の生まれるまち」をキャッチフレーズとして、沼周辺の遊歩道をサイクリングやジョギングする人々、水面を走るヨット、カヌー、公園で遊ぶ子どもなどを中心に映した。

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出演者は普段から沼周辺でスポーツなどを楽しんでいる人ばかり。我孫子の日常をリアルに表現したCMを目指す。市あびこの魅力発信室は「市外の人には手賀沼は汚いというイメージがある。今は浄化が進み、さまざまな形で過ごせる場所だと紹介したい」と意気込む。

制作するCMは15秒と30秒の2種類。15秒CMは千葉や東京、茨城などを走る電車内で約1週間放送される他、市がインターネットを通じて発信していく。東京メトロでシティプロモーション用CMが放送されるのは金沢市に続き、全国で2番目となる。

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召し上がれ、我孫子産の味

地産地消推進店、市が登録制度
我孫子市は、地元の農産品を積極的に使う飲食店などを対象に、「あびこ地産地消推進店」の登録制度を始めた。登録すると、市観光PRキャラクター「手賀沼のうなきちさん」が野菜やご飯を持って、「好きです あびこ産」と呼び掛けるグッズを無料で貸与する。
 
「市内の野菜を食べられる店を知りたい」といった消費者の声に応え、地元農業を支援するため、今年四月に制度をスタート。すでに直売所や飲食店など十七店が登録している。グッズは、壁やドアに貼る三十センチ四方のタペストリーとレジ前などに置く高さ二十センチのおきあがりこぼし、二種類の絵柄のステッカーの計四品。
 
市農政課によると、我孫子の農業は少量多品目生産が特徴で、トマトやネギ、ホウレンソウなど多彩な野菜が栽培されている。市の担当者は「我孫子の野菜や米を扱う店を増やして、地産地消を進めたい」と話し、五十店舗の登録を目標にしている。

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地元のとれたて野菜をもっと食べたい!

我孫子市、地産地消の取り組みに新展開
地産地消は今ではすっかり食のキーワード。直売所などには、農家から直接届く旬の野菜を目当てに、買い出しに来る人が多く見られます。とれたての新鮮さが味わえるというのは地産地消の魅力ですが、加えてそこには、輸送エネルギー削減や農地の維持を通じて自然環境の保全につながるという意義もあります。

市の約三分の一が農地という我孫子市。地元農産物を扱う「あびこ地産地消推進店」の登録制度を4月からスタートさせたほか、現在の「水の館」に直売所や飲食店などを兼ね備えた複合型施設を整備する計画を進めています。同市農政課にとことん、聞いてきました。

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「あびこ地産地消推進店」で地元野菜を!
地元農産物に関心をもつ消費者にとって、それをどこで買ったり食べたりできるのかという情報はありがたいもの。そんな気持ちに応えるのが、我孫子市が4月から募集開始した「あびこ地産地消推進店」です。

農政課の斎藤寿義さんは「地産地消に対する市民の意識は高く、『我孫子産』を扱う店の存在をもっとPRしていく必要を感じていた」と、この制度導入のきっかけを語ります。

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「あびこ地産地消推進店」は、利用者に一目でわかるよう、店頭にPRグッズを掲げ、メニューや商品に我孫子産であることがわかるように表示します。「市内飲食店のメニューを見ても、食材に我孫子産と記されているものはあまり見かけませんが、聞いてみると市内産米を使っていたり、地元農家から野菜を仕入れていたりと、利用されている」と斎藤さん。

「あびこ地産地消推進店」によって、我孫子産がぐんとわかりやすくなります。地元農産物を扱う店が「あびこ地産地消推進店」として市に登録されるためには、一定の要件を備えていることが必要で、市へ申請し審査を経て決定されます。

登録されると、市の広報紙やホームページで紹介されます。対象となる業種は、飲食店、小売店だけでなく、直売所、ホテル、食品加工所などさまざま。市としては、まず50店舗を目標とし、その後も徐々に増やしていきたい考えです。同課・中場志保さんは「地産地消は地道に続けていくことが大切ですね」と話します。

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農業拠点施設で生まれ変わる「水の館」
地産地消の取り組みにはさらに大きな動きがあります。同市にある「水の館」1階に、2017年春開設を目指して、農業拠点施設が整備されることが決まりました。今年7月に「水の館」とその周囲に広がる手賀沼親水広場が、千葉県から我孫子市に移譲されることになり、それを受けて市が策定した「手賀沼親水広場等活用計画」に盛り込まれたものです。

この農業拠点施設とは、農産物直売所を中心に、農産物の加工場、農業と環境に関する情報コーナー、地元産品を使用する飲食店などが整備された、農業に関する複合的な施設です。

メインとなる農産物直売所については、現在市には公設民営の農産物直売所「あびこん」がありますが、より大きなものとなるようです。計画によると、新店舗の売り場面積は「あびこん」の2倍以上の約253�u。来店人数は4倍以上の約39.8万人、売上げは2億1770万円を見込んでいます。



また飲食店は、面積が屋内70平方メートル、屋外デッキ45平方メートルで、合わせて68席分のスペースを確保。屋外デッキには可動式テントを備えたカフェスペースを設け、周囲の手賀沼親水広場との一体感を演出します。

地元産野菜を取り入れたメニューの研究・開発が、オープンまでの間、続けられるとのこと。市はこれまでにも農業拠点施設の整備を視野に入れ、そのため「あびこん」を実証アンテナショップとして位置づけ、採算性や消費動向を調査しながら検討を重ねてきました。

中場さんは「この間、紆余曲折がありましたが、『水の館』のリニューアルにより、ようやく農業拠点施設が実現することになりました」と振り返ります。我孫子の農産物がさまざまな形で味わえる新施設が実現すれば、それはまさしく”農のテーマパーク”と言えるでしょう。地産池消のビッグ・ウェーブとなることが期待されます。

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手賀沼の主は何か

手賀沼は利根川水系の湖沼
東葛なぞふしぎ辞典に文が残っているので電化する。手賀沼の広さは約6・5平方キロメートル。江戸時代には今の三倍程の広さがあって「つ」の字の形をしていたという。その流域は河岸の街として栄えた布佐や木下、鮮魚街道や成田、水戸街道も近く、商業、農業、漁業と多彩であった。その広い手賀沼のこと、沼の主と言われるものも町や村ごとに伝承がある。さてどの沼の主に軍配が上がるか。

宝永の手賀沼絵図
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黄金の亀(沼南町大井)
昭和3年3月7日付の東京毎夕新聞に次のような見出しが掲載された。「伝説に残された黄金の霊亀 手賀沼から這い上がって農家の庭先に現わる」記事の内容は

「五日午後三時頃、風早村大井農業森喜助方で全身純金色を帯びた約八寸(35センチ)の亀を同家の子供が発見捕獲されたが、昔から漁師の間では沼の深い所に浦方の亀と呼ばれる黄金の亀がいると伝えられていた。昔、唐の国において発見された黄金の亀を、浦方の亀と呼んだことによる」と名称の由来も書いている。

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記事の中の森家は農業だけでなく、将門の七影武者の伝説を残す大井香取神社の宮司を旧領主の本多家に仰せ付けられたという名家である。以前電話で現当主の森時康氏にその亀について問い合わせたことがある。

「その子供が私です。当時近隣の話題になり、多数の人が見学に来ました。佐原の大利根博物館に展示されたこともあります。桐箱に収められていますが、甲の色は70年以上経っていますので色あせています。専門家の話では白子でしょうとのことでした」

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鯉(我孫子市)
雪の降る荒れた夜。沼の近くに住む漁師の苫屋(とまや)に一人の僧が訪れ、一夜の宿を乞うた。漁師は快く家の中にいれ、暖かな団子汁を作り僧をもてなした。夜も更けて「どうもこの頃、沼の魚が減って困っています。人々があまりに乱獲するからでしょう。今日を限りに捕るのをやめてほしいのです。」と僧は言った。しかし漁師にも暮らしがあるので、「いくらお坊様でもそればかりは勘弁を」と断った。

翌日いつものように沼に出ると網に大きな手応えがあった。喜び勇んで重い網を引き上げると今までにない金色の大きな鯉がかかっていた。さっそく家に戻り、漁師は料理に取り掛かった。するとどうだろう、その鯉の腹の中に昨夜僧に御馳走した団子が入っていた。「あの僧は沼の主の化身だったのに違いない」沼の主は僧に姿を変えて、乱獲を訴えるためにやってきたのだった。

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牛(柏市松ヶ崎)
昔、覚王寺の住職が永年飼い慣らしていた牛がいた。白と黒のまだらのある三尺(90センチ)もの角を持つ大きな牛だった。この牛の飼い主でもある住職が亡くなり、次の住職は牛が大の苦手だった。寺男に命じて手賀沼の近くの松林につないでおいたがどのような頑丈な綱でつないでも食いちぎるので藤づるでつないでおくことにした。それから牛は姿をあらわさなかった。ただ藤づるだけが残っていた。村人たちはこの牛を沼の主と言い伝えるようになった。

柏市松ヶ崎1112(覚王寺)
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鰻(我孫子市都部)
昔、手賀沼のほとりに八郎左衛門という漁師がいた。三日続けて赤子の頭ほどの頭を持つ大ウナギを取ったが、気味が悪く死んだあとに埋めた。まもなく八郎左衛門も亡くなった。皆が「沼の主の祟りだ」と噂をした。

(※我孫子は東西格差が大きいと聞く、水運時代に栄えていた場所と鉄道駅開通で開発された所とでは、通勤アクセスという絶対的な理由により、今現在の人口増加に大きな意味を持っている)

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鰻魚一切水族霊

我孫子市都部新田
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。手賀沼のまわりには、漁業や鴨猟にかかわる石碑がいくつかある。都部新田に水神宮があり、境内には庚申塔の外に様々な石碑が立ち並ぶ。拝殿の裏に自然石の小さな石碑がある。

正面にはシヤの梵字の下に「鰻魚及一切水族霊」と刻まれ、裏面には「明治三五年三月吉祥日」「施主守家建造滞在大井氏方謹刻之」と刻まれている。碑の由来は人間は長い間、鰻や魚を食べてきた。その全ての霊の供養塔である。

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これには三つの言い伝えがある。�@藤姫と若狭之介の恋が姫の継母により割かれ、藤姫と若狭之介は殺される。藤姫の怨念は大蛇となり手賀沼の漁師を苦しめた。祟を鎮めると大蛇は大鰻となった。

長い年月が流れて都部の若者が大鰻を捕まえて村人と食った。若者は水死し、村人には激しい腹痛が起きた。近くの正泉寺(※我孫子市湖北台にある曹洞宗の寺院)の住職に供養を頼み、沼のほとりに牌を建てて鰻の霊を慰めた。

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�A根戸の八左衛門が大鰻を捕まえ屋敷に飾ると祟が起きた。そこで鰻を埋めて塚を築き祀ると祟がおさまった。娘のマンは嫁がず鰻塚を守った。以来八左衛門の一家は長生きしたという。

�B都部の林長太郎さんは大鰻を二度も捕らえた。不思議に思い、近所の人と相談し近くの水神様に捧げ、その後みんなで食べた。しかし鰻の祟を思うと不安になり、皆で相談し水神様の裏に塚を築き石塔を建て供養を怠らなかった。

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毎年12月27日、石送神事

諏訪大社上社本宮
諏訪大社本宮では、「煤払神事」に続いて「石送(いしおくり)神事」が行われます。「石送神事」をネットで検索すると、諏訪大社以外では一件もヒットしません。そのことから、「石を送る」のは諏訪大社独自の神事と思われます。宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』では「明治初期の文献から出てくる。

古典にはないことから、伊勢神宮関係の新しい神事ともみられる」と解説しています。「明治初期の文献」は、第三代宮司・岩本尚賢稿『(仮題)諏訪上社祭祀の大略』でした。

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拝殿前左側庭上に神官並立し小石十二個を執りて、一月より十二月迄の数を表し下官より各自伝進し、一ヶ月毎に之を唱え長官(※現在の宮司)に至りて皇大神宮遙拝所瑞垣の内へ納む、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第一巻』

幣拝殿に向かって右側に「伊勢神宮遙拝所」があります。「遙拝所とは、遙かに(望み)拝む所」ですから、瑞垣で結界のように囲っている形は不自然です。因みに、「諏訪大社下社の遙拝所」には入口があります。みだりに入ることはできませんが、中に立砂があるのが見えます。

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神事の説明が後になりましたが、その遙拝所に写真の石を「投げ込む」のが「石送神事」です。新聞では「今年一年の災いを石に託して流し、明るい新年の到来を願う」と報じていますから、遙拝所は、伊勢神宮に「厄」を送り届ける中継所で、伊勢神宮が「厄の最終処分場」ということになります。
 
明治になって伊勢神宮を本宗とする国策を受け入れた時に、「一年の間やむを得ず受け入れて(押しつけられて)きた諸々を、諏訪神社の独自性を守るために送り返す神事を作った」とは考え過ぎでしょうか。

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一列に並んだ6人の神職が、1月から12月までを墨書した小石12個を、「一月」「二月」と復唱しながらリレー形式で渡して行きます。下は、権宮司が、しんがりの宮司に「十二月」を渡し終えた瞬間の写真です。

これも、宮司が伊勢神宮遥拝所に投げ入れた瞬間の写真です。奇跡とも言える「二枚のスーパーショット」を紹介できたのは、諏訪明神が私に乗り移ったわけではありません。

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実は「石送神事はビデオ」と決めて、写真は一枚も撮りませんでした。その結果は、とても公開できるような出来ではなかったのでお蔵(HD)入りとなってしまいました。「写真がないのも寂しい」と常々思っていたので、11月に入ってからビデオを静止画にしてみました。

種を明かせば、フレーム毎にチェックして「神業ショット」に仕立て上げた「ビデオ写真」でした。神事のすべてをハイビジョンで撮り直しました。三脚使用なのでバッチリでしたが、指が凍えてズーム操作がラフになってしまいました。

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よい年願い石送神事

諏訪大社上社本宮
諏訪市神宮寺の諏訪大社上社本宮で12月27日、石送神事が行われた。斎庭に北島和孝宮司ら神職6人と大総代約30人が参列。12個の小石に今年1年の災いを託してはらい、新しく迎える2017年がよい年になるよう願った。

神職が斎庭の脇片拝殿側に1列に並び、「1月」「2月」「3月」と復唱しながら、月名が書かれた小石を伊勢神宮遥拝所前に立つ北島宮司まで、一つずつ順に手渡した。北島宮司は手に12月までの石がそろうと、遥拝所の玉垣の中に投げ入れ、災いをはらった。石送神事に先立ち、煤払神事もあり、神職が1年のすすを払って新年を迎える準備をした。


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