でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2018年04月


平成29年4月26日~5月7日の期間

今年で6年目、鯉のぼりまつり、坂川Eボート乗船会
平成29年5月5日(祝日)、宮園の坂川で、今年で6年目を迎えた「坂川鯉のぼりまつり」と昨年から同時開催している、地域のイベントとしてますます人気が出てきたEボート乗船会(みやぞの池と坂川を活かしたまちづくり市民の会主催、市後援)が開催されました。

乗船会のボート出発式には、井崎市長も訪れました。この水辺はもともと、すぐそばの宮園調整池の緑化による修景事業が流山市によって実施された際に、国交省も同時に行った坂川の親水化事業によって誕生、近隣の市民に親しまれる水辺に変わりました。

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その後、地域のボランティア団体「市民の会」(みやぞの池と坂川を活かしたまちづくり市民の会)が、池周囲に芝桜を植え、坂川土手の除草などを行って環境の維持に努め、春・秋に水辺のイベントを開催しています。

井崎市長は挨拶で、「地域の方々の努力で、水辺の環境が維持されているのは、市としてもたいへんありがたい。高齢化の下での活動はたいへんだと思いますが、今後もがんばって続けていただきたい」と激励。

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その後ライフジャケットをつけてEボートに自ら乗船、風に泳ぐ鯉のぼりの下で初めてのEボート体験を楽しみました。ボートから降りた市長は、「川の上の風は爽快そのものですね。思っていた以上に、Eボートは安全だし、快適でした」と感想を話していました。

Eボート乗船会は、流山市カヌー協会のメンバーがインストラクターとして協力して安全に実施されており、今年は子ども連れの家族など全部で113人が、水面から鯉のぼりを眺めながら宮園~鰭ケ崎間の往復を楽しみました。
 
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また、今年の坂川を彩った鯉のぼりは、川を横切る7本のロープに約70匹、子どもたちが思い思いに着色した「塗りえ鯉のぼり」が岸辺の安全策に沿って100匹、土手上に大小の鯉のぼりが約40匹。

宮園の水辺は、「鯉のぼりまつり」の開催期間中(4月26日~5月7日)の好天もあって、子どもの手をひいたり抱いたりした家族連れなどで、たいへんにぎわいました。

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坂川

水源、千葉県流山市野々下二丁目
坂川は、千葉県を流れる江戸川水系の河川。北千葉導水路の一部としても使われている。流山市と松戸市、市川市の三市を流れ、江戸川にそそぐ。下流には、柳原水門がある。昔は、よく洪水が起きていた。途中では、六間川などと合流している。

流山市野々下二丁目付近に水源を発し、南に流れる。上流では、数多くの水路から水を集める。(柏市や流山市の北部からも集めるため、流域面積は広い。)富士見橋付近で西に流路をかえ、支流の富士川と合流する。富士川との合流点から、松戸市横須賀付近まで、この川が流山・松戸の市境となっている。

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松戸市横須賀付近で、坂川と新坂川に分かれる。その後、松戸市小金付近でまた分流し、多くの水は坂川放水路を介して江戸川にそそぐ。本流坂川は放水路と分離したのち南に流れる。そして、多くの支流と合流し、また分離する。

その後何本かの放水路で再び水を江戸川に流したのち、さらに松戸市を南下する。そして、市川市国府台三丁目で、本流が江戸川にそそぐ。全長は16km。



坂川は、昔逆川(さかがわ)といい、沿岸は沼が点在する、葦のおい茂る低湿地であった。坂川では、1692年(元禄5年)の新田開発により、沿岸(現在の新松戸、旭町、栄町等)に新田ができた。逆川はそれらの新田に度々洪水を起こし、3年に1度収穫があればよい程度の不作ぶりであった。

新田で堰を高くすると上流が洪水になってしまい、そのための争いも起こった。1781年、上郷名主の渡辺庄左衛門充房が国府台下までの掘削を初めて幕府に請願し、1801年に幕府が視察に訪れた。しかし、下郷7ヶ村(古ヶ崎・根本・小山・上矢切・中矢切・下矢切・栗山)が反対し、結局その請願は保留となった。

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1812年に渡辺庄左衛門充房が死亡し、翌年、渡辺庄左衛門(寅)のときに一本橋から松戸宿までの掘削が開始された。しかし洪水予防の効果がなく、さらに国府台下までの掘削の請願までも繰り返したため、下郷7ヶ村との対立は続いた。

1833年、渡辺庄左衛門(睦)が国府台下までの掘削の測量を開始したが、これに反対する下郷7ヶ村の村民が反対のため浅間山(松戸市)に立てこもり争いとなる。それが飛び火し、古ヶ崎村から測量に来た百姓に死者まででる事態となった。

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見かねた奉行所の調停により、1835年から国府台下までの掘削が開始された。これにより洪水被害はやや収まった。1910年、樋野口に蒸気機関の排水機場が造られた。また、1932年(昭和7年)より新坂川の掘削が開始され、坂川を排水、新坂川を用水として機能するようになり、現在に至る。

以前は水質が汚かったが、現在はBODが5~7程度ときれいになりつつある。そのため、確認される魚も増えていて、メダカやアユなども確認された。現在は40種類ほどの魚が生息している。坂川では、毎年ゴールデンウィークのとき、坂川の清流化を願い、「坂川に清流を取り戻す会」が中心となって、350匹の鯉のぼりを上げる。

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子どもに「坂川」解説冊子

流山拠点の市民団体が発行
流山、松戸、柏の三市の街中が流域の坂川に、子どもたちに興味を持ってもらいたいと、流山市を拠点にする市民団体が解説冊子「坂川と人々のくらし」を発行した。坂川の誕生や、水害・水質汚染との闘いなどを、写真やイラストを多く使い解説。コイとカモのキャラクターも登場し、子どもが楽しく読めるように仕上がっている。
 
冊子を作ったのは、市民団体「みやぞの池と坂川を活(い)かしたまちづくり市民の会」。坂川流域の流山市宮園、鰭ケ崎(ひれがさき)や、松戸市幸田(こうで)などの住民らが会員。三市に広がる下総台地を水源にする坂川は全長十六キロの一級河川で、江戸川に注ぎ込む。

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同会は七年前、坂川と近接する「みやぞの野鳥の池」を地域の活性化に役立てようと発足。四、五月の連休に坂川の上でこいのぼりを泳がせる「坂川鯉(こい)のぼりまつり」などのイベントや、周辺の清掃、河川関係の見学会、ホタルの復活に取り組んでいる。冊子はカラーのA4判で、七章からなる十八ページ。

第三章では、大雨のたびに水が逆流することから「逆川(さかがわ)」と表記されていたのが、江戸時代に鰭ケ崎の名主らの尽力で、「水が坂を下るように」流れる川に改修され、「坂川」という今の表記に改められた逸話を取り上げている。第七章では、きれいになった坂川の水辺が憩いの場になっていることや、同会の活動を紹介。

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同会は流域の小学校に坂川を学ぶ副読本にと寄贈。冊子の執筆・編集を担当した久谷与四郎さん(79)は「寄贈した学校の校長先生たちには『子どもたちは絶対に喜ぶ』と非常に好評だった」と手応えを感じている。五百部を発行。希望者には宮園自治会館=電04(7159)1935=で平日に無償提供する。

逆川(さかがわ、さかさがわ、さかさまがわ、など多数)とは、潮位の上昇や合流先河川の増水などによって、水が逆流することがある河川。地形などの影響で周辺の他の河川とは逆の向きに流れている河川。潮流の変化により流れが変わる運河、につけられる名称である。

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幸田の地名の由来

郵便番号〒270-0001
東葛地名事典に文が残っているので電化する。幸田は北小金駅の北、下総台地の西端に位置する。台地上の幸田は北と東が坂川の低地に、西はふじ川に面している。坂川の低地には小金北中学校が建っている。坂川を挟んで北に流山市芝崎がある。範囲は現在の松戸市幸田、幸田一丁目~五丁目。

小金北小学校PTAがまとめた「こがねのむかし」に地名の話がある。「昔、四ヶ所の田んぼがあった。日照りが続けば干ばつに、雨が降れば洪水にと、なすすべが無かった。しかし、田んぼはどこか一ヶ所が凶作でも、他の田んぼは豊作であったので、人々は飢饉になる事はなかった。」そこで「幸田」と呼ぶようになった。(要約)

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地名は低湿地の水田開発とともに呼ばれるようになったのだろう。松下邦夫さんは、開発は小金城主高城氏が勢力を持っていた戦国時代と予想する。だが、低地は江戸川からの逆流や坂川本流のふじ川、また流山方面からも、毎年のように洪水に襲われた。そのたびに「田んぼは荒れ」不作になった。

いつしか、村人は「こがねのむかし」と反対に、絶望的に「荒田」と我が村を呼んだのだろう。荒田の地名はあまりにも悲惨だ。江戸時代になると、絶望から希望の持てる地名が考えられた。荒→幸、読みは同じ「こう」で、意味は「荒れたところ」から「幸いなところ」と、悲惨から幸福・幸せの好字に変えたのであった。

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ここでは田を「で」と発音する。田は、田地、田園、水田と同様に「でん」と読む。正確には荒田→こうでん、と読む。しかし、生活多忙な農民たちは他の使用言葉との関連で、「で」と縮め発音したのではないか。

※文を追加しておく、この地区は流山側からも良く見ているが、斜面にビッチリと分譲住宅が建っている。あそこなら北小金徒歩20分と言った所だろうか。戦後の第一世代は、職場に限りがある地方の人々や、農家の次男・三男は、当然のことのように都内へ出てサラリーマンとして生きていくことになる。

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賃金が払われ、家庭を築き、団地や賃貸アパートのような所に住むという選択もあれば、家族が増えていく中でマンションやマイホーム購入へと考える層もいる。バス路線のことはよくわからないので、実際問題把握できていないが、雨の日も風の日も駅を使って都内へ通ったことだろう、戦後の大規模開発の一つの姿が見える。

また坂川を挟んで、流山側にはほぼ手付かずであった緑の大地が見える。この斜面の対比も今現在区画整理事業が行われて、つくばエクスプレス沿いの大規模開発、これからはいつまで緑が見られるか想像も出来ないが、途中だからこそ感じられた一つの目線だった、歴史とは違いがあって気付くもの。今だから、途中だから気付いた事だろう。

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毎年4月最終日曜日、高知県「どろめ祭り」

“美しく”大杯を飲み干す!50年以上続く奇祭!
高知県香南市赤岡町で毎年4月最終日曜日に開催される「どろめ祭り」。その中でも太平洋の大海原を望みながら、男性が1升(1.8リットル)、女性が5合(0.9リットル)の日本酒を大杯で飲み干す「大杯飲み干し大会」は、半世紀以上も続いている奇祭だ。

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「どろめ」とは、ニンニクの葉をすりおろした白みそ仕立てのヌタでシラスを食べる郷土料理。どろめを肴にする大杯飲み干し大会は、“飲み干す速さ”と、こぼさないなどの“飲み方のうまさ”を競う。2万人を超す観客が注目する中、県内外からの挑戦者たちは男女とも10秒足らずで飲み干し、その飲みっぷりには歓声が上がるほど。

どろめ祭りは、地元の酒蔵が「大酒飲み会でもやって楽しもう」と始めたと言われ、1958年に第1回大会が開かれた。現在は、毎年抽選をしなくてはならないほど多くの参加者が集まる。「大杯飲み干し大会」では、3回連続優勝すると酒豪博士認定状が送られ、栄光を称えられる。お酒に自信がある方は、ぜひチャレンジしてみてはいかが!?

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大杯になみなみとそそがれた「おらんくの酒」を一気に飲み干す「大杯飲み干し大会」はどろめ祭りのメインイベント。「これこそ土佐人」のイメージを全国に広めた豪快でユニークな祭りです。まさに「土佐流・少々(升・升)飲む」の情景。ここに土佐があります。

毎年4月、赤岡町の浜辺に世界各国の名だたる酒豪達が集まり、太平洋を舞台に、地引き網でとれたてのドロメ(マイワシ・ウルメなどの稚魚)を肴に男性は一升(1.8リットル)女性は五合(0.9リットル)をぐいぐい飲み、「飲み干す時間」「飲みっぷり」の総合得点を競います。



高知で日本酒飲みイベント「どろめ祭り」

酒豪自慢の男女22人が大酒飲み勝負
高知・香南市赤岡町の浜辺で「赤岡どろめ祭り」が開かれた。「どろめ(イワシなどの稚魚)」の大漁を願う祭りとして毎年開き、大杯に注がれた日本酒を一気に飲み干す「大杯飲み干し大会」が呼び物の同祭は今年で58回。今大会には県内外から男性13人、女性9人の酒豪自慢が参加し、約一万人の観客が大杯を飲み干す参加者に声援を送った。

男性が一升(1.8リットル)、女性が5合(0.9リットル)の日本酒の飲みっぷりや早さを競い合う同大会。大杯を一気に飲み干す横ででは、司会者が「こぼさないで。ぐぅーっと、ぐぅーっと。頑張れ」と掛け声を送り、豪快に飲み干した参加者には大勢の観客から拍手が送られていた。

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参加者は、酒を飲み終えた後こっそりと吐き戻すのが定石だが、中にはそのまま友人に助けを求める参加者の姿も。今大会の優勝者は、男性の部が12.9秒で昨年に引き続き川崎市の会社員、釜谷直宏さん。女性は香南市の自営業・内村ユイさんが10.1秒で優勝を果たした。

2連覇に輝いた釜谷さんは「練習して臨んだので自信があった。3連覇を目指したい」と笑顔を見せる。奮闘したものの、優勝を逃した高知大牛丼部の松岡さんは「タイムは15.1秒で、満足いくものではなかった。来年再チャレンジするために創意工夫し、日々練習したい」と悔しさをにじませていた。

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毎年4月28日、鹿野山の花嫁祭り

千葉県指定無形民俗文化財「梯子獅子(はしごじし)」
毎年4月28日に行われる白鳥神社の例祭。この1年間に結婚した夫婦が盛装して詣でるため花嫁祭りと呼ばれており、勇壮な悌子獅子舞が奉納されることで知られている。白鳥神社の祭礼は「花嫁祭り」とも呼ばれ、戦前にはその年に結婚した人たちが花嫁衣装を付け、仲人に伴われてお参りしました。この花嫁祭りを昭和60年に一度復活したことがあります。

お神酒で梯子にお清めの霧吹きを行った後、獅子舞がはじまりました。獅子は梯子の一番上でまるで曲芸のように舞いました。風も強かったので、見ているほうがドキドキしてしまいました。獅子は曲芸的な舞を演じながら梯子を降りてきます。舞が終わり、お囃子が「ばかばやし」を演奏して「梯子獅子」の終了となりました。

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毎年4月28日の祭礼の際、九十九谷を一望する白鳥神社前の広場において演じられる。伝承によると、永正元年(1504)に紀州高野山の名僧弘範上人が、真言密教を布教するために霊地鹿野山を訪れたという。その時、上人の徳を慕って木こりたちが移り住んだといわれている。

彼らは、遠く離れた故郷の奥高野を偲び、獅子に託して舞ったのが、はしご獅子舞の始まりであると伝えられている。当時、奥高野には、牡獅子が住んでいたといわれ、それを慕う牝獅子が断崖を模したはしごの上で恋焦がれ荒れ狂う様子が、演じられる。はしごのかたわらの榊は、牡丹の花にたとえたものであるといわれ、牝獅子は牡丹の咲く様子を見て一層郷愁の思いにかられ、乱舞するものである。

さらに、この日は「花嫁まつり」とも言われている。昔から白鳥神社は縁結びの神として知られ、夫婦そろって参拝すると幸せになると言われている。かつては、白鳥神社の祭りと神野寺の夜祭りは、一対をなして行われていた。神野寺の夜祭りは、若者たちの出会いの場であった。そして夜祭りで結ばれた二人が、翌年の春の白鳥神社の祭りに、結婚式の衣装を着てお礼参りするならわしがあったが、近年はその面影も薄らいできた。

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4月28日は春の大祭です。両ご本尊ご宝前において春季大会式特別大護摩供(11時30分)が厳修されます。このお祭りは別名花嫁祭りと呼ばれており、当山夏季大会式(夜まち)で知り合った若者たちが縁あって結ばれた場合、このお祭りにお礼詣りとして神野寺に参拝した事から別名花嫁祭りと呼ばれています。

10時より鹿野山上町から山車の引きまわしがあり、下町・九十九谷の順に進みます。九十九谷公園にて12時30分より500年の歴史を持つ梯子乗り獅子舞(県指定無形文化財)を奉納。高さ10メートルの梯子上での二人舞いは手に汗握る妙技です。

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永正元年(1503)弘範上人が紀州高野山から来山し神野寺の住職となりました。上人は衰退していた神野寺を復興した事から、神野寺では中興の祖と呼ばれています。そして、この上人の徳を慕って多くの木こりが一緒に鹿野山に移り住み、当地ではるか高野山を偲んで獅子舞を行いまいた。

当山のメス獅子が牡丹の花が咲くのを見て高野に住むオス獅子への恋が募り、断崖にみたてた5間1尺余の梯子の上で狂気乱舞するというのが鹿野山に伝わる梯子乗り獅子のそもそもの由来とされています。ちなみに、11時30分より神野寺にて特別祈願されたお札が梯子の頂上に貼られ獅子舞が始まります。現在鹿野山住民を中心とした保存会によって守り伝えられています。

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白鳥神社は、かなり山の中である。神野寺・九頭龍大権現を過ぎてカーブした坂を下った所で白鳥神社の山車に出会った。坂道が急であるせいかも知れないが山車の曳き手が多かった。囃子の名調子に活気づき、老いも若きも声はりあげて一所懸命曳いている。山車の最上段には、何かしら光るものがある。よく見ると黄金の獅子頭であった。白鳥神社はすぐそこだった。九十九谷展望公園の駐車場は満車であったので路上に駐車して撮影準備に入った。

梯子を使った獅子舞は初めての撮影であったので、撮影位置を決めるのに少し時間がかかった。動きが激しく振りが大きな獅子舞であるのでアップの撮影とピント合わせに苦労したが無難に終了した。此処から九十九谷を一望できる景観は、故郷の山々と呼応して望郷の念を抱かせるのかも知れない。上人の徳を慕って移り住んだ木こり達が遠くの故郷(奥高野)を偲んで獅子に託して舞った心根が伝わってきそうだ。

動画はコチラ



房総の名山「鹿野山」

県眺望100景にも登録
鹿野山(君津市)はマザー牧場が有名ですが、それ以外にも多くの意味で「房総の名山」と言えます。標高は397メートルで、その山容は東京湾側から望むと大きくてどっしりとしています。広い山上に集落があることも特徴です。

最高地点の白鳥峰には、この山の歴史を語る白鳥神社が祀られています。伝説によれば日本武尊の東征の際、鹿野山を拠点にしていた阿久留王を征討して人々の暮らしを安定させたとされ、武尊はその死後に白鳥となってこの地に戻ったということです。

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山頂の神明寺も上総の名刹としての信仰を集めています。神明寺は推古6年(598)に聖徳太子が開基したとされる歴史ある寺です。表門は16世紀の建築と言われ、国の重要文化財です。また本堂も宝暦7年(1710)に完成したことが確認されており、県指定有形文化財となっています。

神明寺に参るために山麓からの参詣道が六本もあり、鹿野山道として知られています。鹿野山は江戸時代から参詣客が多く、安藤広重の浮世絵にも「上総鹿楚山鳥居崎」として登場します。山上の鳥居崎にこのことを記した石碑と説明板が設置されていますが、現在は樹木が茂り、当時のような美しい富士山を望むことは難しくなっています。



旅行家大町桂月もこの地を訪れ、鹿野山二十詠として、この地の風景や歴史を詠じています。この20首は鹿野山の地理や歴史を幅広く題材としており、鹿野山探訪の良きガイドです。鹿野山でもう一つ落とせない名所が九十九谷展望所でしょう。

白鳥神社下の園地から、房総丘陵らしいどこまでも続く複雑な尾根や谷が作り出す独特の光景を望むことができるのです。遠く高宕山方面に続くこの眺めは、千葉県の眺望100景にも登録されています。そしてこの地は日の出や日没、雲海が美しい場所として多くのカメラマンが訪れます。雲海は冬の気象条件が整った時に、その幻想的な光景を見せてくれます。

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また、画家東山魁夷の「残照」のモチーフとなった光景であることもよく知られています。この地に立って房総の山々を眺めると、これが本当に300メートル程度の丘陵地なのかと思うほどです。鹿野山の話題で最後に付け加えておきたいのが、戊辰戦争の招魂碑です。

「最後の大名」と言われる木更津請西藩の林忠崇公(昭和16年没)が、戊辰戦争の戦没者を慰霊するために明治30年(1897)に建てたものです。請西藩は徳川側として戦い、戊辰戦争で唯一改易となった藩です。この招魂碑は大町桂月の二十詠の中にも「面する方は皇城にして」と詠われているように、江戸の方向を向いて建っているのです。

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現在ではすぐそばの電波塔のために東京方面を望むことはできませんが、最近説明板が設置され、訪れやすくなりました。慰霊碑のすぐ前にある大塚屋旅館さんの前庭からは、今でも東京湾とその向こうの東京方面を美しく望むことができます。

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鹿野山神野寺宝物拝観所

杉木立の静寂を楽しむ
房総の美術館・博物館に文が残っているので電化する。房総半島の先端には、あまり高くはないが、300~400メートルの山がいくつもあり、九十九谷を形つくり、その山並みの景色は大変魅力的である。

鹿野山(352メートル)はなだらかな稜線と見事に植林された国有林を持ち、古来より信仰の山であった。神野寺は、聖徳太子が日本武尊を敬い開いた伝えられ、江戸時代徳川家康が朱印の禁制を与えて保護したとされる真言宗智山派の寺である。

楼門をくぐると、堂々とした重層入母屋造りの本堂が正面にあり、脇に経堂、観音堂、鐘楼堂が配置されている。拝観料を支払って、客殿への国指定重要文化財の表門を入る。江戸城の全景を模した庭園、その中央にある高浜虚子の歯塚、天然記念物の大桑など杉木立の静かな境内の散策を楽しもう。

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平成6年(1994)開館した宝物拝観所には、運慶作と伝えられる仁王面、甚五郎作という白蛇、朝鮮金板経、中国武士備、内モンゴルで採取された恐竜の卵などが展示されている。また、鹿野山をこよなく愛した大町桂月の遺品も所蔵されている。

神野寺から四キロほどでマザー牧場(※「マー牧」と省略して呼ばれることがある。)に至る。東西南北、どちらからでも登れる鹿野山は、信仰の山であるとともに、観光、交通の要所でもあり、宿場町であった。(※上総国と安房国を結ぶ街道の町として栄えた。)

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重要文化財(建造物)

神野寺表門
信仰と伝説の山として知られる海抜353mの鹿野山は、房総丘陵が連なり深山幽谷の遠望を誇る山でもある。神野寺は、この鹿野山の山頂近くに位置し、広い境内地に雄大な規模を誇っている。神野寺の開山は、寺伝によれば推古天皇の時代(592~628)に聖徳太子が開いたと伝えられる。表門は客殿に通じる門で、茅葺切妻造の四脚門である。

組物や軸部の様式は、壁の中程より下にある腰長押しを除いてほとんど禅宗様でつくられており、直径約31�pの親柱と、直径約25�pの控柱は、いずれも粽づくりで礎盤の上に建っている。特に男梁、女梁、冠木の部分には、柱と柱の間に組物を施すなど禅宗様式の手法を踏襲し、落ち着いた構成美が感じられる。建立年代については、寺伝やその様式等から、室町時代の永正年間(1504~1520)と考えられる。



県指定有形文化財(建造物)

神野寺本堂
神野寺は、海抜353mの鹿野山の山頂近くに位置し、開山は、寺伝によれば推古天皇の時代(592~628)に聖徳太子と伝えられる。本堂は、方五間の堂で、銅板瓦棒葺の屋根が2階のように見える重層入母家造である。正面と背面に唐破風の向拝を付け、正面3間・側面2間・裏面に双折桟唐戸とを設けている。

正面と裏面に階段をつけ、その階段及び回縁には手すりを設置して重厚・荘厳な外観を呈している。内部の外陣は板張りで、内陣の床は密教建築の手法に則り外陣よりも高くし、回り廊下をつくり腰高障子で仕切っている。天井は格天井で、内陣中央には唐様・重層の宮殿が安置され、きらびやかさは目を奪うものがある。

現在の本堂は、棟札によって、江戸時代中期の宝永5年(1708)7月9日に再建に着手し、同7年(1710)に完成したことが判明している。木割りの雄大さや施工技法に優れており、本県における江戸時代中期の仏堂建築の好例ということができる。



県指定無形民俗文化財

鹿野山のはしご獅子舞
鹿野山のはしご獅子舞は、毎年4月28日の白鳥神社の祭礼に社前の広場で奉納される。2人で演ずる1匹の獅子が、高さ約10m、25段の大きなはしごの上で舞うという、手に汗握る獅子舞である。鹿野山の牝獅子が奥高野に住む牡獅子に恋焦がれ、断崖に見立てたはしごの上で舞い狂う様子を表わしている。

まず、「地まき」といわれる地上での舞で「四方固め」「花かがり」を演じたあと、横笛・大太鼓・締め太鼓による乱拍子の囃子にあわせて頭を振りながらはしごをのぼっていく。頂上に着くと、あお向けになって四方を眺めるしぐさを行う。下りる途中でも「天ぐるま」「しゃちほこ立ち」「腹わたり」「でんぐり」などの舞を曲芸的に演じる。

鹿野山のはしご獅子舞の由来については、永正年間(1504~1521)、紀州高野山から弘範上人という高僧が布教のために鹿野山を訪れた際、随行してきた木こりたちが故郷の高野山を偲んで舞ったのが始まりと伝えられている。

はしごを使った獅子舞は、千葉県内では野栄町の「仁組の獅子舞」、東金市の「北之の幸谷の獅子舞」、長生村の「岩沼の獅子舞」など4つが伝承されているが、地上の舞よりもはしごの舞が中心となっている点で鹿野山のものは特徴的である。全国的には和歌山県、兵庫県、岩手県など太平洋側に類例がみられる。

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県指定無形民俗文化財

鹿野山のさんちょこ節
かつて鹿野山周辺の地域では、お盆休みになると、女の子が各家々の軒に置かれた縁台の上で、あやとり棒を使った遊びに興じる風習があった。長さ20�p、直径4�pほどの竹筒に小石を入れたあやとり棒を両手に持ち、2人1組になって向かいあい、歌に合わせて棒を打ち合わせ、拍子をとりながら互いに棒を交換しあう。しかし、現在子供の遊びとして行われることはほとんどなくなり、わずかに保存会によって伝承されている。

『心願ネーエッサモナンデモセー心願かけるなら』『鹿野山におかけオサンチョウエー』という歌詞から「さんちょこ節」と呼ばれるが、別名「なんでもせぇ」「さんちょえ」、または「あやとり唄」などともいう。「心願」「薬師如来」「九十九谷」「鳥居崎」「春夏」「秋冬」「滝」「烏」「富士山」の九番があり、鹿野山の四季を歌いこんでいる。

さんちょこ節は娘たちが行う素朴で可憐なあそび歌である。当地を訪れた俳人、高浜虚子は、その様子を“おどりなきさんちょこ節はあわれなり”と詠んでいる。かつては各地域ごとにあった手遊び歌が、このように保存伝承されている点で貴重な例といえる。



迫力の舞と妙技に歓声

鹿野山のはしご獅子舞
長さ約10メートルのはしごに登り激しい舞を見せる「鹿野山のはしご獅子舞」が4月28日、君津市鹿野山の白鳥神社の祭礼で奉納された。迫力の演舞に観客は歓声を上げた。鹿野山のはしご獅子舞は、1504年に紀州高野山の弘範上人が真言密教を普及するため鹿野山を訪れた際、上人の徳を慕って紀州から移り住んだきこりが故郷をしのび、獅子に託して舞ったのが起源とされる。

県の無形民俗文化財に指定されている。断崖を模したはしごを登り、奥高野に住む牡獅子を慕う牝獅子の荒れ狂う様を「天ぐるま」や「しゃちほこ立ち」と呼ばれる妙技で表現する。獅子舞は2人1組で行い、毎年、同市職員の隅田洋一さん(36)と会社員の上木原義明さん(38)が演じている。

演舞を終え汗だくになった2人は「無事に奉納できてほっとした」と笑顔を見せた。祭礼の総括責任者で鹿野山自治会の加茂哲司自治会長(65)は「昔から練習10年、本番10年と言われている。後継者不足が一番の問題で、子供が減ってこの後のなり手を探すのが大変」と話していた。

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毎年4月27日、御座石神社、どぶろく祭

長野県茅野市無形文化財
どぶろく祭り(茅野市本町の御座石神社)は、775年続く地域の宴です。茅野市本町の御座石神社では、1238年から775年続いている「どぶろく祭り」が毎年春に開催されています。

地域から3名の濁酒醸造当番の方が1か月ほど前からどぶろくを作り、できあがった濁酒をお祭りの際に地域の人で飲み楽しむという、非常に興味深いお祭りなのです。

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このお祭りは、茅野市の無形文化財にも指定されている由緒あるお祭りです。本年のどぶろくを作るにあたって使った氷は、約800キロだったそうです。当番の方は約1か月間、発酵して濁酒の温度が一定温度以上にならないように、氷を入れながら作り続けるのでしょうが、昼夜の対応は大変なんだろうなと推測されます。

この当番、順番で廻ってくるらしいのですが、約100年に1度位で廻ってくるようです。このどぶろく祭り、地域の人で楽しむ祭りということで、ほぼ地域外の人は このお祭りに参加できないのが、ひじょう~に残念です。茅野市に775年続く、どぶろく祭りのご紹介でした。

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現在、神酒を自家醸造している神社は全国に43社ある。長野県茅野市の御座石神社もそのひとつであり、毎年四月には氏子が境内に集って、どぶろくを酌み交わしている。その祭りの成り立ちや酒づくりの様子をご紹介しよう。

祭りの舞台となる御座石(ございし)神社は、中央線茅野駅より東北へ約2キロ、八ケ岳山麓北山浦の入り口にあたる場所に鎮座している。この地域は、古くは矢ヶ崎村と呼ばれていたが、何回かの町村合併を経て昭和33年に茅野市となった。

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氏子たちの集住する神社周辺は本町地区と呼ばれ、市の中心地であり商店なども密集している。同地区の戸数は、平成9年現在で606戸。七つの丁目があり、それぞれに丁目代表・氏子総代が一名ずつ選出される。

そして、その中から、祭りで重要な役割を担う総代長・副総代長が一名ずつ選ばれる。住民は、ジッコと呼ばれる旧住民と、キリュウ(寄留者の意か)と呼ばれる新住民より構成される。特に七丁目は新興住宅地帯で、新住民がその大半を占めている。

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御座石神社は、諏訪大社上社の摂社で、諏訪明神(建御名方命(たけみなかたのみこと))の母神、高志沼河姫命(こしのぬまかわひめのみこと)を御祭神としている。どぶろく祭りは4月27日に行なわれる当社の例祭である。

その起源は遠く中世にまで遡る。すなわち嘉禎四年(1238)の『守矢文書(もりやもんじょ)』や『諏訪大明神絵詞(えことば)』に矢ヵ崎祭と記載されたものがそれで、大社大祝(おおほうり)の軍陣発向の祭りとして描かれている。

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やがて近世になると独活祭(うどまつり)と呼ばれるようになり、平田篤胤の『古史伝二十三之巻』には一般参詣者にも独活(うど)の粕和えが振舞われたとの記述がある。現在のようにどぶろく祭りと呼称されるようになったのは昭和の時代に入ってからである。ところで、この祭りの起源伝承には次のようなものがある。

まず、諏訪明神が八ヶ岳山麓へ狩りに出た折、母神がどぶろく、鹿肉、うどの粕和えで息子神をもてなしたという話。また、諏訪明神がある年の大晦日、母神のもとへ挨拶に行って帰る途中で夜が更けてしまったので、やむなく土産にもらったどぶろくを開き、一人で大歳明けを祝ったとの話も伝承されている。

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半年前から祭を準備
氏子たちは早くも前年の秋から祭りの準備に取りかかる。まず鹿肉を準備し、腐らないよう塩漬け(現在は冷凍保存しておき、祭の3~4日前に解凍して塩で揉んでいる)にして保存する。一方、どぶろくは、氏子たちの中から選ばれた三人の当番により、4月中旬頃より境内の濁酒醸造蔵で造りに入る。

そして同月25日に税務署立合いのもとで検査を受けたのち、祭り当日の神饌として供される。祭りの前日、氏子・氏子総代らは神社に集合し、事前の打ち合せと境内の清掃・会場設営を行なう。当日は、朝8時から祭主・氏子総代・当番・区役員らが集合し、当番から区長へと醸造蔵の鍵が引渡されるのである。

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その後、揉み火による「火切り神事」が行なわれ、発火した種火は鳥居のそばに築かれた柴竃に移される。鹿肉はこの火でもって煮込まれ、茹で上がるやただちに、丁目、組ごとに切り分けられる。他方、役員たちを中心として、うどの粕和え作りとどぶろくの分配作業(どぶろくが蔵から出され、各丁目、組が記されたポリ容器に注がれる)が進められてゆく。

そして9時を回る頃に次年度のどぶろく当番の抽籤式をおこなう。神前に捧げられた籤を総代長が引く。彼が当選者の名を読み上げると、次年度の当番の名前は、ただちに社務所前に貼り出される。10時になると行列がしつらえられ、犬射原・大歳の二社へ向けて、どぶろく奉納に出発する。

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総代長を先頭に、どぶろくの入った酒樽・長持ちを担いだ白丁姿のどぶろく当番が後に続く。以前は徒歩で見物客などにどぶろくを振る舞いながら行列をすすめたそうであるが、今はは乗用車で移動する。行列は御座石神社に11時半頃に戻ってくる。

この頃になると、すでに神社の会場設営作業は完了しており、来賓受け付けや本町商工会のテントが設置され、どぶろくまんじゅうの売店となっている。この売店が一般者用のどぶろくの賞味所となっている。

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御座石神社どぶろく祭

仕込み最終段階
毎年4月27日に行われる茅野市本町区の御座石神社の祭事どぶろく祭(市無形文化財)に向けて、今年も境内の濁酒醸造蔵では濁酒当番の3人が、祭りで区民に振る舞うどぶろくの醸造作業にチームワークよく励んでいる。

今年の当番地区は本町4丁目で、当番は昨年の祭りで選ばれた当番長の平出金良さん(68)、書記の細田孝司さん(70)、会計の上松正美さん(68)。最適な発酵状態に保つよう、泊まり込みもしながら温度管理をしている。

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ダイヤ菊醸造元の諏訪大津屋本家酒造=茅野市ちの=から指導を受け、3月23日から作業を開始。4月8日には仕込みの最終段階を迎えた。現在は醸造タンクの中で、じっくりとどぶろくが醸されている。仕込んだ量は、例年通りタンク3基に合わせて約1600リットル。

発酵が進むと温度が上昇するため、定期的にかい棒でかくはんしては温度を測り氷の入った冷温器で冷やしている。14日現在で温度は13・5度。この後、数日をかけて15度まで温度を上げ、以降は逆に少しずつ温度を下げていく。

これまで順調に醸造が進んでいるという。当番長の平出さんは「区民に喜んでもらえるどぶろくを目指している」と話した。細田さんは「多くの区民に飲んでもらいたい」、上松さんは「名誉な仕事」として、それぞれに伝統行事の大役を務めている。

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御座石神社どぶろく祭

今年の味「マイルド」
茅野市本町区の御座石神社のどぶろく祭(市無形文化財)は27日、同神社境内で開かれた。例大祭の神事が厳かに行われて地域の平安を祈願した後、集まった区民ら約500人がさっそく出来上がったどぶろくで乾杯。地域のコミュニケーションを深めていた。

本町区の宮坂和生区長は「雨も心配されたが、皆さんの熱気と願いで雨雲を追い払った。大いに飲んで、交流の場にして」とあいさつ。濁酒醸造当番を務めた平出金良さん(68)、細田孝司さん(70)、上松正美さん(68)の3人に感謝状が手渡され、労をねぎらって「濁酒醸造当番之証」が贈られた。

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当番長の平出さんは「歴史ある当番を終えてほっとしている。3人の力を合わせて、皆さんにおいしいと言われるどぶろくができたと思う」と話した。3月下旬から本格的な準備に入り、社務所には10日ほど泊まり込んで仕込んだどぶろくは、「マイルドで口当たりよく出来上がった」(平出さん)。

境内では区民が組ごとに陣取り、全員にどぶろくが行き渡ったところで「乾杯」。それぞれに車座になって持ち寄った料理を口に運びながら、どぶろくの風味を確かめていた。数年前に当番を務めたという原田光雄さん(73)は「当番の苦労が分かる。飲みやすいどぶろくだ」と話した。

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平成27年4月26日から

万華鏡ギャラリー見世蔵、崙書房ブックフェア
平成27年4月26日(日曜)から流山2丁目の万華鏡ギャラリー見世蔵で「崙書房ブックフェア」が始まりました。会場となった万華鏡ギャラリー見世蔵は、江戸から明治期にかけて店舗兼住居として建てられた土蔵を、平成22年から「見世蔵」として公開しています。

ギャラリーでは、流山市在住で世界的に活躍している万華鏡作家・中里保子さんをはじめ、多くの作家の方々の万華鏡作品を展示・販売しています。

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今回の崙書房ブックフェアは、地方出版の雄「崙書房」が出版した書籍の展示・販売が中心。崙書房は、昭和45年、房総の歴史、地理、自然、人々の生活等をテーマに地域の風土に根差した出版社として誕生し創業45年を迎えました。

人気シリーズの新書判「ふるさと文庫」は、昨年、流山の白みりん200年を記念して元流山市立博物館長・川根正教氏が著した「流山みりん物語」で209冊目を数えました。ふるさと文庫の創刊は昭和52年。記念すべきシリーズ第1弾は故・北野道彦氏の「利根運河」でした。

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元々、崙書房は、旧流山本町の一画で古民家を借りて「横瀬夜雨復刻全集」、「長塚節復刻全集」、「東陲民権史」、「波山始末」、「新編常陸国誌」、「利根川図志」など常総地方の基本文献の復刻から始まっています。書き下しによる「ふるさと文庫」は、スタート当初、会員制で始まりました。

最初の5年で100冊を刊行。ふるさと文庫は、読み手を書き手に変える効果を生み、多くの市民がデビューを果たしました。今回のブックフェアでは、流山市立博物館友の会の「東葛流山研究」なども購入することができます。

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「ねじ式」や「無能の人」などで有名な漫画家のつげ義春氏は、昭和52年、弟の漫画家・つげ忠男氏の住む流山市江戸川台東に近い柏市に転居。この当時の日常を「つげ義春日記」(講談社)として刊行しています。

昭和53年1月27日の日記では、“マキは流山へ行く道が奈良の山ノ辺の道のようだとすっかり気に入り、それでまた流山へ行ってみた。崙書房という小さな出版社があった。添田知道「利根川散歩」という本を買った。”とあります。

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崙書房ブックフェアは、5月6日(水曜)まで(27日・28日は休館)万華鏡ギャラリー見世蔵で開催しています(10時から17時まで)。お問い合わせは、万華鏡ギャラリー見世蔵(04-7103-2817)へ。

また、5月16日(土曜)13時30分から流山福祉会館に流山市文化財審議委員の小川浩氏をお招きし「赤城神社本殿はなぜ文化財になったのか?棟札と墨書記録から明かされた新事実」という見世蔵主催による講演会を開催します。

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東葛の交通を楽しく知る

流山の市民団体が「事典」出版
東葛地域の歴史や文学、民俗などを学び、研究する市民文化団体「流山市立博物館友の会」が、同地域の江戸時代から近現代にかけての交通事情や現在の鉄道網を網羅した「楽しい東葛交通事典」を出版した。同地域を中心にJRや私鉄の108駅を会員が訪れるなどして調査し、歴史や現状を紹介する労作だ。

同会は一九七八(昭和五十三)年に設立。会員は東葛地域を中心に作家、会社員、主婦、学者ら二百人。毎年春にテーマを決めて、会員が半年ほどかけて調査研究。その研究の報告書「東葛流山研究」を年一回発行しており、交通事典はその第三十五号にあたる。これまで人物や寺社、文献、地名、伝説民話などを取り上げてきた。
 
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会員三十二人が執筆した今回の交通事典は、江戸時代の交通▽近現代の交通▽鉄道各駅停車の三章立てとなっている。江戸時代の交通の章は、利根川と江戸川を利用した河川交通、水戸街道や成田街道などの街道、川の「港」である河岸の歴史や当時のにぎわった様子を解説。

近現代の交通の章では、明治時代に民間資本で開発された利根川と江戸川を結ぶ利根運河、河川輸送で大活躍した蒸気船「通運丸」、流山や野田などで身近な公共交通「コミュニティバス」などを紹介している。
 
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鉄道各駅停車の章では、JRの常磐、成田、武蔵野の各線のほか、流鉄流山線、東武野田線、つくばエクスプレス(TX)、新京成電鉄、北総鉄道をそれぞれ概説。東葛地域の全駅のほか、TXの秋葉原駅など東葛地域以外の駅も掲載。駅ごとに歩みや特色をコンパクトにまとめている。
 
「本陣」や「一里塚」など街道の用語のミニ解説や、放浪画家として知られる山下清の常磐線の駅弁にまつわる逸話、東葛地域で最初の乗り合いバスなどを取り上げた読み物も織り交ぜてある。

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同会は今回から出版費用を抑えるため、事務局長の石垣幸子さん(80)ら編集担当の女性会員が、パソコンを使った手書き原稿の入力や紙面のレイアウトなどに挑戦し、出版にこぎ着けた。

「東葛流山研究」編集長で、旅行作家の山本鉱太郎さん(88)は「大変だったけれど、面白く読んでもらえる内容になった」と話している。八百部を発行。県内の図書館などに寄贈。B5判、百二十八ページ。定価二千八百円。

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出版社の事始め、創立は昭和42年

ふるさと文庫で知られた出版社、崙書房
楽しい東葛事始め事典に文が残っているので電化する。明治以前に松戸宿で瓦版が出されたというし、現在でもタウン誌や地域ジャーナルマガジンを出している町もある。しかしそういうミニコミ誌は別にして、本格的に出版活動をしたのは流山の崙書房であろう。

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崙書房は岩手県出身の小野倉男氏によって昭和42年4月に創立された。はじめ月刊新聞「ニュース流山」を出して新旧住民の融和、地域発展を志したが1年半で終刊となる。

その後書籍の出版に力を入れ、『利根川図志』や『東葛飾郡誌』などの復刻版を出している。『利根川図志』は日本三大地誌の一つにあげられている名著で、安政元年(1854)著者が49歳の時、編集執筆にかかり、安政5年(1858)に全六冊を完成。

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言わば利根川辞典のようなもので、埼玉県の栗橋から銚子に至る利根川についての伝説や漁法、祭礼、物産、神社仏閣、名所旧跡など絵入で詳細に書き記されている。著者は茨城県布川の医師赤松宗旦。

『東葛飾郡誌』は大正12年関東大震災の年に出されたもので、表題通り東葛飾郡に関するあらゆることがのっており、言わば東葛飾郡大百科事典。初版が出て47年後の昭和45年小野倉男氏の努力で復刻され、いま郷土史研究の人々はそのおかげと行っても過言ではない。



その他、添田知道の『利根川随歩』、吉田東伍の『利根川治水論考』、根岸門蔵の『利根川治水考』、栗原良輔の『利根川治水史』、汽船荷取扱人聯合会の『利根川汽船航路案内』など地味な本を復刻して多くの研究者に喜ばれた。

昭和53年には新たな企画として『ふるさと文庫』シリーズを発行し、その第一号は北野道彦の『利根運河』で『落花生の話』『川蒸気通運丸物語』『江戸川物語』など多くの本を出したが経営に行き詰まり、白石氏に肩代わりし、同氏の逝去で小林氏が社長となり、出版界不況の中で健闘している。

流山市博物館友の会でも毎年三回の会報「におどり」と年一回の研究誌「東葛流山研究」の印刷を依頼し、会員がここから多くの本を出版している。今や千葉県唯一の本格的出版社である。

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崙書房出版株式会社

千葉県流山市流山二丁目296番地5
崙書房出版株式会社は、日本の出版社の一つで、主に千葉県・茨城県に関する書籍を発行している。創業当初は千葉県・茨城県に関する文献の復刻版を発行し、1977年から地域に根差した題材を文庫本として発行するようになる。

歌集・句集などの自費出版も手がけている。利根川を題材にした出版物の発行では建設省から感謝状を送られている。また、常総・房総の歴史に関する雑誌も発行している。営業所が茨城県石岡市にある。

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白石正義

地方出版に生きた
東葛人物辞典に文が残っているので電化する。流山市に「崙書房出版」という出版社がある。珍しい名前の由来はヨーロッパと東洋の文化が出会った菎崙山脈にちなんでいる。小さいながら地方の貴重な文化や歴史を記録する「ふるさと文庫」はすでに211点。

昭和45年小野倉男氏によって創業され、白石さんはその後を引き継いだ。大正2年愛媛に生まれ、昭和5年陸軍士官学校第四五期生となる。当時の農村は疲弊し、娘を売りに出すような状況下にあった。血気盛んな白石さんは、昭和七年に起こった五・一五事件に連座し、士官学校を退学処分になり、満州に追放された。

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満州では商社を設立するかたわら、旧関東軍の特務機関員として精力的に活動した。敗戦間際、ソ連軍の侵入に備えて重大任務を帯び、住み慣れた興安の地を後にするが、それが妻子との永遠の別れとなった。

シベリアで自らも捕虜となるが、こんなところで殺されるぐらいなら、多くの同胞が眠る満州の土になろうと脱走を決行。何度も捕まりながらも運良く切り抜け、昭和25年舞鶴港へ帰還した。

帰還後、東京で食堂を経営しながら、戦死した恩師の子供たちの世話をし、彼らの成長を見届けて、昭和41年流山に移り住んだ。晩年は再婚した奥様と暮らしながら、地味でも何とか読んでもらいたいとの一念で、千葉県の津々浦々まで営業に走り回った。地方出版に命を注ぎ、平成10年7月12日、波乱の人生に幕を閉じた。

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楽しい東葛交通事典

出版のいきさつ、どう変遷した東葛の交通史
東葛交通事典に文が残っているので電化する。「東葛流山研究」をはじめて出版したのは昭和57年春で、以来さまざまなテーマで東葛地方の文化や歴史について挑戦し、ついに34冊もの労作を世に送って各界から好評を博してきた。

創刊時、やりたいテーマをたくさん書き出してみたが、34年間でほとんどやり遂げて、今ぜひやりたいテーマは少なくなったが、その一つが東葛地方の交通事典であった。

草深き野馬駆ける江戸時代から大都会連なる平成に至るまで、東葛地方の交通はどう変遷し、人々の暮らしにどんな影響を与えてきたか。乗り物の歴史をたどることによって、今後の東葛研究をより深く極めようという趣向で、今回、長年温めてきたテーマに陽を当ててみた。

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多彩な陸運・水運この東葛交通事典は3つの主な章から成る。参勤交代で大名たちが行き交った江戸時代と、文明開化の波に洗われた近現代、そして今日盛んに利用され、市民の足となっている鉄道網の現状にわけて論じた。

江戸時代の項では、街道の旅に焦点を当てて、旧水戸街道や木下街道、鮮魚道、成田街道などを取り上げ、合わせて江戸川や利根川を往来した高瀬舟や河岸などの水運物語も記してみた。

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文明開化の明治時代を迎えると、話題はいっきょに広がり内容も多彩となる。各地に鉄道が敷かれ、江戸川と利根川を結ぶ利根運河の開通によって水運も便利になり、外輪川蒸気船も颯爽と登場。

この項では、人力車、乗合自動車、機関車デゴイチ、駅弁、鉄道唱歌、時刻表などのコラム的な物語を随所に散りばめて紙面を賑わしてみた。そして第3章では、東葛地方の鉄道の全駅を網羅してその由来や歴史を解説した。



JR常磐線は15駅、流鉄は6駅、東武鉄道野田線は26駅、JR成田線は10駅、JR武蔵野線は8駅、新京成電鉄13駅、北総鉄道は15駅、つくばエクスプレスは15駅取り上げた。

それぞれの項で書きたいことは山ほどあったが、予算の都合上、切り詰めてダイジェスト版の域を出ない原稿が出たのはやむを得ないだろう。こうして、会員30数名の熱い努力でついに念願の「楽しい東葛交通事典」が実現したことを喜び合いたい。

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苦しみを乗り越えて
思えば、大過なく過ごしてきた34年間だったが、今回は大きなショックを味わって、正直言って一時途方に暮れたのである。原稿がほぼ集まってきた段階で、会長さんから博物館友の会は財政的にピンチであることを知らされ、長いことお世話になった崙書房に頼む資金はもはや無く、すべて自分たちでやらなければならないという。

ベテランの崙書房の編集者たちの力を借りないで本が出せるのだろうか。それから苦闘の毎日が始まった。パソコンの打てる岡村さんや石垣さんの協力を得て、手書きの原稿を新たに打ち直し、写真やカットを挿入し、誤字誤文を組み直した。不足の原稿は相原さんや青木さんらが書き足し、つけ加えたりした。こうして悪戦苦闘の毎日が続いた。

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そしてようやく年末にメドがついて安堵した。130頁に及ぶ第1校の束を見ながら涙が出そうな思いであった。どんなことがあっても私たちはくじけない。34冊出し続けてきたこの情熱の火を絶やすことはできない。与えられた条件の中で、これからも本を出し続けたいと思う。

※文を追加しておく
流山の歴史を調べている、と、言っても本にはなっているが皆が見れる形になっていない。それを文字に打ち込んで見える形にしていったのがこのブログ。勝手に始めたのは迷惑かと思うが今では認めてくれている。毎日見てくれる人もいて、広報的価値が高く、流山の人達も興味があることが理解できた。俺からしてみると最高の歴史の教科書。

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流山市立博物館友の会が今まで活動してきたからこそ、文化、芸術、歴史において多くの文が残されている。今現在、友の会が弱っているのなら、これからも流山の人達で支えるべきだろう。新たな友の会メンバーを募集するべきだ、このブログの読者よ、集え。年会費は出版物込みで3000円と、大した額ではない。山本鉱太郎さんまで連絡を。

でも、冷静になると、市議会議員とか県議会委員の人達は真っ当な「経費」として扱えるんだから、メンバーに加入すれば、新メンバーとして紹介してもらえて、流山を深く知る資料にもなる。そして皆が集まる会合で大手を振って挨拶できる、という事で、選挙対策としてマイナス面は全く無い。このような小さな努力の積み重ねが将来大きな力になる。

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