でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2017年08月


平成28年12月13日、記念切符発売へ発表

日本一短い芝山鉄道、開業14年で1000万人
芝山鉄道は12月13日、「芝山鉄道ご利用者数1000万人突破記念乗車券」を発売すると発表した。発表によると、芝山鉄道は2002年10月27日に開業。それから14年後の平成28年12月3日に累積利用者数が1000万人を突破した。

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これに伴い記念切符を2017年1月22日から発売する。発売額は500円で、大人200円券2枚と子供100円券1枚の3枚セット。芝山千代田駅で販売するほか、通信販売も行う。1500セット限定販売で、売切れ次第販売を終了する。

芝山鉄道は、東成田(千葉県成田市)~芝山千代田(芝山町)間2.2kmの芝山鉄道線を運営している第三セクター。普通鉄道の営業距離が日本で最も短い。東成田駅で接続している京成線と相互直通運転を行っている。国土交通省の鉄道統計年報(2013年度)によると、1日の平均通過人員(旅客輸送密度)は1565人。

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成田空港と周辺をぶらつこう!

日本一短い普通鉄道を約4分で完乗『芝山鉄道』
成田国際空港は国際線はもとより、最近LCC専用の第3ターミナルが出来て変化を続ける一方で、昔の名残も多く残す。そんな成田空港の新と旧、メジャーとマイナーな場所を見物し、日本一短い普通鉄道「芝山鉄道」の完乗を、およそ半日でぶらつき取材したので、お出かけの参考にしていただきたい。

まずは成田空港に行かないと始まらない。JR成田エクスプレス、京成スカイライナー、リムジンバスがメジャーどころか。JR総武本線の快速エアポート成田、京成アクセス特急、京成本線経由の特急あたりが料金不要で、運賃のみで利用できるリーズナブルな存在だろうか。

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スカイライナーと同じルートで成田空港に至るアクセス特急の最高時速は120キロメートル。スカイライナーが一部区間で時速160キロメートル運転をするのに比べれば所要時間はかかるが、それでも昔に比べれば速いものだ。

終点の成田空港駅で下車。第1ターミナルの真下に存在する駅だ。ここから成田空港周辺散策を開始する。なお、一般に知られた送迎デッキやレストランには、まったく行っていないので、そのようなメジャーどころはガイドブックを参照されたい。

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駅から地上に上がった第1ターミナルの1階だ。かつては新東京国際空港の表玄関だったこのターミナル。世代によってはドラマ「スチュワーデス物語」でCAがバスから降りて、さっそうと歩く姿を懐かしいと感じるのではないだろうか。当時はこのターミナルしかなかったのだが、現在でも北ウイングと南ウイングを擁するターミナルは健在だ。

では、まずは新しいものを見に行こう。LCC専用の第3ターミナル。各ターミナルと京成東成田駅間は無料のシャトルバスで結ばれている。第1・第2ターミナル間だけの区間便もあるが、全ターミナルを回るバスは概ね15分毎に運行されている。

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第3ターミナルへは第2ターミナルから専用通路を徒歩で移動するか、シャトルバスや路線バスでないと入ることができない。乗用車の乗り入れは禁止されている。なお、空港敷地内に立ち入る際に実施されていた身分証明書の呈示と手荷物検査は原則廃止されたので、検問所はスルーする。

第3ターミナル内のパノラマ合成写真だが、必要なものだけが合理的に配置されていて、一切の無駄がない。ここは陸上競技場ではない。旅客の動線を示したトラックが通路に描かれているので、旅客が迷うことなく移動できるようになっている。間違ってもスタートを切ってはいけない。

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JR、京成、リムジンバスのチケット売り場が1つの場所に集約されている。鉄道は自動券売機のみと合理化が徹底されている。フードコートは値段の高いイメージのある空港レストランと比較して、価格は控えめだ。見物中の昼食はここが一番安いかもしれないが、コンビニもあるのでそこで調達して食べるのも手だ。

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第3ターミナルを後にして、今度はマイナーな方を見に行こう。シャトルバスを東成田駅で下車する。ここは乗降する人が少ないので、降車ボタンを押さなけれれば通過してしまう。要注意だ。バス停の前に駅らしきものはない。矢印の案内板に従って少し歩く。

中に入ると、手荷物検査のための警備員が常駐しているものの、怪しい素振りがなければ素通りさせてくれる。なお、この写真の右には警察官が常時立番をしている。この間、一般客らしき人はゼロ。すでにマイナーな世界だ。

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運転を停止しているエスカレーターと広大な階段。実は、この駅は初代の京成成田空港駅だ。第1ターミナルしかなかった頃は、ここが成田空港駅としてにぎわっていた。現在のJRと京成の空港線は成田新幹線のために確保されていた空間を転用したものだ。

管制塔や空港関連施設が近いことから、空港職員が通勤に使う程度で普段の乗降は少ない。メインの空港第2ビル駅へは地下通路で結ばれているので、徒歩連絡は可能だ。なお、京成津田沼発の始発電車は東成田に午前6時前に到着するため、LCC利用者の早朝空港アクセスとして若干の利用がある。

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改札はすでにローカル駅並みの規模しかない。ここから、日本一短い普通鉄道である芝山鉄道に乗車する。東成田駅は京成東成田線の終点でもあるが、芝山鉄道との共用駅である。次の芝山千代田までが芝山鉄道、逆の京成成田までが京成東成田線。

芝山鉄道はIC乗車券が使用できないので、当駅で紙のきっぷを購入する。IC乗車券をタッチしても京成方面にしか使えないので注意が必要だ。当駅の駅名票。次駅に京成成田と芝山千代田が表示されている。

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現在供用されているのは1面2線の島式ホームだが、隣に照明がない朽ち果てたホームが存在する。かつての成田空港駅時代に活躍した特急ホームだ。既に使用されていないホームの駅名票は「なりたくうこう」のまま放置されている。

明るく写ってはいるが、肉眼では真っ暗で探さないとわからないくらいだ。開放F値2.8のレンズを使用してISO感度12800という通常撮影ではあまり設定しない高感度撮影でようやく文字が読める。「つぎはなりた」と書かれているのは、当時は芝山鉄道が開業していないので、当駅が終点だったことことを物語っている。

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昼間は京成成田と芝山千代田間の往復運転のみ。芝山千代田駅があまりにもマイナーなため、行先方向幕には「(東成田)芝山」としか書かれていない。空港地下の急なカーブをいくつか曲がると地上に出る。

最後の急カーブを登り終えると、終点の芝山千代田。線路はここで行き止まりとなり、これで芝山鉄道は完乗したことになる。まわりはすべて空港施設だ。芝山鉄道線内に途中駅はなく、東成田の次が終点なので約4分で完乗することができる。

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改札口で乗車証明書をもらうことができる。乗車証明書は2種類あって、ここに至るきっぷを見せて1枚。帰りのきっぷを買って1枚。1回の往復乗車で全種類の乗車証明書をゲットすることができる。駅員が乗車日を入れてくれるので、よい記念だ。

芝山鉄道唯一の単独駅。高架駅なので大きく見えるが、駅舎そのものは小さな地下鉄駅ほどしかない。バスも発着している。航空博物館や近隣への路線バスや、東京駅、八日市場間の高速バスの一部が当駅に停車する。線路が切れた先は何だか延伸しそうな空気が漂う。

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実は地元からは延伸が望まれていて、その代替として延伸計画路線には既にバスが運行されている。こうして成田空港周辺の散策は終わり、記者は折り返しとなる京成成田行き電車に乗車し、京成本線経由で帰路についた。

成田空港の周辺には航空博物館や、航空機の離発着が目の前に見える「さくらの山」等の散策、観光地がいくつか存在する。メジャーな空港見学や、今となってはマイナーだが、かつては成田空港そのものを象徴する駅だった東成田駅、日本一短い鉄道線。

日本を代表する玄関口の周辺は、空港利用だけでは気が付かない面白そうなスポットがまだまだ存在するかもしれない。都心から小一時間のお勧め散策スポットだ。



三里塚御料牧場記念館

御料牧場のありし日の姿を再現
房総の美術館・博物館に文が残っているので電化する。今の成田空港が新東京国際空港として建設されるに伴って、宮内庁下総御料牧場は昭和44年に閉鎖されて、栃木県塩谷郡高根沢町に移転した。

成田市では御料牧場の名をこの地にとどめるために、昭和56年にそれを記念する資料館を開館した。豊富な資料、写真、地図などによって、下総御料牧場のありし日の姿を再現している。

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御料牧場の歴史
江戸時代の佐倉牧は、明治維新によって廃止され開墾されたが、この取香牧(とっこうまき)だけは開墾されることなく、旧宮内庁の御料牧場の前身だった下総羊牧場と取香種畜場が明治8年に開設された。所管は内務省、農商務省、宮内省と変わり、明治21年に下総御料牧場となった。

当時の家畜数は羊3771頭、馬483頭、牛76頭、豚14頭だった。羊が多いのが目につくが、明治維新によって毛織物の需要が増したので、それを輸入に頼るだけでなく国内で生産しようとした。こうして御料牧場は我が国における畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残すことになる。

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牧畜と農耕
成田市内から出土した古墳時代の馬の埴輪は、古代からこの土地に馬が生息していた証しである。その馬からは古代牧、江戸時代の佐倉牧、明治からの御料牧場(牧畜)へと続いてきた先祖でもある。

下総御料牧場の経営の基本は、牧畜と農耕と言って良い。牧畜事業では馬、牛、羊、豚、鶏の飼育はもちろん、バター、ハム、チーズ、ソーセージ等の畜産加工品も生産した。

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農耕事業では牧草、野菜、穀類の生産の面でも日本の農業をリードしてきた。とくに農業の機械化については、展示されている農耕具を見るのも楽しい。もちろん近代的な超大型な機械類はないが、牛や馬による農耕具には様々な物があり、これらの中には欧米から輸入された機械も多く、民間に先駆けていち早く実験的に機械化に取り組んだ姿勢が展示物から伝わってくる。

これは大久保利通(内務卿)の遺言によって欧米の畜産技術を導入した結果のようである。明治時代の日本の政治姿勢、農業の面でも「欧米に追いつけ、追い越せ」という国の姿勢が感じられる。その他、御料牧場は日本獣医学発祥の地でもあり、庭にはその碑も建っている。また、イギリスから輸入した名馬トウルヌソルらの記念碑もある。

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皇室と御料牧場
明治21年に宮内省下総御料牧場となって以来、我が国唯一の宮廷牧場として天皇、皇后両陛下をはじめ数多くの皇族方が来場されている。その写真が多く展示されているが、皇族もお付の者も乗馬姿である。広大な御料牧場内は馬で見学するのが最適だったし、スポーツでもあったのだろう。それだけに皇族の方々は普段から乗馬に親しんでいた事が分かる。

落ち着いた雰囲気のお召し馬車が、中央に展示されている。国産、黒塗りの四輪で四人乗り、二頭曳きだったと説明にある。車輪は硬いゴムだから乗り心地はよろしくなかったのではないかと思えるが、皇室の馬車らしい威厳はしっかり持っている。

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三里塚と文人たち
三里塚といえば、激しい成田空港反対闘争を思い浮かべる方が多いかと思われるが、戦前の三里塚はのどかな行楽地でもあった。特に春の桜の季節には「花の三里塚」として多くの花見客が東京から押し寄せた。

明治43年に成田、三里塚から多古まで軽便鉄道が走るようになった。この童話のような汽車は第二次大戦中に取り払われたが、これに乗るのも風景として見るのも、三里塚を訪れる観光客の楽しみの一つであったという。

(※成田鉄道多古線は、バス会社千葉交通の前身である成田鉄道(2代目)が、かつて運営していた鉄道路線(廃線)である。開業時は大日本帝国陸軍鉄道連隊が演習で敷設した設備と車両を借用していたが、千葉県に後に払い下げられた。)

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下総御料牧場はそんな環境にあったから、羊、馬、牛が群れをなしてのんびり遊ぶ牧場は日本離れした風景だったに違いない。東京から近いところにあったから、牧歌的な風景として都会人に愛されたのだろう。

東京生まれの水野葉舟が、そんな三里塚に移り住んだのは大正13年だった。葉舟はここに住んで、晴耕雨読の生活を楽しんだ。「我はもよ野にみそぎすしもふさのあら まきに来て土を耕す」この歌碑は貴賓館の庭に建っている。

(※水野葉舟の歌碑は、昭和32年(1957年)4月24日、三里塚第一公園に建立され、昭和56年に三里塚記念公園に移されました。歌碑には、晩年の著作、歌集「滴歴」の第一首、「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す 葉舟」と刻まれています。)

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茅葺き屋根の貴賓館
記念館は、御料牧場の事務所の所に建っている。その記念館の隣に茅葺き屋根の貴賓館がある。これらは三里塚記念公園の中にある。貴賓館は表から見れば和風だが、裏へ回れば洋風に見える。

また、間取りを見ても中央に広い洋間があるが、畳の部分が多い。縁側は直角に曲がっているから、雨戸は90度回転させて開け閉めするのは、流山の一茶双樹記念館と同じである。

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貴賓館は、皇族の宿舎として使われてきた。昭和18年に現天皇が皇太子の時に御料牧場で遊ばれ、宿舎として利用された。また、外国の大使、公使を招いて園遊会会場としても使われてきた。決して派手な建物ではないが、ここは皇室外交の中心となった場所でもある。

※ここから下は追加文
その他、貴賓館裏手に防空壕が存在する。2008年(平成20年)10月21日から、成田市の本格的な調査が行われる。この防空壕は約60年前に建設され皇族宿舎として使用されていた貴賓館の裏手という事もあり皇族用の防空壕だとされているが、正確な事は明らかにされていない。

この防空壕はコンクリート造で内部の配電盤に「昭和16年製造」の文字が見られることから、その年代に建造されたものだとされている。平成23年4月から一般公開が開始され、内部を見学することが出来るようになった。

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葉舟の親友だった高村光太郎も三里塚を訪れて、御料牧場で馬が遊ぶ風景を歌った。「春駒」と題する詩の後半の部分だけを紹介しよう。

かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい
三里塚の春は大きいよ。

原稿用紙の文字を拡大したこの詩碑は、葉舟の歌碑の隣にある。その他に、窪田空穂も短歌で三里塚を歌い、朝日新聞記者・杉村楚人冠の随筆「羊の肉」などもある。

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成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。

ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
 
しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。

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葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。

詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。

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第41回流山花火大会、打ち上げ開始

時間が進むと続々と集まってきました
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これから駅へ向かってみる
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今年はガードマンが多かった
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引き込み線の道路を土手に向かう
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寿美屋では切り絵行灯を

前面に出して営業していた
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山田屋ではやってなかったな
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歩道橋からはシャトルバス組
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安全協会は野村市議会議員
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流山駅前30秒ってチラシにあった

今年新築販売されている住宅
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寺田園茶舗「見世蔵」

ポストカード、ラムネ、くるりんカエルなどを販売
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ここらへんが指定席
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土手も人が増えてくる
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第一分団分団子屋
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時間は七時を越えている

切り絵行灯と人の波
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新聞屋でも切り絵行灯と
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かなり人も増えている
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万上の脇

みんなこうやって見てるのか
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開催の式典中

この向こう側で齋藤健大臣が挨拶している
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隙間を見付けた

同じように武田県議会委員の挨拶
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ここは伊藤さんちの所
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打ち上げ開始
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ここからどこが混んでるか見ていく

元シンサコ新聞屋の所
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小林建具屋の隣にケバブ
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ここは中山さんちの上のとこ

釜屋さんのところから上がった土手のところ
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光明院の上のとこ
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7時45分を過ぎると帰りの客が出てくる
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自転車の量が見えるかと思う
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花火大会終了後

平和台方向は早めにヨーカドーの中へ
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駅前には各方向から人が集まってくる
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駅前では行列
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今年ヨーカドーは9時で閉店

毎年フードコートでグダグダ集まってるから早めに閉店
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平和台駅
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ある程度、流山駅で満員に近い状態で平和台駅に向けて発車するので、流山駅の方が行列客をさばきやすいんだと、このため行列で諦めた人が流山駅まで歩くケースも、南流山駅に向かう人、つくばエクスプレスを目指す人もいたようだ。

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今年は流山駅にも来ました
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カドキヤのところはまだまだ混んでいる
今年は花火大会終了後、流山駅や根郷の街を一周通りましたが、宿の会場はヨーカドーの中でひとまず休憩といった方々が多いが、流山駅の周辺ではまだまだ街をぶらついている人達が多かった。これは急いで駅に向かっても並んでいるだけだし、花火大会終了後を最大限に楽しんでいるということだろう。

花火大会つっても待ち合わせて集合してから、電車での移動、終了後に酒飲んでまでがイベントなんだから、経済学の観点でいうなら花火大会終了後にどうにか流山にカネが落ちる仕組みができないか、と思うのだが、夜に商売するとなると安い人件費で店舗を営業できる新松戸の駅前みたいなニュータウンの歓楽街に任せる方がイイだろう。

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小島寿司屋のところにもケバブ
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流山街道はやっぱり混んでいる
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一年で一番繁盛する、と言っても大袈裟ではない流山線。これは流山線としては一年に一度の祭りと言っても良いのかもしれない。実際に一年にこの日だけ流山線に乗る人も多くいると思われる。とは言え、どうしてもつくばエクスプレスの存在感は大きいのでまだ乗ったことのない人もいるだろう。

都心から25キロの距離の割には奇跡とも言っていい流山電鉄の存在、水運で栄えていた水の都だからこそ実現した株主数は116人に及ぶ町民鉄道、この日は流山線も増便して花火大会の最後を飾っている。花火大会の夜はまだまだこれから。家を出てから家に帰るまでがイベントになる、新松戸や柏駅前にてさらに経済活動は活発になる。

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第41回流山花火大会

流山1丁目~3丁目地先江戸川堤
花火を楽しむなら流山。夏の一大イベントとして市民の皆さんに親しまれ、市外からも大勢の方が訪れる流山花火大会。第41回目を迎えることしも、三郷市の花火大会と同日開催で、合わせて1万発の花火を盛大に打ち上げます。

大輪の花が夜空を彩る大迫力のスターマインをはじめ、高速で打ち上げる花火と音楽がシンクロ(同調)するスカイミュージカルなど、見どころが盛りだくさん。最後まで、一瞬も目が離せない花火大会です。また、当日16時からは、味自慢の店がずらりと並ぶ「屋台村」もオープンします。楽しい夏のひとときをお過ごしください。

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今年も流山花火大会を開催いたします。三郷サマーフェスティバルとの同日開催により、打ち上げ発数は1万発。名物の光と音楽がシンクロする「流山スカイミュージカル」が見どころです。スターマインや連発花火など多彩な内容で、夏の夜空を彩ります。

駐車場のご用意はありませんので、ご来場は公共交通機関をご利用ください。当日は18時から21時30分まで、会場周辺で交通規制がありますので、ご注意ください。会場付近は混雑が予想されます。あらかじめゆとりをもって、お早めにお出かけください。

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【第41回流山花火大会】

華麗な光と音のシンクロ
千葉県流山市で8月19日に行われる「第41回流山花火大会」では、光と音のシンクロが華麗な花火を見ることができます。本花火大会は、三郷サマーフェスティバルとの同日開催によって、合計打ち上げ数はおよそ10,000発にも及び、毎年多くの人で賑わいます。ここでは第41回流山花火大会の見どころ・おすすめの花火鑑賞スポットを紹介します。

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ラ・ガールは引っ越し

今年も観光客を受け入れる側の用意を見ていきます
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寿美屋
流山駅前の寿美屋では酒の販売権を持っているため、ビール、唐揚げ、いなり寿司を販売、もちろんパンやジュースも販売。流山駅前降りてすぐの交差点、立地を活かす。今では昼間に孫が遊びに来るなど店としての役目は終わったかに見えたが、毎年根郷浅間神社の祭礼と流山花火大会の日には商売をしている。

この両日には普段の街の住民ではない人達がたくさん集まるため、結果的に街にカネを落として行ってくれている。ここ寿美屋の屋号の起こりにも、炭を扱う薪炭商から寿美屋という屋号がついたという。(流山の薪炭商はこの街だけでの需要だけでなく、江戸に川舟で運ばれる問屋の働きも持っている)

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山田屋では毎年店頭で焼き鳥を焼いている。江戸川の流山花火大会本部の最寄駅、流鉄終点の流山駅から江戸川土手までの行き道で、焼き鳥なんか焼かれたら匂いでつい買ってしまう見物客も多いだろう、土手にある出店で買うならどうしてもやっぱり行列が考えられる、それが嫌だから途中で買って用意する。なので売上もそれなりに考えられるだろう。

今年の根郷浅間神社の祭礼で遺影を持って担いでいた御主人の写真があるが、御主人の姉が亡くなったそうだ。年齢はウチの親父の一つ上だっていう話だから、寿美屋の女将さんと同学年、ということは玉ノ井兄弟の妹も同級生、四ツ葉会のこうやの秋元さん、ウチの近所の同じ苗字の家、屋号で言うと馬場屋さんも同級生になる。

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テント村が準備されている
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午後二時の市場の所、一番見やすいかも
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今年は馬場の方にも行ったよ

場所取りされている
馬場(バンバ)という言葉は住んでいるところや、その人の年齢によってかなり広い意味を持ってしまう。南流山造成前には「野村コーポのあたりまで馬場(バンバ)だよ」って人もいるし、「馬場(バンバ)はここらへんの集落の集まりのことだ(流山七丁目付近)」って人もいる。教員住宅のあたりも青木先生の本の中に馬場山という言葉が出てきている。

三輪野山茂呂神社に行って宿って言っても「馬場(バンバ)の方か」っていう人もいる。玉ノ井の兄貴に「バンバでは誰が同級生なんだ?」と聞かれたこともある。宿より馬場の方が時代の成り立ちとしても古いからそう感じても不思議はない。俺個人の感覚では宿は南部中の学区、馬場は南流山な感じ。ここでの意味は旧流山橋のあたりね。

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江戸川の向こう埼玉側も盛り上がっているね

三郷駅の方が駅から近いからすごいんだろうな
増税から消費が冷え込んでいるというタイミングでありながら駅前の飲み屋、ラブホテルなど経済的には相当なものがあったと思われるが、そもそも好景気であったら花火大会よりも海外旅行などに行っているだろうから、花火大会に来るってのは安く楽しみたいのかね。そうなると駅前の飲み屋ではなくコンビニも売上が大きい事になる。

日常生活だけではなく、このようなイベントでカネの循環を考えると一極集中は大きいこと、さらに周辺の花火大会と開催時期がかぶらないと言う事もある。八月の終わりになっているが、学生の夏はまだまだ終わらない。灼熱の夜を求めて、夏を終わらせたくない人達が江戸川沿いの花火大会に集まってくるのだ。そこにあるのは真夏の夜の夢。

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江戸川の向こうは埼玉県

三郷駅前は戦後開発されたニュータウン
流山本町は江戸時代から水運で栄えていた歴史と伝統のある街、戦後の土地開発はこのような旧市街地同士を道路で結んで村と村の間を大規模開発。鉄道空白地点に鉄道路線を拡充させ、田畑を区画造成し、ベッドタウンとして整備する。新住民は増え、市に税は落ち、さらに都市機能の充実を求められる。

人の生活のためには商店が増えていくが、これは世代的に知らないことも増えていく。自家用車があるなんて当たり前、そのような時代に育つと歴史的な目線で郷土を見れない。駅が無かった時代、マンションが建つ前、アスファルトで舗装された道路が無い時代、流山からは川舟で東京としっかりとつながっていました。

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近所でもこの日は息子が帰ってくるから

かなり頑張っている人達もいる
今現在の当たり前の常識として代々独立を繰り返して生きていく、ただこれは戦後の経済状態での話で、東京近郊の衛星都市としての話。戦前は松戸本町まで田畑が広がっていたし人間関係や生活の基盤なども一つの街で全てであった。そうなると、このようなことを知っている人と知らない人では生活がそもそも変わってきます。

ましてや婿の子供なんかは実家に対して価値も分からず、基本的に自分の生まれ育ちが嫌いなため独立の傾向が強い。独立したって親父は文句言われる立場だし、マイホーム買っても嫁と子供のもの。いつの時代も親父の立場は弱いもの、さらには嫁が作る料理はおふくろの味ではない。いまさら気付いたって遅い過ちが今現在も続けられている。

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今年はもっと先まで行ったよ

小金屋さんが見るって所はここか
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馬場の方の人や南流山の人には最高だろう
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三時から花火大会のコーナー販売開始

午後四時のヨーカドー
江戸川の流山花火大会本部の最寄駅、流鉄終点の流山駅で降りる人も多いが、せっかく平和台駅前にイトーヨーカドーがあるんだから利用しない手はない。トイレとしても存在するのはありがたい。イトーヨーカドーではビール、ジュースから食べ物まで一通り全部そろう。この時間までイトーヨーカドーの駐車場に車を置ける。

正面玄関前のホールでは各種出店が設置されている。これはイトーヨーカドー内に場所を借りて営業しているのだ。イトーヨーカドーの集客力が認められ、商売の出来る環境がそろっている上で利用していると考えてもいいだろう。この日だけのために出店するということなのだから。

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焼き鳥を調理する調理器具は、『焼き鳥器』と呼ばれる調理装置や炭火コンロの上に『焼き台』を載せたものなどを使用する。また焼き方にこだわり、炭(場合によっては高価な備長炭)を使用して焼き上げる店も多い。炭火の特徴である、高い温度・強い火力(赤外線)・水蒸気を生じないことを利用し、材料の内部まで短時間で火を通し表面をカリッと仕上げる。

黒炭・ガス・電気を使用する場合もあるが、炭火で焼いたものが香りや食感がよく美味とされている。また炭に落ちる肉汁や脂や調味料が焼き鳥を燻製のように燻す状態となり味と香りが良くなる。金網を使用したり、また「自動焼き鳥器」を使用する場合もある他、半製品の加熱調理により供される場合もある。

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売り物の量が販売量を物語っている。イトーヨーカドーだって今年から出来た訳じゃない、売れる分以上は置かないのだ。これは今日の分、間違いなく午後八時までに売り切れる量。そしてこの写真を撮っている最中でも次々と品物が補充される。イトーヨーカドーの裏方も仕事とは言え、花火大会という一年に一度の祭りに必死なのだ。

オニギリ、焼きそば、焼き鳥、などなど商売になるものは全て扱っている、このようなものを見ていると、花火の日に家の前で何か売ろうとしても商売にならない事が分かる。出店などよりも衛生的にも安心安全のイトーヨーカドーのブランド力でもある。ここではトイレが並ばないで使えるというのも大きな安心感の一つ。

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この時間にはもちろん満車
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平和台駅はすでに

ガードマンが帰りの用意をしている
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この日は流鉄もフル回転
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ヨークマートでも店頭販売
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駐車場が見物席に

戦後宅地造成された地域のコミニティ
戦後宅地造成、販売されたニュータウンにおいて、人が集まり地域コミニティの中心になっているのは、屋号が付いている商家だったりするわけだが、平和台の場合はヨークマートというスーパーマーケットだということ。周辺農家が農作物を出荷し、取り寄せた商品と共に新鮮な農作物、または加工して茹でた枝豆、焼きもろこしを販売する。

そして片面の駐車場に見物席を用意する。東京通勤圏内に家を買ったベッドタウン住民は、都内の会社から給料を貰い、家族を養ってゆく。花火大会会場に着飾っていくのは若い時だけ、家を買ってからは地域の輪を大事にしてゆくのも選択肢の一つ。近くの住民は徒歩で来て歩いて帰れる、ここならトイレも並ばないで入れる、最高の見物席だ。

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中島は無期限休業中
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今年は救急車が
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ケーズデンキでは駐車場を閉鎖
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角上にも客が集まる
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根戸屋の所には引っ越してるし
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キヌガヤは取り壊してた
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販売開始
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同級生を見かけたが子供に向けた声は変わっていない。南流山駅前に大きな土地を持っている土地成金に嫁いだのだという。時期的に戦後のベッドタウンとしての都市造成期に、新築住宅を購入した世帯の娘は、親が鉄道駅を使って東京へ向かう姿を見て育つ。これは大きな意味を持っている、駅前が世界の中心だと勘違いして育つということ。

俺からしてみると知ったこっちゃないが勘違いは勘違いでしかない。各地の神輿会の中には店舗経営の人もいれば、市役所、農協、学校の先生、流鉄、水道局などで働く人も存在している。これは別に東京に行かなくても生きていけるということ。南流山駅が出来る前に、組織的な機能は流山本町にあるのだから、流山市の中心部は本町になる。

つくばエクスプレス効果によってマンションが増え、人が集まる駅前では「勝ち組」「ママ友のボス」としてチヤホヤされるだろう。しかし、他の場所へ引っ越せないジレンマも存在する。南流山では本町とはまた別の人たちが生活している。見ている社会も変わってくるんだろう。向こうとしては母として、お互いに中学の時とは違う立場での出会いだった。


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毎年8月28日、揖夜神社の穂掛祭

島根県松江市東出雲町
毎年8月28日に行われる揖夜神社の穂掛祭は神前にお供えをして田の神に感謝する祭りです。西揖屋から神社までの陸路約1kmを名物の鈴なり提灯を連ね、美装した舟行列が町中を練り歩き、大変にぎわいます。

穂掛祭は近郊近在に名の知れた賑やかな祭礼です。その年実った稲穂を榊に掛けて穂掛榊を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭です。この後、神宮や氏子達に護られた御神輿は、近くの灘から神船に移され、海路崎田鼻の神石「一つ石」へむかわれます。その神船は、満艦飾の各町内のお供船が一列に並んで曳航する例になっています。「一つ石」での豊作豊漁祈念の祭事が終わると、神船は夕方西揖屋の西端の灘に到着されます。
 
夜になって東へ向かわれる陸路の還幸行列がこの祭の賑わいの最高潮です。露天の並ぶ神社までの道を、鈴なり提灯を先導に、各町内が笛太鼓の囃子方を乗せた屋台車を中心とした行列で通り、沿道は大勢の人でにぎわいます。

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毎年8月28日に行われる「穂掛祭」は、その年稔った稲穂を榊(さかき)に掛けて穂掛榊(ほかけさかき)を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭です。この祭は海上と陸上の二つの祭りに分けられます。

海上の祭は「一つ石神幸祭」と呼ばれます。夕刻になると揖夜神社から、神官や氏子達に譲られた御神輿(おみこし)が出発し、近くの灘から神舟に移されます。海路崎田鼻の神石「一つ石」へ向かうと「一つ石」での豊作豊漁祈念の祭事が執り行われ、終わると神舟は夕方西揖屋の西端の灘に到着します。

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陸上の祭はその続きとなり、夜には東へ向かう陸路の還幸(かんこう)行列がこの祭の賑わいの最高潮となります。各町内は笛太鼓の囃子方(はやしかた)を乗せた屋台車を中心に、鈴成提灯や幟を押し立てて先導し、人々は行列となって御神輿の後に従います。道路の両側にたくさんの露店がありその間を大行列が通る姿は、東出雲町の夏の風物詩となっています。

前日27日に神職たちは中海の袖師ヶ浦で禊をしたあと、社務所で甘酒や焼米などの神饌を作る。当日には午前中の祭礼の後に用意した神饌を境内75箇所に奉る。盛大は船神事と美しい鈴成提灯が幻想的な一夜を演出します。当日は周辺に交通規制がかかりますのでご注意ください。

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揖夜神社(いやじんじゃ)は島根県松江市東出雲町揖屋に鎮座する神社である。意宇六社の一つ。旧社格は郷社、後に県社となる。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。また隣接する安来市の比婆山には関連神蹟として古事記に記された伊邪那美神のご神陵がある。

『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。神階は『日本三代実録』によれば貞観9年(867年)に従五位上、貞観13年に正五位下に昇叙されたとある。

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神社に所蔵された文書によれば南北朝時代には「揖屋大社」と称し、戦国時代から「揖屋大明神」と称していた。平安時代末から南北朝時代まで荘官として派遣されていた大宅氏が「別火」と呼ばれた神職に就き当社を支配した。室町時代以降は出雲国造の命を受けて神魂神社の神職の秋上氏が神主を兼任していた。江戸時代には井上氏が別火となり現在に至っている。現在でも造営にあたり出雲国造家から奉幣を受ける。

祭神は伊弉冉命(イザナミ)つまり日本版アダムとイブのイブにあたる国生み・神生みのお母さまですね。この神社のすぐ近くにある黄泉の国(死後の世界)への入り口が「黄泉比良坂(よもつひらさか)」です。「伊賦夜坂(いぶやざか)」とも呼ばれています。

古事記によると、この世界を作る時(天地開闢 てんちかいびゃく)に混沌とした中から沢山の神様たちが次々と登場しますがなかなか上手くいきません。最初は性別の無い神様たち、続いて男女の性別のある神様たちがチャレンジしますがなかなか上手く行かず、初めて成功(性交?)したのがイザナギ(男神)とイザナミ(女神)です。

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豊漁祈念と同時開催される

田の神様への感謝の祭り
東出雲町(ひがしいずもちょう、現・松江市)にある揖夜神社では、毎年8月28日に穂掛祭が開催されています。穂掛祭は、その年実った稲穂を榊に掛けて穂掛榊を作り、新米でこしらえた神酒や焼米などとともに神前に供え、田の神に感謝する祭りで、同日に行われる海路崎田鼻の神石「一つ石」で豊作豊漁祈念の祭事が終わると、神社までの道を、鈴なり提灯を先導に、各町内が笛太鼓の囃子方を乗せた屋台車を中心とした行列で通り、沿道は大勢の人でにぎわいます。

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毎年8月最終土・日、にわか祭

七福神の弁財天を祀る祭礼
能登鵜川の地で古くから伝わる漁師の祭礼「にわか祭」。鵜川の2つの台網(大敷網)である、下の網(海瀬組)と上の網(馬場組)の男たちは、不漁や海難事故が続いたため、海の女神、市杵島姫命(弁財天)を祀る海瀬神社に豊漁、海上安全を祈り、行燈に凛々しい武者の絵を描き威勢よく担ぎ祭神を慰めた。
 
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以来、漁業に栄えた鵜川の漁師たちが祭礼に使われた御幣や武者絵をそれぞれの船や神棚に豊漁安全のお札として飾る風習は、寛永年間(約400年前)から今も受け継がれている。高さ7m、幅5.4mの大奉燈9基が町内を練りまわる。

高さ7m、幅5.4mの「にわか」と呼ばれる大奉燈9基が、鵜川の街の中を駆け巡ります。9基のにわかは一度、各町内から見卸しの浜に終結します。21時頃に出発し、町内を巡航した後、0時頃海瀬神社へ入宮します。その後、神社境内にて朝方まで乱舞が続きます。

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能登町鵜川のにわか祭は七福神の弁財天を祀る祭礼で、350年前、豊漁祈願のためキリコに勇壮な武者絵を描き、武者を弁天様へ婿入りさせて奉納したのが由来です。13代前田斎泰が訪れた時に、袖のあるキリコを にわかに組み立て披露したことから,にわか祭と名づけられたそうです。

能登町鵜川のにわか祭は能登の一般的なキリコとは形が違い武者絵が描かれた袖のあるキリコ(にわか)です。にわか祭の当日には花火も開催され、勢ぞろいした袖キリコ(にわか)の上に上がる花火は、とても綺麗です。キリコ(にわか)には車輪がついていて、かなりのスピードで移動できます。菅原神社前の広場では袖キリコ(にわか)の回転を披露し、海瀬神社前の広場ではスピードを出した袖キリコ(にわか)を急停止して後部を浮き上がらせます。

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鳴り響く太鼓や祭囃子は連続して打ち上がる花火の轟音と共によりいっそう盛り上がり、担ぎ手の掛け声に合わせ一斉に動き出すキリコ。乱舞は1基二往復の取り決めのようですが、自力のあるキリコは三往復しても良いそうです。こうして大乱舞が何順も繰り返されていき、昨年はAM3:00まで続いたようです。

にわか祭は毎年8月24日に開催されるということで月曜日なので行くのを断念してたのですが、2009年から8月の最終土曜日と翌日の日曜日に開催されることになったようです。



姉妹都市、石川県能登町
平成24(2012)年1月17日、流山市の市制45周年の節目に、姉妹都市の盟約を結びました。能登町は、平成17(2005)年、能都町・柳田村・内浦町が合併して誕生しました。

石川県の北部、日本海に突き出した能登半島に位置し、朝市で有名な輪島市に隣接しています。町の東~南側は富山湾に面し、その海岸線の大半は能登半島国定公園に含まれます。九十九(つくも)湾などの景勝地を有する海岸と、陸地の約8割を占める丘陵地で構成される町域は、緑豊かな「里山・里海」の風景を今に残しています。

古くから漁業や商業で栄え、新鮮で多様な海の幸や、揚げ浜という伝統製法で作られる天然塩などが特産となっています。平成15(2003)年7月に能登空港が開港したことから、首都圏から約1時間でのアクセスが可能になり、観光や活性化の追い風となっています。

【町制施行】 平成17(2005)年※合併
【 人  口 】 19,247人(平成27年1月1日現在)
【 面  積 】 273.46平方キロメートル



歴史と流山市とのつながり
江戸時代には、加賀百万石で知られる前田家の所領に組み込まれ(一部を除く)、その頃には水運を生かした商業などで栄えていた能登町。合併前の旧内浦町には、古くからの酒造りの技を受け継ぎ、日本四大杜氏に数えられる「能登杜氏」が生まれ、時代が下るにつれその酒造技術を生かし全国で活躍するようになりました。

昭和初期には、白みりん発祥の地として醸造業がさかんであった旧流山町に、能登杜氏をはじめとした旧内浦町民が数多く移り住むようになりました。こうした繋がりから、昭和60年ころからは流山市民・旧内浦町民の間での交流が活発に行われるようになり、合併により能登町が誕生したのちも友好関係を醸成させてきました。
 
東日本大震災の発生により飲料水の確保が困難となった際には、能登町からいち早く「のと海洋深層水」が支援物資として届けられ、流山市民の大きな助けとなるなど、多方面で信頼関係を深めています。



里山里海の風土
平成23(2011)年6月には、「能登の里山里海」(能登町を含む4市4町)が、国連食糧農業機関(FAO)が定める「世界農業遺産」に認定されました。景観や伝統的な農林漁法、文化・祭礼などが評価されたもので、能登町では、農家民宿の集落でもある「春蘭の里」の豊かな里山景観などが該当しています。

祭りの王国
古から受け継がれた祭りが年間を通じてさかんに開催される能登半島。特に夏は祭りのシーズン、能登の祭りの主役はキリコと呼ばれる大きな奉燈です。能登町の「あばれ祭」は毎年7月、2日間にわたって繰り広げられ、高さ7メートルのキリコ40本以上が大松明の火の粉の中を乱舞する迫力を楽しめます。その昔、悪病が蔓延したときに盛大な祭礼をしたところ、神霊が病人たちを救ったのが始まりと伝えられていて、2基の神輿を海や川に投げ込むなど個性的な神事が、今も連綿と受け継がれています。

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