平成28年12月13日、記念切符発売へ発表
日本一短い芝山鉄道、開業14年で1000万人
芝山鉄道は12月13日、「芝山鉄道ご利用者数1000万人突破記念乗車券」を発売すると発表した。発表によると、芝山鉄道は2002年10月27日に開業。それから14年後の平成28年12月3日に累積利用者数が1000万人を突破した。
これに伴い記念切符を2017年1月22日から発売する。発売額は500円で、大人200円券2枚と子供100円券1枚の3枚セット。芝山千代田駅で販売するほか、通信販売も行う。1500セット限定販売で、売切れ次第販売を終了する。
芝山鉄道は、東成田(千葉県成田市)~芝山千代田(芝山町)間2.2kmの芝山鉄道線を運営している第三セクター。普通鉄道の営業距離が日本で最も短い。東成田駅で接続している京成線と相互直通運転を行っている。国土交通省の鉄道統計年報(2013年度)によると、1日の平均通過人員(旅客輸送密度)は1565人。
成田空港と周辺をぶらつこう!
日本一短い普通鉄道を約4分で完乗『芝山鉄道』
成田国際空港は国際線はもとより、最近LCC専用の第3ターミナルが出来て変化を続ける一方で、昔の名残も多く残す。そんな成田空港の新と旧、メジャーとマイナーな場所を見物し、日本一短い普通鉄道「芝山鉄道」の完乗を、およそ半日でぶらつき取材したので、お出かけの参考にしていただきたい。
まずは成田空港に行かないと始まらない。JR成田エクスプレス、京成スカイライナー、リムジンバスがメジャーどころか。JR総武本線の快速エアポート成田、京成アクセス特急、京成本線経由の特急あたりが料金不要で、運賃のみで利用できるリーズナブルな存在だろうか。
スカイライナーと同じルートで成田空港に至るアクセス特急の最高時速は120キロメートル。スカイライナーが一部区間で時速160キロメートル運転をするのに比べれば所要時間はかかるが、それでも昔に比べれば速いものだ。
終点の成田空港駅で下車。第1ターミナルの真下に存在する駅だ。ここから成田空港周辺散策を開始する。なお、一般に知られた送迎デッキやレストランには、まったく行っていないので、そのようなメジャーどころはガイドブックを参照されたい。
駅から地上に上がった第1ターミナルの1階だ。かつては新東京国際空港の表玄関だったこのターミナル。世代によってはドラマ「スチュワーデス物語」でCAがバスから降りて、さっそうと歩く姿を懐かしいと感じるのではないだろうか。当時はこのターミナルしかなかったのだが、現在でも北ウイングと南ウイングを擁するターミナルは健在だ。
では、まずは新しいものを見に行こう。LCC専用の第3ターミナル。各ターミナルと京成東成田駅間は無料のシャトルバスで結ばれている。第1・第2ターミナル間だけの区間便もあるが、全ターミナルを回るバスは概ね15分毎に運行されている。
第3ターミナルへは第2ターミナルから専用通路を徒歩で移動するか、シャトルバスや路線バスでないと入ることができない。乗用車の乗り入れは禁止されている。なお、空港敷地内に立ち入る際に実施されていた身分証明書の呈示と手荷物検査は原則廃止されたので、検問所はスルーする。
第3ターミナル内のパノラマ合成写真だが、必要なものだけが合理的に配置されていて、一切の無駄がない。ここは陸上競技場ではない。旅客の動線を示したトラックが通路に描かれているので、旅客が迷うことなく移動できるようになっている。間違ってもスタートを切ってはいけない。
JR、京成、リムジンバスのチケット売り場が1つの場所に集約されている。鉄道は自動券売機のみと合理化が徹底されている。フードコートは値段の高いイメージのある空港レストランと比較して、価格は控えめだ。見物中の昼食はここが一番安いかもしれないが、コンビニもあるのでそこで調達して食べるのも手だ。
第3ターミナルを後にして、今度はマイナーな方を見に行こう。シャトルバスを東成田駅で下車する。ここは乗降する人が少ないので、降車ボタンを押さなけれれば通過してしまう。要注意だ。バス停の前に駅らしきものはない。矢印の案内板に従って少し歩く。
中に入ると、手荷物検査のための警備員が常駐しているものの、怪しい素振りがなければ素通りさせてくれる。なお、この写真の右には警察官が常時立番をしている。この間、一般客らしき人はゼロ。すでにマイナーな世界だ。
運転を停止しているエスカレーターと広大な階段。実は、この駅は初代の京成成田空港駅だ。第1ターミナルしかなかった頃は、ここが成田空港駅としてにぎわっていた。現在のJRと京成の空港線は成田新幹線のために確保されていた空間を転用したものだ。
管制塔や空港関連施設が近いことから、空港職員が通勤に使う程度で普段の乗降は少ない。メインの空港第2ビル駅へは地下通路で結ばれているので、徒歩連絡は可能だ。なお、京成津田沼発の始発電車は東成田に午前6時前に到着するため、LCC利用者の早朝空港アクセスとして若干の利用がある。
改札はすでにローカル駅並みの規模しかない。ここから、日本一短い普通鉄道である芝山鉄道に乗車する。東成田駅は京成東成田線の終点でもあるが、芝山鉄道との共用駅である。次の芝山千代田までが芝山鉄道、逆の京成成田までが京成東成田線。
芝山鉄道はIC乗車券が使用できないので、当駅で紙のきっぷを購入する。IC乗車券をタッチしても京成方面にしか使えないので注意が必要だ。当駅の駅名票。次駅に京成成田と芝山千代田が表示されている。
現在供用されているのは1面2線の島式ホームだが、隣に照明がない朽ち果てたホームが存在する。かつての成田空港駅時代に活躍した特急ホームだ。既に使用されていないホームの駅名票は「なりたくうこう」のまま放置されている。
明るく写ってはいるが、肉眼では真っ暗で探さないとわからないくらいだ。開放F値2.8のレンズを使用してISO感度12800という通常撮影ではあまり設定しない高感度撮影でようやく文字が読める。「つぎはなりた」と書かれているのは、当時は芝山鉄道が開業していないので、当駅が終点だったことことを物語っている。
昼間は京成成田と芝山千代田間の往復運転のみ。芝山千代田駅があまりにもマイナーなため、行先方向幕には「(東成田)芝山」としか書かれていない。空港地下の急なカーブをいくつか曲がると地上に出る。
最後の急カーブを登り終えると、終点の芝山千代田。線路はここで行き止まりとなり、これで芝山鉄道は完乗したことになる。まわりはすべて空港施設だ。芝山鉄道線内に途中駅はなく、東成田の次が終点なので約4分で完乗することができる。
改札口で乗車証明書をもらうことができる。乗車証明書は2種類あって、ここに至るきっぷを見せて1枚。帰りのきっぷを買って1枚。1回の往復乗車で全種類の乗車証明書をゲットすることができる。駅員が乗車日を入れてくれるので、よい記念だ。
芝山鉄道唯一の単独駅。高架駅なので大きく見えるが、駅舎そのものは小さな地下鉄駅ほどしかない。バスも発着している。航空博物館や近隣への路線バスや、東京駅、八日市場間の高速バスの一部が当駅に停車する。線路が切れた先は何だか延伸しそうな空気が漂う。
実は地元からは延伸が望まれていて、その代替として延伸計画路線には既にバスが運行されている。こうして成田空港周辺の散策は終わり、記者は折り返しとなる京成成田行き電車に乗車し、京成本線経由で帰路についた。
成田空港の周辺には航空博物館や、航空機の離発着が目の前に見える「さくらの山」等の散策、観光地がいくつか存在する。メジャーな空港見学や、今となってはマイナーだが、かつては成田空港そのものを象徴する駅だった東成田駅、日本一短い鉄道線。
日本を代表する玄関口の周辺は、空港利用だけでは気が付かない面白そうなスポットがまだまだ存在するかもしれない。都心から小一時間のお勧め散策スポットだ。
三里塚御料牧場記念館
御料牧場のありし日の姿を再現
房総の美術館・博物館に文が残っているので電化する。今の成田空港が新東京国際空港として建設されるに伴って、宮内庁下総御料牧場は昭和44年に閉鎖されて、栃木県塩谷郡高根沢町に移転した。
成田市では御料牧場の名をこの地にとどめるために、昭和56年にそれを記念する資料館を開館した。豊富な資料、写真、地図などによって、下総御料牧場のありし日の姿を再現している。
御料牧場の歴史
江戸時代の佐倉牧は、明治維新によって廃止され開墾されたが、この取香牧(とっこうまき)だけは開墾されることなく、旧宮内庁の御料牧場の前身だった下総羊牧場と取香種畜場が明治8年に開設された。所管は内務省、農商務省、宮内省と変わり、明治21年に下総御料牧場となった。
当時の家畜数は羊3771頭、馬483頭、牛76頭、豚14頭だった。羊が多いのが目につくが、明治維新によって毛織物の需要が増したので、それを輸入に頼るだけでなく国内で生産しようとした。こうして御料牧場は我が国における畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残すことになる。
牧畜と農耕
成田市内から出土した古墳時代の馬の埴輪は、古代からこの土地に馬が生息していた証しである。その馬からは古代牧、江戸時代の佐倉牧、明治からの御料牧場(牧畜)へと続いてきた先祖でもある。
下総御料牧場の経営の基本は、牧畜と農耕と言って良い。牧畜事業では馬、牛、羊、豚、鶏の飼育はもちろん、バター、ハム、チーズ、ソーセージ等の畜産加工品も生産した。
農耕事業では牧草、野菜、穀類の生産の面でも日本の農業をリードしてきた。とくに農業の機械化については、展示されている農耕具を見るのも楽しい。もちろん近代的な超大型な機械類はないが、牛や馬による農耕具には様々な物があり、これらの中には欧米から輸入された機械も多く、民間に先駆けていち早く実験的に機械化に取り組んだ姿勢が展示物から伝わってくる。
これは大久保利通(内務卿)の遺言によって欧米の畜産技術を導入した結果のようである。明治時代の日本の政治姿勢、農業の面でも「欧米に追いつけ、追い越せ」という国の姿勢が感じられる。その他、御料牧場は日本獣医学発祥の地でもあり、庭にはその碑も建っている。また、イギリスから輸入した名馬トウルヌソルらの記念碑もある。
皇室と御料牧場
明治21年に宮内省下総御料牧場となって以来、我が国唯一の宮廷牧場として天皇、皇后両陛下をはじめ数多くの皇族方が来場されている。その写真が多く展示されているが、皇族もお付の者も乗馬姿である。広大な御料牧場内は馬で見学するのが最適だったし、スポーツでもあったのだろう。それだけに皇族の方々は普段から乗馬に親しんでいた事が分かる。
落ち着いた雰囲気のお召し馬車が、中央に展示されている。国産、黒塗りの四輪で四人乗り、二頭曳きだったと説明にある。車輪は硬いゴムだから乗り心地はよろしくなかったのではないかと思えるが、皇室の馬車らしい威厳はしっかり持っている。
三里塚と文人たち
三里塚といえば、激しい成田空港反対闘争を思い浮かべる方が多いかと思われるが、戦前の三里塚はのどかな行楽地でもあった。特に春の桜の季節には「花の三里塚」として多くの花見客が東京から押し寄せた。
明治43年に成田、三里塚から多古まで軽便鉄道が走るようになった。この童話のような汽車は第二次大戦中に取り払われたが、これに乗るのも風景として見るのも、三里塚を訪れる観光客の楽しみの一つであったという。
(※成田鉄道多古線は、バス会社千葉交通の前身である成田鉄道(2代目)が、かつて運営していた鉄道路線(廃線)である。開業時は大日本帝国陸軍鉄道連隊が演習で敷設した設備と車両を借用していたが、千葉県に後に払い下げられた。)
下総御料牧場はそんな環境にあったから、羊、馬、牛が群れをなしてのんびり遊ぶ牧場は日本離れした風景だったに違いない。東京から近いところにあったから、牧歌的な風景として都会人に愛されたのだろう。
東京生まれの水野葉舟が、そんな三里塚に移り住んだのは大正13年だった。葉舟はここに住んで、晴耕雨読の生活を楽しんだ。「我はもよ野にみそぎすしもふさのあら まきに来て土を耕す」この歌碑は貴賓館の庭に建っている。
(※水野葉舟の歌碑は、昭和32年(1957年)4月24日、三里塚第一公園に建立され、昭和56年に三里塚記念公園に移されました。歌碑には、晩年の著作、歌集「滴歴」の第一首、「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す 葉舟」と刻まれています。)
茅葺き屋根の貴賓館
記念館は、御料牧場の事務所の所に建っている。その記念館の隣に茅葺き屋根の貴賓館がある。これらは三里塚記念公園の中にある。貴賓館は表から見れば和風だが、裏へ回れば洋風に見える。
また、間取りを見ても中央に広い洋間があるが、畳の部分が多い。縁側は直角に曲がっているから、雨戸は90度回転させて開け閉めするのは、流山の一茶双樹記念館と同じである。
貴賓館は、皇族の宿舎として使われてきた。昭和18年に現天皇が皇太子の時に御料牧場で遊ばれ、宿舎として利用された。また、外国の大使、公使を招いて園遊会会場としても使われてきた。決して派手な建物ではないが、ここは皇室外交の中心となった場所でもある。
※ここから下は追加文
その他、貴賓館裏手に防空壕が存在する。2008年(平成20年)10月21日から、成田市の本格的な調査が行われる。この防空壕は約60年前に建設され皇族宿舎として使用されていた貴賓館の裏手という事もあり皇族用の防空壕だとされているが、正確な事は明らかにされていない。
この防空壕はコンクリート造で内部の配電盤に「昭和16年製造」の文字が見られることから、その年代に建造されたものだとされている。平成23年4月から一般公開が開始され、内部を見学することが出来るようになった。
葉舟の親友だった高村光太郎も三里塚を訪れて、御料牧場で馬が遊ぶ風景を歌った。「春駒」と題する詩の後半の部分だけを紹介しよう。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい
三里塚の春は大きいよ。
原稿用紙の文字を拡大したこの詩碑は、葉舟の歌碑の隣にある。その他に、窪田空穂も短歌で三里塚を歌い、朝日新聞記者・杉村楚人冠の随筆「羊の肉」などもある。
成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。
ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。
葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。
詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。
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