でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2016年08月


道祖神と地蔵との関わり

道祖神について
原始信仰から発展してきた道祖神は、交通安全の神、夫婦和合の神、厄を防ぐ神、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神等を含んだ石の信仰だ。元々は”漢の国”の旅行安全の道祖の神が日本に伝わり、その古来の信仰と結びつて行った。

その中心となるのは塞の神(さいのかみ)と岐神(ふなとのかみ)であろう。日本書紀ではイザナギがイザナミの死を悲しみ、黄泉の国へ会いに行き、腐敗した体を見てしまう。黄泉の国の女達い追いかけられたイザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)で千人で動かせる岩で道を塞ぎ、持っていた杖を立ててここを過ぎる事勿れと宣した。

この時の磐石が塞の神の始まりと言われている。千人所引の盤石(ちびきのいわ)である。また、その時持っていた杖をつき、これより先に入る事まかり成らぬと宣したのが岐神(ふなとのかみ)である。

この二つ、石と木は道祖神の様々な関係を映し出している。例えば石仏としての道祖神と御柱もそうであろう。また、イザナギは黄泉の国から逃げるときに桃を投げている。これも双体道祖神の掘られている中区(周りの掘り)の形が桃の形のものに繋がる。



この事から村に災いを防ぐ為に一つは、サイノカミ(塞の神・幸の神・障の神)になった。塞の神とは人間に襲いかかる「悪霊や災難」に立ち塞がり守る神で村落の入り口に祀られた。今でも所々に”さいのかみ”という地名が残っている(才ノ神、祭ノ神、等)。

一方では、奈良時代辺りからフナトノカミと考えられたようである。先ほどの黄泉比良坂で手にしていた杖を立て、岐神(ふなとのかみ)といった事による。岐神(ふなとのかみ)、岐とは道の分かれ道と言う意味でこの事からも旅の安全の神でもあり、道の辻に祀られる事になることがわかる。

フナトノカミとは子孫を死者の数より多く生ませる霊力を持った神で、その形は男根で表現されていた。男根石を祀る習慣は全国各地で見ることが出来る。男根石を道祖金勢(どうそこんせい)といい、元々は祖先のシンボルとしての道祖神でもある。

道祖神の信仰の原型はこの塞の神と岐神(ふなとのかみ)で、災いを防ぎ子孫繁栄にあったと言える。そして、その信仰の対象物は男根石(もしくは木)であった。また、塞の神には一種変わった形をした石を祀ることもあったようである(丸石・自然石等)。



道しるべとしての道祖神としては、国津神の猿田彦が天孫降臨を待ち天鈿女命と道案内をした事からも来ている。この両神を双体像とした石仏もある。そして道饗神(みちあえのかみ)、道教の道陸神として高札場(こうさつば)の横に祀られる事も多かった。

高札場とは、江戸時代の幕府からのおふれを書いた高札を張った場所。それは村と村の距離を示す物でもあった。御柱もそこにある事がおおい。

安曇平東側山中の道祖神は信仰の趣が強い。山間のその集落の下もしくは上にあり必ず山頂を背にする。その位置は、村境(旧の)であり、お墓との境である事も多々ある。下の村を見下ろす様に、また上の村を守る様に佇む。これは塞の神の傾向が強いのだろう。そして、御神木とも思しき大木の下にあることが多い。これは前出の石と木の関係からも納得できる。

また、これら神様が男性であることから安曇野での御柱には高い木であるだけでなくそれに横棒や縄、色紙で陰相として女性を祀っている。また、男根石を女性である弁天様の祀られる池に投げ込む地域も松本平等で見られる。

双体の道祖神になったのは、陽石・陰石の関係からも判るとおりで男の神様を結婚させてあげようということから出来上がった物であろう。

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安曇野に双体道祖神が彫られ始めたのは享保年間から(1716~)盛んになった様である。それ以前のものも有るが造立年とその作風が合わない等問題が見られるようだ。形も並立、握手、酒器婚礼と変化してきた。特に酒器を持つ婚礼型は安曇野から始まったとも言われている。また、内裏雛(だいりびな)の流行と同じくして双体道祖神が増えたという説もある。

道祖神を彫ったのは誰だったのかと言う事に付いては、高遠の石工と言う説が一般的だ。当時、高遠領内には数百人の石工が住んでいたといわれ城の築城・改修も無くなって近隣諸国に出稼ぎに出たと言われている。

道祖神祭りは全国的に「どんど焼き」や「左義長」等と呼び正月七日に行う事が多いが、安曇野では「三九郎」と呼び北安曇では「おんべ焼き」と呼ばれている。また松本平では事八日(ことようか)、2月8日の事で事始めの日に行う所もある。疫病神や一つ目小僧が現れる日で、物忌みをする日でもある。この事で災いを入れない道祖神との関係ができ、この日に道祖神祭りをする所があるのであろう。

道祖神と疫病神の話しがある。事八日(2月8日)とは神無月に出雲に出かけた疫病神がその村に帰って来る日である。出雲に出かける際に厄病事を記した巻物を道祖神に預けた疫病神は、その日に返してもらう。しかし道祖神は正月七日にどんどの火で焼かれてしまったと言い村人を災いから守るのだと言う。

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仏教の伝来と合わせて、仏教系の道祖神も現れる。並立し男神と女神の差別が殆どつかないものや蓮の花の上で、向かって左が男であれば仏教系道祖神である。(仏教では左が上座、神道では右が上座)神仏混合の国ならではの風習であろう。またそれは地蔵信仰ともなり、村外れにたつ地蔵と重なるのである。

人間苦の六道にはそれぞれ地蔵菩薩がいて人間に代わり苦しみを受けてくれると言う。辻、村境、峠に六地蔵が立てられている事が道祖神信仰と結びつくのは不思議がない。信州にもまれに有る単体像の道祖神が概ねお地蔵様と似ているのも不思議はない。



また、道祖神には面白い風習も有る。かつて江戸時代に、安曇野では道祖神を盗むという風習があったという。若者が道祖神の嫁入りと称して盗んだそうである。その証拠に道祖神には帯代十両(明治になると十円等)等という文字が刻まれていおり、これはもって行くならその金を払っていくようにと言う事だったらしい。

この風習を示す様に、刻まれた地名が置いて有る所と違うものもある。道祖神に屋根と柵が有るというのも保護するだけで無く盗まれない為であり、道祖神が大きくなってきた(特に平地のものはその傾向が強い)のもまた同じ理由だとの話しも有る。

もっとも、この風習も互いの集落の暗黙の了解の元で行われた地区も有るらしい。峠を越えて盗み戻るまではひっそっりと、しかし持ちかえって峠を越えてから村人揃って囃しながら迎えるという。何とも不思議な風習ではある。

この道祖神盗みを象徴する道祖神が松本平の芦の窪にある。現存するのは正徳5年(1715年)、寛政7年(1795)に続き天保14年(1842年)の三代目のものである。初代・二代目ともそれぞれ山形村小坂と塩尻市洗馬に現存する。山形村小坂(おさか)の物は、土蔵の横にひっそりと置かれていた。

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盗んできた道祖神を隠しておいて災いがあった例もある。上記芦の窪の道祖神盗みは了解ごとを示す資料がすぐ横にある旧庄屋さん宅から見つかっている様だが、じっさいにこっそりと盗んできた例も多い。その中でも道祖神が災いをもたらした話しとして八坂村下笹尾の道祖神がある。

以前は同じ八坂村の相川に有ったのを下笹尾の若い衆が帯代金も払わずに盗んできて洞窟の中に隠して置いたそうだ。しかし、それから集落に火事が起り現在の位置に奉ったと言うことで有る。

道祖神の添え彫りは様々だ。吉祥をあらわす菊花や厄除けの鬼面を始め、七五三縄・鳥居・御幣の他に年代や村の名前等いずれも年代が新しくなるにつれて増えている。又、日月を彫り込み庚申との関係が強いものや卍を彫り込み仏教色の強いものも有る。

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道祖神信仰と庚申信仰はつながってしまった様だ。道祖神の横には庚申塔が並立している事が多い。人間の身体には三尸(さんし)の虫と言う虫がいて人間の犯す罪を監視している。庚申の夜が来ると三尸の虫は身体から抜け出して天帝に悪行を報告すると言うのである。天帝はそれによって人の生命を決める。

眠らなければ三尸の虫は身体から抜け出る事が出来ないため、その夜は寝ずに人々が集まり夜を過ごす。人間の長寿を祈る庚申講が災いを防ぎ子孫繁栄を願う道祖神信仰と重なっていったのだろう。

このように日本の古来からの原始信仰とも言うべき道祖神であるので、現在の物も当然設立されているが、やっぱり古来から人々の生活に密着してきた物に趣が感じられるのである。

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第40回流山花火大会、打ち上げ開始

時間が進むと続々と集まってきました
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ラ・ガールでは販売開始

この後、リフォームしている店舗に入るのだそうだ
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切り絵行灯プロジェクトの街、流山

流山駅には子供や老人会の方々が作った行灯が設置
そしてこの場に一番ふさわしい人物、長谷部さんが町会ごとの当番か、ここで誘導の仕事をしていた。実際問題、ウチの方(宿の町会、平和台駅前)には当番もなく、ガードマンに任せていので感覚としては合っているのか分からないが、これも町会の中でのコミニティの仕事の割り振りとなり、地域の団結、深い連携と言うことにも繋がる。

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寿美屋では切り絵行灯を

前面に出して営業していた
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山田屋でも焼き始めている
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歩道橋からはシャトルバス組
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丁子屋でも料理を販売
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夕日のテント村
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ここが本部席
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第一分団分団子屋
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こちらはヨーカドー組
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かねき屋さんは眺めが良いようだ
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段々と人も増えてくる
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花火大会終了後

平和台方向は早めにヨーカドーの中へ
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ヨーカドーの中でなんだかんだ騒いでいる
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駅前には各方向から人が集まってくる
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駅前では行列
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ムトーの先まで並んでいる
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今年は流山駅にも来ました
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こちらもすごい人です
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市場のところはまだまだ盛り上がっている
今年は花火大会終了後、流山駅や根郷の街を一周通りましたが、宿の会場はヨーカドーの中でひとまず休憩といった方々が多いが、流山駅の周辺ではまだまだ街をぶらついている人達が多かった。これは急いで駅に向かっても並んでいるだけだし、花火大会終了後を最大限に楽しんでいるということだろう。

花火大会つっても待ち合わせて集合してから、電車での移動、終了後に酒飲んでまでがイベントなんだから、経済学の観点でいうなら花火大会終了後にどうにか流山にカネが落ちる仕組みができないか、と思うのだが、夜に商売するとなると安い人件費で店舗を営業できる新松戸の駅前みたいなニュータウンの歓楽街に任せる方がイイだろう。

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やっぱり流山街道は混んでます
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一年で一番繁盛する、と言っても大袈裟ではない流山線。これは流山線としては一年に一度の祭りと言っても良いのかもしれない。実際に一年にこの日だけ流山線に乗る人も多くいると思われる。とは言え、どうしてもつくばエクスプレスの存在感は大きいのでまだ乗ったことのない人もいるだろう。

都心から25キロの距離の割には奇跡とも言っていい流山電鉄の存在、水運で栄えていた水の都だからこそ実現した株主数は116人に及ぶ町民鉄道、この日は流山線も増便して花火大会の最後を飾っている。花火大会の夜はまだまだこれから。家を出てから家に帰るまでがイベントになる、新松戸や柏駅前にてさらに経済活動は活発になる。

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第40回流山花火大会

流山1丁目~3丁目地先江戸川堤
花火を楽しむなら流山。夏の一大イベントとして市民の皆さんに親しまれ、市外からも大勢の方が訪れる流山花火大会。第40回目を迎えることしも、三郷市の花火大会と同日開催で、合わせて1万発の花火を盛大に打ち上げます。

大輪の花が夜空を彩る大迫力のスターマインをはじめ、高速で打ち上げる花火と音楽がシンクロ(同調)するスカイミュージカルなど、見どころが盛りだくさん。最後まで、一瞬も目が離せない花火大会です。また、当日16時からは、味自慢の店がずらりと並ぶ「屋台村」もオープンします。楽しい夏のひとときをお過ごしください。

【延期】8月26日(金)
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今年も流山花火大会を開催いたします。三郷サマーフェスティバルとの同日開催により、打ち上げ発数は1万発。名物の光と音楽がシンクロする「流山スカイミュージカル」が見どころです。スターマインや連発花火など多彩な内容で、夏の夜空を彩ります。

駐車場のご用意はありませんので、ご来場は公共交通機関をご利用ください。当日は18時から21時30分まで、会場周辺で交通規制がありますので、ご注意ください。会場付近は混雑が予想されます。あらかじめゆとりをもって、お早めにお出かけください。

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【第40回流山花火大会】

華麗な光と音のシンクロ
千葉県流山市で8月20日に行われる「第40回流山花火大会」では、光と音のシンクロが華麗な花火を見ることができます。本花火大会は、三郷サマーフェスティバルとの同日開催によって、合計打ち上げ数はおよそ10,000発にも及び、毎年多くの人で賑わいます。ここでは第40回流山花火大会の見どころ・おすすめの花火鑑賞スポットを紹介します。

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ゴミ箱を倉庫へ

今年も観光客を受け入れる側の用意を見ていきます
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時間は早すぎたか

ラ・ガールでも店頭販売の用意をしている
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寿美屋
流山駅前の寿美屋では酒の販売権を持っているため、ビール、唐揚げ、いなり寿司を販売、もちろんパンやジュースも販売。流山駅前降りてすぐの交差点、立地を活かす。今では昼間に孫が遊びに来るなど店としての役目は終わったかに見えたが、毎年根郷浅間神社の祭礼と流山花火大会の日には商売をしている。

この両日には普段の街の住民ではない人達がたくさん集まるため、結果的に街にカネを落として行ってくれている。ここ寿美屋の屋号の起こりにも、炭を扱う薪炭商から寿美屋という屋号がついたという。(流山の薪炭商はこの街だけでの需要だけでなく、江戸に川舟で運ばれる問屋の働きも持っている)

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山田屋では毎年店頭で焼き鳥を焼いている。江戸川の流山花火大会本部の最寄駅、流鉄終点の流山駅から江戸川土手までの行き道で、焼き鳥なんか焼かれたら匂いでつい買ってしまう見物客も多いだろう、土手にある出店で買うならどうしてもやっぱり行列が考えられる、それが嫌だから途中で買って用意する。なので売上もそれなりに考えられるだろう。

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テント村が準備されている
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午後二時の市場の所、一番見やすいかも
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今年は馬場の方にも行ったよ

場所取りされている
馬場(バンバ)という言葉は住んでいるところや、その人の年齢によってかなり広い意味を持ってしまう。南流山造成前には「野村コーポのあたりまで馬場(バンバ)だよ」って人もいるし、「馬場(バンバ)はここらへんの集落の集まりのことだ(流山七丁目付近)」って人もいる。教員住宅のあたりも青木先生の本の中に馬場山という言葉が出てきている。

三輪野山茂呂神社に行って宿って言っても「馬場(バンバ)の方か」っていう人もいる。玉ノ井兄弟の兄貴に「バンバでは誰が同級生なんだ?」と聞かれたこともある。宿より馬場の方が時代の成り立ちとしても古いからそう感じても不思議はない。俺個人の感覚では宿は南部中の学区、馬場は南流山な感じ。ここでの意味は旧流山橋のあたりね。

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江戸川の向こう埼玉側も盛り上がっているね

三郷駅の方が駅から近いからすごいんだろうな
増税から消費が冷え込んでいるというタイミングでありながら駅前の飲み屋、ラブホテルなど経済的には相当なものがあったと思われるが、そもそも好景気であったら花火大会よりも海外旅行などに行っているだろうから、花火大会に来るってのは安く楽しみたいのかね。そうなると駅前の飲み屋ではなくコンビニも売上が大きい事になる。

日常生活だけではなく、このようなイベントでカネの循環を考えると一極集中は大きいこと、さらに周辺の花火大会と開催時期がかぶらないと言う事もある。八月の終わりになっているが、学生の夏はまだまだ終わらない。灼熱の夜を求めて、夏を終わらせたくない人達が江戸川沿いの花火大会に集まってくるのだ。そこにあるのは真夏の夜の夢。

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近所でもこの日は息子が帰ってくるから

かなり頑張っている人達もいる
今現在の当たり前の常識として代々独立を繰り返して生きていく、ただこれは戦後の経済状態での話で、東京近郊の衛星都市としての話。戦前は松戸本町まで田畑が広がっていたし人間関係や生活の基盤なども一つの街で全てであった。そうなると、このようなことを知っている人と知らない人では生活がそもそも変わってきます。

ましてや婿の子供なんかは実家に対して価値も分からず、基本的に自分の生まれ育ちが嫌いなため独立の傾向が強い。独立したって親父は文句言われる立場だし、マイホーム買っても嫁と子供のもの。いつの時代も親父の立場は弱いもの、さらには嫁が作る料理はおふくろの味ではない。いまさら気付いたって遅い過ちが今現在も続けられている。

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三時から花火大会のコーナー販売開始

午後四時のヨーカドー
江戸川の流山花火大会本部の最寄駅、流鉄終点の流山駅で降りる人も多いが、せっかく平和台駅前にイトーヨーカドーがあるんだから利用しない手はない。トイレとしても存在するのはありがたい。イトーヨーカドーではビール、ジュースから食べ物まで一通り全部そろう。この時間までイトーヨーカドーの駐車場に車を置ける。

正面玄関前のホールでは各種出店が設置されている。これはイトーヨーカドー内に場所を借りて営業しているのだ。イトーヨーカドーの集客力が認められ、商売の出来る環境がそろっている上で利用していると考えてもいいだろう。この日だけのために出店するということなのだから。

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焼き鳥を調理する調理器具は、『焼き鳥器』と呼ばれる調理装置や炭火コンロの上に『焼き台』を載せたものなどを使用する。また焼き方にこだわり、炭(場合によっては高価な備長炭)を使用して焼き上げる店も多い。炭火の特徴である、高い温度・強い火力(赤外線)・水蒸気を生じないことを利用し、材料の内部まで短時間で火を通し表面をカリッと仕上げる。

黒炭・ガス・電気を使用する場合もあるが、炭火で焼いたものが香りや食感がよく美味とされている。また炭に落ちる肉汁や脂や調味料が焼き鳥を燻製のように燻す状態となり味と香りが良くなる。金網を使用したり、また「自動焼き鳥器」を使用する場合もある他、半製品の加熱調理により供される場合もある。

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売り物の量が販売量を物語っている。イトーヨーカドーだって今年から出来た訳じゃない、売れる分以上は置かないのだ。これは今日の分、間違いなく午後八時までに売り切れる量。そしてこの写真を撮っている最中でも次々と品物が補充される。イトーヨーカドーの裏方も仕事とは言え、花火大会という一年に一度の祭りに必死なのだ。

オニギリ、焼きそば、焼き鳥、などなど商売になるものは全て扱っている、このようなものを見ていると、花火の日に家の前で何か売ろうとしても商売にならない事が分かる。出店などよりも衛生的にも安心安全のイトーヨーカドーのブランド力でもある。ここではトイレが並ばないで使えるというのも大きな安心感の一つ。

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平和台駅はすでに

ガードマンが帰りの用意をしている
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この日は流鉄もフル回転
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ヨークマートでも店頭販売
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駐車場が見物席に

戦後宅地造成された地域のコミニティ
戦後宅地造成、販売されたニュータウンにおいて、人が集まり地域コミニティの中心になっているのは、屋号が付いている商家だったりするわけだが、平和台の場合はヨークマートというスーパーマーケットだということ。周辺農家が農作物を出荷し、取り寄せた商品と共に新鮮な農作物、または加工して茹でた枝豆、焼きもろこしを販売する。

そして片面の駐車場に見物席を用意する。東京通勤圏内に家を買ったベッドタウン住民は、都内の会社から給料を貰い、家族を養ってゆく。花火大会会場に着飾っていくのは若い時だけ、家を買ってからは地域の輪を大事にしてゆくのも選択肢の一つ。近くの住民は徒歩で来て歩いて帰れる、ここならトイレも並ばないで入れる、最高の見物席だ。

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シャトルバスの所にもガードマン
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飛地山が削られてら

市役所が「イヤ~ン恥ずかしい」って言ってるよ
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ここは旧道八木道の突き当たり

ここで観客は二手に分かれる、流山の本会場か三郷側か
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「流山スカイミュージカル」を堪能
第40回流山花火大会は三郷サマーフェスティバルと同日開催され、その花火の打ち上げ数はおよそ10,000発。中でも見逃せないのは花火と音楽をシンクロさせた「流山スカイミュージカル」です。花火の醍醐味は炸裂する美しい光と打ち上がる時のどーんという轟音ですが、流山スカイミュージカルでは花火の打ち上げとともに、ポップソングが流れます。思わずテンションのあがるミュージカルのような花火は必見です。

江戸川の両岸から打ち上がる花火の迫力に圧倒されます!第40回流山花火大会と三郷サマーフェスティバルはそれぞれ、埼玉県と千葉県の県境でもある江戸川の両岸で開催されます。広大な河川敷が会場になるため流山から打ち上がる花火も対岸の千葉県三郷市から打ち上がる花火も一緒に楽しめてお得です!スカイミュージカルだけでなく、大玉で構成されたスターマインや連続花火など、見どころが満載です。

第40回流山花火大会の花火が打ち上げられるのは、流山1丁目から3丁目にかけての江戸川堤。流鉄流山線流山駅または平和台駅から徒歩およそ5分で着きます。駅から近いですし駐車場は用意されないので、公共交通機関の利用がおすすめ。

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毎年8月第4週、冨木八朔祭礼

石川県羽咋郡志賀町
冨木八朔祭礼は志賀町富来で毎年8月第4土曜日と翌日の日曜日に開催されています。旧暦の8月朔日に開催されていたので八朔祭礼と言われるようになりました。冨木八朔祭礼は地元ではくじり祭りと呼ばれているそうです。冨木八朔祭礼はもともとは住吉神社と八幡神社がある領家・八幡地区の祭りでしたが現在は12地区が参加する惣社祭りとなっています。

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昔、男神が増穂浦に流れ着き、住吉神社の女神と夫婦になりましたが、増穂浦の荒波が怖くなり、男神は冨木八幡神社に移り住みました。以来、住吉神社の女神の元へ男神を御輿で賑々しく運ぶのが冨木八朔祭礼の由来です。

1日目は約40本のキリコと一緒に冨来八幡神社の男神を迎えに行き住吉神社の女神のもとへ神輿で運び1日の逢瀬を楽しみ、2日目は住吉神社から約10台の神輿と冨木八幡神社へ送っていくというのが冨木八朔祭礼のストーリーになります。つまり冨木八朔祭礼の1日目はキリコが主役で2日目は途中からキリコも加わりますが神輿がメインになります。

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通称くじり祭りという奇祭。旧暦の八月朔日に祭礼が執り行なわれていたことがこの名の由来です。その昔、八幡神社の男神が増穂浦に流れ着き、近くの住吉神社の女神に救われて夫婦になった。しかし、住吉神社は海が近いため厳しい荒波が怖くなり、やがて八幡の男神は里へ移り住んだ。以来、夏の一夜の逢瀬を楽しむ男神を神輿に乗せ、2キロ離れた住吉神社の女神のもとへ賑々しく運ぶのが祭りになったと伝えられています。

祭りは、1日目の晩がお旅と呼ばれ、八幡神社の男神が住吉神社へ渡御されます。渡御に先立って、寄り合う各地区民が鐘や太鼓を打ち鳴らし、大小のキリコ(奉灯)を伴って八幡神社に参集します。祭り唄を放歌し、沿道の両側を埋める見物客をかき分けながら八幡神社へ駆け上がる様は圧巻。キリコの数は数十基に及び、各地区では、漆塗りのキリコの華美や大小を競う一面もあるため非常に見応えがあります。

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富来八朔祭礼は志賀町富来で毎年8月第4土曜日と翌日の日曜日に開催されています。富来八朔祭礼の1日目はキリコが主役で2日目は途中からキリコも加わりますが神輿が祭りの主役になります。明けて2日目の本祭りは昼過ぎから行われ、12基の神輿が住吉神社に参集後、領家町、地頭町、高田等を巡行し、夜半に八幡神社に還御されます。

八朔祭礼は今から約千年前から始まったと伝えられ、非常に永い歴史を重ねており、様々な時代、あらゆる人々の生活をくぐり抜けながら、現在に受け継がれてきました。

住吉神社の付近を散歩していたら、神輿を積んだトラックが神輿を下ろしている現場に遭遇しました。神輿をトラックで運ぶという発想が無かったのでびっくりしました。国取り物語の曳山も見ることができました。この曳山はキリコや神輿のように決まった経路を巡回するのではなく、子供たちが大勢で長いロープを引っ張って、そのあたりを移動するだけのようです。途中、キリコや神輿と合流する場面もあります。

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石川県能登町
江戸時代には、加賀百万石で知られる前田家の所領に組み込まれ(一部を除く)、その頃には水運を生かした商業などで栄えていた能登町。合併前の旧内浦町には、古くからの酒造りの技を受け継ぎ、日本四大杜氏に数えられる「能登杜氏」が生まれ、時代が下るにつれその酒造技術を生かし全国で活躍するようになりました。

昭和初期には、白みりん発祥の地として醸造業がさかんであった旧流山町に、能登杜氏をはじめとした旧内浦町民が数多く移り住むようになりました。こうした繋がりから、昭和60年ころからは流山市民・旧内浦町民の間での交流が活発に行われるようになり、合併により能登町が誕生したのちも友好関係を醸成させてきました。
 
東日本大震災の発生により飲料水の確保が困難となった際には、能登町からいち早く「のと海洋深層水」が支援物資として届けられ、流山市民の大きな助けとなるなど、多方面で信頼関係を深めています。

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平成24(2012)年1月17日、流山市の市制45周年の節目に、姉妹都市の盟約を結びました。能登町は、平成17(2005)年、能都町・柳田村・内浦町が合併して誕生しました。
 
石川県の北部、日本海に突き出した能登半島に位置し、朝市で有名な輪島市に隣接しています。町の東~南側は富山湾に面し、その海岸線の大半は能登半島国定公園に含まれます。九十九(つくも)湾などの景勝地を有する海岸と、陸地の約8割を占める丘陵地で構成される町域は、緑豊かな「里山・里海」の風景を今に残しています。

古くから漁業や商業で栄え、新鮮で多様な海の幸や、揚げ浜という伝統製法で作られる天然塩などが特産となっています。平成15(2003)年7月に能登空港が開港したことから、首都圏から約1時間でのアクセスが可能になり、観光や活性化の追い風となっています。

【町制施行】 平成17(2005)年※合併
【 人  口 】 19,776人(平成25年12月1日現在)
【 面  積 】 273.46平方キロメートル

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里山里海の風土
平成23(2011)年6月には、「能登の里山里海」(能登町を含む4市4町)が、国連食糧農業機関(FAO)が定める「世界農業遺産」に認定されました。景観や伝統的な農林漁法、文化・祭礼などが評価されたもので、能登町では、農家民宿の集落でもある「春蘭の里」の豊かな里山景観などが該当しています。

祭りの王国
古から受け継がれた祭りが年間を通じてさかんに開催される能登半島。特に夏は祭りのシーズン、能登の祭りの主役はキリコと呼ばれる大きな奉燈です。能登町の「あばれ祭」は毎年7月、2日間にわたって繰り広げられ、高さ7メートルのキリコ40本以上が大松明の火の粉の中を乱舞する迫力を楽しめます。その昔、悪病が蔓延したときに盛大な祭礼をしたところ、神霊が病人たちを救ったのが始まりと伝えられていて、2基の神輿を海や川に投げ込むなど個性的な神事が、今も連綿と受け継がれています。

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毎年8月26日、27日、吉田の火祭り

冨士浅間神社と諏訪神社の両社の秋祭り
毎年8月26日、27日に行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」と呼ばれ、北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社の秋祭りです。

26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸。暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは深夜まで賑わう。

27日午後、二基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御する。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に達する。27日を「すすき祭り」とも称する。

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吉田の火祭
山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる祭りである。日本三奇祭のひとつ。北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)である諏訪神社の両社による例大祭で、毎年8月26日の「鎮火祭」と、翌8月27日の「すすき祭り」の2日間にわたって行われる。

火祭りの名の通り、上吉田地区の金鳥居(かなどりい)から北口本宮冨士浅間神社にかけた約1キロにおよぶ本町通りの沿道では、高さ約3メートルの大松明70本から80本余りが燃やされ、各家ごと作られる井桁状に組まれた多数の松明も燃やされる。夕暮れ時、大松明に次々に火が点されると、吉田口登山道に沿った富士山の山小屋でも一斉に松明が焚かれる。麓の町と山は一体となって火祭りを繰り広げ、上吉田の町は火の海と化し深夜まで賑わう。

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吉田の火祭は、北口本宮冨士浅間神社、諏訪神社、両社の例大祭としてばかりではない。祭事の背景には富士講や御師といった富士山への民間信仰や、富士五湖地域の風俗習慣、今日もなお神仏習合の姿が見られるなど民俗学的要素も多分に含まれている。

2000年(平成12年)12月25日には、国によって記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択され、2012年(平成24年)3月8日には、山梨県内では3件目となる国の重要無形民俗文化財に指定された。文化庁による指定種別は、風俗習慣である。

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夏山の富士山登拝の山仕舞いを意味する祭りで、講社でも火祭りまでに登拝を済ませている。木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の故事に由来する祭りである、と一般には言われている。かつては旧暦7月21日に行われていたが、明治期に新暦8月21日から22日に改められ、大正初期に現在の8月26日・27日の両日に改められた。

祭りの運営は、古くより北口本宮冨士浅間神社祭典世話係(世話人)と呼ばれる年毎に選出された氏子代表14名の男性と、御師家、富士講社らの信徒組織を主体として、現在では地元商店や民間企業らも参加している。大松明(結松明)は高さ3メートル強、赤松などの薪を経木で囲み荒縄で締めて筒状にしたものである。

世話人は松明の奉納者を募集して寄付金を集め、依頼を受けた職人が7月下旬頃から製作する。大松明は上吉田の本町通りに70本から80本ほど掲げられ、沿道の家々でも門前に井桁松明を立てる。明治期には「富士山北口全図鎮火大祭」など浮世絵にも描かれた。

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御師家では屋敷地や白蛇が下ると言われる川沿いの草刈りなど清掃作業を行う。その年に不幸のあった者は「ブクがかかる」と言われ、不浄であるとされて祭りには参加しない。ブクのかかった家では「手間粉」と呼ばれる小麦粉や蕎麦粉などの贈答物を贈る「手間見舞い」が行われ、火祭りの際には親戚宅などへ宿泊するか(手間に出る)、または手間着を着て自宅での謹慎を行う。

祭りは2日間にわたり行われる。26日の夕刻から夜半にかけて松明を焚く行事である鎮火祭が一般に「吉田の火祭り」と呼ばれるが、鎮火祭はいわゆる宵宮であり、本祭は翌27日の「すすき祭り」である。なお、火を使用する祭りであるが雨天や台風であっても延期や中止にはならず、必ず8月26日・27日の両日に催行され、松明の火を火元とする延焼などの火災は一度も起きていないという。

鎮火大祭
明治時代の「吉田の火祭り」の情景を描いた浮世絵。右上に富士の峰、その麓に北口本宮富士浅間神社、下には金鳥居から神社の大鳥居に至るまでの参道に、大松明が灯され、神輿の行列が進む様子が描かれている。

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御師のマチ上吉田
吉田の火祭が行われる富士吉田市は、富士山北麓の山梨県東南部に位置しており、富士山山頂を含む広大な市域を持つが、富士吉田の町そのものは北口本宮浅間神社の北側に広がる一帯である。このうち火祭の行われる上吉田は単に「吉田」、江戸時代には「吉田町」とも呼ばれた。

現在では市街化が進み範囲が明確ではないものの、上吉田地区の中世以来の町並みは、国道139号線(火祭の行われる本町通り)を主軸とした、南北1,000メートル、東西約700メートルの範囲である。

富士吉田市街地は標高約650メートルから900メートルにかけて広がり、このうち上吉田地区は標高800メートル以上の地域にある。この標高のために気候は非常に冷涼であり稲作には適さず、加えて富士山の熔岩流末端に位置した土壌は小石混じりで地力がなく、農業に関しては、近代に入り圃場整備が行われるまで水田はほとんどなく、大豆などの畑が僅かに点在する地域であった。

農業に適さないこの地に人々が居住し町が形成されたのは、富士山に登拝する人々に対して、自坊を提供し、信仰の仲立ちを行った富士御師や、複数の神職、それをとりまく人々たちが集住したことによる。

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ここ上吉田で言う「御師の仕事」とは、富士山へ登拝するドウシャ(道者)にヤド(宿坊)と食事を提供し、登山の案内全般の便宜を図ることや、檀家廻りをして神札を配り、祈祷や祓いをすることであった。

特にナツヤマ(夏山)と呼ぶ7月1日(山開き)から8月26日(山仕舞い)までの2か月間には、御師の家には大勢のコウシャ(富士講社)を宿泊させ、年間の収入の大半をこの2か月間に得ていた。御師以外の職業としては、山小屋、支度所(登山に必要な装備を整える場所)、出店、強力など、いずれも富士山登拝に関わる職業が主体である。このような特殊な風土と産業によって上吉田の町は発展し人々の営みが継続されてきた。

南を見上げると大きな富士山を頭上に仰ぐ上吉田の人々にとって、富士山が方位感の基準である。上吉田では富士山に向かって南方向に向かうことをノボル(上る)、反対に標高の低い北方向に向かうことをクダル(下る)と独自に表現し、地区内で使用される地図の方位も富士山のある南側を上に表現する。

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火祭の伝承と変遷
吉田の火祭の起源は、一般的には木花開耶姫命の神話になぞらえられているが、その起源を記した文献が存在しないため実際には不明である。この節では主に、残された古文書などの文献から判明している火祭の歴史について説明する。

浅間明神と諏訪明神社
現在の吉田の火祭は、木花開耶姫命を祭神とする浅間明神(北口本宮冨士浅間神社)と、建御名方神を祭神とする諏訪明神社(諏訪神社)の、両社の祭典として、浅間社宮司が主宰して執行されている。

だが元々は諏訪明神(諏訪神社)の旧暦7月23日の祭典であった。諏訪明神は『甲斐国志』(巻之七一)によれば、神主である上吉田中宿の佐藤家の氏神であったものが、後に上吉田の町の産土神となったものであり、1494年(明応3年)の『勝山記』にもその名が見られる。

一方の浅間明神(現、北口本宮浅間神社)は、現在地からやや西の大塚に設けられていた富士山遥拝所を、1480年(文明12年)ごろ諏訪明神境内に鳥居を立ち、同地に移された。その後永禄4年武田信玄造営と伝わる社殿が造られ、富士山2合目の御室浅間(現:富士御室浅間神社)を勧請して神社になったものと推定されている。

このような関係であったため、天文年間や永禄年間の小山田信有の神事や軍功祈願状などの文書は諏訪明神宛に発給されており、当初は諏訪明神が富士信仰の北口拠点の中心的役割を担っていたものと考えられている。

諏訪神社
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吉田の火祭は、起源こそ明らかではないものの、祭礼そのものを記した文献は1572年(元亀3年)の古吉田から上吉田への移転の際の屋敷割帳に、御旅所となる大玉屋(御師)の所に御幸道の記載がある。つまりその頃すでに、神輿による巡幸があったということが確認できる。また、松明を燃やす篝火については、1729年(享保14年)の篝火伐採訴訟の文書の中に、祭典で火を焚くことが恒例である旨の記述が確認できる。

今日では8月26、27両日に行われる吉田の火祭の例大祭日は、過去にいくつかの変遷があった。文献に残された記録を年代順に追ってみていくと、まず、1780年(安永9年)7月に富士登山を行った高山彦九郎は『富士山紀行』の中で7月21日の火祭に言及している。また、賀茂季鷹(京都上賀茂社家の歌人)は富士登山に訪れた際に火祭を見たが、その日時は1790年(寛政2年)7月21、22日の両日であったと『富士日記』に記している。

1814年(文化11年)の『甲斐国志』の記述では、上吉田村の諏訪明神の例祭は、7月22日で「其夜此屋皆篝松を焼く」とあり、同時期に書かれた『菊田日記』(御師により書かれた記録)によれば、1804年(享和4年)から1834年(天保5年)までの火祭は7月21、22日に行われている。さらに、西念寺に伝わる1853年(嘉永6年)の『富士道場日記』でも同様の日時であり、元来の火祭の祭日は陰暦(旧暦)の7月21、22日であったことは間違いがない。

吉田の火祭は浅間、諏訪両社の例祭であるばかりでなく、その背景には富士山信仰に関連した富士講社や御師の関わりや、富士北麓地域の民俗風習などが色濃く残されている。

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