でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2016年07月


平成28年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その6
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安全協会の方々

神輿渡御は色々な組織の方々によって支えられている
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四ツ葉会は疲れ気味
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人の繋がりは金に変えれぬ財産
どんな人生を、どこで、誰と、どのように送るのか。どんなビジネスでも、人と人との繋がり、信頼関係は最も重要なことです。地方は自然や食よりも、“人”が素晴らしいということ。今まで気が付かなかった、“生きがい”のようなものがここで見つけることができるかもしれません。 地域社会はいろんなものが核になって生まれてきた。

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自然に囲まれた農山村は、森や川などの自然が核となり、そこから田畑や道、水路がつくられ、自然への畏敬から祭りが生まれてきた。それは先祖から受け継いできた財産であり、それを大切に思い、一緒に利用してきた人々のつながりが、社会を維持してきた。しかしながら、生活や生業の変化、過疎化が進む中で、この財産を失い、何が核なのか分からない、ノッペラボウ社会も広がっている。

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今の日本で豊かな人の暮らしを求めていくためには、先祖からの思いを受け継ぎつつ、自分の人生をその地域に重ね合わせていこうとする人たちの、過去と未来という時間的な 縦のつながりと、趣味や興味関心などを出発点にしつつ、地域を越えた横のつながりの両方を活かすことが重要なのかもしれない。

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自然という言葉も植物だけに使うものではないのかもしれない、俺が生まれて見てきた社会の自然とは地域とのつながり、店では近所のバーサン連中がお茶飲みながら噂話をしていた。親父は消防分団の仲間とアホな話で酒飲んで盛り上がっている、祭りがあれば神輿を担ぎ、秋にはしめ縄を作る。これは変わらない田舎町の環境も自然と言えるものだし、変えることのできない歴史だということ。

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神輿と教会

日本キリスト教団流山教会
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ここは西島さんの家の近くだね

柿もぎ取りの斎藤農園のあったあたり
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ここはコモディイイダの前だね
株式会社コモディイイダは、東京都北区滝野川七丁目に本部を置き、関東地方で食品スーパーマーケットを展開している日本の企業。旧社名は、株式会社飯田百貨店。CGCグループ加盟。生鮮食品を中心に取り扱うスーパーマーケットを東京都、埼玉県、千葉県、茨城県に展開している。売上構成比は衣料・日用雑貨が1割弱で、ほとんどが食料品である。創業は、1919年(大正8年)に飯田信介が東京市本郷区駒込神明町(現:東京都文京区本駒込)にて始めた青果の行商である。

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その後、飯田青果店、合資会社飯田百貨店を経て、現在の株式会社は1948年1月に設立。借入金無しの無借金経営で堅調に業績を伸ばし、店舗を増やしてきた。1997年に社名と店舗名を現在のコモディイイダに変更して現在に至る。飯田百貨店時代には、秋葉原にあった家電量販店のアジア無線がいくつかの店舗にテナント入居していた。

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あれ、そういや何年か前までは

どこかのマンションに入っていかなかったっけ



日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教があります。"神の道"と書く「神道」は、仏教が日本に入るよりはるか以前から日本に存在していた、日本人固有の民族宗教です。「神道」は「しんどう」ではなく、「しんとう」と読みます。神道は、神社や祭などを通して、昔から日本人の心に連綿と生き続けてきました。

神道は、特定の教義よりも様々のしきたりや形式によって伝えられてきた宗教です、しかし、きわめてはっきりした幾つかの特徴を持っています。それらの特徴をよく調べてみると、旧約聖書に記された古代イスラエル宗教との間に、明確な類似点を幾つも見いだすことができます。日本人の多くは、昔から元旦になると神社にお参りするでしょう。また、祈り事があると神社に参り、結婚式は神道式で行なうことが多いでしょう。赤ちゃんが生まれると、神社参りをします。




みなさんは、神道の神であるアマテラスオオミカミの偶像が、神社の中に立っている姿を見たことがあるでしょうか。オオクニヌシノカミの偶像を、見たことがあるでしょうか。想像もできないはずです。絵くらいは見たことがあるかも知れませんが、人々が拝む対象としての彫り刻んだ彫像、神々の形をした偶像は、神道の場合は作られなかったのです。

じつは、神道というものは、厳密な意味では「偶像礼拝」という言葉が当てはまりません。西洋の宗教と神道とは全く異なる価値観なのです。神社の本殿の中には、たとえば鏡が置かれています。では、その鏡が神様と考えられているかというと、そうではありません。それは単に、そこが神聖な場所であることを示すためのものに過ぎません。そこに降臨し臨在される、目に見えない神様を拝んでいるのです。神様は目に見えないおかた、とされているのです。

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やはりここでは小島さん

小島さんの存在はとても大きい
流山本町の宿という地区は婿が多い地区である。その中で一番といってもいいぐらいに年上でありながら、この土地で育った長男よりも流山の人間として振る舞い、周囲の各方面から認められている。これは後から婿入りした方々に大きな希望と、余りにも大きい存在となっている。

これは氏子の若衆、神輿会でもこの例に漏れず、俺は今まで婿のことは触れてはいけない事として教育されてきた。今では結婚というものも多様化し、変化していっているが、親の世話という現実を考えるならば、女の子としてみれば同居という選択肢も可能性は大きくある。そういった目線で考えるとなると、旦那がコミニティに求めるものは大きい。

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婿入りした身、だからって祭礼時の仕事や当番に出てこない、っていう人もいたけど、かなり年が行ってから「やってみたら楽しかった」って言って毎年出ている人もいる。(この人は屋号もついている商店で、本業の問題で閉店するまで仕事だけの人間だったそうだ、豆腐屋の朝は早い)

そうじゃなくてさ、何が理由で流山に住むのかは色々理由はあるけど、どうにか地元の人達と仲良くなっていこうってのが祭りじゃない。地元の人間は新たな住民を歓迎し、俺なんかは流山に婿入りした人達なんかを見て育つ。色々な方々から多大な影響を受けて将来の後継者になっていく。

ウチの親父は気を抜いてるけど
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神田さんを中心に
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日差しがだいぶ強くなったな

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平成28年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その5
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根郷の方々は集合するより



自然体で



現在は神輿会になっているが



氏子や檀家って最も日本的な関係と言える
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梅干とレモン美味しかったよ
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ここらへんは高い場所があるから
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ポジション取りに苦労しない
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ここは南部中学校
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俺の世代(ここでは20代から40代までという意味)の学校の同級生あたりは代々住んでいる人なんか全然いない。生まれ育った故郷という思い入れもないんだろう。ただ単に親が家を買ったから一緒に付いてきただけの人達が多い。変わっていく街ということの定義、流山の街の見え方、イマドキはマンションにしか住んだことがなく10年も同じところに住まない人も多い。

価値がある場所には高い値段が付けられ、駅からの距離だけで価値が大きく変わる。そんな時代の中で流山本町に生まれているからこそ、このブログはじめようとしたし、だからこそ価値があるんだろう。先祖代々培われた人間関係を正当かつ当然に受け継げる世襲というものへ感謝しないといけない。

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日本の歴史を語る上で上の世代がやってきたことから新しい世代へ変えることが好きな世代がいる。なんてことはない、それが時代的な流行りだったのだ。そしてその変化を実績にして生きている人達もいる。

個人の主義や主張が尊重されていた時代もあったが、今現在においては時代は徐々に伝統的なものを大事にし、地域とのつながりを大事にしようという方向にきている。ひねくれものはいつの時代も住みにくいのよね。

民主主義において新しく変えようとしている人達がいれば守っていこうという人も当然必要だろう。まぁ新しく増えた人達と違った教育されているのは学生時代からイヤってほど感じていたし、それはそれでいいんだと思う。




流行りという言葉も流山の歴史を語る上で大きな意味を持っている、100年前の大正時代には江戸川を使った船舶流通なんて時代遅れ、時代の流行りは鉄道路線を日本中に行き渡らせ、蒸気機関車で物を運ぶ時代となっていった。もちろん皆さんが知っている通り流山本町には常磐線が通っていない。

(市内には一部通っているところがあるが駅はない)流山は開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです。だからこそ流山は開発されずに現在の形をとどめ、家同士の付き合いは世襲という一番安全で確実な方法で維持されている。




つくばエクスプレスを利用してのベッドタウンとしての人口増加期とならば、子育て世代急増ということなんだがこれからも増え続ける私立中学への受験という世帯も多くなっていくもの。でも私立中学への受験に失敗して公立の中学へ進学してくるのも迷惑という気持ちもある。何も考えずに当たり前のように南部中に通っていると、変なコンプレックスを持っている人が事件を起こしたりする。

家庭内のことなんて個人で処理してくれよ、周りの人達を巻き込むなよ、果ては事件後さっさと引っ越してしまえば自分達は終わりかもしれないが、ずっと住んでいる方からしてみればスッキリ消えるはずもなく、俺の同級生あたりにはまだまだ勘違いしている人が多くいる。

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若宮団地に入っていきます



ここの休憩は毎年オロナミンCが出る

元気ハツラツ、オロナミンC
製造は大塚化学だが、大塚化学はオロナミンCの統括会社であり、実際の製品は大塚食品徳島工場・釧路工場、大塚製薬工場鳴門工場で製造されている。1965年2月に販売が開始された。ガラス製の瓶入りで当時は王冠型のキャップが使用され、内容量は120ミリリットルであった。発売当初に、炭酸を含んでいるという理由により、当時の厚生省に医薬品としては認められないと判断された。法律の定めにより、本商品は健康の保持や増進に関わる効能や効果を表示したり、広告することはできない。

初代テレビCM出演者は大村崑。「うれしいとめがねが落ちるんですよ!」というセリフが使われた。1970年の日本万国博覧会開催時には、上空で気球に乗った大村が「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と言うCMがあり、万博会場にある180店の全売店の内105店で販売した。大村は発売当初から約10年間CMに出演した。昭和40年代にはテレビCMのほか、大塚グループの他の製品と同様、ホーロー看板を各地に設置する広告手法も併用された。

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平成28年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その4
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神輿渡御の再開



ここは消防七分団だね
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ここも撮っておかないと
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ここもね
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こちら側も大事



ここまでが諏訪道
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ここからは旧道諏訪道から外れ



区画造成された道なんだけど
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光照寺に向かう旧道なんじゃないのかな



そして四ツ葉を撮ろうとしても

誰も気付いてくれないっていうね
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この背景の所は20年前は空き地だった
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平成一桁の時代に育ってきた俺は加台が山だった記憶もないどころか、今の造成された道路しか知らない。その記憶の中の20年間だけでも空き地はなくなり新築の家が増えている。立て替えている家もあるのは加台の造成期に早い段階で移り住んだ人だとしたら色々な想像もしやすい。ローンが終わり、娘世帯と同居。もしくはつくばエクスプレスが開通して土地の値段が上がり、新築住宅として立て替えて再販売されてもおかしくない。




ここは同級生の家



公園のところで休憩

当番の奥様方、ありがとうございました
今の70歳以上の年齢の方は流山の嫁をめとって流山に住んだりするとヨソ者扱いされたみたいだけど、今の時代には、おエライサンの息子でツラが売れているってのが一番重要だろう。後は各地と連携できるようになるとイイのかもね、でもまぁ新住民でもみんなが集まった時に話のネタができるのは活性化として大きいこと。

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平成28年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その3
加村河岸から加村大坂を上るとここに出てくる。古い諏訪道は学童保育所のところで右の道をたどり、南流山電話局の敷地を横切ったら、現在信号のある交差点を斜めに入っていく、するとやがて旧道の面影を残したかなりの勾配の地蔵坂。

噂では明治時代、この周辺に寺があり、その境内に地蔵様を祀った小さなお堂があったという。ある日そこの留守番が地蔵様を東京の人に六十円で売ってしまい、芸者遊びをしてスッテンテン。そんなことを繰り返して、やがてはお寺も無くなってしまったという。

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江戸時代、河岸のあった流山は栄華を極める、広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。江戸幕府による利根川東遷事業により江戸川が整備され、物流の拠点となる。諏訪道とは流山広小路から布施弁天までの道をいいます。

利根川の布施河岸と江戸川の加村河岸を結ぶ陸路は、我孫子の布佐河岸から松戸の小向河岸の鮮魚(なま)街道とともに、江戸時代からの重要な物資(主に鮮魚)の輸送路で大江戸の台所を潤しました。これらのルートを通った鮮魚は、銚子を夕刻に出発したものが、翌日の夕刻から夜には日本橋に到着したという。




鬼怒川や小貝川上流から運ばれてきた穀物、さらに利根川の沼地で捕れたうなぎや鮭などは、布施河岸で荷馬に乗せて 15Km の陸路を4時間ほどかけて流山の加村河岸に運び、再び高瀬舟に積替えて江戸へ送りました。

この街道は諏訪神社への参詣者が往来する、信仰の道でもあったため諏訪道と呼ばれました。東葛地方で広く信仰をあつめ、江戸からも大勢の崇敬者が来るようになりました。(新選組が流山に来た流山道も、本来は諏訪神社への参詣のための道、諏訪道とも呼ばれていたようだ)

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矢河原(やっから)の渡しがあった加村から加村大坂を登り、流山人形供養発祥の地である本行寺、幕末の浪士須藤力五郎が眠る光照寺、を通ります。柏市高田の水切り場跡、利根川と江戸川の中間地点である高田の水切り場は、荷を運ぶ馬を休憩させ、鰻は生きたまま運ばなくてはならないため、生け簀に籠ごと放して水に戻すことにより、生気を蘇らせる重要な役割をしていました。

布施~加村河岸間だけでなく布施~納屋河岸間、江戸川畔の三ツ堀~野田河岸間、船戸~野田船戸などの陸路も開かれたがやはりその中心は布施~加村河岸間の陸路であった。この道は人馬の往来がとみに盛んになり、馬持ちの農家が駄賃稼ぎができてたいへん潤った。




流山に米や雑穀や乾物などの物資がどんどん集荷されれば米蔵も出来るし、商人や船頭、旅人相手の商売も出来るという事で流山はかなり賑わった。その上、味醂や酒、味噌や醤油などの醸造業も盛んで江戸川から江戸に相当量出荷されている。この道が開かれたのはおそらく十八世紀の初めぐらいだろう。

柏市布施の後藤酉子家に布施~流山間の奥州荷物の駄賃稼ぎについて村方役人に提出した文書があり、その日付が享保五年(1720)になっている。またその陸路に沿って並ぶ道祖神や青面金剛、地蔵尊、十二夜塔などの石像に刻んだ日付をくまなく見ていくと、享保十五年(1730)とか寛保三年(1743)といったものがかなり多く、里人の信仰の証を通じて人馬の往来も多かったことも、うかがい知れるのである。

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新道は軍事的要請
地蔵坂と並行して走る県道は昭和十年代に完成したという。完成といってもほぼ直線状の広い砂利道と赤土道である。当時はブルドーザーもパワーシャベルもない時代だから、すべて手掘りのシャベルとリヤカーとトロッコ。近所の女性や若者たちもみんな総動員され、熱気がこもっていた。

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「その少し前に柏の十余二に陸軍の飛行場が出来たんで、おそらくその軍事的要請から作られたんでしょうね、初石から花野井に行く広い道も、豊四季から飛行場に行く道もみんなその頃改修されたんですから。戦後は、自動車もあまりない時代で、もっぱら柏の常南通運(日通系列)のトラックが万上の味醂やら東邦の酒類を運んでたんで、近所の人たちは常南道路と呼んでいたんです」と、文が残っている。そして流山広小路と諏訪神社を結ぶ新県道が完全に舗装されたのは昭和四十八年であった。

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祭礼に出てくることが大事

神輿の後ろでついてくだけでいいんだ
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江戸川沿いの地区(加岸)と、台地上の地区(加台、現在の平和台地区も含む)に分かれる。加岸は河岸として栄え、隣接の根郷とその南に続く宿(現在はいずれも流山市流山)とともに、古くからの流山の市街地(流山本町)を形成している。

地域内には1965年(昭和40年)~1975年(昭和50年)にかけて組合施行によって区画整理された地域、1983年(昭和58年)~1997年(平成9年)にかけて東急不動産によって区画整理された地域「流山美しが丘」があり、全域が住宅街となっている。一丁目に市立流山北小学校、流山市文化開館、流山市立博物館、三丁目に市立南部中学校、三丁目に千葉興業銀行南流山支店加台出張所、四丁目に流山加台郵便局がある。

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そしてこの道を渡ると自治会も変わる
今ではこの県道が平和台と加の自治体の境目だ。俺の小学生の時代には平和台五丁目は流山北小の学区だったのだが、今現在、平和台五丁目は流山小学校の学区、学区の境目にもなっている。




四ツ葉を撮れって言われちゃう
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休憩所に入ってきます
おにぎりや漬物、飲み物などを奥様方が用意をしてくれている。子供用にスイカもしっかり、神輿渡御は色々な人達の活動によって支えられている。流山の五つの神輿会友好団体はもちろんのこと、地区の町会、当番の奥様方の用意、色々な人が関わって構成されている。

何かと大変だが、大きな一つの神輿渡御を成功させるため、皆団結して自分の仕事を行ってくれて、これにより裏方として参加していても各方面と関係が深まる。今年は神輿を担ぐ方の方も当番で用意をしてくれていた。「後で合流します」って言ってた。

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ここの公園も親父の学生時代にはない
この周辺の開発は昭和50年代になってから。親父の中学生高校生の学生時代は昭和40年代後半までまだまだ山が広がっていた。ということは現在の流山北小学校周辺の開発具合も分かるというもの。この後、俺が生まれる昭和50年代に区画分譲、子育て世代が移り住むことになった。

当然のことながら代々の地元出身者と、この時期移り住んできた人々、さらに時代は進んでバブル世代の生活文化の違いに合わせたりする必要があり、苦労して生きていくことになった。でもその違いを感じたからこそこのブログを始めるきっかけの一つになっている。

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平成28年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その2



神社の場所としてみれば加台大宮神社なのだが正確には大杉神社の祭礼であり、大杉神社の神輿渡御。しかし地元の人達の立場から言わせてもらうと、加台大宮神社祭礼という表現の方が区別できて分かりやすいので俺はこの形で言う。この周辺で赤城保存会の玉ノ井会長が指導している加台お囃子会の山車が待っている。坂があるので車になる。そしてここは子供会がお囃子に参加している。写真は撮さない方が良さそうだ。




お神輿(みこし)は神霊の乗り物?
「ワッショイワッショイ」とはっぴを着て威勢よく担ぐお神輿。お祭りのメインで登場することも多いお神興は、神霊を御旅所などへ渡御するときに、一時的に鎮まるとされる乗り物です。そのため小さな神殿の形をしています。

山車は神の降りる小さな山のこと
山車は地方によつて、曳山、山鉾、御車、だんじり、山笠、屋台、山などさまざまな呼び名があります。古来より山や岩、本などは神の降りる依り代という考えがあり、祭礼のときに神の依り代となる小さな山としてつくられました。

祭りの衣装の法被の歴史
「法被(はっぴととも呼ばれますが、江戸時代には別のものを指しました。「法被」は羽織が変化したもので袖が長め、「半纏」は法被の技術を商人用に応用したもので、作業しやすいように袖が短く作られました。背中に屋号を染め抜いた印半纏は、商人や火消しのユニフォームだったのです。




神輿団体
加台大宮神社祭礼と宿赤城神社の祭礼は流山の神輿団体だけで担ぐ。市外の神輿団体とは書いたがこれはかつての流山町の氏子衆、地元友好団体5団体の以外の事である。夏の暑い中、根郷浅間神社や加岸大杉神社よりも人数が少なくなるということは一人一人の負担が増えるということ。しかも坂がある。坂の上り下りのルートなのだ。

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俺にしか撮れない写真がある
まぁサッカーの番組からのパクリのキャッチコピーだが、相変わらず個人のプライバシーなんてガンガン無視という方向でやっていきます。神聖な神社の神事ということで、野暮な事は言いなさんな、ってよ。神社の祭礼の大切さがあまり注目されない現在だからこそ、参加している人と興味がない人とが大きく離れていっているんです。日本の祭について英語で紹介する場合「フェスティバル」・「リチュアル」・「セレモニー」が、それぞれ内容に応じて訳語として用いられる。




イキに行きたいもんだ
粋(イキ)とは、広辞苑によれば「気持ちや身なりのさっぱりとあかぬけいていて、しかも色気をもっていること」とあるが、もともとは文化文政期に深川の遊里を中心に発達し、江戸の一般庶民の間に広まった美意識であるので、現在つかわれている意味合いは広辞苑のそれよりはもっと広いかもしれない。

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小歌などでは粋(イキ)に唄うことが肝要で、節回しに気をつけなければならない点がある。私たちは、野暮ったくなく、粋(イキ)に生きなければならない。身ぶりや服装等の、身体を通しての粋(イキ)の自然的表現、模様や建築や音楽等に見られる粋(イキ)の芸術的表現もあり、粋(イキ)はまさに日本人の民族精神を代表する美意識である。

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今年は涼しかったから、俺も動き回らねば
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そして神田さんだ



素直に前方からも
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さて、ここから坂を上る
流山も戦後、ベッドタウンとして街形態を郊外型住宅地として開発する。そこで山を崩し、ここから旧道諏訪道までの平和台五丁目の地区が平和台で一番早く昭和40年代初頭、区画造成された。この当時段々に造成された山なんて子供達の最高の遊び場で上の段と下の段に分かれて泥団子を投げ合い、戦争ごっこがどこでも行われたそうだ。

都内は東京オリンピックが終わっているのだが、流山の子供達にとっては開発にタイムラグがあるのは当たり前、なので同世代と言っても流山出身者と新規住民との色々な心理としての差も開いていく。俺が感じてきた地元出身者と親が家買って付いてきた人間との差も、ウチの親父の世代ですでにあったようだから、いつの時代も変わってないんだね。




神道としての祭礼
祭祀は、神社神道の根幹をなすものである。神社に鎮座する神霊、および神霊が宿る御神体に対し、儀礼が行われている。これが神社神道における祭祀である。神霊をその場に招き、神霊を饗応し、神霊を慰め、人間への加護を願うものである。 さまざまな儀礼・秘儀が伴うこともある。




逆サイドも
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そのまま後ろも



正面から



背が低いので高いところで待機



すると神輿が近寄ってくる
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ここはもう坂を登ったところ



四ツ葉は後方ですね
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今年もここで待機



ここは平和台五丁目
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平和台のこの周辺は戦後の開発の最初に開発が始まった。となれば造成されてもう40年以上、この周辺には立派な家が建っていたのだがつくばエクスプレス、セントラルパーク駅前として土地の値段も変わってきて再開発の時期とも言える。ウチの近くの馬場が南流山通勤圏内として続々と家が新築されているのと同じようにつくばエクスプレス効果がはっきりと土地の値段に掛かってくる地区となっている。

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