平成28年、加岸大杉神社祭礼
神輿渡御その3
総本社は茨城県稲敷市阿波にある大杉大社である。通称あんばさま。旧社格は郷社で、第二次大戦後、別表神社となった。関東、東北地方に分布する大杉神社の総本社である。祭神は倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)および大己貴命、少彦名命である。
「大杉」の社名は、境内の大杉を神体としていることによる。創建は767年(神護景雲元年)と伝えられる。1241年(仁治2年)に京都の今宮神社から大己貴命、少彦名命を勧請し合祀した。江戸時代以降、疱瘡除けや水上交通の神として、関東一円と東北の太平洋側に信仰が広がった。
この「あんば様」とは、常陸国風土記に「安婆嶋」として残っているから、往古は「常総内海」に突き出た小高い半島だったと思われる。関東平野には現在でも「霞ヶ浦」が有って「帆引き船」で有名で有る。霞が浦とは現在でも相当に広いが、常陸国風土記(和同6年に編纂の勅命が有った)が書かれた時代は、小さなの川とか湖沼が見れる内海だったと思われる。後には陸地の隆起とか退潮によって、現在の様な田園地帯が現出するのです。
要するに常陸国風土記から、この霞ヶ浦を中心とした内海一帯(利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川とか小貝川下流域等)で有った。「あんばさま」は海河信仰、水上安全の神でもあったため、利根川、江戸川、利根運河を通る高瀬舟、水運とは深い繋がりがあり、河岸を中心とした船仲間や同業者は「大杉講」を組んで毎年正月には安全と豊漁を祈願した。
当然としてそこに派生する産業は、農業や牧畜や漁労以外には水上交通路としての繁栄が有った。それを示すのが江戸時代になると利根川筋を利用した水運で有った様です。この水運従事者達の守護神が「あんば様」で有ったのです。現在では「夢むすび大明神」としての役割を担っている様で、ご覧の様な立派な社殿が建っている。
なお「あんば様」は船乗り達によって、例えば、北前船によって北海道や東北地方まで広く伝承された様です。千石船が遭難した時に「天狗に助けられる絵馬」等見られるが、それは「あんば様」と「常陸坊海存」との関係が有るのだと言う。
あんばさまはもともとは水上交通の標識となっていた霞ヶ浦に面した阿波の巨大杉のことであったが、現在ではその巨大杉を祀る大杉神社(あんばさま総本宮/茨城県稲敷市阿波958)を指している。
平安時代まで、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等は1つにつながった内海「香取海」であり、舟で容易に往来できたこともあり、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等の水辺に面した地域で広く信仰されて来た。柏市内でも多くの神社に合祀されていることが多いが、そのまつり(祭礼)が定例的に行われているのは手賀地区だけである。
徳川中後期にかけて江戸は既に世界一の人口を擁する百万都市であり消費物資の物流路は唯一舟運に頼っており、この大動脈が銚子から利根川、関宿から江戸川へ、小名木川、隅田川経由で、東北や関東各地の米穀、木材、魚介物その他産品が大量に供給され江戸の生活が成立しておりました。
ですが、舟運には利根川筋に難点が在ります。江戸川流頭の分流点関宿から鬼怒川合流点付近の部分に冬季渇水や土砂堆積でしばしば航行不能になり木下河岸から陸路行徳河岸へ、布佐から松戸、布施から流山など3ルートを馬の背に頼り、更に江戸川で船に積み替えていたのです。
なお鮮魚など急送産品は時間短縮の為に常時、木下街道などの鮮魚(なま)街道を経由したとも聞きます。銚子から江戸への水運は高瀬舟で関宿経由10~15日を要したので急ぎの貨客は利根川べりの木下(きおろし、印西市)、布施、船戸(柏)瀬戸(野田)等で一旦陸揚げされ陸路江戸川べりの行徳(木下街道経由)、松戸、流山などで再び船積み、江戸川を下って中川船番所・小名木川を経て江戸に運ばれた。その頃の流山は江戸川べり随一の河岸として栄えた。
明治維新をむかえ、世は文明開花の時代となった。政府は西欧化に傾倒し、追いつけ追い越せと、殖産興業をうながす政策を次々と打ち出していった。その一環に交通網の整備と交通手段の動力化、すなわち蒸気機関の導入があげられる。より早くより安全に、そしてより正確に、物資の輸送が求められる時代となったのである。
明治五年(一八七二)の鉄道開業は、日本における近代化の象徴的なできごとであった。この年、新橋-横浜間で営業を目的とした鉄道が、本格的に稼働を開始したのである。当時、陸蒸気(おかじょうき)とよばれた蒸気機関車は、衆目を魅了していった。
明治三〇年代ともなると、鉄道網は各地に拡大され、利根川水運にも大きな影響をあたえはじめる。たとえば、江戸川筋では、やや遅れて明治四四年(一九一一)千葉県営軽便鉄道として野田-柏間の鉄道が開通した。それまで高瀬船に積まれていた醤油樽の多くは、貨車に積まれることになったのである。
のち、この鉄道はいく度かの移譲・合併、路線の延長を経て、昭和五年(一九三〇)には大宮-船橋間六二・九キロを全線とする鉄道網となってゆく。昭和一九年(一九四四)三月、当時、総武鉄道株式会社としてあったこの路線は、東武鉄道に合併され、今日にいたっている。
陸蒸気に象徴される先端技術が、河川交通にも応用され、舟運は一時、頂点を極めることとなる。明治四年(一八七一)利根川水系にはじめて蒸気船「利根川丸」が登場、そして、明治一〇年(一八七七)には、外輪蒸気船「通運丸」第一号が就航することになった。
これは、両脇に外輪を持つ船体構造で、高瀬船とはことなり、多少の風雨に影響されることもなく、しかも桁違いのスピードを持っていた。通運丸は当初、東京深川扇橋から江戸川を遡上、思川の生井河岸(小山市)までの就航であったが、その後、利根川筋の銚子、霞ヶ浦の土浦、北浦の鉾田、あるいは東京湾沿岸など、次第に航路を拡大していった。
他方、明治一四年(一八八一)には銚子汽船会社が設立され、翌年より銚子-木下間に「銚子丸」を就航させた。そして、この蒸気船運用の成功により、各地には回漕問屋を母体とする汽船会社が次々と設立され、同業者間の競争が熾烈を極めていったのである。もっとも、蒸気船が加わったことにより、旧来からの高瀬船がすぐに消滅したかというと、そうでもなかった。運賃の安さもあって急ぎの貨物以外の需要はまだまだあったからである。
明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。
大正8年(1919)には深川から浦安に定期船が運航された。土地の人は通船といって親しんだ。通運丸は石川島造船所で造られた外輪式蒸汽船で、明治10年から42隻造られた。きっすいが浅く内陸河川に適していた。利根川の通運丸は、大正8年に当時の運行会社が撤退した後、別地で稼働していたが昭和初期に廃船となった。
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