でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2016年06月


平成28年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その3



総本社は茨城県稲敷市阿波にある大杉大社である。通称あんばさま。旧社格は郷社で、第二次大戦後、別表神社となった。関東、東北地方に分布する大杉神社の総本社である。祭神は倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)および大己貴命、少彦名命である。

「大杉」の社名は、境内の大杉を神体としていることによる。創建は767年(神護景雲元年)と伝えられる。1241年(仁治2年)に京都の今宮神社から大己貴命、少彦名命を勧請し合祀した。江戸時代以降、疱瘡除けや水上交通の神として、関東一円と東北の太平洋側に信仰が広がった。

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この「あんば様」とは、常陸国風土記に「安婆嶋」として残っているから、往古は「常総内海」に突き出た小高い半島だったと思われる。関東平野には現在でも「霞ヶ浦」が有って「帆引き船」で有名で有る。霞が浦とは現在でも相当に広いが、常陸国風土記(和同6年に編纂の勅命が有った)が書かれた時代は、小さなの川とか湖沼が見れる内海だったと思われる。後には陸地の隆起とか退潮によって、現在の様な田園地帯が現出するのです。

要するに常陸国風土記から、この霞ヶ浦を中心とした内海一帯(利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川とか小貝川下流域等)で有った。「あんばさま」は海河信仰、水上安全の神でもあったため、利根川、江戸川、利根運河を通る高瀬舟、水運とは深い繋がりがあり、河岸を中心とした船仲間や同業者は「大杉講」を組んで毎年正月には安全と豊漁を祈願した。

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当然としてそこに派生する産業は、農業や牧畜や漁労以外には水上交通路としての繁栄が有った。それを示すのが江戸時代になると利根川筋を利用した水運で有った様です。この水運従事者達の守護神が「あんば様」で有ったのです。現在では「夢むすび大明神」としての役割を担っている様で、ご覧の様な立派な社殿が建っている。

なお「あんば様」は船乗り達によって、例えば、北前船によって北海道や東北地方まで広く伝承された様です。千石船が遭難した時に「天狗に助けられる絵馬」等見られるが、それは「あんば様」と「常陸坊海存」との関係が有るのだと言う。

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あんばさまはもともとは水上交通の標識となっていた霞ヶ浦に面した阿波の巨大杉のことであったが、現在ではその巨大杉を祀る大杉神社(あんばさま総本宮/茨城県稲敷市阿波958)を指している。

平安時代まで、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等は1つにつながった内海「香取海」であり、舟で容易に往来できたこともあり、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼等の水辺に面した地域で広く信仰されて来た。柏市内でも多くの神社に合祀されていることが多いが、そのまつり(祭礼)が定例的に行われているのは手賀地区だけである。

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徳川中後期にかけて江戸は既に世界一の人口を擁する百万都市であり消費物資の物流路は唯一舟運に頼っており、この大動脈が銚子から利根川、関宿から江戸川へ、小名木川、隅田川経由で、東北や関東各地の米穀、木材、魚介物その他産品が大量に供給され江戸の生活が成立しておりました。

ですが、舟運には利根川筋に難点が在ります。江戸川流頭の分流点関宿から鬼怒川合流点付近の部分に冬季渇水や土砂堆積でしばしば航行不能になり木下河岸から陸路行徳河岸へ、布佐から松戸、布施から流山など3ルートを馬の背に頼り、更に江戸川で船に積み替えていたのです。




なお鮮魚など急送産品は時間短縮の為に常時、木下街道などの鮮魚(なま)街道を経由したとも聞きます。銚子から江戸への水運は高瀬舟で関宿経由10~15日を要したので急ぎの貨客は利根川べりの木下(きおろし、印西市)、布施、船戸(柏)瀬戸(野田)等で一旦陸揚げされ陸路江戸川べりの行徳(木下街道経由)、松戸、流山などで再び船積み、江戸川を下って中川船番所・小名木川を経て江戸に運ばれた。その頃の流山は江戸川べり随一の河岸として栄えた。

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明治維新をむかえ、世は文明開花の時代となった。政府は西欧化に傾倒し、追いつけ追い越せと、殖産興業をうながす政策を次々と打ち出していった。その一環に交通網の整備と交通手段の動力化、すなわち蒸気機関の導入があげられる。より早くより安全に、そしてより正確に、物資の輸送が求められる時代となったのである。

明治五年(一八七二)の鉄道開業は、日本における近代化の象徴的なできごとであった。この年、新橋-横浜間で営業を目的とした鉄道が、本格的に稼働を開始したのである。当時、陸蒸気(おかじょうき)とよばれた蒸気機関車は、衆目を魅了していった。




明治三〇年代ともなると、鉄道網は各地に拡大され、利根川水運にも大きな影響をあたえはじめる。たとえば、江戸川筋では、やや遅れて明治四四年(一九一一)千葉県営軽便鉄道として野田-柏間の鉄道が開通した。それまで高瀬船に積まれていた醤油樽の多くは、貨車に積まれることになったのである。

のち、この鉄道はいく度かの移譲・合併、路線の延長を経て、昭和五年(一九三〇)には大宮-船橋間六二・九キロを全線とする鉄道網となってゆく。昭和一九年(一九四四)三月、当時、総武鉄道株式会社としてあったこの路線は、東武鉄道に合併され、今日にいたっている。




陸蒸気に象徴される先端技術が、河川交通にも応用され、舟運は一時、頂点を極めることとなる。明治四年(一八七一)利根川水系にはじめて蒸気船「利根川丸」が登場、そして、明治一〇年(一八七七)には、外輪蒸気船「通運丸」第一号が就航することになった。

これは、両脇に外輪を持つ船体構造で、高瀬船とはことなり、多少の風雨に影響されることもなく、しかも桁違いのスピードを持っていた。通運丸は当初、東京深川扇橋から江戸川を遡上、思川の生井河岸(小山市)までの就航であったが、その後、利根川筋の銚子、霞ヶ浦の土浦、北浦の鉾田、あるいは東京湾沿岸など、次第に航路を拡大していった。

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他方、明治一四年(一八八一)には銚子汽船会社が設立され、翌年より銚子-木下間に「銚子丸」を就航させた。そして、この蒸気船運用の成功により、各地には回漕問屋を母体とする汽船会社が次々と設立され、同業者間の競争が熾烈を極めていったのである。もっとも、蒸気船が加わったことにより、旧来からの高瀬船がすぐに消滅したかというと、そうでもなかった。運賃の安さもあって急ぎの貨物以外の需要はまだまだあったからである。




明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。

大正8年(1919)には深川から浦安に定期船が運航された。土地の人は通船といって親しんだ。通運丸は石川島造船所で造られた外輪式蒸汽船で、明治10年から42隻造られた。きっすいが浅く内陸河川に適していた。利根川の通運丸は、大正8年に当時の運行会社が撤退した後、別地で稼働していたが昭和初期に廃船となった。

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平成28年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その2



江戸時代の交通は、人は陸の上を、物は水の上を、が大原則でした。関東地方の農村で生産された物資が船で運ばれ、百万都市の江戸を支えていました。江戸で消費される米、味噌、醤油、薪、炭などが、利根川や霞ヶ浦の沿岸から船で運ばれていました。

江戸の人々の生活を支えていたのは関東地方の農村でした。逆に船によって、江戸文化とか、粋(いき)に代表される江戸っ子の流行なども関東地方の農村に広がっていきました。

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古来、利根川は太平洋ではなく、東京湾に注いでおり、江戸はたびたび水害に見舞われていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸を水害から守り、新田開発の推進、舟運の開拓、東北と関東との交通・輸送体系を確立することを目的に、河川改修事業を命じました。

関東の各河川を江戸につながるようにしたのです。現在の道路網整備と同じと考えて下さい。この河川改修事業の最たるものが、利根川東遷(とうせん=東へ移すこと)事業でした。関東郡代(かんとうぐんだい 関東地方の幕府領を支配する代官)伊奈忠次(ただつぐ)・忠治(ただはる)親子により東遷事業が完成すると、1665年、霞ヶ浦・銚子から利根川・関宿・江戸川を経由し、江戸へと至る水運の大動脈が完成。




奥州(東北地方)からきた物資も那珂湊から涸沼に入り、海老沢河岸から陸運を使い、小川や鉾田を通って霞ヶ浦や北浦へ入り、江戸に送られました。(動力のない、風力と手こぎの船では黒潮と親潮がぶつかる海域を乗り切るのはほとんど不可能でした)

霞ヶ浦の土浦・高浜・木原・古渡・麻生、利根川筋の佐原・木下・守谷・境、鬼怒川筋の水海道・石下・宗道・結城、小野川筋では伊佐津など、各河川筋に河岸(かし:川の港町)が開かれ、水運とともに栄えました。また土浦・野田・銚子の醤油、石岡・石下・佐原・神崎の酒、流山の味醂(みりん)、猿島のお茶などの産業も発達しました。




高張提灯について
江戸初期には武家で使われていた照明用具だが、時代が移るにつれて芝居小屋や遊廓でも利用されるようになり、現代では、通夜、葬式の時などに用いられることが多い。卵形をした大きな提灯で、竿の先に高く吊るし、門前に張り出すように掲げたのでこの名称がある。

提灯には、家紋や屋号を入れていた。長い竿を用いて高く吊るし上げた提灯。祭り、あるいは葬儀において用いられる。祭礼においては神輿行列のサイズを皆に教えるための効果があるようだ。神輿の大きさから一歩外に開いた間隔で進む、これによりこのサイズに道を開けてください、って昔はジジババから言われて誰でも知っていたんだそうだ。

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当時の河岸は現在の鉄道の駅と同じです。駅に電車が着くように河岸には高瀬船が着きました。駅の周辺にいろいろなお店があるように、河岸にも河岸問屋(運送業者:荷物の受け渡し、送り状の発送、手数料の徴収、旅人の乗船斡旋などを業務としていました)があったり、食堂・酒場・旅館などが軒を並べていました。

現在の利根川の形になったのは、明治後期より開始された大規模な改修工事によるものです。明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域で足尾鉱毒事件が発生しますが、日清・日露戦争のさなか銅の産出は止められず、江戸川を経由して人口密集地である東京や江戸川河口の行徳の塩田へ被害が拡大することを避けるためにも、銚子河口へ水を流すことが決まったとされています。

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大杉神社(通称あんば様、稲敷市阿波)は航海者の守り神で、後に病除けの神となります(阿波(あば、『風土記』の「安婆」は阿波(あわ)、安房(あわ)にゆかりのありそうな地名です)。「あんば様」は船霊(ふなだま)さまの親神で、「常陸の内海」を往来する人々の安全を護る神として信仰を集めました(平家の横暴を憎んだ神が常陸坊海尊(武蔵坊弁慶とともに源義経の家来として活躍したと言う)をこの神社に遣わしたという伝説があります)。

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大杉神社のホームページには、そびえ立つ大杉が神の依代(よりしろ)となって神社仏閣がつくられたとあり、境内には現在も樹高 40 メートル、樹齢 800 年以上といわれるご神木(次郎杉)が聳えます。あんば信仰は内海地方に留まらず、広く東日本(内海航路に関係する地域で、伊豆下田から太平洋岸を北上し日本海側を南下して酒田付近まで)に及んでいます。

いまの阿波は台地のはずれですが、中世までは岬で、岬の入り江は避難港であったようです。阿波の岬は南に榎浦、東に香取海、北に三叉沖の難所を控え、大杉は遥か沖からも見えたに違いありません。沖を行く舟人は彼方の大杉に航海の無事を祈ったことでしょう。

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地域の祭りとは日本の政治そのもの、花形は神輿なり山車なり、表に出る人達。しかしオレラの行動は丁目ごとの休憩所の用意や時間配分、安全協会や警察署の交通封鎖などなど色々な人達の行動によって成り立っている。クールジャパンの和の精神といったところだ、下の写真は日本の祭りの一つのシーンを切り取ったもの、と言えるだろう。

地域の行事デビューという言葉もあるがベッドタウンに引越し、定年まで働いた団塊世代はこれから第二の人生を送ることになる。このような行事に、これから参加しようとする人達もいれば、高齢のため神輿会を引退していく人もいる。地域社会で、高齢者だけでなく、ある程度若いのがいれば安心する人も多いのでこれから俺が大事な存在となる。

今は神輿を担ぐ現役世代だけれども、将来はウチの親父のように、全体まで見て小さいところをケアする立場になっていくということ。今までウチのジーサンがやっていたことを、親父が引き継ぐように、俺も長い目で見て準備しておこう。また今現在色々な所を細かく見ておくことこそが将来への大きな財産になっていく。

ここは鈴木家、同級生の家
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水上安全の守り神は、江戸時代になると悪疫退散の神として信仰を集めます。『武江年表』(斉藤月岑著、1898年成立)の享保12年(1727年)の項に「6月上旬から本所の香取神社の境内に常陸の国、阿波の大杉大明神が飛び移られたということで、貴人賤民の別なく大勢が集まり、万灯や屋台、山車を出し、綺麗な揃いの着物で参詣したが、ほどなく禁止を命じられた」(意訳)とあるので、あんば様は江戸でも知られた存在だったのでしょう。

享保18年(1733年)に江戸ほか各地で疫病が大流行し、この疫病に「あんばさま」のお札が「霊験あらたか」とされて以来、「大杉講」が組織されて門前町の阿波が賑わいました。『利根川図志』には「参詣者はみな利根川の押砂河岸(神崎大橋の近く)に舟を着け、1里余を徒歩で阿波に向かう」(意訳)とあります。現在の埼玉県、千葉県の各地に大杉神社が分社され、正月に代表が大杉神社に参詣してお札を受け各戸に配るという風習が長く続いたようです。

いつものオヤジの動画はコチラ

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平成28年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その1
この一年間で流山を知る勉強も進み、神輿会が氏子の若衆という事が分かりました。宿という村単位での青年部とも言える赤城四ツ葉会、今の年齢でここに所属することこそがウチの跡取りのあるべき姿だ。今現在の都心のベッドタウンになっている現状で引っ越してきた人達には神社の祭礼などあまり重要ではない事のように思っている人も多いだろうが、地元の人からしてみるととても大事なハレの日、今年も去年と同様に年末までのブログの記事は完成させてある。去年一年で勝負付けは済んだかと思われるが、色々な状況を見ながら日付を入れ替えるだけだ。

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街の成り立ちとしてみれば、根郷は商家が建ち並ぶ街の中心部、商人達の街。宿は田畑を耕す農民や、根郷の商家から仕事を請け負う職人達の地区。田んぼを持っていた農民だからこそ皆で力を合わせて生きていく。

都心からそれほど離れていないからこそ田畑は南流山駅周辺として開発されてしまった。青木先生の本の中にも親戚関係が続いている埼玉の農家のもとへ手伝いに行ったという話もあるが、都心から遠い北関東の方では今もこのような関係が続いている地区もある。

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大学の友達で栃木出身の奴がいて自身はサラリーマンとして実家を離れているが、親戚全員で農作業をするため農業の忙しい時期には手伝いに駆り出されるようだ。この親の実家も兼業農家で代替わりしても、下手に田んぼを耕作放棄地なんかにすると虫が湧いちゃって隣の田畑に迷惑かける、ってんで結局サラリーマンを定年退職しても誰かが世話しなきゃいけないようだ。平成時代の農家も大変らしい。そういえばうちの近くの馬場屋さんは市役所を定年退職後、嫁の実家のリンゴ農家のために一年の半分は向こうで過ごしている。

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村で育った子供は成長すると青年部に所属して村の農作業をして生きていく。相互依存とでも言えばいいのか、村という単位で生きていく。村には神社が祀られ皆の信仰を集めている。一つの村だけではなく街という単位で見ると付き合いのある土地の神社も別に有り、地元住民の代表として神輿を担ぎに行く。年齢とともに自分の立場と役割は変わっていくが、氏子の若衆として流山本町の祭礼で御輿を担ぐ、二百三十年以上ここで続く家の跡取りとしてこれ以上ない事と言えるだろう。

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御霊入れの儀
御神輿の御魂入れとは、神輿の中に幣帛を納めて、ここに大神様にお出ましを願う祭儀です。祝詞はその旨を申し上げる訳です。祭儀の中で、祝詞とは別に降神の儀を行ないます。この時、鼻音(神様にだけ聞こえるように微かな声で唱える作法)で降神詞を奏上します。加岸大杉神社は駒木のお諏訪様の管轄。江戸時代加村は本多領だった。その他にも旗本領の村の神社も今では駒木のお諏訪様の管轄となっている。

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物事の常識なんて時代とともに変わっていく、個人として印象に残っているのが給食のパンの扱い。俺の育った昭和末期や平成時代には惣菜パンなど当たり前のようにコンビニ(ウチから一番近くのコンビニは井戸平のセブンイレブン)に売っていたが、親父の時代は違ったそうだ。

アメリカが小麦の輸出のためにパン食を進めたのだがウチの親父の時代には学校を休んだ人のために近所の人が給食のパンを届けたそうだ。この後、親父の妹の世代にはパンが当たり前の世代になっているため、毎朝パンを食べていた。

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氏神様の祭礼で御輿を担ぐ事も各世代で印象が変わる。代々の住人でも毎年当たり前のようにやっている人と、知らない人とでは分かれるんだろう。戦後二世代目の俺の世代では珍しい趣味として、戦後生まれの親父の世代には嫌なら出てこなくてもいい行事として映っているのかもしれない。

ただしウチのジーサンの戦前世代からは甘いことは言ってられない。極端に言えば、御輿を担がないなんて非国民、親不孝、と見られてもおかしくない世の中だったということだ。地域の大事な行事、ウチの店は一軒だけで集客力があるとは言えないからね、流山という街のおかげで生きていけるんだから。

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つってもそこまでディープに考えていないといけないわけでなく、それぞれ色々なモチベーションでこの場にいるんだろうと思う、俺だってブログ始めなかったら、行動や気持ちの文章化なんて全く考えずに毎日過ごしていた。

イマドキは参加者を増やすためにもっとライトな目線からも文を残しておこう。現在の状態では普段勤めに行っている旦那が嫁の地元に家を建てたり、同居するマスオさんの参加も多くなっている。

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つくばエクスプレス開通に伴う開発で通勤面でも楽になり、家が増えるとなれば嫁としては地元で暮らしていけば楽なもの。旦那さんとしても流山に移り住むにあたって、祭礼に参加して仲間づくり、コミニティに加わろうとしている人も多くいる。

実際にウチの親父よりも少し上の世代になるが、何人もの婿さんが文化と伝統をつないできたのと同じように未来への後継者として大事な存在だ。そういうことを考えると赤城保存会の方々と、四ツ葉会の小島さんが親しくしてるのも分かる気がする。

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昭和55年6月27日、優香誕生日

『スリムビューティハウス』イメージモデル
優香は、日本のマルチタレントで、元グラビアアイドル。本名、岡部広子(おかべひろこ)。東京都あきる野市生まれ、武蔵村山市育ち。ホリプロ所属。特技はフェンシング(中学時代の部活動)バドミントン。

趣味は、絵本を読むこと。藤村女子中学・高等学校を経て、日出女子学園高等学校卒業。1997年(平成9年)3月27日、池袋駅近くのピーダッシュパルコ前でスカウトされた。

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池袋パルコ前でスカウトされたとき、その池袋で同じ日、優香の数十分後に、ホリプロの別の社員によって藤原竜也もスカウトされている。スカウトから2ヶ月ほど経った後、社内でスカウトされた人達が集められてオーディションが行われたが、それに合格してデビューしたのは優香だけだったらしい。

なお、スカウトされてからオーディションまで一切の連絡がなかったため、『あぁ、やっぱり駄目だったんだなぁ』、と思っていたと語っている。ちなみに「スカウトされた時は当時付き合っていた彼氏に振られたばかりで落ち込んでいて、その元彼を見返す意味もあって芸能界に入った」と語っている。

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元祖「癒し系グラビアアイドル」として有名だが、最近のアイドルのように、最初から「癒し系」として売り出した訳ではなかった。「癒し系」と呼ばれるようになったのはジョージアのCMの影響が大きく、グラビアを卒業する頃とほぼ重なっている。優香自身は「癒し系」といわれる事については、まったくこだわっていないとのこと(本人談)。

なお、実際に水着グラビアの活動を行っていた時期は、1997年(平成9年)冬から2000年(平成12年)春までである。2009年(平成21年)7月10日に発売された女性ファッション雑誌『FRaU』8月号では、表紙および記事写真にて2000年(平成12年)春に発売された写真集『innocent』での水着以来、久しぶりに肌を見せた。

お笑い好きとしても有名で、本人曰く「テレビはいつもバラエティ番組を中心に見る」。志村けんとはデビュー直後からコントをしており(『志村けんのバカ殿様』で演じる優香姫が有名)、志村からの評価・信頼も厚く、「志村ファミリーの一員だ」と語っている。また、関根勤にもデビュー時から可愛がられている。

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愛犬家として有名で、「エアー」という名前のカニンヘンダックス(ダックスフントの一種)を飼っており、このペットを主人公とした絵本『エアー』を発表している。優香の2006年(平成18年)のカレンダーでも「エアー」と一緒に写っているページがある。

また2008年(平成20年)には「食識推進委員会」がペットの犬や猫に健康を考えた正しい食事の与え方を実践している人を表彰する「ベスト食識オーナー賞」の「著名人部門」に選出された。Mr.Childrenやaikoの大ファンで、aikoとはプライベートでも親交が深い。

そして相川七瀬とは家族ぐるみの付き合いをしている親友。Mr.Childrenに関しては、インタビューなどで理想のタイプとして桜井和寿と名前を挙げるほどのファン。一青窈が『ポップジャム』に出演した時は、2人は近所同士だと話した。優香自身も、歌が上手いとは言い難いがカラオケ好きである。

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本人曰く食べ物は辛いものが苦手で、唐辛子・わさびは食べられない。『空飛ぶグータン〜自分探しバラエティ〜』で寿司を食べた時もサビ抜きを頼んでいた。2008年(平成20年)1月2日の『愛のエプロン』では、城島茂の作った激辛エビチリソースに顔を真っ赤にして悶絶している。

中学生の頃、門限を破って帰宅したところ、父親から胸に蹴りを入れられて吹っ飛んだ(父親は空手をやっていた)。シンガーソングライターの稲田光穂に「この恋届きますように」の詞を提供している。小学生の頃に加勢大周のファンだった事があり、切抜きをしてマグネットにしていたことがある。また牧瀬里穂のポスターを自分の部屋に飾っていたとも語っていた。

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『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』では度々青木さやかと張り合う姿もあり、バドミントンとボウリングで対決してそれぞれ勝利した。しかし、高所恐怖症の青木が「お仕置きQ」としてスカイダイビングをさせられた収録後、トイレの洗面所で青木が落ち込んでいる姿を見かけ、青木を慰めつつ2人で泣いたこともある。

また、体力測定や鬼ごっこ、ボウリングなどの体力を使う企画では、他のメンバーに比べてあまり失敗がなく、わりと運動神経も良く、頑張り屋で負けず嫌いな一面を見せているが水泳は苦手で、ロケで海中に沈められたときは、他の泳げる出演者につかまって岸までたどりついた。

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声優やナレーションと言った声だけの仕事が多いのも特徴。アニメ映画などの声優や、舞台版『電車男』のエルメス役の声だけの出演などの仕事に加え、『ポケットモンスター』の映画のナレーションや、『ニュースステーション』のナレーションの仕事も経験している。

2008年(平成20年)時で映画には8本出演しているが、その中の6本は声優やナレーターとしての出演である。タレント活動は高校時代から行っているが、スカウトされた当時に在学していた学校は芸能活動を許しておらず、2年次の途中にタレント活動専念のため日出女子高校に転校している。

多忙のため単位が取れず補習を受ける事も多く、補習は卒業式の直前まで続いたという。そのため、体育の授業は中学生と一緒のこともあったとファン向けのイベントで告白している。卒業式当日には日出女子高の屋上で単独記者会見を開いた。

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デビュー以前、都心近くに住んでいた好意を寄せていた男性に、実家のあるあきる野市が田舎だと思われるのが恥ずかしかったようで、その男性に出身地を聞かれた時には立川市と答えたという(ちなみに生まれた場所は立川)。いまは「もちろん、あきる野市が大好き」と公言しており、「あきる野市の事をもっと知ってほしいと思っている」と発言している。

初恋は小学生で、『ウンナンのホントコ!』の企画で、その初恋相手と再会した事がある。ファーストキスは中学3年生の頃だと『ロンドンハーツ』で語っている。デビュー以来安定した人気を保っている。その理由はファン層の広さにあると言われ、司会からコメディエンヌ、女優、声優、ナレーター、グラビアといった、幅広い仕事の影響で子供から中高年までファンがいる。

視聴率で有名なビデオリサーチ社が年2回行なっている『好きなタレントランキング』では、ランキング上位の常連である。一緒に番組の司会をしているさまぁ〜ずとはプライベートでも仲が良く、「男性芸能人で仕事やプライベートなど、全て話せるのはさまぁ〜ずさんだけです」と公言している。

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関根勤が熱烈な優香ファンであることは広く知られている。1990年代後半にグラビアで活躍しはじめた頃、関根の出演しているラジオ番組で優香の話題を振られた瞬間、最大エコーがかかって「優香〜!優香〜!」と絶叫して、しばしば企画の流れは中断。

共演の小堺一機は当初呆れ果てていたが、優香が番組にゲスト出演したあたりから、小堺も関根同様に優香の名前を絶叫するようになった。なお関根は、優香の本名である「広子」の由来について「お父さんが『心が広い子に育つように』って付けたんです」と各所で語っている。

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2年に1度、世界のトップスイマーが一堂に会して開催される世界水泳では2001年(平成13年)の福岡を筆頭に2003年(平成15年)のバルセロナ、2005年(平成17年)のモントリオール、そして2007年(平成19年)のメルボルン大会と4大会連続で日本勢の応援サポーター(キャスター)として出演していた。

オーストラリアが誇る競泳界のスーパースターのイアン・ソープには、最初の福岡大会では東京のスタジオ担当だったため一度も面識がなかったのだが、後に特番のオーストラリアロケで初対面した。

その後もキャスターとしての取材活動もしており、Get Sports(テレビ朝日系)ではシンクロナイズドスイミングのヴィルジニー・デデュー選手にインタビュー取材も行っている。福岡大会で銅メダルを獲得した、飛込競技の大槻枝美選手は中学時代の同級生であり、中継の際の掛け合いでは、優香の中学時代のニックネームが「岡部ちゃん」だったことも判明。

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おぎやはぎが森山直太朗のよい人柄を紹介する際に優香を引き合いに出し、「優香って、みんなに優しくて、『あれっ、もしかしてオレに気があるのかな』と錯覚するほどやさしく接してくれるけど、そういうのの男性版が直太朗君だね」と話していたり、仲里依紗がグータンヌーボの収録の際に「レギュラーは誰に来てほしいか?」の質問に、「優香さんが来てほしい。優香さんは以前にお仕事をご一緒した時にも凄く良く(優しく)してもらった。」と語ったり、品川祐は、「優香ちゃんは僕がまだ売れてない時から、いつも気さくにやさしく声をかけてくれていた。」とブログに書かれていたりと、彼女の人柄を表すエピソードがある。

中学3年間、フェンシングの経験があったことから、北京五輪の男子フルーレで太田雄貴選手の銀メダル獲得にとても感動したと述べている。

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芸名を『週刊プレイボーイ』(1997年11月25日発売号)やインターネットで一般公募し、「優香」となった。由来は、当時の若者言葉に「…って、言(ゆ)うか〜」が使われていたことや、優香の趣味がお香だったこともあり、「優しく香る」との意味も込めた。

芸名については、最終候補に「優香」か「優奈」かで迷ったというが、「優香」のほうが響きが強い感じがするので「優香」に決定した。応募総数は約17,000通。この中には面白い名前もあった。名付け親に選ばれた人には「優香と一日デートできる権利(ただし近くにスタッフ付き)」が贈られた。

以前は公式プロフィールに本名が記載されていたが、現在は記載がない。しかしバラエティ番組などで自ら本名を名乗ることがあるため、本名が広く知られている。

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デビュー当初は、ホリプロ初のグラビアアイドルとして話題となった。デビューから各種雑誌の表紙などを席巻し、グラビアクイーンとして人気者になる。優香の成功により、イエローキャブの全盛期であったグラドル界に新風が吹き込み、これをきっかけとして他の芸能事務所もグラビアアイドルを育てる流れが生まれた。

ホリプロも、優香の妹分として翌年に堀越のりをデビューさせるなど攻勢を続け、積極的にグラビアアイドルを売り出すようになった。初CMは1998年(平成10年)に出演したマツモトキヨシ。1999年(平成11年)秋にはジョージアのCMで飯島直子と共演し、ブレイクした。

この頃「癒し系」という言葉が浸透し、癒しブームの先駆けと言われている。これがターニングポイントとなり、以降はテレビのバラエティ番組やCM中心の仕事にシフトチェンジしていった。そして他のグラビアアイドルもこれを追うようにCMに進出していく流れが生まれた。

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平成28年、加岸大杉神社祭礼

宵宮
加岸の大杉神社は、茨城県稲敷市の「御田植(あんば)大杉神社 (関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社)」の分神です。流山の歴史とともに歩んできた老舗揃いの流山本町通り沿いに鎮座しています。流山駅から北に約400メートルのところです。近くには流山市文化会館があります。

祭神は大物主命櫛甕玉命(おおものぬしのみことくしみかたまのみこと)です。創建は不明ですが、此の加岸は、江戸川の船運による物資の集散地として開け、文化・文政の時代から明治にかけて大いに栄えました。慶応2年の文書には、当神社の建立が確認されています。

この加岸の里は、江戸時代の中期から明治にかけて舟運の便によって繁栄を極めた。当大杉神社は、推定によれば文化の頃に、この里の鎮守として創建された。御祭神は、大物主櫛甕玉命。大物主神とも申した大己貴命の和魂を称えていいます。御神徳は、延喜祝詞式に載っております如く、当地鎮座の後も産業医療、家運隆昌、延命息災の神として地方民の信仰を集めて今日に至っています。

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加岸は江戸川に沿って発達した街並みの北部に位置する。加台とともに加村であったが、川沿いの方が街場になり加村河岸と呼ばれている。商店や舟運関係者が多かった。加台と加岸がいつから別れていたか不明である、明治に入った時には分かれていたようだ。大正元年から大規模な河川改修が行われ、土手が整備された。

加岸は戦前170~180の戸数であり、その後230程の戸位の時期が永く商店街として繁栄していた。昭和40年代から商店街としての賑わいは薄れたが、住宅は増加し500戸ほどになっている。昔は加台と加岸が一緒にお祭りを行っていた。

現流山市に印旛県庁が置かれていた時代に加岸(加村河岸)は船頭に近い人が多く住んでいて、力が強く、加台と加岸との間に喧嘩が絶えなかった。あるときは田んぼに神輿を置いて逃げたという時もあったという。そのため毎年喧嘩が起きては仕方がないという事になり、加岸では白鳥を63名分作り、白鳥を着た者でないと神輿は担げないという決まりを作った事もある。

戦後になって白鳥も無くなってしまい、今では一ヶ月違わして、加岸は6月26日27日。加台は7月26日27日にお祭りを行うようになっている。現在は6月26日27日に近い日曜日に祭りを行っている。幟を立てる。先端に榊をたててきたが阿波の大杉神社の御神木が杉の木なので、杉を立てる事に決定したという事である。

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年番はなく上、中、下の三組に分かれており、各組にそれぞれの役を決め、上の組が年番になれば、中の組が神輿を担ぐようにした。従って年番は組全体で行うのが建前である。神輿は上、中、下の一つの組が担いだが、平日に当たると担ぎ手がなくなり、全体で担ぐようになったが、土曜日曜に変更してからは担ぎ手が増えてきたという。

現在は十三の班に分かれ何かしらの役が当たるようになっている。宵宮はお神楽を行う。お仮屋を作り、そこに神輿を移す。オコモリは12時までお宮に詰めていて家に帰るが、御仮屋に詰めている人達は夜通し神輿をお守りしている。諏訪神社の管轄だが宵宮には神官は来ない。

27日は本祭りなので、正午ごろ神官を迎え、祭典が行われる。終わって御神体を神輿に移して、一時頃から渡御に入り、七時頃に宮入りする。五凰会という若い者の集まりが中心になって、祭りを続けていこうと申し合わせ、神輿を担いでいるという。この祭りには六月の加岸の大杉神社の祭りが雨なら、七月の加台の大杉神社の祭りは晴れになるという言い伝えがある。加岸と根郷との関係も同じようになっているという。

江戸時代、流山の隆盛期に創建された。江戸時代の当地は江戸川の舟運によって、この地方第一の隆盛を極めた。船問屋をはじめ、旅館、各商店等、舟運でにぎわったが、利根川沿いの布施河岸とは陸路で連絡され、道は諏訪神社を経由したので「諏訪道」と称し、また、生魚を多く運んだので「なま道」ともいった。最近は神幸祭も盛んである。

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流山の一字地名

地名の由来、加
東葛地名事典に文が残っているので一部抜粋する。流山には漢字一字の地名が多い。あげてみると北、南、中、加、木などである。なかでも加や木は一字一音であるから全国的にも珍しい地名と言える。これらは大字名であるが、小字にも一字地名は多い。

なぜ一字一音地名があるかといえば、奈良時代の和銅6年(713)に地名は「二字に改めよ」と令が出た。しかし古代ではそんな国の指示は末端までは徹底しなかったらしく、各地に一文字地名が残っている。加の場合は台地と低地に分けて加村台(加台)、加村河岸(加岸)とも言う。

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本土寺過去帳の永享9年(1437)に「加村」「矢木加村」が記されている。江戸時代は本多藩の領地で、加村に本多藩の陣屋が置かれていた。そこに明治維新には葛飾県、印旛県の県庁が置かれていた。その記念碑が市立図書博物館に建っている。

加村を含めた下総本多藩約一万石の米は本多米と称され、加村と松戸の本多河岸から江戸に運び出された。本多米は優良米として江戸での評判も高かった。加の由来は、地形から出たもので、本間信治さんの説では「クハ」は台地が崩れた端だという。

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普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。

お正月には原作者の小杉光太郎さんから絵馬が奉納
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今年、赤城神社には松が奉納されています
これはつくばエクスプレスによる都市整備と大規模開発に伴って、柏たなか地区の古くからの住宅から奉納されたもの。柏北部の道路整備により庭が分断される形となり、庭に植えてあった立派な松の木を何本か処分することになった。

そこで、ただ捨てちまうのはもったいない、買うなら十万以上はする松の木を、大きい方は柏の葉公園に、小さい方は裏側の灯篭と同時に、ここ赤城神社に奉納、という形になりました。ちなみに鈴木家から奉納されました。

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南流山地区、ゾーン30整備

「ゾーン30」とは
生活道路における歩行者等の安全な通行を確保することを目的として、区域(ゾーン)を定めて最高速度30キロメートル毎時の速度規制を実施するとともに、その他の安全対策を必要に応じて組み合わせ、ゾーン内における速度抑制や、ゾーン内を抜け道として通行する行為の抑制等を図る生活道路対策です。

速度規制は個々の道路(路線)ごとに実施するのが一般的ですが、「ゾーン30」では、区域を定めて速度規制を実施することで、対象区域内の道路に最高速度30キロメートル毎時の速度規制が適用され、走行する自動車の速度を時速30キロ以下に抑制することとしたものです。

政治家の方々も仕事してるよ
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根戸屋商店だったところ
屋号も付いているような歴史のある商家が引越し、店舗の場所が販売され、一般住宅として分譲販売される。これも歴史の一つの流れ、新たな住民が増加し、街は変化を続けていく。経済活動を繰り返し、街はベッドタウンとして生きていく。ここは土手道より低い家、なので土を入れて盛っている、ここには六軒ほど民家が建つみたいだ。

水運時代の表通りに存在している商家、さらにここは川舟の河岸があった場所の近く、一億総中流などと言われたのは戦後世代だけ、今で言うなら駅前にビル持ってるのと同じぐらいの価値がある。今現在では鉄道駅の駅前が一等地、ということは時代を越えて考えるならば、人が集まる河岸の前や橋の前が大事な土地となる。

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看板外されていたけど、売れたんか
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ちなみにこの日は観光客は15人ほど
近藤勇陣屋跡の石碑、この石碑の前の柵は小沢大工さんが作ったんだそうだ、今年のスプリングフェスタの時に教えてもらった。一緒に神輿担いでいた新井さんは「小沢のシゲちゃん」と言うけど、俺からの目線はしっかりと「大杉神社総代小沢さん」と言わなければなるまい。

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左手のサクラヤ
江戸時代から物流の要所として賑わった流山広小路界隈も、時代が変われば役割も変わる。ここサクラヤは戦中世代はカキ氷、戦後に生まれた世代には店頭でコロッケを揚げてくれる駄菓子屋として、この街の30代以上が誰でも通った生活に密着した店なんです。

日本は東京一極集中の国、東京に早く行ける所に高い値段がつく、水運で華やいだ流山本町は電車だったら上野駅から1時間以上かかる土地、この裏の小さな路地も土地の開発費用と、実際の販売価格が見合わなかったからこそ、バブルの時に大規模開発されずに残っているんです。

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この時間は夏休み前の子供の時間
近頃の中学生は発育がいいよね、って俺が言うと女の子のパイオツを指していると思われてしまうが、身長ね。みんな知ってるかと思うが、親父の背がアレなんだから俺がいきなり二メートル近くなったらDNAを疑うわ。わたしゃも少し背が欲しい、ってよ。和服は日本人体型の方が似合うんだとか、ならばやっぱり祭礼時の神輿半纏が俺の正装なんだろうな。

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この町は川岸の名でも知られるが如く、江戸川の恵みにそって栄えた町であります。街が出来ました始めに、自ずから川に対する感謝は、川を守護し奉る神様、即ち水神様を創設して、朝に祈り夕に感謝を捧げて子々孫々相承け相伝えて今日に至りました。御祭神は罔象女神(彌都波売神)と申し上げ日常の生活用水から農耕作、さらには水運から水害防止の神様として、崇敬せられる神様でございます。

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あんばばやし

大杉信仰とあんばばやし
あんばばやし 稲敷市阿波にある大杉神社は、所在地の名から「あんばさま」の名で親しまれ、疫病、とくに疱瘡(天然痘)の治癒神として江戸時代初めから信仰が広まった。中期には関東一円に信仰されるまでになり、分社も現代の茨城県各地のみならず関東にまで広がって創建された。大杉講と共に酒やみりんなどの醸造技術も内海水運によって広がった。

この信仰の急激な広まりには、軽快で激しい唄と踊りからなる『あんばばやし(大杉ばやし)』の影響があったことは否定できない。お囃子と踊りの熱狂の渦が信仰の渦へとなっていった。あんばさまは、疫病から守ってくれる神であるとともに、航海の安全や漁業の神でもあった。現在、あんばばやしは、例祭において奉納されている。国選択無形民俗文化財。



手賀ばやし、柏市無形文化財
柏市手賀地区の夏祭り「アンバサマ」で奉納されるおはやし。7月の第一日曜日、興福院から兵主八幡神社まで神輿や山車が引かれ、その帰りに地区内3ヶ所で演じられます。毎年7月第一日曜日に行われている手賀ばやしが手賀地区で行われました。
 
太鼓や笛、鉦の音に合わせて、ヒョットコ、シシ、キツネなどが舞う手賀ばやしは、手賀地区の「アンバ様」の祭礼で上演され、興福院から兵主八幡神社へと、みこしを先頭に山車を引きながら練り歩きます。地区内の3カ所で、保存会の皆さんと手賀東小の生徒によるおはやしが奉納され、夕暮れ時に興福院に戻りました。子どもから大人まで多くのかたがたが参加するこの行事。地域全体で伝統は受け継がれています。

構成は1)おはやし、2)ニンバ、3)ショウゼン、4)カマクラ、5)シチョウメンの5ばやしです。 1)おはやしではシシとキツネが踊られます。2)ニンバのまえに「三番叟」と「式三番」が入り、「三番叟」では翁が剣と鈴で、黒式尉が剣と扇でそれぞれ悪を追い払います。

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赤城保存会

流山市指定無形文化財保持団体
流山でも地域伝統の祭囃子を演奏し、神楽を奏しています。この「流山の祭囃子、神楽等」は、市内の年中行事や祭礼に欠かせないもので、流山市に存する重要な無形文化財です。場所は違えど同じ祭神の夏祭り加岸の「アンバサマ」で演奏されている。さらに流山市指定無形文化財第1号に指定された。

アンバ様は、現在の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼が大きな内海を形成していた頃から沿岸一帯に広まった、茨城県稲敷市阿波にある大杉神社の流れを汲むもので、水難除け・豊作・無病息災・商売繁盛の「大杉神社」の尊称です。江戸時代には、舟運の発達により、関東の河川流域や沿岸地方にまたたくまに分社が拡大し、民謡「あんばばやし」(大杉ばやし)を歌ひながら人々はこの地に詣でた。大杉の神の信仰は、「あんば信仰」ともいはれる。

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俺個人的な目線ではなく一般的な目線で見るとお囃子の生演奏なんて聞いたこともない人の方が多いかと思われる。ただでさえ住宅増加中の大杉神社近辺、都内のマンション生まれならずっとテープしか知らない子供もいるのか、お囃子を演奏し始めると子供達が珍しそうに注目していました。

夕方にタイミングを見て何回か行ってみると、もう子供の数が尋常じゃない、少子化なんてなんのその。でもフツーに考えてみるとしっかり区画整理されて住宅街として整備されているわけだから、建て替えや住み替えなども簡単なわけで、新たに新築住宅として販売もできるわけか。そりゃ宿とは違うわけだよな。

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水道局は有料駐車場に
流山本町地域へお越しになる観光客の皆さんや、近くのお店を利用する方などから要望の多かった駐車場が、流山商工会議所により整備されました。駐車場は4月25日からご利用になれますので、ゆったりと流山本町の魅力をお楽しみいただけます。

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神殿改築記念碑
裏面まで詳しく記念碑を調べると、施工に関わった会社からも地域としてのことも見えてくる。個人名は出さないほうがいいのかな、お馴染みの鳶の小金屋さんはもちろんのことだが、加岸の小沢工務店、石田機械店。根本工務店と根元建設という名前もあったが、親父に聞いたらこの二つの会社は別の会社だそうだ、これからも調べていく事が多いということ。

三輪野山の内藤さん(会社名)も名前がありました。昭和63年というタイミングなので諏訪神社の宮司さんは先代ということがわかる。加えてこの大杉神社が分祀されているが元々の加村の鎮守様は大杉神社なため、大宮神社の氏子一同も名を連ねていた。

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やはりここではヨーコチャン
ヨーコチャンの苗字は長谷部、ということで切り絵行灯製作者の一人、根郷浅間神社の近くに家がある長谷部さん(長谷部さん宅は元八百屋だったという)の親戚なんだとか。戦後世代の長谷部さんは松戸の市役所で働くサラリーマンとなって働いていた。そしてヨーコチャンの生まれた実家は、流山市役所の前の坂(大坂)を下りてきて右側に、長谷部菓子屋とどっかの地図で見たのでここだろう。

ここは大正時代は小倉醤油醸造所
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ここは美濃源商店

代々「大塚源右衛門」を襲名
流山研究「におどり」第15号に文が残っているので電化する。江戸中期初代大塚源右衛門は美濃の岐阜の出。味噌醸造を始める。11代目まで源右衛門を襲名。屋号の「美濃源」は「美濃」と名前の「源」を組み合わせたもの。

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ここはアメ彦

成田家
流山研究「におどり」第15号に文が残っているので電化する。「アメシコ」とも呼ばれ、飴屋の「アメ」と先代成田彦三郎の「彦」を組み合わせて「アメ彦」という屋号にした。

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ここは題目屋(豆腐店)

代々「安藤新太郎」を襲名
流山研究「におどり」第15号に文が残っているので電化する。先代は江戸時代お題目を唱える熱心な法華経信者で、「題目さん」の寺子屋をやる。明治5年(1872)学生発布で寺子屋をやめた。屋号を引き継ぎ「題目屋」として豆腐屋を開業。昭和57年(1982)までやっていた。

(※これは毎度毎度の「二度あった江戸川土手造成工事により場所を移転した商家の一つ」ですね。ここもやはり水運時代の表通りに店舗があり、資料によると今現在の場所は万上第二工場となっており、工場設備は他に移転し、その空いた場所に引っ越したものだろう)

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ここは中政さん

代々「中村政次郎」を襲名
流山研究「におどり」第15号に文が残っているので電化する。中権の中村家から分家。初代中村伝次郎。三代目中村政次郎から「中」と「政」をとって屋号「中政」とし、明治30年(1897)魚屋、八百屋を始めた。五代目新次郎のとき昭和42年(1967)現在の川魚料理を始めた。(※下総五鳳会の代表もつとめ、その関係から根郷浅間神社祭礼時に、流山以外の神輿会の方々も集まるようだ)

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ここは小原さん

以前は中権の蔵があった場所
切り絵行灯はその家を象徴する絵柄で注文される。商売をしていた商家は屋号と、扱っていた商品などが一般的。そこで小原さんは溶接業をやっていて、根郷の火の見櫓を作った。しかし時代の流れと街の変化により、消防分団の分団子屋も、流山街道の向こうへと場所を変え現在に至っている。

今現在はマンションが建っている紙平の醤油醸造所の場所、俺が小学生の時(平成一桁)には平屋の市営住宅が建っていた。(根郷だけでなく、ヨシマサさんや新井さんの時代の宿の分団子屋も、そろばん塾とセットで水運時代の表通りにあった)

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加岸の地番(住所)はここまで

自治会としても行政的にも境目はここの道になる
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今夜の代表者の集まりには、今年も加岸に住んでいるということで玉ノ井兄弟の弟さんが赤城四ツ葉会の代表として出席している。これは約25年前に消防第一分団の若手だったウチの親父の世代が今現在の中心となっているということ。将来は確実に俺に順番は回ってくる、実際に5年ほど前からヤマセイに将来へ準備はしておけ、と言われている。

20年後にはメンバーで誰が生き残っているかもわからないんだからとりあえず今年を精一杯やろう。ちなみに山崎清八商店のヤマセイ(屋号を襲名、本名政治)は山崎政治(せいじ)、ファンケルの会長は池森政治(まさはる)、同じ漢字だけど読み方が違う。小さなネタだがしっかり把握しておくと会った時に喜ばれる。

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加岸大杉神社というと同じ流山本町の一つの神社で、同じ南部中の学区内だが、小学校の学区の範囲では微妙に覚えておかなければならないことがある。ウチの親父の時代には流山小学校しかなかったが、俺の時代には流山北小学校が開校している。これは意外と大きな話で、時代と共に地区も人口が多くなり、小学校が新設している。

子供世代と親世代では「氏子の範囲」や「地元」と言えるところが違い、見ている世界も当然の事ながら変わってくる。学生時代を終えると首都圏に働きに出て、自分が育った街は「親の家のある流山」、と言った印象か。そんな人達と違って毎年の祭りに出てるのだから、政治経済の面でも本格的に後継者として用意はしておくべきなのだろうと思う。



この話を中学に応用すると、このブログでは何度も取り上げているが赤城神社の氏子で、宿という自治体の家であっても南流山の中学に行った人もいるし、親の立場とは違った見え方をしている子供もいる。そんな人には学生時代に走り回った地区が違うため、四ツ葉会に加入して流山本町の各地の祭礼に出るってのは結構無理がある。

となると今の俺の存在は限りなく希少価値は高いということ。今の時代、現役時代は実家から独立して生活し、親父が死んで実家を相続してから地域参加する人達も少なくない。若い現役世代とならば、仕事や趣味、子育てと、色々やる事がある中で、自分の将来を見据え、毎年街の代表者が集まる、祭礼の場に出てくるというのはとても大きなこと。

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文中のオコモリだが、俺の小学生時代、平成一桁の時代に引っ越してきた同級生(小学校は違うがボーイスカウトで一緒だった)の母親が、ウチの母親に「大変だった、大変だった」と騒いでいた事があるそうだ。まぁママ友に愚痴るようなもんだが、加岸はウチの地区と違うことするのか~、と思っていて、息子の俺が以前加岸の中野さんに聞いたら、「当番回ってくるの20年に一度とかだよ」って教えてくれた。どうやら引っ越してきたばかりの時に当たってしまったんだろう。

時代背景を考えるとバブル景気の時代、その土地の神事などより、新しく開発されたトレンディーな街の方が重視とされていた時代、「あんな古臭いことやってる人達まだいるんだ」との発言もしょうがないのかもしれない。当時はネットもなくマスコミでも柏や松戸が大きく取り上げられる時代だった。流山なんてとてもじゃないけど注目されていなかった。

日付変わって今日は祭礼当日、楽しまないとね

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