昭和17年1月31日マレー半島進撃作戦
これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった
日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。日本の対英米開戦後の最初の作戦である。世界史的には、本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされる。
1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。
1941年(昭和16年)12月8日。(この日は「真珠湾攻撃」が行われた日です。すなわち大東亜戦争の火蓋が鑽って落された日です。)そして、この日、もう一つの大作戦が展開されようとしていました。その作戦を「南方作戦」と言います。
南方作戦とは、英領マレー、フィリピンなどを含む東南アジア全域を、ほぼ同時期に一挙に攻略することを目的とした、日本軍が総力を結集した、まさに乾坤一擲の大作戦でした。この南方作戦の重要なる先鋒軍である第25軍の軍司令官を任されたのが、山下奉文(ともゆき)将軍です。
マレー作戦は、南方作戦における初っ端の戦いであり、日本軍にとって極めて重要な意味を持っていました。そのため日本軍は、当時陸軍の中でも最精鋭として知られていた第五師団と第十八師団を投入していました。マレー作戦の第一段階の目的は、ジャワ島の石油資源の獲得にあります。
すでに前年、日本は「ABCD包囲網」によって海外からの資源の供給を断たれていましたから、この資源獲保は日本軍にとって死活問題でした。(ちなみに「ABCD包囲網」のABCDは、アメリカAmerica、イギリスBritain、中国China、オランダDutchの四ヶ国です。)
ジャワ島の資源獲保のためには、東南アジアの拠点であるシンガポールを攻略する必要があり、シンガポールを攻略するためにはマレー半島を攻略する必要があります。当時のシンガポールは、島全体が一つの巨大な要塞と化しており、海上からの正面攻撃はほぼ不可能で、マレー半島からの南下作戦が採用されたのです。マレー作戦において重要なことは「スピード」でした。
もたもたしていると物量に優る敵国が兵力を増強してしまいますし、ジャワ島攻略も困難を極めてしまいます。この頃はナチス・ドイツが機甲師団による戦車部隊と航空部隊の支援によって敵を速攻で叩き潰す「電撃戦」がヨーロッパを席巻しており、マレー作戦も「東洋の電撃戦」と銘打たれていました。ですが、山下中将はナチス・ドイツの電撃戦以上の突進作戦を構想していました。
ナチス・ドイツの電撃戦は、敵の真ん中にクサビを打ち込んで、左右に展開して包囲殲滅する戦法であるが、我が第二十五軍は、相手を包囲することなく、とにかく突進また突進で、一挙にマレーならびにシンガポールを切りもみ突破してゆく。
電撃戦ではなく、電錐戦しかない.....そう決意していました。第二十五軍の軍指令でも、「軍ノ任務ハ神速ニ〈シンガポール〉を攻撃シ、英国極東ノ根拠ヲ覆滅スルニアリ」と布告されました。第二十五軍の総兵力35000、対する英軍の総兵力は88000超です。
マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。
日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。
馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。
西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。マレー半島西岸の制海権はいまだイギリス側にあったが、イギリス海軍はこれに対して何の手も打てなかった。
当時、どの国も歩兵部隊を安定して輸送できるだけの自動車は保有しておらず、歩兵の移動は依然として徒歩が中心だった。しかし、進攻速度が重視された南方作戦においては、兵器・物資輸送の自動車に遅れずに陸上歩兵部隊をいかに高速輸送するかが一大問題となった。
この問題を解決するために、日本陸軍は現地の自転車を徴発し、急造の自転車部隊を編成した。「銀輪部隊」とは、この部隊に国内の新聞等で与えられた愛称である。この背景には、当時品質が良かった日本の自転車が東南アジア各地に輸出されており、故障しても部品調達が容易だった事情もある。
自転車はフィリピンやマレー半島のジャングルやゴム林・椰子林などの戦車が通れない狭い道でも通れ、川があれば担いで渡れた。銀輪部隊は破壊された橋梁の修復を行って輸送隊の自動車を助けつつ進軍し、緒戦の南方攻略を容易にした。
マレー作戦「日本、完璧な諜報」
英秘密文書「最悪の降伏」分析
第二次大戦で「東洋のジブラルタル」といわれたシンガポールが日本軍によって陥落して73年。チャーチル英首相が「英国史上最悪の降伏」と嘆いた作戦の背景に、「第五列」など「完璧な諜報活動」があったと、英国側が分析、評価していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。事前に地理や軍事力の情報を収集し、植民地支配から現地人を独立させるため、支援して協力させていた。戦前の日本のインテリジェンス(諜報)能力が高かったことが改めて浮き彫りとなった。
「マレーにおける日本のインテリジェンス活動」によると、英国の防諜機関のシンガポール支部は、日本が情報収集活動を本格化させた1940年7月に報告書で「日本はマレー半島、とりわけシンガポールで完璧な諜報活動を展開している。精巧な組織が存在しているとは聞かないが、国を挙げてかなり発達した諜報組織を持っている」と警戒していた。
さらに41年4月、「日本の諜報活動は、スパイとして生まれてきたような日本人全てが関わり、彼らがこの国にいる限り続くだろう」と在留邦人が総出で情報収集していることを指摘。「あらゆる日本人を捕虜にし、国外追放する方法を検討すべきだ」と結論づけた。実際に同年12月8日に開戦すると、在留邦人約3千人がインドのプラナキラ収容所に抑留された。
「英国史上最悪の降伏」について、42年6月2日付の報告書で陥落時のシンガポール防諜機関の責任者は、「少なくとも6人の内通者が日本の侵攻を手引きした」と指摘、さらに同7月23日付で「MI6」高官がMI5海外担当責任者にあてた書簡で、「ここ数年日本は想定を超えて驚くべき『第五列』活動を毎日のように行った」と指摘して現地人を味方につけた「第五列」を「敗因」とした。
そして、マレーでは、全てのマレー人が積極的か潜在的に「第五列」に参加しているとの見方が広がるほど、日本が活動を活発化させたにもかかわらず、「英国側が重大に受け止めず官僚的態度に終始し、英将校らが不用意に重要事項を公然にしたことが悔やまれる」(42年7月30日、MI5幹部報告書)としている。
日本の「第五列」活動が成功したことに関連して、「アジアを通じて日本の仏教の僧侶たちが頻繁に情報収集しながら、反キリスト教の汎アジア主義を訴えた」(42年6月6日報告書)と、欧米白人の植民地支配からの解放を訴えたことを記している。
【用語解説】マレー作戦
日本軍は1940(昭和15)年夏ごろから軍、外務省、民間企業や台湾総督府、南方協会などが協力してマレー半島からシンガポールに至る地理や英軍の軍事状況、衛生防疫などを徹底調査し、海南島で上陸訓練まで行った。真珠湾攻撃の数時間前にマレー半島北端に上陸した日本軍は、55日間で1100キロを進撃し、42年2月8日、ジョホール海峡を渡ってシンガポール島へ上陸し、15日に英軍が降伏した。
【用語解説】第五列
自国の中に存在する仮想敵国および敵国に味方する勢力、裏切り者、スパイ、反逆者。有事の際は敵国に呼応して自国で破壊工作、情報詐取、攪乱(かくらん)、世論醸成、文化侵略などを行う。スペイン内戦で4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が市内にも呼応して蜂起する5番目の部隊(第五列)がいると言ったことが起源。
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