でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2015年06月


平成27年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御宮入後
花火が上がったから宮入後、辻印刷のバーサンとまた来年来るよ、なんて話をしてたら「生きてたらまた逢いたいね」なんて、そんなリアルなこと言わないでおくれよ。ウチの近所にも大正生まれはまだまだなんとか生きてるんだからさ。余ったカキモチを紙コップに入れて貰ってきた。これはウチの親父の大好物、これで育ったオフクロの味なのだ。ちなみにウチの母親は油が飛び散るので揚げない。

9b0eb967.jpg


神輿も見えないし、追いつくぞ

この時間に色々あったようだね
7c21fddf.jpg


神社の前では色々やってたけどスルー

神輿関連はまだやってるね
6dc03a3a.jpg


鳳凰を外して解体作業
1f07631a.jpg


角度を変えて
f0fa5b5d.jpg


ここは写真撮っていいポイント
3512ab7d.jpg


神輿をしまってから

小澤責任総代からお言葉を頂く
80fa5fc1.jpg


大杉神社の祭りには豆腐が必要かもね

後は頭カラッポでいいんだって、頭カラッポの方が夢詰め込める
518f7b4a.jpg


四ツ葉会も俺が生まれてからメンバー変わっていないんだから、みなさんそりゃ歳も取るよな、あの時代表をしていた人などが引退して、その時消防分団にいて若手だった親父達が今は役職があるポジションになっている。となれば俺の役割も変わってくるというもの。若い新しいメンバーを皆に紹介するだけでもこの街の活性化になるんだろう。

近年神輿会の役目、コミニティの有り様も変わり、宿に住んでいないメンバーも加入するようになってきた。毎年皆様からの期待が大きくなっている、言わなくても感じるさ。その年ごとに色々な微調整をし、守られて育ってきている婿の子供とは違うんだから。自問自答を繰り返し、将来の自分へ、完成形はまだまだ先だ。

3ff3be40.jpg


ウチのジーサンは二代目のボーイスカウト団員長なんだとか。加台の神田さんが言うには、ウチの親父は三番目ぐらいの子分なんだそうだ、一番目の子分は三輪野山の中村アキオさん、全員ボーイスカウト第三分団出身者。親父の同級生が加藤屋大店の御主人。後輩が流盛堂の弟さんや海老原本家さん。全員神田さんが持ってるんだろうな。

ff9c0329.jpg


どこか間違っている所があったら直せるんで言って下さい

ジンジさんが締めます
今年、犬の散歩で公園に来た新井さんに「ジンジさんてどうゆう人?」と聞かれた。これは年代も違うし、加岸と宿で離れてしまっているため、みな自分の目線でしか分からないのだ。俺から見ると、ジンジさんと小沢大工さんは同じ加岸だから知っているにしても、俺と小沢大工さんのようなものと考えていいだろう。

今年は運良く赤城神社の文化財御披露目というイベントが盛大に行われたため、ウチの親父を通して俺の存在は広く知れ渡った。と、いうことは俺が歴史を勉強して、ブログをやればやるほど、世代間の溝は埋まり、活性化になるということになる。そりゃやり続けたほうが得だよね。

91d27054.jpg


ありがとうございました
d7a687ce.jpg


帰りに酒飲んだ事は祭礼とは関係ない
f7a938df.jpg


去年赤城神社の動画を撮りに来た親父がいたので検索したら動画があった、動画はコチラ

平成27年加岸大杉神社祭礼、神輿渡御無事終了

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村


平成27年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その7
さて神輿渡御はもうクライマックス、流山本町の中心部広小路三叉路からましやの前を過ぎて行きます。この道は流山の水運時代の表通り、加岸には船着場の河岸があり、これによって流山は発展した。ましやは「安政の大獄」、「横浜港開港」と日本が激動していた幕末・安政6年(1859年)、当地に呉服太物商「増屋」を創業致しました。江戸・明治・大正・昭和・平成と各時代に、流山の近郷近在のみならず大勢のお得意様に支えられ、「柄自慢」をキャッチフレーズに「真心の商売」「本物の商品」をひたすらに追い続けて参りました。




※訂正、崙書房出版
崙書房は、昭和45年、房総の歴史、地理、自然、人々の生活等をテーマに地域の風土に根差した出版社として誕生し創業45年を迎えました。昭和50年、東村山市立図書館など東京三多摩地区の5市立図書館が、それまで大部分が販売の大きなルートに乗りにくく、入手困難な地方出版物を独力で調査収集し、「地方出版物展示会」を開催。全国各地の地方出版物への関心が高まりました。

こうした機運もあって翌昭和51年に地方小出版流通センターが設立されました。多種多様な出版物が自由に出版され、読者はそれらの出版物に自由に接し、読むことができる。崙書房の人気シリーズの新書判「ふるさと文庫」は現在211点を数えますが、ふるさと文庫の創刊は昭和52年。記念すべきシリーズ第1弾は故・北野道彦氏の「利根運河」でした。

8e77e027.jpg


100点目は、昭和57年3月「利根川百景 水墨画と随想で綴る利根の全流」、200点目は、平成23年12月「白樺派の文人たちと手賀沼」。利根運河、利根川、手賀沼…。なんだか川や沼など水に関わる本が多いような気がしますね。まあ、崙書房本社が江戸川のすぐそばですし、日本には川や沼が多いですからね。

ふるさと文庫の201点目となった「早川雪洲―房総が生んだ国際俳優」が出版されたときには、その著者・大場俊雄氏を流山市文化会館のホールに招いて早川雪洲が主演し、日本人初のアカデミー助演男優賞候補にも選ばれた映画「戦場にかける橋」の上映と講演会が行われました。

崙書房、小林社長お若い!(流山市博物館所蔵)
46f707fe.jpg


最初の5年で100冊を刊行。そんな無茶なペースがいつまでも続く訳もなく、徐々にペースダウンしましたが、ふるさと文庫は、「読み手を書き手に変える」効果を生み、多くの読者が作家デビューを果たしたのだそうです。「ねじ式」や「無能の人」などで有名な漫画家のつげ義春氏は、昭和52年、弟の漫画家・つげ忠男氏の住む流山市江戸川台東に近い柏市に転居。

この当時の日常を「つげ義春日記」(講談社)として刊行しています。昭和53年1月27日の日記では、“マキは流山へ行く道が奈良の山ノ辺の道のようだとすっかり気に入り、それでまた流山へ行ってみた。崙書房という小さな出版社があった。添田知道「利根川散歩」という本を買った。”とあります。崙書房って単なる出版社ではなく、地域の文化活動に大きく関わっているんですね。

崙書房の印刷所(流山市博物館所蔵)
74ce09f0.jpg


流山あかり館・彩(旧キリガヤ)
流山あかり館・彩は、築約80年の建物を改装したもので、市が交付する補助金を活用した事業の4例目となります。あかり館・彩は岐阜県美濃市を拠点とするお店で、流山への出店が2店目となります。店内では、優しい光を放つ照明器具がたくさん並んでいます。卓上で使える小さなものから和紙のシャンデリアまで、さまざまなデザインのものがありますので、ぜひお気軽に足をお運びください。

1300年の歴史を持つ美濃の手漉き和紙は、繊細で美しく障子紙として使われてきました。この美濃和紙を使い、弊社は1点1点手作りで照明を作っております。また、美濃の工房では、オリジナルデザインの和紙漉きもしております。昔から続く伝統工芸である、和紙漉き・提灯づくりを絶やすことなく後世へ伝えることが私達の使命と考えております。

6855fa94.jpg


手焼きせんべい、高山せんべい店
広小路に三軒のせんべい屋があるが、その一軒「高山」は明治の初めから商売を始めたという。店内に入ると、御主人が火床の前に座って合わせ網にせんべいの生地をはさんで炭火で炙りながら焼き、奥さんのその隣に座ってハケで醤油を塗っている。とにかく仕事場は炭火の熱気でムンムンだ。

網をひっきりなしにひっくり返すので、イヤその忙しいこと。しかしその忙しさの中にもリズムがある。網を開けて指先で一枚一枚ひっくり返し、きつね色に焼けたものはポイと手前の籠にはじき出す。一枚について六十回か七十回ひっくり返すと言うから、一日千枚焼くとすれば実に七万回。

b65026f0.jpg


中野豆腐屋
中野豆腐店の八代目の御主人は清良さん(昭和5年生まれ)。清良さんで八代目だから、今から軽く200年前、創業は文化年間だろうか。息子の誠太郎さんも共に働いていた。豆腐屋さんが一番気を使うのは製品の仕上がり具合である。「毎日作る豆腐が自分の気に入ったように出来れば、病気になんかなりませんよ」それ程出来上がった製品には神経を使う。ニガリの塩梅次第で結構変わってしまうという。

※誠太郎さんが家業の跡を継ぎ、次男が役所で働く加岸の中野さん、三男がましやの隣のトータルハウジング中野ということ。誰か教えてくれりゃいいのに、やっと今年理解できた。知っている人からすると「中野のシュウちゃん」という一言で終わる話だが、ウチの親父からも今年聞いた。

95b784ab.jpg


加藤表具屋
側の仕事台は長年の風雪に耐えてきたものらしく角が取れどっしりとしっかりしていて、加藤米吉さんをここまで支えてきた生き物のように思えます。また周りの長押には糊刷毛や節の数々、いかにも職人さんの仕事場でした。お店は流山で有名な、手焼きせんべいの神田屋と高山せんべいの間に挟まれた間口より奥に深いお宅です。

e41facac.jpg


天然ウナギから養殖ウナギへ、江戸屋
流山には川魚の店が多かったが現在、うなぎ専門店は加岸の江戸屋だけ。御主人の秋谷さん(昭和20年生まれ)が子供の頃から、うなぎ専門店だったと言うが、大正6年生まれの父親が始めた川魚の店がそもそもの事始め。だが、屋号の江戸屋というのはその前からで、元は下駄屋だったらしい。屋号の由来は江戸川からなのか江戸時代からなのかはっきりしないという。

c49ca9b3.jpg


辻印刷の中でバーサンと盛り上がった。90歳を越えているそうだから大正生まれということか、このバーサンも若い時にはウチの店で買い物をして、ウチのバーサンと楽しくやってたみたいだ。となると俺の得意の昔話ですか、今は亡くなっているヤマセイの先代の話も、まだ生きているウチのジーサンと同級生なのよね。ということは山崎医院も加藤屋大店の先代も同級生となりますね。早生まれなので大正8年度生まれとなりますね。

ここ辻印刷の旦那は一つ下の学年だったようだ。ただでさえ商工会で、どうしても付き合いのあった人の孫として、普段会わない人との出会いも祭りにはつきもの、ここの孫も祭礼の時には泊まりで帰省するんだとか。さかえ食堂の小島さんという大きなサポート(牧場から牛乳とっていたんだそうだ)もあって花火が上がるまでここにいた。誰が神輿に乗ったのか今となってはわかりませんが、写真を期待していた方にはスイマセン。

この動画を見ているとジンジさんだね

カキモチからも話が広がる
7455b1ef.jpg


戦前の加岸大杉神社祭礼では宵宮でも本祭でも、前を歩く親とかの帯をずっと持ってないとはぐれちゃうような賑わい、すぐ迷子になっちゃうような人の混みようだったようで、牛馬での行商も多かったそうだ。当時車なんて高級品、リヤカーが最も便利な移動手段の時代のこと。

下総五凰会の初代会長は先代のカネキ地所さん、二代目会長は小澤大工さん、三代目が先代の中政さん、四代目が中野さん、五代目が高橋さん。六代目が森田さん。七代目として新代表の渡辺さん。祭礼に深く関わる家だからこそ根郷浅間神社祭礼後の安全協会への接待は中政で行われる。(先代と書くと、亡くなっているみたいたが、みなさん亡くなってはいない)

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村


平成27年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その6
利根川の布施河岸と江戸川の加村河岸を結ぶ陸路は、我孫子の布佐河岸から松戸の小向河岸の鮮魚(なま)街道とともに、江戸時代からの重要な物資(主に鮮魚)の輸送路で大江戸の台所を潤しました。鬼怒川や小貝川上流から運ばれてきた穀物、さらに利根川の沼地で捕れたうなぎや鮭などは、布施河岸で荷馬に乗せて 15Km の陸路を4時間ほどかけて流山の加村河岸に運び、再び高瀬舟に積替えて江戸へ送りました。

この街道は諏訪神社への参詣者が往来する、信仰の道でもあったため諏訪道と呼ばれました。東葛地方で広く信仰をあつめ、江戸からも大勢の崇敬者が来るようになりました。矢河原(やっから)の渡しがあった加村から加村大坂を登り、流山人形供養発祥の地である本行寺、幕末の浪士須藤力五郎が眠る光照寺、を通ります。

柏市高田の水切り場跡、利根川と江戸川の中間地点である高田の水切り場は、荷を運ぶ馬を休憩させ、鰻は生きたまま運ばなくてはならないため、生け簀に籠ごと放して水に戻すことにより、生気を蘇らせる重要な役割をしていました。

71b5f4a3.jpg


三徳牛乳店は三河屋呉服店の分家である。三河屋といえば明治の頃は流山で一番最大の規模を持つ呉服屋で毎日馬を引いて買い物に来る客でごった返していたもの。娘の嫁入り支度は三河屋で一式揃えるのが当時、流山の親たちの自慢であった。買い物が済むと奥の座敷で料理が出るが、それはお買い上げの額によって異なり、村人によってはそれがまた何よりの楽しみであった。しかしこの大店も大正初期には潰れてなくなった。

92824452.jpg


千疋屋時計店「開業して130年になります」
店番をしていた弘子さんが言う。と、なると明治10年頃の創業であろうか。千疋屋は元々加岸の大杉神社の向かい側にあった。扱う商品は食料品、雑貨、それに洋傘など洋品も売る、流山でも一、二を争う繁盛した店だった。その他ドイツやアメリカで製造された時計も扱い、その修理もした。当時時計は高価な商品、財力と信用がなければ店開きできない。

創業者は鈴木卯八さん。なんで経営者が秋元家から鈴木家になったかは複雑である。簡単に言えば世継ぎが絶え、親戚筋が引き継いだのである。卯八は家娘きよのところへ、江戸川の先の西宝珠花から養子に来た。二代目は啓助。この方は八潮市の柳の宮からやはり養子に来ている。

00652faa.jpg


玉ノ井大工の兄貴と狩野さん

玉ノ井兄弟の叔父さんが玉ノ井畳屋さん、保存会でも活躍
b4fbf8ef.jpg


広小路の居酒屋ホッペ
江戸時代から物流の要所として賑わった流山広小路界隈も、時代が変われば役割も変わる。広小路の居酒屋ホッペは大規模開発されてない街の中で人が集まり、街の人々が安心して関係を深められる居酒屋なのだ。神輿渡御はウチの親父など代表者が集まって毎年何回も打ち合わせを繰り返し、その年ごとに柔軟に対応しなければいけない。その打ち合わせの帰りにはここに集まり、お土産に焼き鳥を持って帰ってくる。別に特別にイイ鳥を使っているわけではなのだろうが美味しい、御主人の腕によるものだろうか。

2c2852ce.jpg


あんばせ屋、蝦夷夢
あんばせ屋のスープカレーは、札幌スープカレーの名店「蝦夷夢」の味を受け継ぎ、昆布、玉ねぎ、椎茸の石突き、魚介などからうま味をじっくりとっています。食品添加物を使用せず、素材そのものの味を生かすスープがお店の味の秘密です。ぜひ、本場のスープカレーをお楽しみください。スープカレーの本場である北海道のお店「蝦夷夢」(札幌)の味を受け継いでおり、昆布・玉ねぎ・椎茸の石突き、魚介などからじっくりうま味をとっています。食品添加物を使用せず、素材そのものの味を生かすスープが味の秘密です。

d6ba4daa.jpg


広小路から少し根郷方向へ、これは広小路という道路が厳密に加岸と根郷を分けるものではなく、加岸の集落の家が少しあるからだ。なので加岸に住んでいる玉ノ井大工の弟さんや新川屋さんが休憩の準備をしている。もちろん娘さんや親戚の方々もお手伝い。加岸に河岸があった、とは聞いていたが河岸問屋が新川屋さんということが勉強によってわかりました。正確な境目は蔵日和の脇の道ですね。

c56d806d.jpg


このタイミング

これは写真を撮れと言われている気がした
d48504e7.jpg


加岸と根郷は江戸時代からの物流で栄えた商人の街、だから加岸大杉神社の祭礼と、根郷浅間神社の祭礼は今の季節の夏祭りなのだ。その点宿赤城神社の氏子衆は田畑を耕す農民の街、なので田畑の収穫が終わった後の秋、十月の収穫祭なのだ。アメリカ流に言うとハロウィンとも言える、なのでこのブログもなんとなくハロウィンの仕様にしている。




この光景が祭礼のもう一つの姿と言えるものだろう、人が集まり適度に動くと酒がうまい。新しい住人も先祖代々の住人とも差もない、話すことなんて何でもいいんだよ、むしろこんな中で一人で真面目な話も必要ないし。日本独特ともいえる美しい姿だろう。酒は本来神聖なもの、さらに酒の歴史は見事に流山の歴史とも言えるもの。

去年味醂二百年祭が終わったが、これは二百年以上前から流山が酒どころとして栄えていた事。酒造りの醸造技術が味醂作りとした産業に変わって現在でも味醂工場が稼働している。工場があるということは代々のしっかりとした雇用が生まれ、市場規模も安定しているということ。だからこそウチみたいな小さな商店も生きていける。

5cc138e7.jpg


赤城保存会の方々
dc298139.jpg


ホッペのオヤジに締めてもらって
2aac0a6b.jpg


もうここまで来たら理屈はいらねぇ、男と男の担ぎ棒の取り合いが始まる。ルール無用の殴り合いが喧嘩と言うなら、ルール守っている中での担ぎ棒の取り合いは、スポーツとも言えるんじゃないかとも思う。力自慢の人たちが集まる神輿担ぎの連中の、一年に何回しかない大人の遊びなのだ。担ぎ場所の取り合いも、外から見れば喧嘩に見える場合もあるが、本人としてみれば腕相撲と大差ない力比べなのだ。

ここからクライマックス

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村


平成27年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その5
神輿はまだここなのよね。

1823edaf.jpg


四ツ葉会新メンバー

生きた英語を教える、アンドリュー
四ツ葉会のマークさんの妻、カオリさんが非常勤講師をしている、おおたかの森小中学校の職場の同僚で、紹介という形で四ツ葉会に新加入しました。一緒に写っている高村夫妻の旦那さんはお囃子をやってみたいんだそうだ。宮入り後に赤城保存会の大場さんと話をしていたが進展したのかな。

13ca09ed.jpg


小沢大工さん
今現在俺らがこうして色々な組織で楽しんでいられるというのも、文化財としては絶対に表に出ることはないが、今では引退されている先人たちの礎があり、カドキヤさんや新井さんのような人が組織を整備してくれたからということも忘れてはならない。神輿会としては五凰会としてジンジさんの親父さん、皆下の名前で言うけどこのブログでは渡辺さんとしておく。渡辺さんが五凰会の初代会長で、加岸に引っ越す前には宿(みち草の所と聞く)に住んでいて消防も第一分団に所属していた。これは実家がカネキヤだからねぇ。今年初めて挨拶しちゃった、新井さんと同時期のメンバー。

57abc730.jpg


去年祭礼時の記事の時に、もっと神輿担いでいる写真を撮れ、と言われたのが印象に残っている。これは自分の写真が欲しかったのもあるだろうが、祭りが生活の中で大きな位置になっている神輿の担ぎ手としてみれば、あくまで神輿渡御の中心は神輿。しかし俺の立場からは一番大事にしたいのはこの場、酒を飲んで関係を深める、この場で誰と何を話したかということが将来の自分の姿へつながっていく。逆に言うと、この15年間この場を大事にしたから今の俺がいるといってもいいのかもしれない。

これは新しく引っ越してくる住民としても同じ事が言えるんだと思う。引っ越してきて付近の行事から近所の輪が広がっていく。地域の文化と伝統を受け継ぐ、という大きな言葉じゃないのかもしれないが、しっかりした後継者として将来へ。実際に小沢大工さんや渡辺さん、うちの近所のカドキヤさんや新井さんなどはすでに神輿の担ぎ手としては現役を引退している。これは黙っていても時間は進んでしまう、ということ。将来のために少しでも準備はしておいて損はないって事よね。

a183b45c.jpg


五凰とは加岸大杉神社、根郷浅間神社、加台大宮神社、宿赤城神社をそれぞれ鳳凰にたとえ、それらを統べる大きな鳳凰の意味で下総五凰会の名前が付いた。赤城四ツ葉会設立にも下総五凰会に所属していた地元数名が中心になって動いてくれた、偉大なる先輩ということだろう。この後各地区を元にして各神輿会が整備された。俺が生まれる全然前の話。五凰会は神輿会同士の連合団体にも所属していて加岸大杉神社の祭礼には外部の団体も集まるが、この桜連合の方々も多く集まる。

小沢神社総代ありがとうございました
60ba54f0.jpg


神事としてだけではなく毎年神輿渡御を行うというのは災害時の防災対策にも効果はあると思う。日本は自然災害が絶対にある国、地震や津波などの自然災害は、時として、想像を超える力で襲ってきます。俺が生まれ育ってきた中でも大震災と呼ばれるクラスの地震が複数起きている。

871db0af.jpg


災害による被害をできるだけ少なくするためには、一人一人が自ら取り組む「自助」、地域や身近にいる人同士が助け合って取り組む「共助」、国や地方公共団体などが取り組む「公助」が重要だと言われています。その中でも基本となるのは「自助」、一人一人が自分の身の安全を守ることです。

特に災害が発生したときは、まず、自分が無事であることが最も重要です。「自助」に取り組むためには、まず、災害に備え、自分の家の安全対策をしておくとともに、家の外において地震や津波などに遭遇したときの、身の安全の守り方を知っておくことが必要です。また、身の安全を確保し、生き延びていくためには、水や食料などの備えをしておくことも必要です。

428fe5d7.jpg


津波や原発事故があった地方では消防分団の方達がパトロールをするなどして自主的に活動していたようだが、災害時小学校の体育館に避難しても、毛布などを備蓄してある倉庫からどうやって運搬する、特にウチの地域では高齢化が著しい地区、そんな時に大切なのが動ける若手という存在。

地区で認知度高く、世代を超えて顔が売れている人物の存在が大きな意味を持つ。食料の手配など国には齋藤健さんが働きかけてくれるだろう。県へは同様に武田さんが、おっと小宮さんもいるので忘れてはならない。毎年赤城神社の盆踊りには踊りに来ていますね。




俺だけではなくここにいる御輿を担いでいる一人一人が自分の立場と役割をしっかりとこなすだろう。小学校の先生は子供達を落ち着かせ、料理人が調理をし、流鉄職員が電車を動かす。市役所のサラリーマンが人脈を活用し、水道局の職員が水道の復旧を目指す。

大工が家を直し、工具の整備は磨屋がいる。鳶が重機を動かし、引退した大工もまだまだ動ける。大量の商品の運搬が必要なスーパーマーケットよりも農家と直接取引をしている個人商店の顔は大きな武器で、災害時には各商店の備蓄倉庫はとても大事な役割を持つ。タオルならウチにあるからね。




実際に東関東大震災の時にケーズデンキやイトーヨーカドーでは乾電池が売り切れていたが、駄菓子屋あずまやには置いてあった。同様にイトーヨーカドーやヨークマートでは数量限定で米を買い求める行列が出来ていたが山崎清八商店には外から見えるほどに米袋が積んであった。

災害からの復興という面で見てみると犠牲者の慰霊という所から始めるのだろう、墓地の石屋がいるのだからお寺の坊さんもこの中に入れられないか、光明院の住職は法事で色々大変そうだから三人の子供達の十五年後に期待してみよう、それにしても俺もかなり適当なこと言ってるよな。




神社の氏子としても町会との連携なんて災害時の予行としても効果はあり、連絡系統の確認、平穏な日々の秩序を生み出す。色々な事を考えてみても毎年顔を合わせて御輿を担いでいるということはイザという時に、自分が町会のジーサンバーサンのために動くという事になる。

議員の人達は自分達の実績のためでもあるが街の人達のために動く、そのために選挙で選ばれているという事、市民の目線では市議会議員がいて、生活の中で市へ要望等を届けてくれている。祭りで各議員などと連携を深めておく事も家の跡取りとしては大事な仕事。それにしても考えれば考えるほどに、日本の祭りって上手くできてるもんだな。

下総五鳳会会長、渡辺さん



交番の裏は道が狭い
この交番も水運時代の表通りから場所を移した建築物だ。時代背景は戦後、道路を整備して開発しやすいように造成した。村と村の間の農地は無くなり新しい住所としての違いしか無い物となっている。俺が生きてきた平成時代なんかコンクリートで整備された後しか知らなかった。今だからこそ自分の生まれた土地のことをもっと良く知るべきなのだろうと思う。




流山街道の加岸の方もウチの親父がバイク乗ってた時(と、言うから昭和40年代後半)は全然舗装されてないジャリ道で、当時は田んぼを区切る道でしかなかったから、ボーイスカウトの出身者で神田さんの家に集まる、忘年会の時に車が消えた事(田んぼに落ちた)があるようだ。時代は変わってもやってることは同じ、平成時代に時代を変えてみても、俺も高校の同級生が全力でウイリーしたまま田んぼに突っ込むバイクは見ている。あの頃は主水あたりはまだまだ田んぼが広がっていたからね。




雨なので山車は手動
単純に考えてみても、ウチの親父が育ったのは戦後の経済成長の時代、戦前世代の人間はまだまだたくさんいて、子供もウジャウジャいた時代、これが今現在は少子高齢化が止まらない流山本町、たくさんいるご年配の方々の期待は俺に寄せられているということ。期待に答えなければならないだろう。物事も自分の目線でしか判断できない人も多い、たった一つの世代だけが住んでいる住宅街ではないからこそ俺の価値も上がる。

bc555542.jpg


秋には木ノ村さんと大塚さんとの写真も撮れるかと思う

四ツ葉会の半纏、お買い上げ頂きました

写真撮り過ぎか、一気に行くよ

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村


平成27年、加岸大杉神社祭礼

神輿渡御その4
かごやの先代の御主人、金子栄蔵さんは大正3年生まれ、タッパタという屋号の豆腐屋生まれの三男だった。この時の商売というものは常連さん(間違いなく取引があるところ)は長男が引き継ぎ、次男が新規開拓、お互いの商売のテリトリーを荒らさない(取り合いにならない)ように、さらに先代から言われていたようだ。そしてタッパタという屋号は田の端(ハタ)という意味、田の端でここまでは大水の洪水は来るが、ここから先は大丈夫だったという。

8876b693.jpg


三男金子栄蔵さんはかご職人のもとへ奉公に出され、昭和18年ここでかごや商店を始め、昭和26年に食料品店に衣替えしたのでこんな変な店名になっちまったと大笑い、愉快な方である。食料品店になる前の昭和22年には駄菓子屋や乾物屋も扱う、これはかごやとしての商店の立地を生かした形だ、県庁も一時置かれた流山本町は水運で栄えた時代から江戸川沿いの道二本だけの街だった、広小路三叉路を中心として各方面から農民が米を出荷して、必要な肥料、クワやカマなどの農具を買って帰っていく。その帰り道の客相手に駄菓子やトコロテンを扱っていた。当然の事ながら新川村や下花輪の方向の村に帰る人達は店の前を通ることになる、休憩場所として商売の形が変わっていった。

外部の団体が結構な金額を落としてくれているということ
6c1fdf3d.jpg


神輿が来た、ここはもう小谷米屋の前



もう一つの諏訪道を進む。第二の諏訪道は小谷商店の蔵との間を通り、県道松戸流山線、流山街道を横断する。すると道はややS字にカーブする。この辺りまでが証文土手の跡。今は住宅街になっているが、この資料の当時は「この細く曲がりくねった林の中の道」と表現されている。加村河岸のあった島は、年に何回かある大水の時には水没する。その時にはこの道が、諏訪道本道と比べられないほど量はわずかだが使われた。




諏訪道との合流地点は、割烹せきやの先、会田商店の先、三栄設備工業、またはシクラメン直売酒巻園芸のところあたり。諏訪道のここいらの商店には各店に古びたガソリンスタンドの施設があった。これは免許を取り、車通りの多い県道だったということ。戦後すぐぐらいまではこの道も大事な役目を持っていたんだろう。その後国道六号が基軸道路の役割を引き継ぐ。

1451bc97.jpg


もう一つの諏訪道は美和公園の脇へ

加の四丁目に入っていきます



田舎町はとても繊細で強固な家と家との結び付きによって成り立っている。個人の感情などよりも優先しなければならないことも多く、我慢を強いられることも多くある。俺自体将来を期待されている若手といえども、一人は単なる歯車に過ぎず、いざという時には自分の感情を押し殺して街の機能を回すために動くことも多い。

もっとも、このような街が嫌で独立したっていう人も多いんだろうし、都心へ出ていってベッドタウンとして流山に家を買った人もいるんだろうと思う。時代も場所も代わったとしてもどうせ同じ日本の中のこと、新住民には新住民の目線があり、祭礼をどう感じるかも個人差は大きいんだろうと思う。

bf52e06d.jpg


俺の目線から見てみると、この祭礼の場とは日本の政治そのものと言えるものかもしれない、政治をまつりごととも書くが、みな自分の立場と役割を感じ、どう社会のために生かしていけるか、その年ごとに自分のポジションや仕事に細部を微調整して、そんな事の毎年の勉強の場であり、同時に発表の場でもあるのだと思う。

生まれ育ちが違えば求められる能力も違い、もちろん完成形も違うわけで、そうなると生活そのものが違ってきます。それを変に一緒にする必要もない。マンション育ちの駅前コミニティとはそもそも住む世界も見ている世界も違うのだ。家同士の関係とは生まれた時にはもう決まっている事もある。




その村の人間関係を受け入れられないで自分の好きにやりたい人達は独立してゆく。これは単に独立と言う表現じゃなく、人によっては逃げ出したかったという人もいるはずだ、だからこそ代々のコミニティの中で自分を合わせて生きていっている人達が評価されるというもの。

実家から独立すればムラ社会のしがらみに悩まなくていい、人間関係に自分のサイズを合わせる必要もない。それを裏付けるように、男は独立してこそ一人前という言い訳。これも戦後社会のたった一つの世代で変わっていった常識だろう。会社とすれば引越しに慣れていてる方が会社都合の転勤など何かと使いやすい。

2ce0e171.jpg


さらに土地は値段という概念に縛られる。日本は江戸時代から続く東京一極集中の国、都心に通いやすい場所に高い値段が付く。この当時は江戸川の水運という路線が都内への最良の交通手段だったのだが、現在は鉄道路線へと変わっていった。水運で栄えた街は大規模開発されることなく現在まで残っている。

ただ流行は変わっていくもの、平成二十年代後半の現在は、その土地の歴史文化伝承などをもっと知って誇りを持って生きていこうと変わってきている。となれば戦前回帰、時代が求めるのはここにいる代々の流山の住人じゃないか、流行に遅れすぎていて一周回って最先端になってます。

a40450b0.jpg


この祭礼の場でも俺が見てきた20年間で一部、年をとったメンバーの引退などあるが、あまりメンバーは変わっていない。これはどのようなことを指すのか、はっきり言うと20年後もあまりメンバーは変わらないというもの。違うことといえば流山本町の一つ一つの自治会長などで肩書きがある状態で顔を合わせる事になる。

何十年後までずっと付き合いのある街の住人として、個人としてだけではなく、家族まで含めての変わらぬ家同士の関係は続いていくというもの。そして黙っていてもまた夏は来る。今は写真撮る、という小さな役割だが次第に認められ大きな仕事を任されるようになる。影響力は次第に大きくなり、実際に地元の宿では代わりがいない存在になっている。

7d823f11.jpg


そういや20年前の、俺が中学生だった時代にはこの周辺もまだまだ空き地が多かったね、戦後のたった一つの世代に限らず、加の四丁目にはこれから新築住宅を買おうとする人も多いんだろう。今現在においてはニーズも多様化し、一つの世代のマイホームという言葉もあれば二世帯、三世帯同居という家庭もある。

神社信仰という最も地域に根付いたコミニティに若い時から参加し、小さな下働きをしていけば確実に自分の将来への上積みということだけではなく親孝行にもなる。俺の存在によってウチの親父も鼻が高くなっているのかね、この日が父の日だったということにも関連して、平成生まれは親孝行をしたい人が多いそうだから、こんな切り口の文を残しておけば参加したい人も増えるのかもしれんね。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ