でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2015年01月


阿炎、しこ名は師匠のニックネーム

堀切洸助が十両へ
大相撲初場所で西幕下2枚目の地位で5勝2敗の成績を収め、1月28日の春場所(3月8日初日、大阪・ボディメーカーコロシアム)番付編成会議で新十両昇進が決まった堀切改め阿炎(あび、20=錣山、埼玉県越谷市出身)が同日、東京・両国国技館で、師匠の錣山親方(51=元関脇寺尾)とともに、記者会見に臨んだ。

千葉・流山南高時代は、高校総体でベスト16入り。卒業後の13年夏場所に初土俵を踏んだ。2年足らずでつかんだ関取の座に、会見中は何度も「もう、うれしいだけで…」の言葉を発した。錣山親方は「稽古場ではビックリするほど本当に弱い。三段目のトーナメントをやっても優勝できないし、初場所も全敗すると思った」と指摘する一方で「相撲度胸と相撲勘は持って生まれたもの。

稽古場以上の動きを、本場所の土俵でできてしまう」と天性の相撲っぷりを称賛した。改名した、しこ名は師匠の生まれた時からのニックネーム。「『アッ、ベイビーだ』から付きました。阿修羅(あしゅら)のように燃えて戦え、の思いを込めて」と未完の大器に期待した。

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新十両に阿炎、天風、石浦
日本相撲協会は1月28日、東京・両国国技館で春場所(3月8日初日、大阪・ボディメーカーコロシアム)の番付編成会議を開き、新十両に堀切改め阿炎(あび=20、錣山、埼玉県出身)、川成改め天風(あまかぜ=23、尾車、香川県出身)、石浦(25=宮城野、鳥取県出身)の3人が昇進した。日大出身の石浦は鳥取県出身力士としては元横綱琴桜以来53年ぶりの関取。再十両は琴恵光(23=佐渡ケ嶽、宮崎県出身)と希善龍(29=木瀬、香川県出身)の2人。年寄「立田川」を襲名した元小結豊真将(33)ら19人の引退も発表された。

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小学3年生の頃から相撲を始め、草加相撲練修会で力を付けた。越谷市立大相模中学校に在学していた中学生時代には、第39回全国中学校相撲選手権大会において、個人戦で3位に入賞した。その後、地元を離れ相撲部の強豪、千葉県立流山南高等学校に進学し、相撲部に入部。

同校出身の同級生には大翔鵬(追手風部屋所属)がいる。高校総体ではベスト16に輝いたこともある。高校3年生のとき、第61回選抜高校相撲十和田大会において、個人戦で3位に入賞。ちなみに準決勝で敗れた相手は、イチンノロブ(のち逸ノ城)である。



卒業後、相撲部の監督が錣山と親しいことから錣山部屋に入門。埼玉県越谷市出身で、錣山部屋所属の大相撲力士。身長185.5cm、体重123.5kg。2013年5月場所に初土俵を踏み、前相撲で一番出世。序ノ口で迎えた7月場所では蘇に敗れただけで6勝1敗。

序二段で迎えた9月場所では7戦全勝で優勝を成し遂げた。三段目で迎えた11月場所では4勝3敗に終わったものの、翌1月場所では再び7戦全勝で優勝を成し遂げ、初土俵から所要5場所で一気に幕下上位となる西幕下13枚目へと駆け上がった。三段目優勝1回、序二段優勝1回。

その後も殆どの場所で幕下上位を維持し、2014年11月場所には東幕下11枚目の地位で6勝1敗の好成績を上げ、翌2015年1月場所には関取目前となる西幕下2枚目の地位で5勝2敗。場所後の番付編成会議で、3月場所での新十両昇進が決定された。十両昇進と同時に、それまで本名のままだった四股名を「阿炎」に改める。

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錣山部屋
錣山部屋(しころやまべや)は、時津風一門に所属する日本相撲協会の相撲部屋。2002年9月場所限りで現役を引退して、以降は井筒部屋の部屋付き親方となっていた年寄・20代錣山(元関脇・寺尾)が、2004年1月27日付で2人の内弟子を連れて井筒部屋から分家独立して錣山部屋を創設した。

2006年12月に東京都江東区に部屋を構えた。現役時代に人気力士だった親方の部屋ということで、部屋創設1年で所属力士が10人を越え、現在では20人以上が所属する大規模な部屋となっている。2006年1月場所において豊真将が新十両へ昇進し、部屋史上初となる関取が誕生した。2013年7月場所には青狼が新十両へ昇進した。

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流山出身ではないものの高校は流山南高校、さらに所属している錣山部屋の親方は元関脇・寺尾ということで、流山の郷土力士である吉登と同期なんですね。吉登は江戸時代から続く千葉県最古の布団屋の末裔のはまあげさん、親戚の布団屋の新品の布団を持って相撲部屋に入門した。となれば、意外と知らない相撲の世界の記事に書いた大翔鵬と同様に流山ゆかりの力士と言ってもいいのかもしれない、今後に期待したい。

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昭和60年1月30日、森下悠里誕生日

血液型A型
森下悠里は日本のグラビアアイドル。所属事務所はASCHE(アッシュ)。3人兄弟で3歳と6歳年上という2人の兄がいる。2人目の兄は学生時代にモデルをしており、タイではその兄が出た広告のラッピングバスがあったという。この兄2人と両親も森下と同じ広島の中高一貫に通い、両親はこの学校で出会ったと話している。

過去の雑誌インタビューやネットでは広島県出身とするケースもある。この学校は非常に自然豊かな環境で「熊が朝ゴミを漁っていた」「タヌキの子供をカバンに入れて教室に持ち込んだ」などという内容で話すことが多い。

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「J君」という名前のキャバリアキングチャールズスパニエルを飼っている。憧れの人は、チャン・ツィイー、川原亜矢子、SHIHO、安室奈美恵。NASAエンターテインメントの公式プロフィールによると、スリーサイズは2006年2月のB88cm・W58cm・H84cmから、現在のB90cm・W55cm・H90cmと変化している。

デビュー当時のヒップは79cmだったが、20歳になってから急激に大きくなり現在のサイズになった。2013年9月4日の『今夜くらべてみました』にて服の上から実測したところ、B84cmと大きく差があったことがわかった。秘書技能検定二級、パソコン技能検定2種二級、サービス接遇検定三級、ビジネス実務マナー技能検定二級など数々の資格を有する。

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2013年7月7日放送の日本テレビ『有吉反省会』にて、身体にメスを入れてはいないものの自らプチ整形(目の下のクマ取り、鼻の頭へのヒアルロン注射、歯の矯正)していた事をカミングアウト。更にデビュー当時の倹約な振る舞いも「庶民的な発言をする様に(事務所サイドから)言われていた」事を告白した。

フジテレビの深夜番組『グラビアトークオーディション』にてにおいフェチであることを告白。1985年東京都八王子市出身。父親は埼玉県、母親は東京都出身で実家は埼玉県。小学校までは八王子と埼玉で育ち、小学校6年間は埼玉県で育ったという。中学校からは広島県賀茂郡の中高一貫の全寮制学校に進学し、高校卒業までの6年間は広島で育った。

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カプコンの完全新作『忍者アームズ』

ゲストの森下悠里さんがセクシーすぎる
CAPCOM Mobileのオリジナル完全新作『忍者アームズ』の全貌が明らかになるスペシャルステージに行ってきました。スペシャルゲストも登場して、いろんな意味でドキドキのステージとなりました。

セクシーなゲスト登場!
『忍者アームズ』はその名の通り、数多くの忍者によるカードバトルです。まずプロデューサーの伊藤幸正氏が登場。プロモーションムービーが流れたのち、実機でのデモンストレーションが行われました。このときゲストとして登場したのがグラビアアイドルの森下悠里さんです。セクシーな忍者のコスチュームを身にまとっての登場に会場にいた男性達は花の下を伸ばしまくり。実にけしからん!悠里さんもグラビアや映画のお仕事の合間にはよくケータイのゲームをやっているそうです。

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従来のカードゲームとの違い
伊藤プロデューサーの指示のもと、悠里さんがアプリを操作して実際のプレイ映像が映し出されました。スマホのタッチ操作を活かして、カードをドラッグして敵に攻撃をしかけ、そこから派生した技でさらに周囲の敵をも攻撃し、うまく連携を繋げて勝利していきます。

敵の配置から連携が繋がる場所にカードを置く必要があり、カードバトルといいつつパズルゲームの要素もあります。操作自体は難しくないので誰でも手軽にできるゲームです。それにしても悠里さんがプレイ中、やたら胸が強調され、ついつい画面より胸元に目がいってしまいます…実にけしからん!

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声優、アニメーション、絵師がすごい!
ビジュアルにこだわったカードが多数登場する本作。セクシーで個性的な絵にこだわったそうです。人気作家とのコラボも予定されているとか。ゲーム中に流れるアニメーションは「創聖のアクエリオン」や「マクロスF」でお馴染みサテライトが制作。ボイスも付いており、緑川光さん、沢城みゆきさん、森川智之さん、杉田智和さんが起用されているそうです。プレイの際はヘッドフォン必須ですね。

なお、TGS期間中に試遊台で本作をプレイするとオリジナルノベルティもゲットできるそうです。会場に行かれる方はカプコンブースに足を運んでみてはいかがでしょうか?

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高校は非常に厳格なキリスト教系(プロテスタント)の共学高校だった。高校卒業後、東京の跡見学園女子大学短期大学部に進学。客室乗務員を目指していたが、跡見学園女子大学短期大学部卒業後2005年、知人に誘われNASAエンターテインメントの立ち上げとともに入社。

デビュー前には、銀座の高級クラブや六本木のキャバクラでアルバイト経験があり、ひと月の最高で売上げ2000万を出す等、No.1になった実績がある。その後、読者モデルなどでグラビアは『HIP&LIP』の表紙でデビューした。現在はASCHE(アッシュ)に所属する。

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ユネスコ認定へ一役

仏・写真家が「アマメハギ」撮影
世界各地の独特な装束などを題材に撮影活動をするフランス人写真家シャルル・フレジェさん(39)が石川県輪島市と能登町を訪れ、国指定重要無形民俗文化財の「アマメハギ」を撮った。日本の伝統行事や祭礼を紹介する写真集の取材。仮面や仮装による「来訪神行事」として、ユネスコ無形文化遺産登録を目指す奥能登の風習の発信にも一役買う。

フレジェさんは、世界の祭礼や民俗行事に注目した仕事で知られ、各国のギャラリーで多くの個展を開催。人類学的な視点を持った詩的な表現が評価されている。国内では力士をテーマにした個展が二〇〇五年に横浜美術館で開かれた。

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日本の伝統行事で初めて知ったのは、秋田県の「なまはげ」。能登のアマメハギは日本の知人やブログで知って興味を持ち、鬼のような面やわらで作った衣装など共通点の多さにも関心を抱いた。「仮装した人が家に入り、子どもを怖がらせる祭りは欧州でも多い。身近に感じた」と、四十~五十近い行事を盛り込む写真集の中に県内で唯一、採用を決めた。

てんぐやサルなどの面を着けた若者が家々を回る輪島市門前町皆月では、保存会から衣装を借りた地元有志の協力で撮影し、「面が多彩で驚かされた」と話した。能登町秋吉でも、二月三日の本番を前に、鬼に扮(ふん)する地元の小学生四人を収め「伝統を継承する存在の重みを感じた」と感心した。

「写真から田んぼや山、竹やぶなどが調和する能登の自然の魅力も伝えたい」と、二カ所で三時間半に及んだ撮影を振り返ったフレジェさん。「もちろん、本番のアマメハギもいつか見てみたい」と望んだ。

アマメハギとは奥能登に伝わる伝統行事。アマメは、いろりや火鉢に長くあたっていると足にできる火だこで、はぎ取る妖怪がアマメハギ。怠け者をいさめる意味があるとされる。仮面や仮装による風習が残る全国9市町は昨年10月、ユネスコ無形文化遺産登録を目指す「来訪神行事保存・振興全国協議会」を発足させた。

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アマメハギとは、立春前夜、節分の夜に子どもたちによって行われる伝統行事。子どもたちは、自分で作った鬼の面を着け、箕、前垂れをあて、サイケと呼ばれる桶と竹で作った包丁を手に家々をまわる。その際「あまめ!」「怠け者はおらんか」などと子どもたちに聞かせ、冬の間の怠けた心を戒める。秋吉地区では、この大切な行事を後世に残そうと、昭和44年に「アマメハギ保存会」を結成し、保存・伝承活動を行っている。

この保存会の会長を28年間務めているのが、秋吉の天野登さんだ。天野さんは、「自分が子どものときのアマメハギは本当に楽しかった。今の子どもたちにもアマメハギを楽しんで欲しい」と話す。アマメハギは昭和54年2月3日、旧門前町皆月地区に伝わる「あまめはぎ」と、輪島市に伝わる「面様年頭」と合わせて「能登のアマメハギ」として国指定重要無形民俗文化財に指定された。

門前・輪島の行事は 1月に行われるが、アマメハギは節分の日、2月3日に行われる。「節分は季節の 分かれ目。アマメハギは季節が変わってもいつまでも怠けていてはダメやと教えてくれる行事」と語る。天野さんは「鬼はこわいものではない。「能登はやさしや土までも」の言葉のとおり、鬼もまたやさしい」と感じている。

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国指定文化財となリ、アマメハギが新聞、テレビ、雑誌などのメディアに取リ上げられるようになると、撮影に訪れるカメラマンも年々増えてきた。「カメラマンに色々注文を付けられる子どもたちがかわいそうで、取材を断るときもある」という。「アマメハギは芸能ではなく、伝統行事として残していくことが大切」との思いからだ。
 
天野さんの保存伝承活動は精力的だ。自宅の一室をプチミュージアム「奥能登トリビア蔵あまめはぎ館」とし、アマメハギで実際に使われる道具や天野さん自身が撮影した昔の写真などを展示している。「アマメハギに興味をもって訪れてくれる人に、来て良かったと感動してもらいたい」という天野さんは、71歳ながらもパソコンを駆使してプロジェクターで説明もする。

「自分の活動が少しでも地域の活性化に繋がればと思っている」という天野さんは、町のボランティアガイドとして、グリーンツーリズムインストラクターとしての活動も行っている。「能登半島のこれからはグリーンツーリズム、つまり体験してもらって感動してもらうことが大切になる」と考えている。

「能登の文化をアピールするためには「光」と「音」が大切。キリコ祭りもアマメハギも光と音の文化といえる」と話す天野さん。鬼の面の小さな穴から見える能登町の未来は、きっと光り輝いているのではないだろうか。

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怠け者を戒め、厄を払う民俗行事毎年二月三日の節分に、秋吉、清真、河ケ谷、宮犬の各町内で行われる。小学生が中心となり、節分の夜、豆まきと一緒に行われる。薄暗くなったころを見計らい、小学生たちは手づくりの鬼の面をつけ、手桶や刃包丁を手に一団となって家々を回り、「アマメー」「怠け者はおらんか」などと小さな子どもをおどし、餅をもらって退散する。
 
「あまめ」とは囲炉裏にあたってばかりいると足にできるアザ状のマメのこと。すなわち「怠け者の印で、そのあまめをはぎ取ることで、怠惰を戒め、災厄を払って歩く民俗行事である。秋田のナマハゲと類似しており、石川県内にも輸島市や門前町に同様の風習があるが、節分の夜に行うのは内浦町だけである。内浦町では、昭和49(1794)年に町の無形民俗文化財となり、昭和54 (1979)年に「能登のあまめはぎ」として国の指定を受けている。



石川県能登町
平成24(2012)年1月17日、流山市の市制45周年の節目に、姉妹都市の盟約を結びました。江戸時代には、加賀百万石で知られる前田家の所領に組み込まれ(一部を除く)、その頃には水運を生かした商業などで栄えていた能登町。合併前の旧内浦町には、古くからの酒造りの技を受け継ぎ、日本四大杜氏に数えられる「能登杜氏」が生まれ、時代が下るにつれその酒造技術を生かし全国で活躍するようになりました。

昭和初期には、白みりん発祥の地として醸造業がさかんであった旧流山町に、能登杜氏をはじめとした旧内浦町民が数多く移り住むようになりました。こうした繋がりから、昭和60年ころからは流山市民・旧内浦町民の間での交流が活発に行われるようになり、合併により能登町が誕生したのちも友好関係を醸成させてきました。
 
東日本大震災の発生により飲料水の確保が困難となった際には、能登町からいち早く「のと海洋深層水」が支援物資として届けられ、流山市民の大きな助けとなるなど、多方面で信頼関係を深めています。



平成24(2012)年1月17日、流山市の市制45周年の節目に、姉妹都市の盟約を結びました。能登町は、平成17(2005)年、能都町・柳田村・内浦町が合併して誕生しました。
 
石川県の北部、日本海に突き出した能登半島に位置し、朝市で有名な輪島市に隣接しています。町の東~南側は富山湾に面し、その海岸線の大半は能登半島国定公園に含まれます。九十九(つくも)湾などの景勝地を有する海岸と、陸地の約8割を占める丘陵地で構成される町域は、緑豊かな「里山・里海」の風景を今に残しています。

古くから漁業や商業で栄え、新鮮で多様な海の幸や、揚げ浜という伝統製法で作られる天然塩などが特産となっています。平成15(2003)年7月に能登空港が開港したことから、首都圏から約1時間でのアクセスが可能になり、観光や活性化の追い風となっています。

【町制施行】 平成17(2005)年※合併
【 人  口 】 19,776人(平成25年12月1日現在)
【 面  積 】 273.46平方キロメートル



里山里海の風土
平成23(2011)年6月には、「能登の里山里海」(能登町を含む4市4町)が、国連食糧農業機関(FAO)が定める「世界農業遺産」に認定されました。景観や伝統的な農林漁法、文化・祭礼などが評価されたもので、能登町では、農家民宿の集落でもある「春蘭の里」の豊かな里山景観などが該当しています。

祭りの王国
古から受け継がれた祭りが年間を通じてさかんに開催される能登半島。特に夏は祭りのシーズン、能登の祭りの主役はキリコと呼ばれる大きな奉燈です。能登町の「あばれ祭」は毎年7月、2日間にわたって繰り広げられ、高さ7メートルのキリコ40本以上が大松明の火の粉の中を乱舞する迫力を楽しめます。その昔、悪病が蔓延したときに盛大な祭礼をしたところ、神霊が病人たちを救ったのが始まりと伝えられていて、2基の神輿を海や川に投げ込むなど個性的な神事が、今も連綿と受け継がれています。

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ロッテの“イケメン”捕手・吉田

120万円アップで更改
ロッテの“イケメン”吉田裕太捕手(23)が秋季キャンプ地の千葉県鴨川市でプロ初体験の契約更改交渉に臨み、120万円アップの1420万円でサインした。今季、立正大からドラフト2位で入団。

伊東監督もイチオシのルーキーとして開幕1軍も果たしたが、7月9日の西武戦(西武ドーム)で本塁上のクロスプレーから右足首を負傷(捻挫)。以後、シーズン終盤に再昇格するまで2軍生活を余儀なくされた。



「悔しい思いもしましたけど、自分を見つめ直す時間として過ごせるなど、ファームでの生活も勉強になりました。里崎さんも引退なさって、来季は100試合以上、いや、全試合出場を目指してがんばります」

秋季キャンプ終了後は母校・立正大で自主トレを継続し、年明けには主将・鈴木(大地)らと地方で合同自主トレのプランもあるという。正妻奪取に向け、吉田の2年目は始まっている。

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来季全試合出る
前半は今季限りで引退した里崎に代わり活躍したが、7月上旬に右足首を捻挫したこともあり失速。高卒2年目の田村にチャンスを譲る形となってしまった。「もっと期待していたと(球団から)言われましたが、自分でもそう思います。ただ、あの(ケガ)期間に見つめ直し、ファームで勉強できたこともプラスでした。来年は100試合以上、いや全試合出られるようにしたい」と巻き返しを誓った。

正捕手・里崎智也の後継者問題はチーム長年の課題だった。そこに明るい光を差し込んだのが、このドラフト2位キャッチャーの活躍だ。ときにプロのカベにぶつかりながらも決して下を向くことなく、再挑戦するたくましさを、このルーキーは持っている。

2014年3月9日、本拠地QVCマリンフィールドでのオープン戦。打席に入る際に流れた登場曲がテレビアニメキン肉マンの主題歌。「元気になる曲を」と中村バッテリーコーチによるサプライズだったが、打席に入る本人は曲を耳にして苦笑いだった。ちなみに2014年1月のラジオ番組出演の際に本人は「登場曲を選ぶなら“ロッキーのテーマ曲(Eye of the Tiger)”かな」と語っていた。

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伊東監督「しばらくは無理」

吉田、右足首靱帯損傷の疑い
ロッテの吉田裕太捕手(22)が9日の西武戦(西武D)で負傷交代した。10日に1軍登録を抹消される見込み。吉田が負傷したのは5回の守備。2死一塁から暴投と吉田の二塁への悪送球で、一塁走者の栗山が一挙ホームへ。本塁上でクロスプレーとなり、栗山との衝突で右足首を痛めた。そのままベンチに退き、入間市内の病院へ。

検査の結果、右前距腓靭帯損傷の疑いがあると診断された。後日、精密検査を受ける予定。伊東監督は「足首をひねって動けない感じだった。しばらくは(出場は)無理でしょう」と無念そうだった。

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身長183センチ、94キロの吉田は、攻守にバランスの取れた大型捕手として期待されている。この日は両膝を地面につけて、あらゆるコースのボールに対応できるよう繰り返し練習。上半身の余分な力の抜き方を覚えるのが目的だが、吉田は「初めて教わる内容」と感激の面持ちだった。

千葉県流山市出身の吉田は「地元のロッテに入れてうれしい。いつも全力でプレーし、チームを勝たせる捕手になりたい」と意気込んでいる。大学日本代表の経験もあり「ポスト里崎」の候補だ。スカウト会議で伊東監督は捕手強化の必要性を強調。「短期決戦で捕手の重みを感じた。勝つためにはそこの補強が必要になる」。

ロッテは千葉県鴨川市で秋季キャンプを開始した。伊東監督はセレモニーで「来季はチャンピオンフラッグを掲げられるように一生懸命頑張ってまいります」とあいさつした。体力強化を目指し、走り込みや打撃練習など豊富なメニューを消化した。

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平成27年、新年会

場所はお馴染み、赤城福祉会館
新年会とは、一年の最初(正月)などに行われる、学校や職場などで行われる団体行事である。一般的に、一年の始まりを祝う行事で、酒を酌み交わしたりして、お互の新年の挨拶を行うことが多い。また企業では仕事始めに臨んで、経営方針や目標などを定めることが多い。両方に大きな差こそあるが、新年のはじめに、会合を行うことには変わりはない。

もちろんウチラ親子は先に行って用意。そして外階段のところから出入りして、靴を外階段の出入り口に置いておくと便利、色々なものを運び入れるのも俺の仕事なのだから。そして小島さんを迎えに行って寿司と刺身を取りに行く。立場と役割、メンドくさい裏方仕事の役割も必要。

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まずは準備段階から。何日も前から指示を受けて仕事は理解している。机並べて座布団、コップと紙皿、割り箸を並べる。次は買ってきた物の整理だ、焼酎作るのも俺の役目なのだから。気楽に頼める若いのってのはすぐ作れるようなもんじゃないから、これも大きな長所なんだろうな、何年も培った年月が必要。今ここにいるという事を理解して信頼を積み重ね、将来に生かさねば。

人間関係何でも積み重ね、一気に距離を詰めてもいけない、一気に詰まった関係ってのはそれと同じスピードで離れていくものだから。同じ時代に生きた同級生とは全く違ったものが求められている。向こうはサラリーマンでいることが最低条件なんだろうが、言ってみれば向こうはデジタルこっちはアナログ、数字が出ない分価値が分からない人には何を言っても一生分からないんだろう。

今回からパイプ椅子に
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日本は戦後大きく経済成長した。鉄道空白地帯に鉄道路線を通し、新設駅前を大規模都市開発する。これは時代によっては路面バスの時代もあっただろうし、ゆりかもめのようなモノレールという選択肢もある。都内でも地上がいっぱいだったら地下鉄路線という交通インフラも同様なものだろう。都市ガスを通して大手チェーン店が進出しやすい下地を作る。

駅前は大工が家を建てるのではなく大手ゼネコンがビルを建て、マンションを整備し、大規模戸建分譲住宅を売り出す。商売をする立場としても駅前商店街からスーパーマーケットへ、さらにはショッピングモールという大規模商業施設の整備によりさらに便利になった。子供は経済成長と共に今現在の当たり前の勤め人の姿であるサラリーマンになって実家から独立する。

職場に通勤しやすいように整備されたベッドタウンに住んで経済活動を繰り返す。大学を卒業しデッカイ給料を貰い家族を養っていく。そんな戦後の当たり前の姿ではあるが、子供や孫が独立していった家に残っている人からはどう見えているのだろうか。立派に成長し、特に言う事もないのだろうが、代々の家と家とのつながりである氏子同士の祭礼の場に子供を出せないことに何とも言えない顔をしている人も少なくない。

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ムラ社会とは、おもに集落における、社会構造のことを指す。村は本来道切りなどにより外部と区別される空間で、村の成員は生業を行い生活に必要な資源を供給する環境を共有し、寄合を行い祭礼や年中行事を共同で行うことにより統一された意思のもと秩序維持を行っていた。村社会は相互互助的な性質を持つ一方で内部には経済的階層や家柄による家格などが存在し、村の秩序維持のための青年組織などが存在した。

特徴としては古くからの仕来たりを墨守する傾向があり、異を唱える者・倣わない者に対しては本人や肉親、更にその者に関わった者まで異端者扱いし、差別を行なうことがある。これにより新たにその地域に移住してきた者や流行にとらわれやすい若者が反発し、古くから住んできた者とのトラブルが後を絶たない。

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ということは流山本町には四つの村と四つの神社があったということになる。都市開発は進み平和台造成、加台地区都市開発などでムラは家が増えた。それと同様に今の年まで生きてきたこの生活こそムラ社会と言えるもの、個人の考えよりも先に地域や神社の仕事があり、自分のことは後回し。親からの教育こそがムラ社会的で古くからの仕来たりを墨守する傾向ということだろう。

新しい住人とのトラブルと言っても、今まで見てきた人達の中には、バブル時代に明らかに妥協して流山に家を買っているのに都内の今まで住んでいた所と比べて文句しか言えない人も少なからずいた。上野まで電車で一時間以上かかる土地ということで文句を言うのではなく土地の値段については現実を考えて欲しいもんだ。まぁあらゆるのものに値段がつけられ、値段でしかものの価値がわからない人達も多くいるんだろう。

このバブル時代というと時期的にまだ小学生だったが、親が言っている事をそのまま子供も言っているのだろう、子供は素直な反面、親次第で思想や性格、幼少期の時の反動というのは将来まで影響してしまう。特に小学生の頭の中なので考慮するべき事例でもある。ムラ社会が排他的といった面に関しても、しっかりと街に馴染むようにしてくれている人達は歓迎されるでしょ。

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武蔵野線南流山駅が新設駅として開業し、現在の南流山駅前として木村や鰭ケ崎の農家が持っていた土地を住宅地に、それに伴って商業の小売店も飲食店も多数必要になる。しかし需要と商圏ということから考えると、大手居酒屋チェーン店や飲食店からみれば南流山駅前としてみれば旨みが少なく、一つ隣の武蔵野線の新松戸駅前と三郷駅前の方に出店する傾向があった。

そんな中つくばエクスプレスの開通で再開発といった時期に来ている。木村と馬場の間の地域は南流山という住所に変わっていたが、近年立て替えて新築物件として売り出すところも多い。また同様な再開発は平和台という住所にも有効で快速は止まらないもののセントラルパーク駅通勤圏内として開発中となっている。

駅の向こう側を見てみると今まで手付かずだった八木村中地区(さらにその先にも開発の予定)の農家が持っている土地が広がっており、これから十年以上かけてゆっくりと土地開発され経済的にも各方面で潤う、街に税は落ちさらに新たな住民を迎え入れる準備をしていく。経済発展と急激な土地整備が必要だったバブル時代の経験から乱開発せずにゆっくりと経済的恩恵を受けるために。

ちなみに松戸の新京成電鉄沿いのところでは安全性よりも経済性が優先される時期に開発されたため、細い道をすごいスピードで走る車に気を付けて通学する小学生の通学路などが今も存在している。それに比べると時代的につくばエクスプレス沿いというのはいい時期に開発の順番が来たということだ。今年開校の新入生が使う通学路なんかはとても安全だと思う。

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現在の都市開発具合は南流山地区はさらに大きなマンション建設中、流山本町から流山新橋の建設に伴っておおたかの森駅前地区までの地域を区画整理といった時期に来ている。もちろん市野谷地区はつくばエクスプレスおおたかの森を使ったベッドタウンとして整備中だ。となればこれからは三輪野山に家が増える時期。こういったことから考えると俺の生まれ育った昭和末期から平成一桁は時代的に加村台地区の造成期だったわけか。

親父の時代を見てみよう、戦後生まれの人達の生きてきた時代は、関東近郊では戦後の住宅地増加の最中。赤城駅は平和台という名に変わり、流山本町から平和台駅西口まで区画造成。さらには平和台という住所のところを造成。武蔵野線開通で南流山の住宅地を造成、宮園も同時期か。流山本町は上野から一時間以上という通勤アクセスのため、南流山駅前や江戸川台駅前の方が住宅需要は高い。このあと方向は変わるが中・思井、芝崎のあたりの整備か。

大規模都市開発と言ってもつくばエクスプレス沿いは千葉ニュータウンよりもかなり人気的に大きいだろう、ここに来て北総線、2月に値上げってニュースも聞こえてきた。俺のような代々の住人だけでなく新たな住人にとってみても、地区ごとのコミニティの付き合いをブログに残しておくのは街のためになるんだろう。これも住宅販売促進といった意味も持っていることになる。

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そんなつくばエクスプレスの大規模土地開発といった時期において、水運で栄えていた流山の旧市街としてみても文化や歴史財産はとても大事になる。ムラには神社が祀られ、氏子からの信仰を集める。時代背景的には戦後だったり、つくばエクスプレス開通後だったりするにしても、人口は増えた。しかしムラに所属するのも、あまり関わらないように生きるのも自由な時代となっている。

当然のことながらウチの家の当主とならば色々な役員になって、流山の各地などで表に出て活動しなければならない。ウチはジーサンが長生きだけど、今現在はやっと親父の代になってきているあたりのところ。ムラの代々の氏子としてはまだまだ準備が必要だ。今でもウチの名前を出すと、街の人達からは有名な祖父と祖母の印象がまだ大きい。20年前はジーサンの現役時代だとして、四ツ葉会でもカドキヤさんと新井さんの時代。

今は親父だとすると俺の出番は20年後となる。まだまだ俺の代ではないからこそ、この場にいて、昔ながらの家と家のつながりを大事にしてこれからにつなげていこうということ。この場でしっかりとした人脈を作る。親ありきの付き合いから俺個人が認められるために。顔見知りからしっかりとした人脈に。親のコネから俺のコネに。でも世襲っつったってウチの親父みたいにあんな細かい旅行の予定とか組めないんだから、出来る事やるしかないよね。

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もう一月も終わりに近いですが、ここにいる人達は神社があってこその集まり。お正月は各町会のテリトリーごとに神社の正月行事がある。となれば氏子としての仕事が優先で新年会シーズンは後回し。世間は正月酒飲んでグータラなんて言ってる時に毎日神社に集まっている。

なので新年会もこの時期に開催なのだ。他の新年会と時期がズレて議員の方々はバッティングしないで参加できるからいいのかも。毎年武田県議会委員と齋藤健衆議院委員(代理だった)は参加。今から考えてみると旧正月の方が近くなってしまってますね。

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賃上げにらむ?

連合新年会に日銀総裁、経団連会長出席
労働組合の中央組織・連合が5日、東京都内で開いた新年交歓会に、日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁が顔を見せた。金融政策を取り仕切る日銀総裁が、労組の会合に出席するのは極めて異例だ。本格化する春闘を控え、安倍政権が掲げる「経済の好循環」の実現に向け、賃上げムードを盛り上げるねらいとみられる。

経団連の榊原定征会長も出席した。連合は毎年、日銀総裁や経団連会長に新年交歓会への招待状を出していたが、実際に出席するのは1989年の連合発足以来初めて。会場に姿を見せた黒田総裁は、連合の古賀伸明会長の出迎えを受けた際に握手を交わしたものの、来賓としてのあいさつはせず、乾杯後に会場を後にした。

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結局ビールも飲みきって片付けタイム、このために呼ばれたんだ、机も拭いて片付けてビールも一階に下ろすよ、ゴミをまとめて指定の位置へ、我ながら良く躾けられてるとは思うぜ、下っ端仕事も将来のため、経験しなくちゃね。何よりみんな高齢化してるんだから仕事は若い奴に任せとき。

会長が締め
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何年か前だとこの時間から呼ばれて片付けだけ手伝っていた。そこから比べると年々立場と知名度が上がっている。意識的なものかもしれないがこれからも手は抜けない。それにしても俺のことを一番信用してないのはウチの親父なのかもしれないね。そしてイベントは待ってくれない、来週には地元宿の子供会と連携して豆まきが行われる。根郷にも加岸にも行かなくては。今年は三輪野山からも招待されちゃったからさ、しっかりやらないと。

何度かこのブログで、婿の子供という表現を使ってきたが、悪い意味で捉えている人もいるかと思う。個人的な印象として蔑んでいるつもりも無ければ悪い意味で使っているつもりもない。歴史ある商家に生まれ、その商売をつなげ、さらに大きくした方々など技術がある職人は尊敬しなければならない。戦前時代というと市場規模がしっかりしている流山と違って地域によってはとても貧しい土地の出身もいる。

婿という言葉を知っているのも戦前時代から流山が栄えていたという証拠とも言える事だが、変わっていった世間の常識も考慮しないといけないのかな。単純に地区の中で珍しい長男の長男、まぁ俺は文書くしかできないし、自分の目線と表現でやっていこうと思いますが、様々な方々と色々なことに気を使って生きないといけないということ。誰も守ってくれなからこそ自分で考えていかないと。

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さて、今年もよろしくお願いします

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