でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2014年07月


平成26年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その3
日本人の行動の特徴として、「強い集団主義、弱い個人主義」ということがあげられる 。なぜ日本人は集団主義といわれるのか、日本人の集団主義の特徴とはどのようなものなのかということから、一番身近な集団である、「家族」をみていく。特に日本人の集団主義的考えの象徴として、イエ制度をとりあげ、他国の家族関係と比較し、集団主義の国民性を考えていきたいと思う。

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日本では、和の精神が非常に大事にされている。言葉をみても、大和国、和風、和服など日本的なことを表すときに「和」が多く使われている。和の精神は、他の人もいるということを前提とするだけでなく、他の人と仲良くすべきという義務意識も伴うものである。だから、この和を保つために、犠牲を払ったり、協力したり、妥協したりすることは当然のこととなり、ある種の合理性が生まれる。

この考えが、日本人の「強い集団主義」と深い関係があるとされている。和の精神を保つためには、当然自分を犠牲にすることが必要となり、自分を犠牲にすればするほど所属団体やグループへのつながりは強まるわけである。この関係が生まれた要因として、島国であるからということや、地震や台風といった災害が多いために他の国よりも団結心が必要だったなど様々なことが考えられているが、はっきりとはわかっていない。

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和の精神のなかには、日本のイエ制度というものも大きくかかわっていると思う。昔のイエ制度では、家の中でさえ上下関係があるなど、自分を犠牲にしてでも家族内の和を大切にしようという考えがあった。一番身近なところであっても和の精神の考えを守り、家族という集団を大切にして生きてきたのだから、集団行動というものも自然と身についてきたのだと思う。

イエ制度というものは、戦後の法改正で廃止になった。そのことによって、「かかあ天下」「嫁の尻にしかれる」「鬼嫁」といった言葉がでてきたことからもわかるように、戦前の家族では考えられなかったような妻の権力が強い家族がうまれるなど、自由な家族関係を築くことができるようになった。

しかし、今でも戸籍というものは残っていて、家が単位として記載されているし、出生や結婚といった個人の問題と思われることも家族の問題として考えられることが多く、今でも家族が1つの集団として意識されていることがわかる。

今日は仮面は忘れたみたい
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また、テレビなどで財産相続のトラブルについて取り上げられることがあるのも、「イエ」「家族」といった集団意識が残っているからだと思う。部落差別といった問題を中学や高校で学習したが、そのようなことを授業で行うのも「イエ」というものに対して日本人の差別意識が残っているからであろう。

これらのことから、いくら現代の日本の家族形態が戦前に比べ、自由になったとはいえ、戸籍や、「イエ」に対する特別な感情がなくなってはいないし、今後もすぐになくなることはないと思う。これらが残っている限り、家族は日本人にとって一番身近な集団であり、「日本人は集団主義である。」と言われ続けることになるだろう。

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神輿渡御も再開、消防分団第七分団前
この道が区画整理前は江戸時代の物流で賑わった旧道諏訪道の現在の姿、加村河岸から布施までの陸路であった。この後海老原商店裏手から、地蔵坂の先にある長太郎団地へ続いていた。やがて右手県道道筋に流山運動公園の体育館とグラウンドが見えてくる、この周辺は旧道を市野谷、野々下、後平井の地名の境目になっていたのに直線の新県道が通ってしまい複雑になってしまっているんだとか。

話によれば体育館の前あたりに昔「水かいの宿」というのがあって、一駄(馬に荷を付ける単位で、米だと振り分けて二俵)につき二文の世話料をとっていたという。二文払うとウナギの入ったザルを清水に浸してくれ、ヨタヨタになったウナギがまた息を吹き返す、布施と流山を往来する駄付けの人たちはここで一休みしながらウナギを水に浸したんだろう。

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布施の旧家に残る古文書に宝暦七年(1757)三ヶ月に二十隻の舟がウナギを陸揚げし、これを加村河岸まで十四キロ運んだという。馬に乗せて三時間運んだという。その後に寛政年間(1789~1800)には布施で一年に八百余隻からウナギが陸揚げされたというから大した量だ。

おそらく利根川や鬼怒川はては霞ヶ浦や北浦など、大小何十もの小沼から集荷された膨大な量のウナギが布施から流山へと運ばれ、さらに手賀沼でとれたウナギも柏の呼塚河岸に陸揚げされ、馬に積まれて流山に運ばれてきた。もちろんウナギだけでなくドジョウやコイやフナなども一緒に。ここから柏に行くにも南柏にも、この先はガタゴトの旧道で、通称七曲がり、いや実際は七曲りどころかその倍の十四曲がりもあったというくねくね道になっていたという。

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花棒を担ぐのは玉ノ井大工の兄貴
秋元三左衛門の天晴味醂、その工場跡の東邦酒造、東邦酒造の御用大工である島根大工に弟子入りして、独り立ちした先代の玉ノ井大工。先代の玉ノ井大工は子供が大きくなると師匠の元へ弟子入りさせた。玉ノ井大工の兄貴は島根大工の一番末っ子の弟子だったという。その後、弟さんは島根大工からじゃなく、兄貴から教わったという。玉ノ井大工は息子たち兄弟二人で大工をやっていたが、大工の仕事も大きな建設業者が家を建てるようになったからなのか、二人共定年退職している歳になっているので去年廃業してしまった。

四ツ葉会の玉ノ井さん
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ここから旧道諏訪道とは外れ

加村の台地の住宅地へ
平成一桁の時代に育ってきた俺は加台が山だった記憶もないどころか、今の造成された道路しか知らない。その記憶の中の20年間だけでも空き地はなくなり新築の家が増えている。立て替えている家もあるのは加台の造成期に早い段階で移り住んだ人だとしたら色々な想像もしやすい。ローンが終わり、娘世帯と同居。もしくはつくばエクスプレスが開通して土地の値段が上がり、新築住宅として立て替えて再販売されてもおかしくない。

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このあたりは足場が整備されている
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高めなところでじっくり待てる
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上の写真では気付いてなかったが
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四ツ葉会のみんなが気付いてくれた
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公園のところで休憩

当番の奥様方、ありがとうございました
ここの隣の家が同級生だが、兄と妹がいる。これが見事に加台の佐々木さん夫妻と同じ年だった。佐々木さんが松坂世代とは書いたが地元の人には小野真弓世代と書いたほうが分かり易いかと思う。

今の70歳以上の年齢の方は流山の嫁をめとって流山に住んだりするとヨソ者扱いされたみたいだけど、今の時代には、年齢的にモノサシとして丁度いい人間は受け入れる姿勢も重要だろう。後は四ツ葉会の人達も紹介すると価値があるのかね、でもまぁ新住民でも話のネタができるのは活性化として大きいこと。

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「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭 、祈願祭などの祭がそれにあたる。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。

しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。「祭」は、語としては日本古来の祭を指す歴史が長いが、世界各地で行われる同様の行事にも訳語として用いられる。日本の祭について英語で紹介する場合「フェスティバル」が訳語として用いられる。

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日本古来の祭
古代の神道はもともとアニミズム ・シャーマニズム 的要素を持っており、世界宗教以前の民族宗教に分類される。今日伝わっている祭も土着のものを起源とするという意味では民間信仰も交え、神道系に分類されるものが多いが、仏教伝来から長く経った為、神仏習合の影響を受けているものもある。

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祭は民俗学で「ハレとケ」の非日常性の空間を象徴するものである。日本神話に出てくる天岩戸 の話を摸した儀式などが日本で最も古いものとして知られている。初期の「まつり」は、人目に触れない所で密かに行われるものであった。今日でも、中心となる儀式を限られた者のみで行う祭が一部にある。(伊勢神宮などの神主の奉仕、一般は奉賛、または奉納。)

花棒を担ぐのは小金屋さん
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元気ハツラツ、オロナミンC
製造は大塚化学だが、大塚化学はオロナミンCの統括会社であり、実際の製品は大塚食品徳島工場・釧路工場、大塚製薬工場鳴門工場で製造されている。1965年2月に販売が開始された。ガラス製の瓶入りで当時は王冠型のキャップが使用され、内容量は120ミリリットルであった。発売当初に、炭酸を含んでいるという理由により、当時の厚生省に医薬品としては認められないと判断された。法律の定めにより、本商品は健康の保持や増進に関わる効能や効果を表示したり、広告することはできない。

初代テレビCM出演者は大村崑。「うれしいとめがねが落ちるんですよ!」というセリフが使われた。1970年の日本万国博覧会開催時には、上空で気球に乗った大村が「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と言うCMがあり、万博会場にある180店の全売店の内105店で販売した。大村は発売当初から約10年間CMに出演した。昭和40年代にはテレビCMのほか、大塚グループの他の製品と同様、ホーロー看板を各地に設置する広告手法も併用された。

玉ノ井大工の弟さん
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『オロナミンC』と生卵と牛乳を混ぜると

激ウマすぎて絶句
「オロナミンCと生卵と牛乳を混ぜて飲む」。実はこれ、記者(私)のおばあちゃんが言っていたことなのです。オロナミンCも生卵も大好きな私ですが、さすがにそれはないだろうと、記憶を封印していました。母親にそのことを話すと「昔オロナミンCのCMでやってたのよ」とのこと!なんと!発売元の大塚化学が公式にテレビコマーシャルまで放送して「オロナミンCと生卵と牛乳を混ぜて飲む摂取方法」を推奨していたというのです!その名もオロナミンセーキ!しかもかなり激ウマらしい!ホントーですか!?

調べてみるとそのテレビコマーシャルは実際に存在していました!どうやら、オロナミンCと黄身と牛乳と混ぜるらしいです。その名もオロナミンセーキ!でも、本当に美味しいのかしら……?さっそくオロナミンCと黄身を用意して試してみました!黄身をつぶすと、全体があっというまに卵色になります。見た目、オロナミンCが入ってるとは思えません。ニオイはオロナミンCと卵のニオイ(そのままです)。あんまり嗅ぐのはおすすめしません。

さて覚悟を決め、飲んでみると……。悪くない!悪くないです!むしろ美味しいです!卵の味が強いかと思いきや、そんなこともなく、オロナミンCの味がきちんとします。ちょっとマイルドになった感じです!卵を混ぜたことで炭酸が弱まって飲みやすくしているんですね。黄身がオロナミンCを包んでいるような、そんな優しい感じ。飲んでいると心が落ち着きます(気のせい?)。炭酸が苦手な人もオロナミンCを楽しめる一品です。意外と飲みやすかったので、これはアリですね!気が向いたらまた試してみようかなと思いました。

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平成26年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その2
流山も戦後、ベッドタウンとして街形態を郊外型住宅地として開発する。そこで山を崩し、ここから旧道諏訪道までの平和台五丁目の地区が平和台で一番早く昭和40年代初頭、区画造成された。この当時段々に造成された山なんて子供達の最高の遊び場で上の段と下の段に分かれて泥団子を投げ合い、戦争ごっこがどこでも行われたそうだ。都内は東京オリンピックが終わっているのだが流山の子供達にとっては開発にタイムラグがあるのは当たり前、なので同世代と言っても流山出身者と新規住民との色々な心理としての差も開いていく。

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背が低いので高いところで準備
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赤城四ツ葉会、小島さん
赤城四ツ葉会の名物といっても良い、いくつになっても元気な名物オヤジである。この人柄で平成初期まで食堂をやっていた、親父だって飲みに行ったそうだ。もちろん俺のことも生まれる前から知っている。四ツ葉会は加台大宮神社祭礼の神輿渡御の後、この方の料理で打ち上げをする。食堂経営となればプロの味、毎年最高の用意をしてくれている。

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神道としての祭礼
祭祀は、神社神道の根幹をなすものである。神社に鎮座する神霊、および神霊が宿る御神体に対し、儀礼が行われている。これが神社神道における祭祀である。神霊をその場に招き、神霊を饗応し、神霊を慰め、人間への加護を願うものである。 さまざまな儀礼・秘儀が伴うこともある。

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イキに行きたいもんだ
粋(イキ)とは、広辞苑によれば「気持ちや身なりのさっぱりとあかぬけいていて、しかも色気をもっていること」とあるが、もともとは文化文政期に深川の遊里を中心に発達し、江戸の一般庶民の間に広まった美意識であるので、現在つかわれている意味合いは広辞苑のそれよりはもっと広いかもしれない。

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小歌などでは粋(イキ)に唄うことが肝要で、節回しに気をつけなければならない点がある。私たちは、野暮ったくなく、粋(イキ)に生きなければならない。身ぶりや服装等の、身体を通しての粋(イキ)の自然的表現、模様や建築や音楽等に見られる粋(イキ)の芸術的表現もあり、粋(イキ)はまさに日本人の民族精神を代表する美意識である。

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加村河岸から加村大坂を上るとここに出てくる
古い諏訪道は学童保育所のところで右の道をたどり、南流山電話局の敷地を横切ったら、現在信号のある交差点を斜めに入っていく、するとやがて旧道の面影を残したかなりの勾配の地蔵坂。噂では明治時代、この周辺に寺があり、その境内に地蔵様を祀った小さなお堂があったという。ある日そこの留守番が地蔵様を東京の人に六十円で売ってしまい、芸者遊びをしてスッテンテン。そんなことを繰り返して、やがてはお寺も無くなってしまったという。

※旧道諏訪道のこの旧道は加台大宮の祭礼で神輿のルートに一部使われている。なお、文中の学童保育所は現在は場所を移している、俺の同級生あたりの年代は共働き夫婦も多く、小さい時に使っていた家庭も多かったようだ。なにせ時代はバブル景気に沸いた時代に向かう好景気の頃、日本中で仕事が溢れ、みなさん忙しかっただろう。ちなみにこの周辺の平和台五丁目は平和台で一番最初に開発され、宅地分譲されている。

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諏訪道
江戸時代、河岸のあった流山は栄華を極める、広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。江戸幕府による利根川東遷事業により江戸川が整備され、物流の拠点となる。諏訪道とは流山広小路から布施弁天までの道をいいます。利根川の布施河岸と江戸川の加村河岸を結ぶ陸路は、我孫子の布佐河岸から松戸の小向河岸の鮮魚(なま)街道とともに、江戸時代からの重要な物資(主に鮮魚)の輸送路で大江戸の台所を潤しました。これらのルートを通った鮮魚は、銚子を夕刻に出発したものが、翌日の夕刻から夜には日本橋に到着したという。

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鬼怒川や小貝川上流から運ばれてきた穀物、さらに利根川の沼地で捕れたうなぎや鮭などは、布施河岸で荷馬に乗せて 15Km の陸路を4時間ほどかけて流山の加村河岸に運び、再び高瀬舟に積替えて江戸へ送りました。
この街道は諏訪神社への参詣者が往来する、信仰の道でもあったため諏訪道と呼ばれました。東葛地方で広く信仰をあつめ、江戸からも大勢の崇敬者が来るようになりました。

矢河原(やっから)の渡しがあった加村から加村大坂を登り、流山人形供養発祥の地である本行寺、幕末の浪士須藤力五郎が眠る光照寺、を通ります。柏市高田の水切り場跡、利根川と江戸川の中間地点である高田の水切り場は、荷を運ぶ馬を休憩させ、鰻は生きたまま運ばなくてはならないため、生け簀に籠ごと放して水に戻すことにより、生気を蘇らせる重要な役割をしていました。

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布施~加村河岸間だけでなく布施~納屋河岸間、江戸川畔の三ツ堀~野田河岸間、船戸~野田船戸などの陸路も開かれたがやはりその中心は布施~加村河岸間の陸路であった。この道は人馬の往来がとみに盛んになり、馬持ちの農家が駄賃稼ぎができてたいへん潤った。

流山に米や雑穀や乾物などの物資がどんどん集荷されれば米蔵も出来るし、商人や船頭、旅人相手の商売も出来るという事で流山はかなり賑わった。その上、味醂や酒、味噌や醤油などの醸造業も盛んで江戸川から江戸に相当量出荷されている。

この道が開かれたのはおそらく十八世紀の初めぐらいだろう。柏市布施の後藤酉子家に布施~流山間の奥州荷物の駄賃稼ぎについて村方役人に提出した文書があり、その日付が享保五年(1720)になっている。またその陸路に沿って並ぶ道祖神や青面金剛、地蔵尊、十二夜塔などの石像に刻んだ日付をくまなく見ていくと、享保十五年(1730)とか寛保三年(1743)といったものがかなり多く、里人の信仰の証を通じて人馬の往来も多かったことも、うかがい知れるのである。

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新道は軍事的要請
地蔵坂と並行して走る県道は昭和十年代に完成したという。完成といってもほぼ直線状の広い砂利道と赤土道である。当時はブルドーザーもパワーシャベルもない時代だから、すべて手掘りのシャベルとリヤカーとトロッコ。近所の女性や若者たちもみんな総動員され、熱気がこもっていた。

「その少し前に柏の十余二に陸軍の飛行場が出来たんで、おそらくその軍事的要請から作られたんでしょうね、初石から花野井に行く広い道も、豊四季から飛行場に行く道もみんなその頃改修されたんですから。戦後は、自動車もあまりない時代で、もっぱら柏の常南通運(日通系列)のトラックが万上の味醂やら東邦の酒類を運んでたんで、近所の人たちは常南道路と呼んでいたんです」と、文が残っている。そして流山広小路と諏訪神社を結ぶ新県道が完全に舗装されたのは昭和四十八年であった。

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そしてこの道を渡ると自治会も変わる
今ではこの県道が平和台と加の自治体の境目だ。俺の小学生の時代には平和台五丁目は流山北小の学区だったのだが、今現在、平和台五丁目は流山小学校の学区、学区の境目にもなっている。

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休憩所に入ってきます
おにぎりや漬物、飲み物などを奥様方が用意をしてくれている。子供用にスイカもしっかり、神輿渡御は色々な人達の活動によって支えられている。流山の五つの神輿会友好団体はもちろんのこと、地区の町会、当番の奥様方の用意、色々な人が関わって構成されている。何かと大変だが、大きな一つの神輿渡御を成功させるため、皆団結して自分の仕事を行ってくれて、これにより裏方として参加していても各方面と関係が深まる。今年は神輿を担ぐ方の方も当番で用意をしてくれていた。「後で合流します」って言ってた。

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ここの公園も親父の学生時代にはない
この周辺の開発は昭和50年代になってから。親父の中学生高校生の学生時代は昭和40年代後半までまだまだ山が広がっていた。ということは現在の流山北小学校周辺の開発具合も分かるというもの。この後、俺が生まれる昭和50年代に区画分譲、子育て世代が移り住むことになった。当然のことながら代々の地元出身者と、この時期移り住んできた人々、さらに時代は進んでバブル世代の生活文化の違いに合わせたりする必要があり、苦労して生きていくことになった。でもその違いを感じたからこそこのブログを始めるきっかけの一つになっている。

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平成26年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その1
加台大宮神社の氏子である平和台、加台、ドエルまで含めた旧加村、東急ドエルステージ21 センターコート、若宮団地までを巡る。毎年同じルートなのだが中学生だった頃と街並みも段々と変わっている。そりゃ時代が進めば開発も進むかな。このルートは俺の感覚で言うと流山北小学校の学区内を一回り、現在は流山小学校の学区だとかは関係ない、俺の学生時代は流山北小学校なのだ。

今年の加台大宮神社祭礼は赤城神社の神社清掃と日が重なってしまったため、赤城神社神社委員は少々遅れるかもしれないから、時間が来たら先に出発していていい、との指示を受けている。帰りのために自転車で集まるメンバーもいた。

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平和台の街中
元々は広大な農地であった土地が戦後昭和40年代から開発された。平和台も広い意味で言えば戦後開発されたニュータウンとも言える。おそらく日本中には無数の「○○ニュータウン」があると思うし、それよりは小規模の「○○台」「○○平」「○○が丘」と名付けられた中小ニュータウンが無数にあると思う。それらはすべて戦後のある時期に、森や田畑をブルドーザーで潰して作った人工的な住空間なのだ。

同時期にほぼ同世代の家族が一度に入居してしまったため、年を取るのも定年を迎えるのもすべて横並び。70年代に30歳代だった住人たちは、西暦2000年代にはすべて60歳以上の高齢者となった。かくしてどのニュータウンも、今では老人だらけの「オールドタウン」と揶揄されるようになった。しかし平和台はつくばエクスプレス効果による再開発の時期なのは別の記事で。

開発前はここからお山が見えた
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宮出しの神事
加台は元々加岸大杉神社と同じ旧加村、藤枝田中藩本多家の下総飛地領、駒木のお諏訪様の宮司の管轄。本多領だけでなく、その他の旗本領の村の神社も今では駒木のお諏訪様の管轄となっている。昔は加台と加岸が一緒にお祭りを行っていた。現流山市に印旛県庁が置かれていた時代に加岸(加村河岸)は船頭に近い人が多く住んでいて、力が強く、加台と加岸との間に喧嘩が絶えなかった。あるときは田んぼに神輿を置いて逃げたという時もあったという。

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宮出しの挨拶で熱中症への注意もされた。もしもの時の看護準備は出来ていますが、と。水分を多く摂取することは注意しないといけない。神輿渡御は街の色々な住民が参加する。街の商店から市役所や農協の職員、小学校の先生や流山線で働いている方も。色々な立場からの今の流山の現状を知る上で、これ以上の意見交換の場はないだろう。この中には看護師や社会福祉協議会、墓地の石屋もいる、まさにゆりかごから墓場まで。俺の出生届を受理した人もいるのかもしれない。

神輿渡御の出発だ
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熱中症とは暑熱環境で発生する障害の総称で、熱失神、熱けいれん、熱疲労(熱ひはい)、熱射病などに分けられます。体を運動や暑さにならすために、水分の補給が重要です。水分の補給にはどのような注意が必要なのでしょうか。30℃以上の環境温度のもとでは、人は主として汗によって体温を調節します。熱をちょうど自動車のエンジンをラジエータの水で冷やすように汗で冷やして、体温を一定範囲内に保っているわけです。

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ここで宣伝、出没!アド街ック天国

流山の回、9月13日放送(放送予定)
毎週、さまざまな「街」にスポットを当て、「アド街ック高感度30人委員会」選定の、その街に関する名所・建造物・店舗・名物・特徴・風土・自然・人物などを30位から1位までのランキング形式で紹介する「○○ベスト30」のコーナーを軸に、その街の魅力を多方面の角度から伝える。

あなたの街の宣伝本部長
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この番組で取り上げられる「街」は、多くの場合は行政区分(市町村)より小さい「エリア」単位で取り上げられるのが基本だが、具体的には関東地方のうち東京都内や横浜・湘南地域など東京周辺の都市の特定エリアがほとんどで、関東でも北関東など東京から約50km以上離れた地域や関東地方以外の「街」が取り上げられることは少ない。

これに流山の名前の元になったという伝承が残る赤城神社の総代が取材され、収録が行われました。まだランキングで何位になるかは教えられていないので、赤城神社神社委員の中でも「20位以下じゃないといいな」「せめて十秒は映りたいよな」と色々な言葉が発せられた。この他でも富士塚やかごや、清水屋などは入るとして、後は何が注目なのかお楽しみに。まぁ結局はおおたかの森あたりを持ち上げたいんだろうけど。

地域密着系都市型エンターテイメント
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神社の場所としてみれば加台大宮神社なのだが正確には大杉神社の祭礼であり、大杉神社の神輿渡御。しかし地元の人達の立場から言わせてもらうと、加台大宮神社祭礼という表現の方が区別できて分かりやすいので俺はこの形で言う。この周辺で赤城保存会の玉ノ井会長が指導している加台お囃子会の山車が待っている。坂があるので車になる。そしてここは子供会がお囃子に参加している。写真は撮さない方が良さそうだ。

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お神輿(みこし)は神霊の乗り物?
「ワッショイワッショイ」とはっぴを着て威勢よく担ぐお神輿。お祭りのメインで登場することも多いお神興は、神霊を御旅所などへ渡御するときに、一時的に鎮まるとされる乗り物です。そのため小さな神殿の形をしています。

山車は神の降りる小さな山のこと
山車は地方によつて、曳山、山鉾、御車、だんじり、山笠、屋台、山などさまざまな呼び名があります。古来より山や岩、本などは神の降りる依り代という考えがあり、祭礼のときに神の依り代となる小さな山としてつくられました。

祭りの衣装の法被の歴史
「法被(はっぴととも呼ばれますが、江戸時代には別のものを指しました。「法被」は羽織が変化したもので袖が長め、「半纏」は法被の技術を商人用に応用したもので、作業しやすいように袖が短く作られました。背中に屋号を染め抜いた印半纏は、商人や火消しのユニフォームだったのです。

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神輿団体
加台大宮神社祭礼と宿赤城神社の祭礼は流山の神輿団体だけで担ぐ。市外の神輿団体とは書いたがこれはかつての流山町の氏子衆、地元友好団体5団体の以外の事である。夏の暑い中、根郷浅間神社や加岸大杉神社よりも人数が少なくなるということは一人一人の負担が増えるということ。しかも坂がある。坂の上り下りのルートなのだ。

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関東甲信、局地的に滝のような雨の恐れ
関東甲信は天気が急変し雷を伴い1時間に50ミリ以上の非常に激しい雨の恐れ。東京や横浜など関東南部の都市部も午後は雷雲が発生。雲行きが怪しくなったら早めに避難を。日中の気温上昇の影響も加わり、大気の状態が非常に不安定になる見込みです。所々に雨雲やカミナリ雲が発生するでしょう。道路が冠水するほどの非常に激しい雨が短い時間に降る所もありそうです。予想されるのは1時間に50ミリ以上という滝のような雨です。マンホールの水が溢れたり、小さな川や用水路が氾濫したり、道路(特にアンダーパス)が冠水する恐れがあるため、車での移動はご注意下さい。

低い土地の浸水にもお気をつけ下さい。電気のコンセントは漏電、ショート、感電の恐れがあるため、コンセントは抜いて、低い位置にあるものは高い場所へ移動させておくと良いでしょう。屋外のイベントも多い時期ですが、雲行きが怪しくなったら、早めに避難をしてください。雷雨が長い時間続くわけではないため、カミナリ雲が通り過ぎるまで雨宿りをするなど、決して無理のないようにお過ごし下さい。発達した雨雲が近づく合図(黒っぽい雲が近づいて空が暗くなる、冷たい突風が吹きぬけるなど)を見逃さないようにしましょう。

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加台の佐々木さん
ここの休憩中に加台の佐々木さんから年齢について話をした。地元出身同士なら自分が何年生まれで誰と年齢が同じとか何かとわかるが、移り住んだ方々は少しずつ把握していかないと分からない、そんな中、とても便利なモノサシとして俺がいる。

加台の佐々木さんは何年かごとに移動する小学校の先生、流山出身の妻と結婚し流山八丁目の教員住宅に住んで赤城神社神社委員としても活躍していた。現在は自分が流山に来た理由は妻が加台出身なので、加台大社睦会に所属している。佐々木さんは俺の一つ上の学年いわゆる松坂世代、嫁さんは俺の二つ下の世代。

色々余計な事を書くわけにもいかないので神輿会に所属している人の子供で言うと、玉ノ井大工の息子さん、四ツ葉会の伊藤会長の息子さん、ウチの弟といったところだろう。近所の宿の出身の恩田までは出していいのかもしれない。つくばエクスプレス開通で通勤に便利になり、流山出身の嫁と結婚して駅前マンションに住むということも多くなっていくんだろう。



さて、ここから坂を上る
流山も戦後、ベッドタウンとして街形態を郊外型住宅地として開発する。そこで山を崩し、ここから旧道諏訪道までの平和台五丁目の地区が平和台で一番早く昭和40年代初頭、区画造成された。この当時段々に造成された山なんて子供達の最高の遊び場で上の段と下の段に分かれて泥団子を投げ合い、戦争ごっこがどこでも行われたそうだ。都内は東京オリンピックが終わっているのだが流山の子供達にとっては開発にタイムラグがあるのは当たり前、なので同世代と言っても流山出身者と新規住民との色々な心理としての差も開いていく。

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四国霊場開創1200年

2014年は四国イヤー、いざ"発心の道場"へ
今年開創1200年を迎える四国八十八カ所霊場において、1番札所がある徳島県は出発の地。節目の年を記念する特典や行事も設定されており、お遍路に出かける最適の年といえそうだ。徳島県内の札所は1番札所・霊山寺(鳴門市)から22番・平等寺(阿南市)と66番・雲辺寺の23カ寺。徳島は「発心の道場」と呼ばれるように、「順打ち」の出発地点、巡礼の起点として多くのお遍路さんが集う。

今年の四国霊場開創1200年を記念して、県内各寺では記念スタンプや記念御影といった特典を用意。本尊の御開帳や記念法要も開かれており、今年だけの楽しみが溢れている。県が今年度展開している観光キャンペーン「おどる宝島!とくしま」では、県内の霊場巡礼をさまざまなスタイルで提案。1泊2日で1―10番霊場をめぐる歩き遍路のモデルコースを設定しているほか、20番・鶴林寺(勝浦町)の国史跡の遍路道や10番・切幡寺(阿波市)の国重文の大塔など歴史の重みを感じる見どころを訪ねる旅など多様な切り口で遍路に楽しみを加えている。



七右衛門新田、稲荷神社

江戸川八十八ケ所巡り、75番礼所
江戸川沿いの松戸市の最も北に位置する七右衛門新田に稲荷神社があります。その中に川通耕地整理竣工の碑があり、昭和十年代の農業用地への灌漑工事を知ることができます。境内の石碑は江戸時代のものが見られます。



寛永六年(1629年)には、「大谷口新田・七右衛門新田・主水新田・九郎左衛門新田」などの水田地帯が誕生しました。
しかし、これらの新田は、低湿地帯のため、江戸川の水が逆流し、坂川の氾濫(はんらん)による水害を度々受けました。この地域には多くの稲荷神社がありますが、これは、稲の収穫を願う村民が京都・伏見稲荷大社を分霊し、稲荷神(お稲荷さん)として穀物の神である倉(うか)稲(の)魂(みたまの)命(みこと)を祀ったものです。



人名が頭についた新田地名
新田開発といえば低地の水のある田園をイメージするが、下総台地の場合はそのほとんどが畑作農地の開墾であった。船橋市藤原地区などが水のない新田開発の代表例だが、松戸市域にはこの畑作農地の他に江戸川に面した低湿地帯に新田開発がある。歴史的に見ると、後者の方が早くて江戸時代の初期に、前者は江戸時代中期の享保年間である。



江戸川沿いの低湿地帯に展開する新田は、先の「田中新田(現古ヶ崎)」から順に北上すると、「伝兵衛(でんべえ)新田(現栄町)」「主水(もんと)新田」、7人の右衛門によって開かれたという「七右衛門(しちえもん)新田」「九郎左衛門(くろうざえもん)新田(現新松戸)」など開拓者の名前が頭に付いた新田地名が続く。

こうした新田地域は「下谷三千町歩」と呼ばれた美田地帯で、モチ米「江戸川モチ」が生産品だった。そして、耕地6新田69世帯は現金収入のため「六和餅製造組合」を設立し、そのモチ米でお餅を作って全国に売りさばいた。ねばりのあるおいしい餅で売れ行きがよかったという。
 
その六和電灯敷設記念碑が主水新田稲荷神社にあり、神社東裏には千葉県環境部の地盤の変動をはかる基準点、精密水準点がある。それぞれの新田に祀られた鎮守・稲荷神社は確かに新田の歴史を伝えている。



ここは明治22年の町村制施行の時には流山町に所属していた。木村の先とも馬橋の手前とも言える土地の悲しさ、どっちの所属になるか一番端っこだからこそ。流山六丁目は南部中学校の学区の一番端だったので、親近感を感じてしまう。その後馬橋村になり、戦時中の昭和18年4月高木村、松戸町と合併し千葉県下7番目の市となった。流山街道のこの周辺はシートベルトのネズミ捕りをよくやっているので注意が必要だ。

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平成26年、加台大宮神社祭礼

宵宮
大宮神社は、住宅地内の小高い台地の緑の山林に囲まれた社として知られています。祭神は、天宇受女命・大國主命・玉依姫命・少彦名命・豊受姫命を祀っています。敷地1,300坪の境内には、本殿(瓦葺流造)、幣殿(銅板葺流造)、社務所(鉄板葺)が建ち並びます。境内神社として八幡神社、大杉神社が祀られています。この地方の開発は奈良朝の末期であり延期式所載の神社にも擬せられる古社です。桜の名所としても知られています。

大宮神社は、平和台に突き出た山の上に鎮座する加村の氏神で、現在は加台・平和台地区の住民の崇敬を集めています。境内には若宮八幡宮、八重塚稲荷神社天満宮、本多稲荷神社など多くの神社が移転し、それぞれの祠があります。

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神社の祭礼宵宮というよりも、平和台子供会の夏祭りとなっている。昔は加台と加岸が一緒にお祭りを行っていた。現流山市に印旛県庁が置かれていた時代に加岸(加村河岸)は船頭に近い人が多く住んでいて、力が強く、加台と加岸との間に喧嘩が絶えなかった。あるときは田んぼに神輿を置いて逃げたという時もあったという。今では一ヶ月違わして、加岸は6月26日27日。加台は7月26日27日に近い日曜日にお祭りを行うようになっている。

建長年間(1249~1256)の記録もあるが、この地方の開発は古く奈良朝の頃であり、「延喜式」所載の神社にも擬せられるので、千有余年前の創建であると推定される。例祭日前夜の新嘗祭行事は、日本に千年前から伝えられる古い伝統行事であるので、永く伝えていきたい。平和団地造成の際、神社移転が論ぜられたが、識者によって、現況を維持しえた。境内には若宮八幡宮、八重塚稲荷神社天満宮、本多稲荷神社など多くの神社が移転し、それぞれの祠があります。

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幟は先端に榊の葉を付けたが現在は建てない。祭りの準備は前日に清掃をし、御仮屋を作ってそこに神輿を移し年番が夜番をする。祭礼当日は神官による祭典を行い、一時から六時まで神輿の渡御が行われる。一の組が年番なら二の組が担ぎ番、三の組はお客様という風に決めてある。昔は朝近くまで担いだという。現在は全員で担ぐようになっている。

大宮公園の高台にある大杉神社は、春は隣接する大宮公園の桜、秋には紅葉の景観と、地元では「加村台の大杉様」などと呼ばれ住民に親しまれています。祭礼は、地元の加台、平和台、東急ドエルの3自治会を中心とした祭礼委員会により行われ、前日の宵の宮から地元の家族連れで賑わいます。

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最寄駅は流山セントラルパーク駅
2005年8月に開業した東京・秋葉原と茨城・つくばを最高時速130キロ最速45分で結ぶ「つくばエクスプレス」。足立区、八潮市、三郷市、流山市、柏市、守谷市では、駅周辺を中心に新しい街が形成されつつあります。駅前には次々とショッピングセンターや利便施設等が建設され、大規模な開発が進行中です。通勤エリアの住宅地としても開発がすすみ、多くの魅力的な分譲地の人気が高まっています。

新築一戸建ての中でも、数十から数百区画規模で分譲する場合、街自体が一つの作品となるように綿密にデザインされて開発されています。統一感のある街並み、住人たちが利用しやすいように配置された共有スペース、不審者の侵入防止や、無用な車両進入を防ぐような道路配置など、住みやすさ子育てのしやすさに配慮した街になっています。

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つくばエクスプレス開通に伴い、新たに開発された街として、つくば駅と並び注目したいのが、流山セントラルパーク駅、流山おおたかの森駅、柏の葉キャンパス駅だ。流山セントラルパーク駅は、流山市により地域核としての位置付けがなされていて現状の人口も多い。

東武野田線も乗り入れる流山おおたかの森駅には、高島屋や映画館が入る、おおたかの森ショッピングセンターがあり、暮らしやすい街として人気が定着しつつある。柏の葉キャンパス駅には、ららぽーと柏の葉、東大柏キャンパス、千葉大学環境健康フィールド科学センター、柏の葉公園があり、暮らしやすさと楽しさ、知的環境が融合したニューライフスタイルタウンとなっている。

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道路や宅地造成計画は平成34年度までの予定なので居住者の流入も、のんびりした感じになると思います。病院が出来れば駅利用者や人の流れも多くなり、コンビニ・店・調剤薬局などが増えるでしょう、救急指定病院ですので夜間に緊急走行でサイレンを鳴らす救急車や、赤十字の血液運搬車の走行量は増えるでしょう。

駅東側のおおたかの森から続く南北道路は、片側2車線化される予定と南方への延伸計画、駅西側のセブンイレブン前の南北道路も、片側2車線化と北側&南流山への接続計画がありますのでトラックなどの交通量も増えます。やはり快速停車駅に比べれば利便性は劣るでしょうが、運動公園が近いことや静かさは周辺地域では良い方です。

途中に坂は多いですが市役所・図書館までの距離は徒歩でも悪くないと思います、年に数回、運動公園と生涯学習センターで賑やかなイベントがあります。南北に台地の一番高い所を通る都市計画道路の新川流山線は道路周辺で遺跡や貝塚が幾つか見つかっています。古代の人も眺めの良い場所から西に沈む夕陽を見ていたのでしょう。



今日は観光客は六人ほど

梅雨明けしてからはキツい
やはり街歩きや観光地に出かけるのも、春や秋など気候の良い季節に行きたいもの、流山史跡ガイドの会も水分を多く取り、無理しないようにしていました。観光ガイドする前にこっちがぶっ倒れちまう、つって。

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昼間の用意の段階から

色々な人に挨拶
ウチに生まれたからには将来社会的責任を持つ立場になるんだから、地区を代表する人として子供の時から各方面に挨拶して顔を覚えてもらう事も大事。相手の年齢を考えて現役時代にどんな仕事をしていたか、その分野の噂話や盛り上がる話、客商売の第一歩である。

聞いたら小学校の先生だったんだと、60代の小学校の先生、そして息子はボーイスカウトをやっていた。となれば同世代の先生方に教わってるし、珍しい同じ先生に親子二代教わっている事など、世代的にもターゲット。懐かしい先生の名前を出したら気に入られてビールと汁物を頂いた。現在でも世話になった先生達は各地で連携してボランティア活動をしているようだ。

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午後五時
子ども会の縁日が始まる、各種商店は長蛇の行列、平和台自治会は子供が多い。つくばエクスプレス開通、流山セントラルパーク駅開設となれば住宅地として開発の価値も上がるというもの、平和台も子供連れの家庭が新築物件を買うことも多いんだろう。赤城保存会の玉ノ井会長が指導している加台お囃子会の演奏も奉納されました。この赤城保存会発足のきっかけになった加藤大工の家にも切り絵行灯がある。赤城神社の前なので流山本町の一番南端の切り絵行灯になる。

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午後六時
神事が始まるとなれば氏子達と神官などによる神聖な儀式、正式に呼ばれた神輿団体の代表など各関係団体の方々達は別にして、俺はここにはいてはいけない存在なのだ。夏祭りとして券を品物に変えるだけでも大変なほどの人数が集まっております、今日は親子で浴衣が正装なのかもしれない。高齢化が順調に進んでいる本町とは違い、盛り上がっていました。

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日付変わって今日は祭礼当日、楽しまないとね
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