これは関東では伝統とお約束の宿題の日
夏休み最終日
「わーい、明日から学校再開だ、嬉しいな」と言う学生はほとんどいない日。小中高の最高学年を除く者にとっては、夏休みと言う長き楽園が終わってしまうと、嘆く人が少なくない。しかし、ようやく生活ペースを立て直せるとか、友人と会えるとかで、かえって心待ちにしている者もいる。
だが、嘆いたりする者はまだいい。宿題という膨大な負債を抱え、返済のために地の底をのた打ち回るという苦境に陥る者や、破産宣告をして開き直ってしまう者が多発するからである。消費者金融の広告ではないが、「返済計画を立てましょう」という言葉を守る事が出来れば、このようなローン地獄には陥らないだろう。
夏休みは温帯に属する国々を中心に広く実施されているが、その目的は各国によって異なる。夏季の暑熱の回避が主因となることが多いが、学事年度間(アメリカ合衆国)、夏季の伝統的な慣習の存在など、他の要因が実施の副要因となることも多い。
日本の教育機関の場合、正式名称は「夏季休業」といい、校舎などに冷房設備がない場合が多く、太平洋高気圧支配下での授業が暑熱により困難なので、その間を休業とするためとされる。そして、その期間に期待される教育効果の主たるものは、普段学校では体験することの出来ないことへの児童・生徒の挑戦とされる。
小学校・中学校・高等学校の夏休み期間は全国一律ではなく、その土地の気候や風土により期間の長短がある。公立小学校・公立中学校の場合、日数は原則として学校を管轄する市町村の教育委員会が定めている。大学の場合は、カリキュラムや前期試験・中間試験の時期により異なる。
「教職員の夏休みも児童や生徒と同じく長い」という印象を一般的に持たれがちであるが、教職員が個別に「研修」の名目で、教科に関連した自己啓発などを学校外で行うことが多かったことも影響しているとされる。ただし2002年頃から、この研修の運用状況が問題視されるようになり、完全週休2日制となった2002年からは授業やホームルーム活動がないことを除き、教職員は通常通り勤務している。
実際に彼らに与えられる夏季休暇は事務職など一般の公務員と同様に4日程度であり、7月から9月の間に各自の判断で取得し、それを超える休みを確保するには年次有給休暇を充てねばならない。単純比較はできないが、夏期休暇に恵まれた大手企業のサラリーマンよりもむしろ短いことも多い。
また、この時期には部活動の各種大会・合宿・遠征などの行事が集中し、例えば、高等学校では全国高等学校総合体育大会、全国高等学校野球選手権大会、全国高等学校総合文化祭が、中学校では総合体育大会が行われ、教員は大会の引率や大会運営等にあたることもある。また、教員の校務分掌に関連した会議や研修などで出張することもある。したがって、勤務してはいるが学校には不在であることも多い。
終わりの日
8月31日は夏の終わりの日であるため、これに付随するもろもろの事物が終わりを迎える。日本全国のあらゆるプールが8月31日で営業を終了する。百貨店のカブトムシコーナーもこの日をもって営業を終了し、大型カブトムシ雄成虫の価格相場は翌日から暴落する。このバブル崩壊の衝撃を受けた人物としては、かつみ♥さゆり夫妻がよく知られている。
最も多くの青春が終わる日である。10代の少年少女は次の日から人生が変わったつもりでキャラ変更を思いつく事が良くある。ひと夏の経験と一言で表現出来るだろうが、人生の経験値が一ヶ月で格段に上がった気になっている女の子が続出する。実際には穴開通したぐらいでそう簡単に人生変わるわけないのに。なのでかなりの確率で勘違いのナルシストな事も多い。
便利に使われ、生まれ変わった気になって不幸自慢する女の子や、引っ越して苗字変わっている人には気を使う、けどこういうヤツに限って自分から話をしてくるのでめんどくさい。有名な先輩とのコネ自慢などもよく聞くが、実際には困ったときに動いてくれることもないので特に価値はない。
それに加えて四大節の記事にある、大正節にはなっていないが大正天皇のお誕生日と言う事だ。
大正天皇
第123代天皇。明治天皇第3皇子。明治12年降誕生、明治45年践祚、大正15年崩御。明治12年8月31日、東京青山御所にて降誕、明宮と称される。明治天皇第三皇子であり、御母は昭憲皇太后、実母は典侍柳原愛子(柳原前光娘)。
ご幼年の頃は中山忠能が御教育係となり、同邸内に明宮御殿を造って、7歳まで御起臥なされた。明治18年に青山御所に移られ、土方久元、佐々木高行等が相次いで御教育係となる。明治20年8月、儲君に治定。明治22年2月、赤坂離宮内の花御殿に移転。明治22年11月3日、皇太子。明治27年に学習院を退学され、赤坂離宮内に御学問所が設けられて教養を修められた。明治33年、九条道孝娘節子(貞明皇后)と御結婚。
明治45年7月30日に明治天皇崩御、ただちに践祚され大正と改元。大正4年11月10日、京都にて即位大礼。明治天皇の御心を基として万機を総覧されたが、大正11年、久しきにわたる御疾患により、皇太子裕仁親王が摂政の任に就かれた。大正15年12月25日、神奈川県葉山御用邸にて崩御。宝算48。
実績
大正天皇の御代には日本の国際上の地位は向上した。大正3年、第一次世界大戦に参加して8月23日にはドイツに宣戦、大正6年6月には地中海にて日独海戦がなされた。大正7年11月には休戦条約が成立し、かくて世界五大強国に列し、国際政治上重大な諸会議に参与、東洋平和の維持に重要な位置を占めるに至った。また皇室諸法規の完成を遂げられ、数百年来の疑問であった長慶天皇の御在位を確認されて、これを歴代に加えられ、皇統にかかる疑問を一掃された。
先代の明治天皇は近代において一大事業に着手されたが、大正天皇はその偉業を守る重要な役割を巧みに果たされただけでなく、それをまた新しく有益な方向へと運んでいかれたのであって、大正時代は異彩を放った、史上没却できない貴重な時代であったといえる。
本格的な産業化の中で、大正天皇は重要な地位を占めておられたが、日本の産業は数倍の発展を見て、海運事業は驚嘆すべき躍進を遂げ、大戦を経て全世界を股にかける大企業となった。
経済も明治時代とかけ離れた画期的発展を遂げ、貿易は5倍、銀行預金や銀行会社の払込資本はいずれも6、7倍となり、大正9年の財界反動期や大正12年の関東大震災後においても経済的数字に大きな萎縮の跡を示さなかった。
世界との交流に関しても大正時代はまた格別な年代であった。
大正天皇は韓国をも訪問され、王世子李垠をたいそうお気に召して朝鮮語の勉強を始められた。皇太子裕仁親王をイギリスへお渡らせになり、その御弟秩父宮も海を渡ってイギリスの大学教育までお受けになった。大正天皇は君主として国際交流の大きな波を乗り切られ、第一次世界大戦後の時期に日本は世界平和に貢献して、その治世下において日本は初めて世界強国と対等に交際することができた。
また大正天皇は一夫一婦制を導入され、貞明皇后との御夫婦仲睦まじく、宮中の様子は一変してよく治まり、裕仁親王、雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王の皇子お四人すくすくとお育ちになったが、ここにおいても大正時代は画期的な年代であった。側室の子どもに生まれ愛情を受けず病気を繰り返した幼少期、全国を回った皇太子時代、明治天皇の重圧と闘いながら病状を悪化させていった天皇時代…。
幼少より病弱であり、皇太子時代は父帝に代わる形で外交にも励んだが、即位後は体調を崩し長子裕仁親王に実務を任さざるを得ない場面も多くなり、その後親王が摂政に就くことで事実上公務を引退した。
ただしその後体調は改善の傾向に向かっており、側近に公務に戻りたい旨を漏らしていたともされている。摂政の任期に対して現行法における規定は無いのだが、この事例により「摂政=一度就くと離任はない」という暗黙の了解が広がっているようであり、これが今上陛下が80歳近くになっても摂政就任論が燻ったままになっている要因の一つとも言える。
宮内庁は天皇、皇后陛下の地方訪問の際に尽力した関係者や皇后の清掃活動を行うボランティアなどに、感謝の品として配布してきた「恩賜のたばこ」を、2006年度末で廃止することとし、以後は菓子などの品に切り替える方針とした
「恩賜のたばこ」は、かつては戦地に赴く兵士たちに下賜されるなど、戦争の記憶とも結びついているが、製造が開始されたのは今から1世紀以上も前の明治時代中頃で、1904年(明治37)にたばこが専売品となるまでは、民間のたばこ会社が宮内省から注文を受けて製造した。
専売制施行後は、大蔵省専売局が皇室用たばこの製造を担当するようになり、さらに49年(昭和24)からは日本専売公社が、85年(昭和60)からは日本たばこ産業株式会社が、それぞれ製造を引き継いできた。
また、皇室用たばこもかつては、天皇・皇后・皇太后の三陛下が直接ご愛用になるたばこを“御料たばこ”と称し、三陛下以外の方が使われるたばこおよび宮内省(庁)の各種行事に使用されるたばこは“特性たばこ”と呼んで、御料たばことは区別していた。いわゆる「恩賜のたばこ」は“特製たばこ”である。
専売制施行以後、特別な部署を設けてまで皇室用たばこが製造されるようになった背景には、外国からの賓客に供するための「応接用」のたばこが必要であったこと、「恩賜のたばこ」に代表される感謝の“賜物”として使用するためといった理由があったのだが、それ以外に明治天皇がたばこ好きだったことも、多少は影響していたのかもしれない。
両陛下の思い出
明治天皇の暮らしは質素でつましかったが、たばこについては、執務用の机に掛けられた緋ラシャのテーブル掛けのあちこちに、たばこの吸い殻の焼けこげを作られるほどお好きだった。焼けこげだらけのテーブル掛けを見かねた側近が新調を申し上げても、修理可能な品はできる限り修理して使用するという考えの天皇は、取り替えることをなかなかお許しにならなかったという逸話が伝えられている。
大正天皇は、明治天皇以上に愛煙家だった。たばこに対しても知識が深く、ご自身が吸われるたばこの香味や辛さについてはいろいろと注文されたという。
また、皇太子(東宮)時代から喫煙量がたいへん多く、身体への影響を心配した東宮大夫が本数を減らすよう進言すると、「それでは、一本のたばこになるべくたくさんの葉を詰めた紙巻たばこを作ってほしい」と言われ、実際に一本の長さが三寸八分(約11・5センチ)もある特性口付紙巻たばこを作らせている。ちなみに、現在発売されている「マイルドセブン」の長さは、フィルター部分を含めても8.・5センチだから、この特性口付紙巻たばこが異様に長かったことがわかるだろう。
今年はこのブログが俺の夏の自由研究だ、皆さん楽しんでいただけたかな。自由研究の流山研究と題すればイイのかわからないが、これからも続けますよ。
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