でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2013年05月


流山市役所切り絵行灯
江戸時代、流山一帯は、一部を除いてそのほとんどが天領と旗本領の入会地でした。家康は、関東地方の治水や新田開発に力をいれましたが、特に流山に関連あるものとしては、江戸川の改修があげられます。江戸川は当時渡良瀬川の下流部分を指し、太日河と呼ばれていました。この太日河は、かなり曲がりくねっていたため、まっすぐに大改修され江戸川となったのです。

この改修により、流山西部の湿地帯は排水が良くなり、新しい水田の開発が進められ、あちこちに集落ができていきました。また、江戸川には銚子から利根川にいたる船の航路が開設され、流山は絶好の集散地となって商家が並び栄えました。

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市役所の入口が流山本町の情緒ある雰囲気に
写真じゃサイズがわからない、昔からのベタなやり方、タバコの箱を上に置きました。横に並ぶと俺の鼻より上、ウチにあるものよりデッカイです。行灯は流山本町に設置されているものの約1.5倍。存在感があり、とても立派な行灯です。寄贈された行灯は、市役所第1庁舎の入り口に設置されています。

ほのかに灯りをともした行灯は、市役所に流山本町の情緒ある雰囲気を醸し出してくれています。寄贈された切り絵行灯を製作しているのは、市内にお住まいの飯田信義さんと長谷部年春さん。飯田さんが切り絵を作り、長谷部さんが行灯の本体を製作しています。流山本町では、店舗の前に切り絵行灯が設置されていますので、夕暮れ時などにぜひ一度、足をお運びください。



観光協会から切り絵行灯が寄贈
5月22日、流山観光協会の坂巻儀一会長、松下英治副会長、渡邊義正専務理事が市役所を訪れ、流山市役所の切り絵行灯を寄贈してくださいました。寄贈された行灯は流山本町に設置されているものの約1.5倍。存在感があり、とても立派な行灯です。

坂巻会長は、「市内や流山本町の観光などのさらなる活性化につながれば」と、市役所の切り絵行灯の制作を依頼してくださったそうです。実物の切り絵行灯を見た井崎市長は、「本当に素晴らしいものですね。市役所を訪れた方がこの行灯を見て、思わず流山本町に行き、ほかの行灯も見たくなるほど立派です」とお礼を述べました。



旧街道にモダンな雰囲気
「切り絵と行灯(あんどん)がこんなにマッチするとは」-。昔ながらの街並みが残る流山市の本町界隈(ほんちょうかいわい)の旧街道沿いに、切り絵を使った行灯が並んでいる。地元の切り絵作家、飯田信義さん(64)ら有志が「郷土の活性化を」と自ら制作を買って出た。

飯田さんは元同市職員。15年ほど前から独学で切り絵を学び、近年は展覧会を相次いで開催するなど精力的に活動している。昨年、切り絵のライトアップ効果に気づき、行灯のアイデアがひらめいた。



流山市の本町界隈
そんな折、隣家に住む幼なじみの元松戸市職員、長谷部年春さん(62)が飯田さんのアイデアに賛同。日曜大工やジオラマなどで培ったものづくりの腕を駆使し、行灯本体部分の制作を担うことになった。「古い街並みを生かした地域活性化が図れないかと思いましてね。

和風でモダンな雰囲気がよく似合う」と飯田さん。長谷部さんは「夜のギャラリーみたい。設計図をいくつも作りイメージを育てていましたが、思ったよりも良いものができました」と目を細める。



本町界隈は同市流山1~8丁目と加5~6丁目のエリア。歴史的な建造物が多い地域性に着目し、古民家を改装してギャラリーや飲食店をオープンさせるなど官民挙げてのまちづくりが行われている。

最近考えが変わってきた、これだけ毎日しっかりやってるんだから、行灯も根郷もしっかり作れば大丈夫なんじゃねえかって気になってきた、手を抜くのは許されないが、流山の街と切り絵行灯の宣伝効果はあると思われる。



江戸時代の面影が残る千葉県流山市の街道です。空き店舗が目立ってきたこの街道ににぎわいを取り戻そうと、幻想的なあんどんが設置されるようになりました。

このあんどん、実は手作り。定年を迎え、ふるさとの役に立ちたいと考えた男性たちの力作です。祭りの風景やその家の職業、建物の様子などが、繊細な切り絵で表現されています。

あんどんが置かれている流山本町地区は、江戸時代から大正時代まで、江戸川の水運で栄えました。街道沿いには築100年以上の建物が今も残り、当時がしのばれます。しかし最近では、後継者不足で閉店する店も目立つようになりました。



地区の姿に危機感を持った飯田さん。そんな時、趣味で続けてきた切り絵を生かした、あんどん作りを思いついたのです。飯田さんは、「歴史のある町で、あんどんを飾る家があった。切り絵とあんどんが合うのではないかと思った。意外と好評で、結構な数の依頼を受けている」と言います。

飯田さんの思いに、長谷部さんが応えてくれました。手先の器用な長谷部さんが、あんどんの設計や組み立てを担当します。雨風にさらされても傷まないように、切り絵をアクリル板ではさむ独自の工夫もしています。



材料費だけを依頼者に負担してもらい、ボランティアであんどんを作る毎日。近所の人とのつきあい方も変わってきたと、長谷部さんは感じています。長谷部さんは、「あいさつ程度だった人や知らなかった人が、あんどんを注文してくれる。家までお邪魔して話ができる。」と言います。



2人がこれまでに設置したあんどんは、60。口コミで評判が広がり、最近ではお店だけでなく、個人からの依頼も増えています。こちらのお宅では、街道に並ぶあんどんの美しさにひかれ、自宅に飾りたいと制作を依頼しました。地区に暮らす人たちの思いが込められた一つ一つの明かり。夕暮れの流山に新たな名所が生まれようとしています。



4月25日放送、故郷の街道を彩る手作り行灯(あんどん)、放送されたNHKのページを貼っておく。根郷の表通りと特大の市役所切り絵行灯でした。

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流鏑馬に感嘆の声
日光市山内の日光東照宮で17日、春季例大祭が始まった。午後に行われた「古式流鏑馬(やぶさめ)神事」では、馬に乗った射手らが豪快に弓を引く様子に、約1万5000人の観衆が感嘆の声をあげた。流鏑馬は、約900年前に武士が戦いの鍛錬のために始めたとされる。東照宮では戦後の復興を祈願し、1953年の春の例大祭から毎年(2011年は東日本大震災のため自粛)行っており、今年で60回目。



この日は、鎌倉時代の流鏑馬装束を着た射手や、江戸時代の平騎射装束を着た平騎射の計15人が、馬に乗って220メートルの馬場を駆け上がり、約80メートルおきに設置された三つの的めがけて矢を放った。矢が的に命中すると、馬場に爽快な音が響きわたった。

流鏑馬の後には、「宵成(よいなり)祭」が行われ、徳川家康、豊臣秀吉、源頼朝の神輿(みこし)3基が東照宮から陽明門を通り、日光二荒山神社へと移された。陽明門は例大祭後に「平成の大修理」に入って足場で覆われるため、現在の姿で見られるのも残りわずかになる。

流鏑馬神事は、およそ900年前朝廷の護衛にあたった武人等によって行われていました。鎌倉時代に、源頼朝卿が鶴岡八幡宮の神前に奉納し、この時代盛んとなり8代将軍吉宗公が復興に努められました。現在、日光東照宮春季例大祭の神事として奉納されているものは、主として鎌倉時代の古儀によるものです。

■馬 場 2町(220m)表参道(大手通り)
■的1辺=1尺8寸(55cm)の正方形で杉の柾目板

※「やぶさめ神事」の観覧場所は、表参道(大手通り)輪王寺三仏堂側になります。
※「やぶさめ神事」は、馬を操る射手の妙技と弓のさばきが見所です。観覧されるときの注意として、カメラのフラッシュ撮影は、馬の興奮を誘い大変危険ですので、それに類する行為は禁止してください。



東照宮の数ある年間行事の中でも最も盛大な神事です。徳川家康の神霊を駿府久能山から日光に改葬したときの行列を再現したもので、神輿を中心に総勢1,200人余りが参道を往復する18日の「百物揃千人武者行列(神(しん)輿(よ)渡(と)御(ぎょ)祭(さい))」は圧巻です。17日の馬上から的を射る勇壮な「流鏑馬(やぶさめ)神事」も見応えがあります。

「渡(と)御(ぎょ)祭(さい)」は二荒山神社境内から3基の神輿が1km余り離れた御(お)旅(たび)所(しょ)に向かって行列を連ねます。この行列には馬に乗った神職をはじめ、鎧武者100人、弓持ち50人、鎗(やり)持ち50人・鉄砲持ち50人などのほか、獅子、八乙女など総勢1,200人余りが供奉します。

行列が御(お)旅(たび)所(しょ)に着くと、三(さん)品(ぼん)立(だて)七十五膳と称する神饌(しんせん)を供え、「八(や)乙女(おとめ)の舞」「東(あずま)遊(あそび)の舞」の二つの舞が古式ゆかしく奉納される「御(お)旅(たび)所(しょ)祭(さい)」が行われます。

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また、東照宮では、昨年5月の東京スカイツリー開業に合わせ、五重塔の内部を初公開しておりましたが、多くの参拝者に好評であったことから、当分の間(終了は未定)、公開期間が延長されることとなりました。拝観された方には五重塔と東京スカイツリーをデザインした記念クリアファイルを進呈しています。観覧料大人(中学生以上)300円、小学生200円で、浄財は「平成の大修理」事業に充てられます。

日光東照宮
元和3年(1617)年、徳川家康公の霊廟として創建、寛永13年(1636)にほぼ現在の社殿が完成。後に、三代将軍家光公により、現在の絢爛豪華な社殿に生まれ変わった。現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永(かんえい)13年(1636)に建て替えられたものです。陽明門(国宝)など55棟、その費用は、金56万8千両、銀百貫匁、米千石(『日光山東照大権現様御造営御目録』より)を要し、ご造営の総責任者には秋元但馬守泰朝(あきもとたじまのかみやすとも)、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広(こうらぶんごむねひろ)があたり、わずか1年5ヶ月の工期で完成しました。

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境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわされています。

一流建築家や美術工芸師らが全国から集った大事業は期間1年5カ月、延べ450万人の人間が携わったとされる。建物は神仏双方の様式が溶け合った独特の美しさがあり、有名な「陽明門」をはじめ、建築物はすべて国宝、重要文化財に指定されている。また、平成11年12月には、日光東照宮をはじめ、「日光の社寺」が世界遺産として登録された。

一日中眺めていても飽きないことから「日暮らし門」とも呼ばれる「陽明門」をはじめ、「眠り猫」や「三猿」など、その彫刻は5,000体にものぼる。江戸時代の技術の粋を集めたその精巧さは、見るものを圧倒する。

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千人武者
日光東照宮(日光市山内)で18日、春季例大祭の「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」が行われた。1617年に徳川家康の神霊を静岡県の久能山から日光へ移した行事を再現するもので、約1000人の産子(うぶこ)や神主らが列をつくり、日光二荒山神社から御旅所までを練り歩いた。

行列の中心は徳川家康と豊臣秀吉、源頼朝を祭った3基の神輿(みこし)。金色に輝く神輿を多くの産子たちが担いだ。昨年と今年で100組を新調したかぶとと鎧(よろい)を身にまとった100人の鎧武者は勇ましく、見物客がさかんにシャッターを切っていた。



渡 御 (午前の部)
●11:00~12:00
  1席 1,000円 (一般席250席)
●受付時間
  8:00~10:45

●当日特別席(最前列)
  1席 1,200円 (限定100席)
  ※当日午前8時に受付開始。

還御 (午後の部)
●13:00~14:00
  1席 1,000円 (一般席150席)
●受付時間
  10:00~12:45

※桟敷席前売券の販売は先着順とさせて頂きます。
※桟敷席は、午前、午後入替え制となります。
※当日、一般席に空席がある場合、午前8時より当日券として会場受付所にて販売いたします。

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千人行列は、徳川家康公の神霊を駿府久能山から日光へ改葬した当時の行列を再現した「百物揃千人行列」と伝えられる豪壮な「渡御祭(とぎょさい)」といい、江戸時代は、4月17日(御命日)に行われ、京都から例幣使がつかわされていました。

春と秋(10月17日)の2回行われます。春は千人をこえる行列となり、出発が二荒山神社境内からになります。行列が御旅所(おたびしょ)に着くと、三品立(さんぼんだて)七十五膳と称する神饌(しんせん)を供え、「八乙女の舞」「東遊び(あずまあそび)の舞」の二つの舞が古式雅やかに奉納される「御旅所祭(おたびしょさい)」が行われます。



三神(家康公、秀吉公、頼朝卿)輿は御旅所神殿に祀られ、拝殿には三品立七十五膳(さんぼんだてしちじゅうごぜん)と呼ばれる山海の幸が神職の手で供えられ、古式にのっとる祭典を済ませたあと、日光二荒山神社巫女による舞(八乙女の舞)、日光東照宮神職による舞(東遊びの舞)が奉納され、内外の災難を取りさらい多くの信奉者の見守る中、三神輿は日光東照宮に向かい神輿舎に安置され、還御祭が行われ御霊は御本社に遷霊する。

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弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。

経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。

弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。

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日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の8臂の立像(塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である。

弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある。

弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。

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七福神の一人として毒抜きされてポピュラーになるのは、室町時代以降のこと。(財宝の福神として「弁財天」の名が当てられるのも、七福神信仰が定着してから後のことのようだ) それまでは呪詛と調伏の本尊として、秘教中の秘教の女神だった。

この女神への信仰は、山伏、忍者、海賊、旅芸人、琵琶法師、など、主に非農耕民の異能の民によって伝えられてきた。彼らの先祖はもとは農耕生活を営んでいた者もあろうが、弥生以降の征服者の支配から逃れるため、土地を捨て非農耕化せざるをえなかった者達もいたに違いない。その後の歴史の大きな転換点では、彼らが裏で重要な働きをしてきたのであり、したがって日本を農耕民の単一文化とする歴史観は、上澄みの気休めにすぎない。

全国の弁天社では、この三女神のうちのイチキシマヒメを弁天として祀っているところが多い。また、異説として、三女神のひとり、タキツヒメに「滝津姫」の字を当てるところから、この女神を滝と禊の女神:瀬織津姫だとする見方がある。奈良~平安朝以降の権威の象徴である伊勢皇大神宮のアマテラスよりも以前からの、消された縄文の※天津神:瀬織津姫と姉妹神であったとなると、この弁才天女も日本のプリミティブな原型に近い女神ということになる。



八木村は、1889年(明治22年)4月1日から1951年(昭和26年)4月1日まで存在した千葉県東葛飾郡の村。現在の千葉県流山市中部・東部に当たる地域。名前の由来は中世の荘園である、風早荘八木郷の地であったことから。八木村役場は現在の八木農協の場所にあった。

20年ぐらい前には台座しかなく鳥居も無かったように思ったが。その後周辺の人々の努力により再建ということか。

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秋元根戸屋

秋元根戸屋の歴史を巡ればこれまた今までの記事のまとめともなる。まず、ギャラリー灯環の記事から流山本町に秋元はたくさんあるので屋号を付けないと特定不能なのである。その秋元の一つ根戸屋だ。



戦後の日本経済
戦後の日本経済は、廃虚と化した街からの出発であった。しかし朝鮮戦争(1950年)というまたも戦争による軍需ブームで復興のきっかけをつかむと一気に波に乗り、未曾有(みぞゆう)の高度成長期、安定成長期を経て現在の高度に発展した社会まで上り詰める。

この時代にもっとも隆盛を極めたのが自動車産業であった。日本鋳工、日本初のショットピーニング技術の記事にある技術や、この記事の後編である日本鋳工、ブラストマシンの記事のような戦前の各種軍用機の製造技術がそのまま自動車に移行したことでより性能のよい商品が開発されたためであった。経済の発展とともに庶民の生活水準も戦中・戦後直後のどん底生活から格段に向上した。庶民の購買力の向上とともに自動車はますますその需要を伸ばしていった。

また、オリンピックのために来日する選手団、観客を迎えるためにも空港からの交通インフラ、そして会場周辺の道路整備が必要となった。

オリンピックが契機となったが、当時の東京は、ここで一段と都市基盤の整備を進めなければ、経済成長の速度に都市が追いついていけない状況になっていた。高速道路の建設、地下鉄工事や都電の廃止、幹線道路の拡幅などが、この前後都内各地で進められた。

開業当時の首都高
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東京オリンピック時の東京の人口は900万人。昭和39年7月に自動車の登録台数は100万台となり、月1万台ずつ増えていく状況だった。昭和30年代の初頭から、このままでは東京の自動車交通がパンクするのは目に見えていた。街路だけでは、この交通量はとてもさばけない。オリンピックというこの絶好の機会に、高速道路の建設も一気に推し進められた。

日本では、1964年の東京オリンピックの直後から流通の車化が進んでいった。道路特定財源制度等を使った高速道路の拡張や鋪装道路の増加等の道路整備、一般大衆にも購入可能な価格の大衆車の出現、オイルショック後の自動車燃料となる石油低価格化などによって、自動車が利用しやすい環境になったことが原因であろう。

首都高速道路3号線渋谷高架橋(東京都渋谷区)
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ガソリンスタンド根戸屋
戦後の都市開発による道の大型化に関連して、流通の車化とマイカー需要が起こり、昭和40年ごろ先代の御主人からガソリンスタンドを専門に現在の流山街道沿いの場所で営業を始める。これは長崎屋豆腐店京料理かねきと同様に水運時代の表通りから、現在の表通りである流山街道に場所を変えた商家の一つ。流山にも出来ては消えるガソリンスタンド、その跡地には中古車販売やコンビニ、はてはラーメン屋になっている中で、厳しい競争に打ち勝ってきた。

原油をすべて輸入に頼らざるを得ない日本は、産油国との友好関係が死活を決めかねない。あの紛争の続く中近東(世界の火薬庫)に対し、常に第三者的に中立態度を取り続けているのも、この石油の輸入という大前提があるからだ。いまでこそ、中東も落ち着いてはいるが、産油国同士のいがみあいがあると即その影響を受ける。戦後も大きなもので2回のオイル・ショックに見舞われた。

それにしても、昭和20年代、30年代のガソリン価格は、よくもまあ車を走らせる人種がいたものだと感心させられる。燃費も悪く、現在なら一万円札をバラまいてるようなもの。ガソリン価格は卵の価格よりもう一桁下の上昇率なのは特筆ものだ。もっとも、物価というより、為替差益が招いた効果に違いない。1ドル360円時代から80円時代になり、これまた円高のおかげだ。

だが、昭和48年以後のオイル・ショックがまた再現される可能性は大。あのとき、街のガソリンスタンドの多くが休業した。広告ネオンが消され、マイカー規制が打ち出された時代だ。政府の石油備蓄拡大が図られ、万一の事態に備えていても限度は数カ月分とか。

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ガソリンスタンドの競争はただ単純なガソリンだけではなく、灯油の販売によるところが大きい。灯油の配達は一番の固定客確保なのだ。家庭では昭和30年代はまだまだ火鉢が使われていた、その後本格的に灯油ストーブが普及したのは昭和40年代前半から、それまで小学校では石炭が燃料のだるまストーブが使われていた。

炭→灯油と燃料が変わっていく上で、当時の燃料である炭、炭を扱っていた肥料屋から[根戸屋さんに言っておいたから]と、お得意様の引き継ぎも行われた。俺の生まれ育ってきた中で、冬になると灯油の配達車を一日に何度も見かけるのも冬の当たり前の風景として思っている。

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根戸屋タクシー
店舗を移動する前、江戸川沿いの表通り、昭和に入ると水運は陰りを見せて、鉄道の後を追うようにして自動車が普及してきた。戦前の昭和期の話だが旧流山橋が完成し、車による流通も増えてきた中で、庶民にはマイカーなんて手が届かない。昭和三年から乗合自動車もやっていたがその年に廃業している。その後同じ車、五人乗りT型フォードでタクシー屋をやっていた。

フォードT型(5人乗り)は、当時の価格で850ドルです。しかし当時の粗末な造りの自動車は、道路事情の悪さや無理な運転により、じきに故障し、廃車になった。新しい部品は容易に手に入らなかったし、修理する技術もなかったのである。もちろん乗合自動車を利用するのは、一部の金持ちを除いては仕事や病気、親戚の不幸に駆けつけるなど、特別な時でしかなかったが、ビックリするような料金を取られても、いつでも自動車は満員で、待たされることすらあったという。

(乗合自動車の営業権を持っていた流山→運河への路線は今の東武に売却される。現在のバス路線とも言える。売却にははっきり儲かったと文を残している。東武はこの後流山→野田と距離を延長して営業する)

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バスは鉄道と比べて料金が高い、運行本数が少ない、時間がかかる上に、運転手は運転のほかオイル交換、ブレーキやパンク修理など全てをやり、当時は砂利道でタイヤのゴムの品質が悪かったためパンクが多かった。これらの経費と運転手の負担からバス路線よりも同じ車を使うにしても、タクシーの方が無駄走りはなくなり、割が良い事になる。そしてタクシーにはガソリンが必要、ガソリンスタンドも先代からと言う事。手漕ぎのポンプでガソリンを上げていたとか。

これは軍人凱旋記念碑の記事にある埼玉などの商圏へ、帰りの車を出したのだ。街に買い物に来る時には手ぶらでも帰りは荷物がある。旧流山橋の麓の立地も有効に利用した、今は当時の敷地の一部に住んでいるが、なんでもない民家なので写真は必要ないだろう。

日本でタクシーが大衆化したのは関東大震災以降といわれ、終戦直前までその業態は世界の大都市と大同小異であった。しかし、欧米と決定的に違ってきたのは終戦をはさんだ戦中と戦後からである。

焼け跡に新設備、新技術、新経営者、組合を結成した新労働者と、すべてが新しく、価値観は民主主義で、時代を築く目標は、未経験の平和な文化国家であった。今にして思えばこのタクシー関係当事者の戦後の価値観の大変革と新しいものへの挑戦、大規模経営のバイタリティが日本独自のタクシー産業の原点となったのである。

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根戸屋自転車
曙輪友会が結成されたり競技場が出来たりしたことが流山の自転車流行に拍車を掛けた。だが当時流山にしっかりとした技術を持つ自転車屋が無かったし、空気入れを持っている人も少ない。臨時の自転車屋を経て、その後ちゃんとした技術を持つ、秋元金次郎さん(明治26年生まれ)の根戸屋自転車屋が宿に出来た。

元は薪炭商だったが隣に二台自転車を持っていて、貸し自転車をやってる家があった。それが結構な繁盛で、なにしろ座っていても金になる。そこで薪炭商から商売替えを決意し、北千住へ出て自転車の組立から修理まで修行した。食い扶持を持って行って短期間で習得した。表通りで商売を始めたのは大正の初めだった。根戸屋の愛称で親しまれて商売は大当たりだった。盛りの時には若い衆を四~五人雇っていて、その時パンクの修理を頼みに来ると

「新車の組立が忙しくって、パンクの修理なんてやってられっかい、置いてってよ」

と言うような忙しさだったようである。自転車の値段は米一俵が5~6円だった時に100円以上した。だから役場へでも勤めているか大きな商店でもなければ買えなかった。この時代は自転車が段々と普及していく段階で、根戸屋は自転車の組立や修理だけでなく貸し自転車もやった。大人は一日や半日いくらで松戸や野田に用足しに行くために借りた。高等科の生徒は一時間5銭で借りて乗り方を覚えた。乗れるようになれば買いたくなるのが人情で、根戸屋は繁盛した。

時代が変わりすぎていてあまり意味はないけど計算してみた。米の一般的な現代の値段、10キロ4000円で計算、1俵2万4千。これが5円で100円以上したってんだから20倍、大体だが50万円以上となる、なるほど、パンクの修理は後回しだ。

※戦国時代から江戸時代は時代・土地・保存法ごとに異なるが、概ね1俵は2斗から5斗の間を推移している。全国的に統一されたのは明治時代の末で、1俵は4斗(約72リットル)と定められた。米1斗(約18リットル)の重さは約15kgなので、1俵は約60kgとなる。現在では、1俵はちょうど60kgと定義されている。

ラーヂ号(イギリス製、1907年前後の製造)


現在のガソリンスタンドになってから、自転車屋として引き継いだのは富塚輪業である。先代が根戸屋の番頭さんとして働いていて技術を持っていた。富塚輪業はその後独立、戦前昭和期に宿の表通りに店舗を置き、今は根郷の流山街道沿いに同様に場所を移して営業を続けている。自転車だけでなく新聞屋のカブなどの整備も担当している。

富塚輪業も貸し自転車をやっていた。こちらは時代は少し後になるが、大人用の自転車を無理に乗るのではなく、子供用の自転車も用意して貸していた。

また秋元平八の実績の記事にある馬場山の競技場も自転車を宣伝して自転車の販売を広げるための目的もありそうだ、その役目をカリスマ性のある秋元本家の秋元平八に頼んだとしたら合点もいく、競技場でスピード感を味わって自分も乗ってみたいと思った人も多かったんだろう。

誰でも育った家がある。自分の家の格は分かっている、大規模農家の小作人や商家の番頭さんの子供ならなおさら。ベットタウンとして引っ越してきて二十歳になったら独立する、というような現代の街の在り方ではなく、一生をこの街で始まり、終えると言う事が決まっていた時代に、目立つ秋元本家と言う家柄だからこそ、街の他の人の為に動く、自分が楽しかったこともあるだろうが、全力で広告塔にもなるだろう。俺も今なら何となく分かる。

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消防法改正
全国のガソリンスタンドはマイカー時代の到来と高度経済成長期に合わせて続々と建設されたため、かなりの数のタンクが40年以上を経過しています。そして実際、タンクの腐食による漏洩事故は毎年わずかではありますが発生しています。

老朽化を放置すれば土壌汚染を引き起こし、さらに深刻な事態になるでしょう。猶予期間は平成25年2月までです。景気悪化で通常の営業も厳しい中で、関係者からは「廃業するしかない」と悲鳴が上がっている状況です。ガソリンスタンドにはレギュラー、ハイオク、軽油など複数のタンクがあり、すべてを規則に適合するようにした場合の費用は数百万円に上り、経営者にとっては大きな負担となります。

消防庁側は、「厳しい状態とは思うが、 法令遵守により 『注意』 『警告』 を聞かない事業所には、法的手段を取らざるえない」と厳しい対応を示唆する考えを示しています。「腐食の恐れが高い」とされているガソリンスタンドまた、タクシーなどの自家給油所を合わせるとかなりの数に上り、そのほとんどが高度成長期に合わせ埋設されたものだそうです。



この件では根戸屋はタンクを新しいものに交換している。営業を続けていけるだけの地盤と固定客を掴み、努力と手間を惜しまない。現在の御主人は老舗の暖簾を受け継ぎ、この後息子に代替わりだ、歴史と伝統のある流山の商家、根戸屋の屋号を背負う。そして元自転車屋なだけあって、自転車の修理も頼め、空気も入れてくれる。古い自転車なだけにかなりの頻度でパンクする。そろそろ新しいの買うべきかもしれない。

流山SS / (有)根戸屋商店
住所 〒270-0164 千葉県流山市流山6-800-17
電話番号 04-7158-1034
灯油配達については結構遠くまで行くので連絡を。

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江戸時代も経済の中心はお米でした。生産された米は年貢として納められ、大名はこれを大阪や江戸で売って収入としていました。大名の大きさは石高(こくだか)で表しました。一石は約180リットル(約150キログラム)で、1人が1年間に食べるお米の量にあたります。

利根川と鬼怒川・常陸川とを結びつけた利根川の改修は、農業水利と治水を兼ねた部分改修を積み重ねながら、巧みに河道改修を進めたものである。利根川の改修は、関東平野の中央部の氾濫湿地帯の本格的な開拓をもたらした。

また、この工事は、東関東と西関東を舟運により江戸の経済圏に結ぶことも目的としたものであるといわれている。治水工事が本格的に実施されるのは明治以降のことであり、低湿地の乾田化工事は、近代にはじまり戦後において完成するのである。

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江戸時代に入ると、他の国に攻め込んで領土拡大をすることが出来なくなり、大名たちは自分の領地で水田を増やすようになりました。このため、江戸時代初期にはそれぞれの領地での新田開発ブームが起りました。工事は大規模化し、平野が広がりました。

徳川幕府も大規模な開発を行います。関東平野の台地をひらいた武蔵野新田、下総国(しもうさのくに)の沼を干拓した飯沼新田。また、もともとは東京湾に注いでいた利根川を、徐々に東に向かわせ、千葉県の銚子の方に流れを変えてゆき、常陸川に合流させて大平洋に注ぐ川に変えてしまう大工事も行いました。江戸幕府は農民を厳しく統制しました。お米が社会の土台であったからです。



この時代には、古代から発展蓄積されてきた土木技術が、強固な封建体制のもとで大きな力となった。戦国期から、築城・道路建設・鉱山採掘などの軍事用途に使われた先進的な土木技術によって、小さな溜池を水路でつなぐ溜池群が造成され、また、大河川の上流部に取水口をつくり、長大な用水路を通じて台地上など用水の不足地に引水が可能になり、堤防も長大かつ堅固な連続堤を築くことができるようになった。こうした水利技術の変革により、水田の拡大と水田経営の安定がもたらされた。

幕府や藩だけでなく農民も、進んで耕地を開墾し、溜池や用水路をつくって、新田開発に力を入れた。この結果、豊臣秀吉のころ約150万町歩(約150万ha)であった全国の耕地面積が、100年後の元禄のころには2倍近くの約300万町歩に増加した。この新田開発は、江戸中期・後期にも盛んに行われた。このように、新田開発はまさに平野の自然史を大きく変革し、それまでにない規模の国土開発時代となった。

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1643年(寛永20年)には田畑の売買を禁止する田畑永代売買禁止令を、さらに分地制限令を出しました。そして農民支配に対する幕府の姿勢を総合したものが、1649年(慶安2年)、3代将軍家光のときに出された慶安の御触書です。これは五人組の制度をはじめ、農民の生活まで細かく規定したものでした。

江戸時代には、農民はほぼ50~60戸で1村落を作りました。村はしだいに行政組織となり、村の有力者を村役人に命じて行政を担わせました。それが名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)で、この3つを村方三役といいます。

稲の品種改良も進みました。民間の篤農家(とくのうか)が、たまたま冷害のときなどに田んぼで元気に育っている数少ない稲を取り上げて、それを何年間も繰り返し栽培していったのです。新品種はお米の収穫量を増大させました。



各種の農機具も開発されました。扱竹(こきたけ)という、竹を箸のようにした道具に替わって千歯こき(せんばこき)が発明されました。千歯こきはその作業効率を10倍以上も高めたため、またたくまに全国各地に普及していきました。農家の人たちは、つねに効率の良い農機具を追い求めていたのです。

他にも耕作のための備中鍬(びっちゅうぐわ)、米を選別する唐箕(とうみ)・千石どおし、田畑に水を引くための龍骨車(りゅうこつしゃ)、足で踏んで水車を動かす踏車などが発明されました。

米作りにはさまざまな農具が駆使されます。弥生時代にはすでに、昭和30年代まで使用されていたような鍬(くわ)や鎌(かま)などの基本的セットが存在していたようです。

木製農具はやがて鍬先(くわさき)を初めとして、古墳時代から段階的に鉄製のものに変わっていきます。同じ頃、牛や馬の力を利用する農具である犂(すき)や馬鍬(まんが)も使われはじめました。

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江戸時代になると、脱穀具の画期的な発明・千歯扱き(せんばこき)が登場します。千歯扱きは脱穀作業期間を短縮し、裏作栽培の発達を促すことにもなりました。

江戸時代に農業が飛躍的に発達したのはなぜ?
江戸時代の農業ではまず「農具の発達」というのが大きい。
 
「備中(びっちゅう)ぐわ」は田起こしをするのに使います。田を耕すのは深く掘りこんで土を柔らかくするためです。こうすることによって稲の根が深くまではり丈夫な稲が育つからです。備中というのは岡山県のことです。
 
「こきばし」は乾燥させた稲穂を2本の竹でつくった箸(はし)にはさんで引っ張りもみを取り込むものです。こきばしによる脱穀は大変力も入り能率もよくありません。その後「千歯(せんば)こき」が作られます。竹製と鉄製があり竹製は麦の脱穀に鉄製は稲の脱穀に使われました。千歯というのは千本の歯つまりは「たくさんの」歯という意味です。能率ははしこきの3倍といわれています。

千歯こきは後家倒しとも言います。こきはしを使う仕事は主に女の人の仕事でしたから, 千歯こきが登場してそうした女の人の仕事がなくなり奪われてしまったからです。後家というのは夫に先立たれた女の人のことです。こういう人は生活するために農作業の手伝いなんかをしていたわけです。

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「からさお」は千歯こきで脱穀しきれなかった落ち穂などをたたいて脱穀する道具です。棒や竹とかで作ったもので中ほどが折れるようになっており、くるくる回ります。もみにくっついた「のぎ」(針状のもの)をとるためには「つち」を使いました。のぎとは禾編の禾(のぎ)です。これをつちでたたいてたたき落とします。

「箕(み)」は脱穀をした後に混ざっているシイナ(実のない空穂)ホコリチリなどを選別する道具です。竹やふじのツルでできた大きめのざるのことです。これにもみを入れて揺すってほこりなどを飛ばすわけです。

もみは「もみすり」をすると「もみがら」と「玄米」が出る。このもみがらと玄米を選別するのにも箕は便利です。この箕を発展させた機械が唐箕(とうみ)です。中国からきた(中国ものは唐物とよばれます。別に唐時代とは関係なく。)箕つまり唐箕といいます。「もみすり」はもみを臼でひいて玄米にする用具のことです。臼でひいてもみがらを取り去り玄米にします。

漏斗(ろうと)の口から脱穀した籾を入れながら、右のハンドルを回して起こした風の力で、籾とゴミや、籾すりによって分けた玄米と籾殻との選別(風選)を行いました。

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「千石どおし」は「ふるい」のことです。千石もの玄米をあっというまに通すことができるので千石どおしといいます。玄米の中に混じっているくず米とか砕けた米はここで選別されます。

またもみをつきうすや水車などを使って精白したぬかの混ざった米を米ぬかと精白米に選別するときにもう一度使います。ぬかは網目から下に落ちていきます。

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道具ひとつとっても米ができるまでにはいろいろな道具が使われたわけです。米の字は八と十と八からできています。つまり88の手間がかかるという意味です。日本では昭和30年代に農業の機械化が進んだといわれています。米作りはその著しい例でしょう。田起こし、苗代つくり、代かき、田植え、除草、水管理、稲刈り、脱穀、選別、籾(もみ)すり、精白というそれぞれの段階で機械化農具が取り入れられてきました。

流山の農機具の機械化は根郷の北総工業、加岸の石田機械が担っていた。
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農業機械化促進法
この法律は、農業機械化を促進するため、高性能農業機械等の計画的な試験研究、実用化の促進及び導入に関する措置、農機具の検査に関する制度、農機具についての試験研究体制の整備その他必要な資金の確保等の措置について定めて農機具の改良普及に資し、もつて農業生産力の増進と農業経営の改善に寄与することを目的とする。

この法律において「農業機械化」とは、動力又は畜力を利用する優良な農機具を効果的に導入して農業の生産技術を高度化することをいう。国は、農業を営む者が農機具を導入し又は農業を営む者が組織する営利を目的としない法人がこれを組織する者の共同利用に供する農機具を導入するのに必要とする資金につき、長期且つ低利の資金を確保するよう必要な措置を講じなければならない。

(国の援助)
国は、都道府県に対し、その農業機械化のための研修、指導、試験研究及び農機具の導入事業その他農業機械化の促進に有効な事項の実施につき、経費の補助その他適切な援助を行なうよう努めるものとする。

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農業機械の特徴として、車両の形態をするものが多いということが挙げられる。農業機械が車両の形態をするのは、農作業の対象である大地や植物を移動させることができないので、機械のほうを移動させて目的の作業を行うより仕方がないからである。

農業機械は雨の中、土や泥の上で酷使されるので、ある程度頑丈、堅牢につくられる。近年まで、堅牢性の観点から電子制御や電気モーターが嫌われ、カムやリンク、ローラーチェーンやベルトによる機構が好まれる傾向があった。現在日本で発売されている乗用トラクターやコンバインは電子制御を搭載している。自動車で採用された技術の1世代、2世代前にあたる、成熟した技術が用いられる。これは、悪条件下での信頼性を優先することや、農業機械では自動車排出ガス規制やNOx規制が近年まで適用されなかったということもある。

農業機械のエンジンも進化しています。排気ガス規制のせいもあるのですが、コモンレール式のディーゼルエンジンが採用されつつあります。ディーゼルエンジンの燃料噴射弁にかかる圧力は、従来ならポンプから1本1本ですが、ひとつの圧力室(コモンレール)に高圧の燃料を貯め電子制御で噴射する。

好きなタイミングで噴射できる。それも1回のピストンによる圧縮の中で複数回できる。これにより排気ガスを大幅に減らすことが出来る。正直、厳しい次の排ガス規制をクリアするには、この技術を使うしかないそうです。

今は、100馬力クラスのエンジンへの採用ですが(コストを吸収しやすい為?)徐々に低馬力エンジンにも採用が進むはずです。でないと、排ガス規制でトラクタが動かせない時が来るのですから・・・

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戦前、田んぼのノロシをいじくっていたら農家の親父に棒持って追っかけられたと思い出を語るバーサンもいた。流山小学校では畑の雑草取りなど農家の手伝いを課外学習としてやっていたそうだ。俺も西平井の畑で芋作って焼き芋やった記憶がある。

それにしても見たこともない農業機械を見るとワクワクする、男の子ならみんなそうかもしれない。

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