でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2013年04月

ボランティアで河川清掃10年以上

約60人が今上落としのごみを回収

4月29日祝日、江戸川に沿って南北に流れる今上落とし、通称「こがわ」を昔のように魚やしじみが捕れる綺麗な川によみがえらせようと、地元のボランティアグループ「めだかの会」(森淑浩代表)が河川の清掃活動を行いました。この活動は、森代表が、毎日見る「こがわ」がゴミで汚れているのを見かねて、昔のように子どもたちが川に入って遊べるようにしたいと、めだかの会をつくって河川清掃を始めたもので、今年で11年目となります。初年度は春と秋の2回行い、以後は毎年4月29日に実施して今回で12回目です。

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この日は、地元加岸自治会や根郷町会、消防団第3分団、江戸川カヌー同好会、トーカツ建興、(株)三枝なども協力し約50人の方々が、清掃活動に汗を流しました。参加した皆さんは、ほとんどが地域の方々で40歳代から60歳代の方々が中心です。皆さん子どもの頃に、この川で魚やしじみを捕ったり学校にプールがない時代は泳いだりもした経験がある方ばかりです。加岸自治会の根本守会長は、「この川をきれいにするだけでなく、親しみの持てる川にしたいですね。皆さんの引き続きのご協力を」と挨拶されました。

朝9時集まった皆さんは、川の中でゴミを回収する班と、周りの土手や遊歩道をゴミ拾いする班に分かれ清掃活動を開始。川の中に入った皆さんは胴長靴を履いて、めだかの会所有のものと地元漁師たちの妻沼会からお借りした計2艘のボートを川に浮かべ、上流からゴミを拾い集めました。河川を管理する県東葛土木事務所から高柳建設課長も参加され、「10年以上も活動を続けるのは大変なこと。川に親しみを持つ心が、次世代につながっていくといいですね」と話していらっしゃいました。

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ゴミがいっぱい乗せられたボートは、途中の橋の上で、クレーン車で吊り上げられます。今回集められたゴミは約1トン。森代表によると、第1回目には冷蔵庫やテレビ、自転車、タイヤなどの粗大ゴミも多く捨てられていて約3トンものゴミが回収されたそうです。この川は、ゴミが減ったばかりでなく、水質も良くなっているそうです。市環境政策課の測定では、水の汚れ具合を表す指標の一つBOD(生物化学的酸素要求量)の値は、高いほど水質が悪いことになるのですが、清掃を始める前の平成14年には7ミリグラム/Lだったのが、今年には3.1ミリグラム/Lまで数値が下がっています。

水質が良くなってきた証に、上流ではメダカも少しずつ見られるようになったという話も聞かれます。また、この日は清掃活動中に大きなカラス貝も見つかり、参加した子どもたちも興味深そうに観察していました。「川をきれいにしようと10年続けてきたが、10年前よりもずいぶんきれいになった。清掃活動は続けていくが、今後はきれいになった川に人が集まるようにしたい。今は菜の花がきれいですが、会員や地元の方の意見を聞いて、セリや菖蒲、水仙、ハーブなどを土手に植えて憩いの場にできればいいですね」と語ってくださいました。この川は、普段は水量が少ないため護岸整備がされておらず、自然の土手が魅力でもあります。

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今年は、チラシや広報を見て自主的に参加された方もいらっしゃったようです。ビニール袋にたくさんのごみを拾い集めてくださいました。「子どものころは、この川に良く遊びに来ましたが危ないと怒られもしました。きれいな川になって、子どもたちが実家に遊びに来る一つの楽しみになったらいいですね」と笑顔で語ってくださいました。

例年参加されている皆さんは、口々に「毎年ごみの量が減ってるよね」と話されていました。ゴミが乗せられたボートは、途中の橋の上で、クレーン車で吊り上げられます。今回集められたゴミは約1トン。でも、枝や木くずなど自然のものが多く、人の手によって捨てられたものは割合少なかったように思えます。森代表は、「10年前よりもずいぶんきれいになりました。清掃活動は続けていきますが、今後はきれいになった川に人が集まるようにしたいですね。子どもたちが遊べるような水辺空間を整備できればと考えています」と語ってくださいました。

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昭和の日
昭和天皇のお誕生日だった四月二十九日は、国民の祝日 昭和の日です。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」祝日です。ちなみに今年がまだ昭和でしたら、「昭和88年」になります。

今こんな気楽にブログなんてやってられるのは戦前、戦中、戦後に及ぶ先人たちの努力と犠牲の上に成り立っている、その上で豊かな国になっている事を忘れてはいけない。

これら全ての達成とは、私どもの祖父、祖母、父や母たちの孜々(しし)たる努力の結晶にほかなりません。古来、私たち日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈ってきた豊かな伝統があります。その麗しい発露があったからこそ、わが国は灰燼(かいじん)の中から立ち上がり、わずかな期間に長足の前進を遂げたのであります。



4月29日は、もともと昭和の時代に「天皇誕生日」という祝日だったというのをご存知の方も多いと思います。それが、昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が崩御されたことを受けて年号が平成に改まり、「天皇誕生日」も平成元年(1989)から「みどりの日」となりました。

しかし、多くの国民の要望を受けて、平成17年に国会で「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正。平成19年(2007)より「昭和の日」とすることになったのです。1年に一度廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみましょう。



「みどりの日」は5月4日に移動して存続しています。もともと4月29日の「みどりの日」は、昭和の時代、「天皇誕生日」という祝日だったのです。

それが昭和天皇の崩御にともない、「天皇誕生日」は今の天皇陛下のお誕生日である12月23日となり、4月29日は昭和天皇が自然を愛したことにちなんで、平成元年から「みどりの日」と名称を変えて祝日として存続しました。

自然をこよなく愛された昭和天皇は、「全国植樹祭」にも必ずご臨席になり、ご自身の手により植樹をされてきました。その伝統は、今の天皇陛下に受け継がれています。



「文化の日」にあたる11月3日は、明治天皇のお誕生日であり、戦前には「明治節」(明治時代には天長節)という祝日でした。国民の声により昭和2年(1927)に「明治節」として祝日と定められ、国民に親しまれてきました。

昭和23年(1948)には、近代文化が目覚ましい発展を遂げた明治の時代を念頭に、「文化の日」としてあらためて定められました。また、昭和21年(1946)に日本国憲法が公布された日でもあります。「文化の日」には、皇居で文化の発展に功労のあった人々に文化勲章の授与式が行われ、また、文化功労者および各種褒章の受賞者の伝達式などが行われます。



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流鉄の春の記事にあるさよなら運転
今回引退する「なの花」は、一九九七年に移籍した二代目。黄色の車体横に緑色で「N」のラインを大きくあしらい、デザインが明るく県の花と同じ愛称のため、沿線住民に親しまれてきた。全く忘れてて、ブラブラ写真撮りに行って充電切れたから帰りの平和台駅、何やらカメラを構えて人が集まっている、何だ?と思ったが今日は28日、なのはな号のサヨナラ運転。流山線を撮る、撮り鉄の皆さんが準備中、したら充電しに帰って流山駅に行くべよ。

2000形「なの花」ヘッドマーク取り付け等について 2013年04月24日、さようならヘッドマークの取り付けは、4月28日(日)11:15流山駅発からになります。ヘッドマークのデザインは・・・当日のお楽しみに!

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駅員と話してブログに書く事を集める、世間話から始まって色々情報を引っ張り出す。なんでも、駅員が鍵を指して動かすタイプ(2000系)ってのがこれからなくなるみたい、流山駅に着くと駅員がボタンを押してドアを開けていたそうだ。これからは5000系ってのだけになるそうだ。それにしてもスゴイ人の数、こんなに鉄道ヲタっているんだ。



流鉄博の記事にある湯呑も販売、400円でした。30年ぐらい前に寺田お茶屋でお茶買うと貰えたみたいで、デザインは寺田さんご自身が描いた絵が元になっている。ウチにあるのはバーサンが集めていた。昭和55年頃に「流山駅通り専門店会」で地域活性化を目的に制作・販売した、湯呑茶碗「流鉄線シリーズ」NHK大河ドラマ「新選組」の放映の年に制作・販売された陣屋跡の絵柄の湯呑もあり、小ぶりで温かみのあるレトロな雰囲気が人気です。

そして写真では切れちゃうかな、クリックして拡大してくれると分かるけど、この春入った新入社員だそうだ、流鉄に新入社員が入るのはこの十年で二人目、流山線が大好きなんだそうだ。

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タオルも販売
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しかしこれは去年の青空の時にも行われたことが判明

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なんと記念切符は売り切れ

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いや~、鉄ちゃんが多い多い、ニュースの渋谷駅を見ると流山線だからこの程度で済んでいるんだろうけど、こう言う人達を葬式鉄って言うそうだ。

葬式鉄
廃止直前の鉄道路線に乗車したり廃車間近の鉄道車両を写真に撮ったりすることを趣味の対象とする鉄道ファンのこと。まはたその行為のこと。現在、一部の葬式鉄のマナーの悪さが目立っている。ニコニコ動画では、「それまで見向きもしなかったにも関わらず、最後の運転日やその間近に群がる鉄オタを葬式好きな輩に例えた俗称」や、「周囲に迷惑をかけても平気で、臨終が近付いていることを喜ぶような自己中心的な輩が多いという皮肉」という意味で葬式鉄(葬式厨)とコメントされることがある。このような一部の輩により善良な鉄道ファンが風評被害を被っている。

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また、15:07に流山駅に到着後、車庫への入換作業は16:15頃より開始する予定です。運転終了後の撮影会は実施いたしませんので、あらかじめご了承ください。※写真撮影をされるお客様に流鉄からのお願い。線路敷や私有地に入っての撮影はご遠慮ください。お客様のご協力をお願いいたします。

実際に車庫に入れるまで撮影会のように写真撮れた。

親父に話を聞くと昭和45年ごろ幸谷駅は当時は土を盛っただけのひっそりとした無人駅だった、そして新松戸駅がないため、周辺の村からの乗客が集まり都心へ向かうために朝、流山方面からすでに満員電車、それでも乗りたい乗客と、満員と言う車両内側からと毎朝押し合いが行われたそうだ。

おまけ
ヨーカドー前ではフリーマーケットも行われていました。連休でもどこにも行かない人も多いだろう、そんな人達がヨーカドーにたくさん集まってレジはかなり混んでいたそうだ。



流山駅の掲示物で知ったが、ゴールデンウィーク中にも新選組関連のイベントをいくつかやるそうだ、また写真撮りに行かねば。ウチに来るお客さんもテレビで切り絵行灯を見て流山に散歩に来た方も多く、検索数が凄い事になっている。
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江戸川八十八ヶ所の一つの大師堂
隠れるように、茂みに覆われて、道路からはわからない。入口の小道は木の枝で覆われ、暫く誰も入った様子もない。「圓徳寺」の石碑。この場所を知っているのは俺だけ、とか感じる立地。見付けた時は何故か感動♪流山三丁目の正覚寺のような、知っている人しか分からない立地、ここを含めて八木村は大規模区画整理により姿を変えている最中で、ここ周辺もいつかはなくなってしまうのか、昔からの姿の旧道八木道じゃなくなってしまうのか、ちょっとさみしい。

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小さなお大師様の像。江戸川八十八ヶ所の七十番札所。芝崎バス停横の木々に隠れて建つ大師様の祠。文政6年(1823年)建造。石碑には柴崎の字、こちらが元の字なのか?



流山本町の人も場所を探ししてみると面白いかもしれない。間違いなく車に乗っていたら分からない。一回見つけると自慢したくなる。この日、芝崎村の吉野家も発見、しかし写真は撮れないべよ。

小祠と庚申塔(手前が文化5年(1808)・後ろが天保12年(1841)の銘)

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芝崎
地域の西部はつくばエクスプレス沿線開発に伴い、1998年(平成10年)~2010年(平成22年)にかけて千葉県が施行する「流山都市計画事業運動公園地区一体型特定土地区画整理事業」の施行地域であり、地域内に市立八木南小学校、流山市総合運動公園の一部がある。



昭和36年ごろの写真、のどかな田園風景が広がっていた。この頃は流山街道の工事中。小さい買い物だけなら近くの加藤屋大店、しっかりした買い出しなら流山本町と使い分けていた時代。南部中学校北分校が常磐松中学校として開校していて八木村から学区変更がかなり分離している、芝崎は変わらず南部中学校の学区。

セントラルパークから下りて来る道が通れば宅地開発も出来るだろう、駅からバスでも通れば一気に人口増加も考えられる、八木中の人口爆発は十年後ぐらいか。

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農作物出荷量が多い八木村農協が強い権力を持っていた
昭和23年 4月  流山市内に流山、八木、新川農業協同組合設立
平成 9年 7月  流山、八木、新川農業協同組合が合併し、「流山市農業協同組合」設立
平成20年 7月  松戸市・千葉小金・流山市農業協同組合が合併し、「とうかつ中央農業協同組合」設立

現在はJAとうかつに合併している
平成20年7月、松戸市・千葉小金・流山市農業協同組合が合併し、「とうかつ中央農業協同組合」として設立。現在、松戸市、鎌ヶ谷市、流山市の3市を事業地域とし、本店、支店17店舗、経済センター2店舗で事業展開しております。

合併により農家の息子あたりが農協に入れることが出来なくなった、以前は結構あったのに。

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東武野田線「豊四季」駅の南口を出てそのまま直進で・・・徒歩3分。流山本町から行くと説明が難しい、八木中の方向からいくのかな。まあいい。ここは流山市野々下三丁目、周りは新しく整備された道路、昔の森の中とは違う景色が広がっている。

学食&給食などのパン製造会社、未だにホームページがないところに信念を感じる。流鉄は作っている。まぁあっちは市が株主ではあるが。

『小菅製パン流山工場』

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流山小学校に通っていると二年生の時にパン工場の工場見学に行く、給食で取っているパン工場へ。まぁお土産にパンもらって帰るんだが、バスの座席は出席番号順。最悪なことに後ろの番号の奴が車に弱い、酔うのだ。チキショー、ものの見事に背中に吐かれたよ、窓側だから逃げられないし絶対忘れねぇよ、ユータの野郎。みんながパン工場に見学に入っていくのに、冬で寒い中、外の水道で先生が洗ってくれた。あの時定年間際だった先生はまだ生きてるのかな。

ところでこの出席番号順、千葉だけだというのだ、他の県はあいうえお順なんだってよ、ごく当たり前の事だと思っていたから知った時には驚いた。高校はあいうえお順だったな。

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毎週土曜日、朝9時からパン直売してます☆

知っている人や近所の人だろうか九時前には行列になる。駐車場は、向かいの駐車場、もしくは工場隣の空いてるスペースへ、10分前に着いた時に、先客は15人ほど。中には・・・この行列を見かけて「何だ何だ?」と、並んだ人も居たりして販売時間になる頃には、30人以上は並んでいる。

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おっと、今見ても懐かしいパンケース。工場直売の醍醐味のこの安さ! 文句なしのオススメです♪

「惣菜・菓子パン→ALL50円」「プレーンパン→ALL100円」

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惣菜パン50円で、パン直売所なのに、白米とか、焼きそばも売っている。菓子パン、総菜パン、食パン!1個50円!5~6個入りの袋100円!食パン150円!

懐かしのコッペパン(5本入/¥100)、クロワッサン(5個入/¥100)バターロール(5個入/¥100)、バターロール(5個入/¥100)パンダパン(5枚入/¥50)、コロッケドック(¥50×2)クリームパン(¥50)、オニオンロール(¥50)、ツナロール(¥50)焼きそばドーナツ(¥50)、辛口カレーパン(¥50)、メロンパン(¥50)
あんぱん(¥50)、アンドーナツ(¥50)、たまごデニッシュ(¥50)

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適当に検索した結果だが、給食の揚げパン食いたい、今食ったら昔より美味いと感じないだろけど、思い出補正って思ったより強いらしい。

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小菅製パン 流山工場

住所 千葉県流山市野々下3-938-1 
電話 047-144-9161
営業日 毎週土曜日、朝9:00~売り切れまで
( 夏場などやってない期間もあるみたいです )
駐車場 あり
HP なし
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流山橋から坂を下る、現在の流山橋の造成工事、旧流山橋よりも高さが倍になったら坂道ももちろん伸びる。現在は八丁目の交差点まで続く長い坂だ。はて、新しい家のために区画分譲中。ここなら南流山駅から15分といったところか。

区画分譲以前は万上関係の子会社が駐車場にしていたところだという。でもここって地元の人は豚屋の場所っつって、赤城神社のお神輿で昼飯食うところじゃない。今年からどうするよ、っつってもどうにかしなきゃいけないんだけどよ。

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明治になるまでは日本人の食肉の習慣は仏教の教えである殺生禁断の思想の影響から公にはありませんでした。例外的に、南西諸島ではかなり古くから島豚と呼ばれる豚が飼育されてきましたが、現在ではほとんど見られなくなり、近年沖縄県で銘柄豚として復活が図られています。

急激な成長を遂げる明治・大正時代の養豚産業
江戸から明治に改まると、政府の重職である大久保利通は、国内における産業の振興をはかり、二つの大きな目的を定めました。そのひとつが畜産の振興であり、畜産物の消費を伸ばし、欧米諸国に負けない体躯に改善し、富国強兵策の足がかかりとしたのです。

そして明治5年には内藤新宿(現在の新宿御苑)に観察寮出張所が政府により設置され、そこに外国産の作物や家畜を導入し、養豚については、政府の雇った外国人H・ホールの指導のもと、わが国で初めて西欧の豚の飼育法を取り入れた養豚が始められました。その後、各地にある政府の試験場などにも西欧の技術を取り入れた養豚が広まっていきました。また、当時導入された品種は米国産チェスターホワイト、英国産サフォーク、バークシャーなどでした。
 
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このような公的な機関で生産された子豚が、やがて民間に払い下げられていき、養豚は全国各地に広がっていきました。明治の後半には、日清、日露戦争がおこり、軍の食料として豚肉の需要は急速に高まるとともに、養豚産業も活性化していきました。

明治から大正にかけて多く飼養されていたのはバークシャー、中ヨークシャー種でした。その理由について明治、大正の畜産界の指導者石崎芳吉氏は、「2品種の原産国である英国と当時の日本の飼養環境、エサ事情などが似通っており、日本で飼養する事に適していた」と述べています。

また、当時の豚のエサは、現在のようなトウモロコシ等を主原料とした配合飼料ではなく、食品産業から出る廃棄物や家庭から出る食物残さが多かったので、養豚が盛んになったのは、食品産業が盛んな地域や食物残さが多く出る都市部でした。

そして、豚肉の食べ方についても現在のように焼肉やトンカツではなく、ベーコンやハム、缶詰など加工食品として主に食べられていました。トンカツの登場は大正9~10年ごろの浅草の大衆食堂あたりからだとされており、もともとは長崎(南蛮)料理から普及したものと考えられています。



第2次世界大戦と戦後からの復興
昭和に入ると、ただ単に養豚を奨励するだけではなく、耕地に家畜の排せつしたふん尿を厩肥として還元する有畜農業が奨励され、施設や器具の設置にたいしても政府から奨励金が交付されるようになりました。このような背景もあって、昭和14年には戦前最高の115万頭近い頭数が国内で飼育されていました。
 
さらに第2次世界大戦を契機に、食料の増産策が国をあげて強力に進められるなか養豚も急成長をしたものの、戦争が長引くにつれて食糧難と飼料事情の悪化から養豚は一気に衰退し、敗戦直後の全国の飼養頭数は8万頭強まで減少してしまいました。その後、食料事情が好転し、食生活が洋風化してくるにつれ、養豚が再び注目され、徐々に復興をしてきました。
 
また品種においても、昭和35年にアメリカより援助物資として欧米原産の大型品種が導入され、在来の中ヨークシャー、バークシャーとの交雑により肉豚生産が行われるようになりました。しばらくすると、ランドレース、大ヨークシャー等の大型種の発育や繁殖能力の良さが次第に注目を集め、従来飼養されていた中型種の中ヨークシャー、バークシャーに取って代わるようになってきました。またこの背景には、飼料事情が好転し、栄養価の高い飼料が米国から入り、急速に普及していったこともあります。



量より質の時代
その後現在に至るまでには、より効率的な生産体制を確立するために、更なる品種の改良や飼育技術の改善が進められ、養豚産業は戦後順調に発展を遂げてきました。結果的には、年間2千万頭の肉豚を生産するに至り、牛、鶏を含めた食肉需要の40%を占めるまでの産業に成長しました。

しかしながら、一方では豚肉の輸入自由化、担い手の減少等の深刻な問題も発生し、近年では全国の飼養頭数はほぼ横這いですが、飼養農家数が急速に減少しています。これまでは生産効率を高めていく事に生産の重点が置かれていましたが、経済力の向上、生活水準の向上から食料が豊富になる中で、量よりも質が求められる時代となり、養豚産業は新たな変動期を迎えていると言えるでしょう。

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上の写真の一ヶ月後には道幅も広げられ、工事がすでに始まっている。

去年十月には悲惨な事件が
米オレゴン州の養豚場で、ブタに餌をやりに行った男性が死亡しているのが見つかった。遺体は大部分がブタに食べられていたという。現地からの報道によると、バンス・ガーナーさん(70)の遺体は9月26日に豚房の中で見つかった。この日午前7時半ごろ、ブタに餌をやりに出かけたまま、数時間たっても戻らなかったため、家族が捜したところ、豚房の中でガーナーさんの入れ歯を発見。さらに遺体の部位が複数見つかったが、ほとんどがブタに食べられたあとだったという。

地元の検察は状況の特異性から、ガーナ―さんの死に事件性がないかどうかを含め、あらゆる可能性について調べている。ガーナ―さんが豚房の中で心臓発作を起こした可能性や、ブタにぶつかられて倒れた可能性もあるという。遺体はオレゴン大学に送られ、専門家が調べているが、状態から判断すると、死因を究明するのは難しいと見られる。

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広小路を中心とした街構成から、ここはかなり宿の町外れと言う事になる、もう少し行くと木村になる境目ぐらいな場所だ、南側の道の向こうは木村の人の持っていた土地であろう。武蔵野線開通前は一面の田んぼが広がっていた。豚屋の場所とは町外れだからこそ出来た、豚小屋が昭和初期あったことに由来している。

養豚
かつては郊外の田園地帯の中に「豚小屋」と呼ばれる養豚場が見受けられたものであるが、最近ではめっきり見られなくなった。環境問題で立ち退きを余儀なくされただけではなく、国内養豚家そのものが減少しつつあり、その最大の要因は悪臭等の環境問題と後継者難である。現代の養豚ではトウモロコシを主体とし、大豆カスや小麦を加えた飼料を用いているが、日本では原料の多くを輸入に頼っており、安全保障上の問題になっている。

畜産を営む農家は特に、畜産農家、または畜産家と呼ばれる。 放牧により畜産をする場合、牧畜とも言う。 乳を得ることを目的とする場合は酪農という。

ここと違う話だが牛乳屋が牧場をやっていて時代が進み、家が増えてきた時に街中になってしまった、そしたら近所から臭いって文句言われたと言う話も残っている。流通が近代化される前までは街の近くに酪農の牧場があるのが当たり前だったという。

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