でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ

2013年02月

青野さんに写真を提供するため、検索して貼っておきます。



ブログやってる方々、勝手に写真使っちゃって悪いです。観光の資料に利用させていただきます。



でもこれが流山の魅力なのだからね、この時期になると、アピールするならもっと前の時期に用意しとかないとね。観光客のためになるんです。

275f4df5.jpg


ナウシカのラストシーンのように青い服でお越し下さい。

00c56410.jpg


その者、青き衣を纏いて、金色の野に降り立たん。

9532ecca.jpg


この時期、毎年江戸川の土手が満開の菜の花で黄色のじゅうたんのように美しく彩られ、菜の花の香りがただよっています。そして近隣には、国登録有形文化財の新川屋や万華鏡世界大会グランプリを受賞した作品等が展示されているギャラリー見世蔵、史跡などがあり、見ごたえのある絶好の散歩コースとなっています。

de48b9d2.jpg


江戸川の景観を楽しみ、流山本町界隈の魅力にふれてください。



観光地扱いになってもよいと思ったりするのですが、こういうアピールもこれから大事だったりするんですよ。土手にいるのは地元住民ぐらいで非常にのんびりしたものです、この画像はクリックで拡大するのでどうか地域のためにお使い下さい。写真は去年のものばかりです。



春爛漫って感じでございます。



本当に見事な菜の花畑。しかも、これはお孫さんの一言で一念発起したおじいさんが、10年の歳月をかけて増やしてきたとのこと。国土交通省とモグラの問題でかなり揉めたんだと、名前は伏せておきます。



おまけ、流山市のマンホールは色とりどりの市の花、ツツジでした。

e434f424.jpg


誰が始めたのか名前を出したほうが喜ばれるか?意見下さい。


にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

平和台にダンススクール?

そりゃドラッグストアの跡地で空き店舗なんだから何か入れば経済活動になるし、税金も落ちる。地域と土地の為には居抜き物件を有効利用してくれるというならありがたい。

CANDYで検索するとバレエスタジオや明らかにいかがわしい内装のスタジオなどがヒットする、ポールダンスの練習場は違うだろうが、まだわからない。ヒップポップと書いてあるが?

0680a881.jpg


おいおい、どうなってるんだよ、まさかこんな子供用のダンスの貸しスタジオみたいなの作ってダンスの英才教育かい?そして昼間は主婦層向けのダイエット教室とか、んで親子入会ならお安くなりますよ。って思いっきり新興住宅街のベットタウンとして成功するかもしれない商売じゃない。

体育でダンスが始まるから子供の頃から、って建前で旦那からオーケーもらう主婦の姿が想像出来る。近くのスイミングも同じような商売の形だろう。

280a44a2.jpg


なんか新年明けてから景気イイ話を聞く、経済大国日本がやっと本気出すというのだ。

アベノミクス成功を祈ってちょっと洗濯機に乗ってみよう、ドラム式だ。


c91f1100.jpg


こんなダンススクールなら会員証作っちゃうよ、服装か景気を表しているね。

小学生の時[大人になったらこんなきらびやかな世界が待っているんだ]って思ってたら、バブル弾けただの景気悪くなって、日本を嫌いなマスコミが不景気と騒ぐ。援助交際とかイジメ問題とかキレる十代とか言われていた世代、おまけに大学の時には、有名私立大学から現役大学生が続々とAV女優としてデビューしていた世代。若い女が体売るぐらい現実を見つめている中で、アホみたいに浮かれたい。バブルアゲイン、カムバック。



[ジュ、リ、ア、ナ、ト、キ、オ~]

チャチャチャ~、チャチャ、チャチャチャ~ワホ~♪
伝説と言っていい王者ジュリアナ東京。ワンレン・ボディコンのギャルとそれに群がる男性が集まり、週末には店の前に入場を待つ列が出来るほどの人気スポットとなった。羽根つき扇子用意しろ、誰か荒木師匠呼んで来い。パイオツカイデーなチャンネー集めろ。クリビツテンギョノイタオドロ。

近くの駅やファーストフード店のトイレではボディコンに着替える女性であふれ、「ジュリ扇」と呼ばれる羽が付いた扇子も人気になった。多いときには1日のべ5000人を越える客が押し寄せた。しかし、女性の服装は次第に挑発的になっていき、あまりの過激さに警察から警告を受けるようになる。

通称“ジュリ扇”を流行らせたカリスマ・荒木師匠こと荒木久美子

310024b3.jpg


チャーラッ、チャーラッ、チャーラララッララ、チャーラッ、チャーラララー♪

お立ち台も作ろうぜ
「お立ち台」は1993年に新語・流行語大賞の銅賞にも選ばれており、派手なボディコンのミニスカート姿で扇子を振りながら踊る「お立ち台ギャル」の姿は、バブル景気の象徴としてしばしば取り上げられる(ただし、ジュリアナ東京の最盛期はバブル崩壊後(ポスト・バブル)である。

この名物のお立ち台は、ジュリアナでは高さ1.2m、幅1.6m、長さ9mの鉄骨台だそうです。80年代はマハラジャを中心にした六本木がディスコの中心地で、80年代も半ばを過ぎると、ワンレン・ボディコンと言われる女性のスタイルが確立されていきます。男はアルマーニのスーツに、まっ黄色か青のネクタイ、金のジャラジャラしたものを身に付けます。

あらゆる意味で伝説となったスーパーメガディスコ。同時期、港湾倉庫街を再開発するウォーターフロントと呼ばれた港区芝浦、海岸地区には、倉庫を改造した「芝浦ゴールド」や「オーバー」といった有名ディスコが存在し、この地区は90年代ディスコ・ムーブメントの発信地として脚光を浴びた。

ボディコンの女性がJR田町駅 (東京都) 田町駅からジュリアナまでの道のりを歩く光景はバブル景気 バブルの象徴であった。

cbc059b7.jpg


「ジュリ扇」
VIPルームの顧客にのみ配られた紫色のロゴ入り扇子を、女性客が持ったままお立ち台で踊ったのを真似たのが始まりとされるが、その後羽根つき扇子が導入されパワーアップして行った。「ロゴ入り扇子」や「羽根つき扇子(羽根扇やジュリ扇)とボディコンでハードコア・テクノやパラパラに乗って同じ踊りを踊る」というスタイルは地方の新興ディスコにも波及し、「盆踊りが現代に復活した」とも言われた。

「ゲッターズ」
マハラジャやジュリアナ東京などに出現する、都内のアソビ系サークルの大学生や若手ビジネスマンを中心とするナンパ集団「ゲッターズ」が一部で有名になった。実際は、ジュリアナから田町の駅まで徒歩で帰る女性を道路沿いに駐車した車から「送ってあげるよ」「どこまで帰るの?」等と声を掛けナンパする者達のことをゲッターズと呼んでいた。

6dce23e3.jpg


目立つのが快感なの
午後九時。それまでレストランだった場内から客が去ると、にわかに空気まで一変。次々やって来るふだん着の若者たちの中に、ひときわ目立つ女性たちが数人。 いずれもハイヒールに超ミニのスカート、ボディーラインもあらわな白や黒の衣装。手には鳥の羽根をいっぱいつけたような扇子を持つ。うむ、最近テレビや週刊誌をにぎわす「お立ち台ギャル」とは彼女たちのことか。 

中央のホールに客が集まり、踊り出す。初めは、ふだん着組が軽く体を動かす程度だったが、一時間後。ころ合いをみはからったように、十数人のギャルがさっそうと、お立ち台に並んだ。場内の沸騰点がぐんぐん上昇する中、「ゴールデンタイム」を迎えた。

ホールの周りの高さ約1.5メートルほどの台に上ったギャルは、扇子をひらめかせつつ腰を大きく左右に振る。 ホールにひしめく百人近くが彼女らを仰ぎ、動きを合わせ始めた。 踊りをリードし、一群を陶酔状態に導く彼女らはまるで女神か菩薩(ぼさつ)のようなまばゆさだ。
芝浦GOLD
8cd69600.jpg


「職場のストレスを吹き飛ばせる」「職場以外の友達ができる」

と、お立ち台効果について、彼女らは、ほとんど毎週、駅や喫茶店のトイレでボディコンのユニホームに着替え、ここに来る。

「お立ち台で踊ると気持ちいい」「注目されるし、自己満足できるから」。

彼女らは、汗も乾かぬうちに、またお立ち台に戻っていった。

899fb233.jpg


派手さ競い
彼女らを「自己主張がうまく、自分に対して正直なのでは」とみるのは、店長。 時に女性同士の競争心から、派手さがエスカレートすることもあるそうで、上半身裸になろうとする女性がいて、止めに入ったこともあったという。

「DJはディスコの管制塔。いかにいい雰囲気をつくるか、ですね」そう語るのは、この道九年目のDJ。 仕事は、選曲、照明など。「お立ち台を明るくしたりして、女の子が目立つようにいろいろ工夫します。店の華ですから」 

天井やお立ち台のライトが、赤や緑の光を浴びせかけ、テクノ・ハウスの、サイレンのうなりにも似たシンセサイザーの音。 ホールはやがて、SF映画の輝くUFOのように揺れ、舞い上がる。

903f7cd1.jpg


後期はワンレンからソバージュがかかったスタイルに変遷し、爪長、トサカ前髪。肩パットのフク、太い眉毛、ハイヒールが定番というか、皆、同じ格好をしている。まあ、ド派手な、今では恥ずかしい世界です。ディスコに赤のフェラーリで乗りつける、そういうのが格好良いと認められた時代です。

このファッションは相当に高額で、ブランドもので身を固めていますから、お一人様、一体いくらかの金で身を包んでいるかの世界です。ブランド品を洪水のように使う消費が、この時代に確立し、不況に入ってもブランド品の消費は止まることなく続くことになります。

お立ち台の女王荒木師匠がカリスマ的な人気があったようです。週刊誌によれば、お立ち台の階上には女性VIPルームがあり、そこに入れるというのがステータス。有名人などしか入れない場所だったと聞きます。そこは飲み放題、食べ放題、男なんかよりどりみどり。毎日がお祭のようだったと思い出を語る女性達がいます。

0d28d184.jpg


もう一つの伝説のディスコ、MZA ARIAKE(有明)があります(現在はディファ有明)。1980年代後半のディスコブーム、更にバブル真っ只中だった時代、都心の家賃が高騰したため、湾岸線などに存在した倉庫や工場跡を借り、内部を改装してディスコやライブハウスとしてオープンするというウォーターフロントブームの先駆けとなった。

M.C.ハマーを始めとして多くの外タレがライブを行い、1990年3月には24年ぶりに来日したポール・マッカートニーが同所で記者会見を行い、さらに異例のライブパフォーマンスを行った。しかしながら、1991年、バブル崩壊により親会社が経営不振となり、MZAは閉店(閉店公演はスレイヤーによるライブ)

2c204c4a.jpg


1993年11月20日、ジュリアナ東京の名物「お立ち台」が廃止されることが決まった。「お立ち台」が消えてから客が激減。かつての熱気が感じられなくなっていき、1994年8月31日ジュリアナ東京はその3年4か月の歴史を閉じた。

閉店後のジュリアナ東京跡地には、総合スポーツセレクトショップ「ASR芝浦」がディスコ時代の建物を一部小変更し営業していたが、2011年1月5日に閉店した。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

おとなのためのひなまつり

一茶双樹記念館で3月10日まで
一茶双樹記念館で3月10日まで、「おとなのためのひなまつり」が行われています。近年、七段飾りのような大きな雛飾りを、ご家庭で見る機会は少なくなってきています。ひなまつり企画展が開催中の一茶双樹記念館では、入口を入ったすぐのところと双樹亭の和室に、見事な七段飾りのおひなさまが飾られています。ぜひ、ご覧ください。



ひな祭り、お母さんと一緒に子供たちも一茶双樹記念館でのひとときをすごし、子供たちは雛人形のぬり絵に夢中。描いたぬり絵は座敷の掲示板に貼り付けてくれました。

流山本町「一茶双樹記念館」の「ひなまつり」。3月2日(土)は「大正琴のしらべ」が開催されます。「新大正琴なのはな」の皆さんの御演奏。江戸の建物、大正の琴、平成の今、時代を一つ飛ばしにした組み合わせになっていますね。ひな飾りの鑑賞とあわせてご来場ください。


関東では雛段に向かって左が男雛、右が女雛ですが、関西(特に京都)では右が男雛で、左が女雛と関東と関西では内浦雛の飾り方は左右反対です。 現在では関東の並べ方が一般的で、昭和天皇即位の際に、天皇陛下が向かって左に、皇后陛下が向かって右に並ばれた事から始まったようです。

921b0de8.jpg


「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然とせず、その起源説は複数存在している。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。

江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。

もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。



雛人形は子どもの身代わりとなり、事故や病気から守ってくれ、子どもの健やかで幸せな成長を祝うために飾る。姉妹がいる場合、子どもの災厄を身代りの雛人形は、(本来ならば)兼用を避け、それぞれ別のものを飾らなければならないとされているが、近年の住宅事情では難しい。地域によっては妹に市松人形を贈る習慣もある。

節句が終わるとすぐに片付ける風習の由来
雛人形は節句が終ったらすぐに片付けた方が良いとされる。雛人形は子どもの災厄を身代わりとなって守ってくれるため、長い間身近においておかないで早くしまわなければ縁起が悪いと言われる。

また「雛人形の片付けが遅れるとお嫁に行くのが遅くなる」という話は、いつまでも雛人形を飾っておくと梅雨も近づき、カビの心配もあることから「片付けも満足にできないようではきちんとした女性になれない、良いお嫁さんになれない」という戒めのためとも言われる。

b9fda063.gif


生産地
関東地方に集中しており、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区(以前の埼玉県岩槻市)が有名。また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、東京都台東区の浅草橋が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の~」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。

「ひなまつりは女の子の祭だから男子は参加しちゃダメ~!」という女子(主に自意識過剰なヤツ)が一人くらいは必ずいる。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

駄菓子屋で世間話していたら、知らない言葉が出てきた。

根郷の表通りに店があったという麹を扱う店、1980年代に生まれ育って、去年塩麹ブームで名前だけは知ってるけど、一体どんな店で、何を売ってたの?

256381b7.jpg


麹(こうじ)とは、米、麦、大豆などの穀物にコウジカビなどの食品発酵に有効なカビを中心にした微生物を繁殖させたものである。

コウジカビは、増殖するために菌糸の先端からデンプンやタンパク質などを分解する様々な酵素を生産・放出し、培地である蒸米や蒸麦のデンプンやタンパク質を分解し、生成するグルコースやアミノ酸を栄養源として増殖する。

コウジカビの産生した各種分解酵素の作用を利用して日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造するときに用いる。ヒマラヤ地域と東南アジアを含めた東アジア圏特有の発酵技術である。
「こうじ」の名は「かもす(醸す)」の名詞形「かもし」の転訛。漢字では「糀」とも書く。

杜氏や蔵人の間ではよく「一麹(いちこうじ)、二酛(にもと)、三造り(さんつくり)」と言われる。「よい麹ができれば酒は七割できたも同然」という杜氏や蔵人もいるくらいで、酒造りの根本として重要視される。

a2869b77.jpg


麹の使い方
麹を発酵の材料に加えることで、カビなどの既に生成した酵素を食品の発酵に用いる。発酵時に必ずしも微生物が生きていなくてもよい。味噌、甘酒、味醂をつくる時の麹の用法がこれである。

米麹は、塩麹、日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造するときに使用できます。

甘酒、手作り味噌、塩こうじ、べったら漬けなどの漬物、甘酒まんじゅうなどのお菓子作りや納豆に混ぜたり、そのまま味噌汁等に入れてなど多種多様にご使用頂ける自然食品、無添加食品です

昔は各自の家で味噌などが作られていて、漬物のように家ごとにおふくろの味があった。醤油も作っていた農家もあって、ウチでも味噌は作っていたそうだ、戦後世代を1世代挟むだけで全く時代が変わる、日本の経済発展によって忘れられ、破壊されていく文化もあるという事だ。

今では自家製味噌を売りにしている料理屋もある。

b971bab7.jpg


醸造技術の花形「米麹」
甘酒やべったら漬け作り、みりんなど、果ては日本酒醸造には欠かすことのできない働きをしているのが『麹カビ菌』です。麹カビ菌は、米や大豆などに植え付けられ、繁殖したものが、米こうじや醤油醸造用の豆こうじとして利用されます。

麹カビ菌は、増殖するためには酸素が必要な好気性菌で、繁殖適温は25度~30度で、50度前後で死滅します。甘酒つくりでは60度前後で米を糖化させますが、それは麹カビ菌の酵素の働きを利用したもので、その温度帯では麹カビ菌そのものは生きていくことができません。

麹カビ菌の繁殖に悪影響を及ぼす、乳酸菌や納豆菌の適温は、いずれも麹カビ菌の適温よりも高く、乳酸菌で40度~50度、納豆菌で40度~70度です。このため麹カビ菌を増殖させたい場合は、むやみに温度を高くすると他の雑菌の繁殖を招くことになるため、発酵初期には25度~30度の範囲を保つことが重要になります。



米麹を昔からの製法で作っている店に画像があった。
米の蒸し器、一度に100K~150Kを蒸します。蒸す燃料が昔は石炭、今はガスに変わり、蒸した米にこうじ菌を打ちます。ムシロを掛け一晩寝かせます。職人がその日の気候により麹蔵のどの場所に何段もろ蓋を積むか決めます。

職人がこうじ菌の付き具合を見ながらもろ蓋の上、下段を昼夜を問わず入れ替えます。仕込み期間4日を費やして完成に至る。

0520e163.jpg


「塩麹」
塩麹とは、麹と塩、水を混ぜて発酵・熟成させた、日本の伝統的な調味料。日本では古くから野菜や魚の漬物床として利用されてきた。

大きな食トレンド“塩麹”。米の麹に塩と水を混ぜて発酵させたペースト状のものだが、これが重宝する調味料として昨年後半からじわじわとブームになっている。食べておいしいだけでなく、発酵食品である塩麹は、ビタミンや乳酸菌を豊富に含んでいるため、整腸作用・美肌作用・老化防止などが期待される健康調味料なのだ。

肉や魚を漬けると、食品中のデンプンやタンパク質が糖やアミノ酸へと加水分解され、うまみが増す。野菜や魚、バゲット等にかけてそのまま提供する場合もある。スープやソースの隠し味に利用されることもある。

野菜(きゅうり、白菜、大根、ナス)等と塩こうじをビニール袋等に入れ半日程冷蔵庫に入れておくだけでおいしい漬物の出来上がり。 ・肉、魚の場合、塩こうじをうすく塗り1時間位おいて、弱火で焼きます。また、1日~2日冷蔵庫に入れておくと、まろやかな味わいになります。他、卵焼き、おかゆ、煮物、から揚げ、ハンバーグ、炒め物、カレー、鍋物に少量入れるとコクとうま味が増します。

塩麹の味は表現するのが難しいです。ダシ汁のような旨味。角の取れた塩気。ほのかな甘味。様々な美味しさが交じり合った複雑な味です。このなんとも表現出来ない味が実にうまい。



麦麹
手作り味噌、もろみ味噌、金山寺味噌、こうじ納豆、こうじ漬けなどの漬物等にご使用頂ける自然食品、無添加食品です。麦麹は米麹に比べて、水を吸いやすいので、少し、大豆の炊きを柔らかくするのがポイント。

麦麹と米麹の大きな違いは3点ある。
麦麹はお味噌にした時に米みそより、あっさりとした風味がする、米麹は原料は米からできているので、お米はレシピによっても変わりますが、お米の甘味がお味噌汁にした時に引き立ちます。しかし、麦麹は原料は麦からできています。そのため、みそ汁にした時に、お米特有の甘味は少なく、あっさりとして、さらっとした飲み心地がします。

麦麹は麹の香りが豊かで、みそ汁にした時に顕著にあらわれる、小麦粉からパンなどを作って焼くと、焼きたてのパンは非常に香ばしい香りがしますよね。お味噌に使う麦麹は大麦などがメインでございますが、麦は非常に香りが良い穀物なので、それは麦麹にも言えます。天然醸造という長期で熟成されたお味噌には非常に麦の心地良い香りがします。

麦麹は米麹よりも水をよく吸う傾向にある、麦という穀物は米よりも水をよく吸う植物のため、米味噌と同じレシピで作っても、麦糀が水をすってやや固めになる傾向にございます。それは麦の吸水率が高いためにおきることで、少し大豆の炊き具合を柔らかくするか、蒸した大豆を潰して、麹と食塩を混ぜる時に、加水をすることをオススメ致します。

544951bc.jpg


発酵食品は、採れたままの食材に対して、何らかの発酵に基づく加工が成された食品である。なおこの発酵だが、近代における微生物学など科学の発達によって、主に微生物などの働きであることが理解されるようになってきたものの、古くは「理由は解らないが所定の工程を行うことで概ね同じような状態に変化する」という現象を利用することで連綿と行なわれてきた。

発酵食品の一部には、冷蔵庫など食料保存に便利な道具の発達以前より、食料資源を長く持たせるための保存食としての側面も見られ、こと乳酸菌による乳酸発酵では発酵の過程で生産される乳酸が雑菌の繁殖を抑えるため、比較的様々な地域に根付いた郷土料理中に乳酸発酵による発酵食品が見出される。

また発酵食品は、そのままでは食用が難しかったり風味の面で素材そのままでしかなかったものを、微生物に分解させることで食用に適するようにしたり、新たな風味を創出するという意味がある。良くある発酵食品の方向性としては、タンパク質を分解させてアミノ酸とし、これが食品の風味となるもの、あるいは糖(炭水化物)を分解させアルコールにする(アルコール発酵)などが見られる。

なおアルコール発酵の過程では、ビールやウイスキーに見るように、麦芽に含まれるアミラーゼによって糖化する工程が含まれ、この段階では微生物ではなく植物自身が作り出した酵素によって加工が成されている。

b223aa29.jpg


鶏肉(200g)に対し大さじ1~2杯の塩麹をまぶし、ポリ袋などに入れ空気を抜いて1時間~半日ほど漬け込みます。油(小さじ1杯)を引いたフライパンで焼けば出来上がり!

自然の酵母の働きと先人の知恵には感謝しないといけない。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

現代の大都会東京を見ると、高層ビル、高速道路、ハイテク通信施設など、さまざまな社会資本が整備されています。

かつて、東京が江戸と呼ばれ、流山も水運で栄えていたころ、人々はどのようにして国づくりをしてきたのでしょうか。

気概に満ちた先人達の文化を探り、また、古くから受け継がれる独特の儀式や技術の進歩にも触れ、建設産業の今後について考えてみようと思います。



今ではあまり聞かれなくなった“職人”という言葉。江戸時代の代表的職人といえば、大工、左官、仕事師ですが、それ以外にも約140種類もの職人がいました。かつては一般の木造建築の職人を「右官」と呼んでいたが、江戸時代頃から一般の職人も大工と呼び、統率者に対しては、棟梁と呼ぶようになった。江戸の発音では「デェク」である。

飛鳥時代に「さしがね」を考案した聖徳太子が組織し、都造りのため天皇のそばで建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「左官」と呼んでいたという話もある。

なかでも伝統と気概で江戸の花形だったのが、大工、左官、鳶(とび)の三職でした。彼らは大空のもと、大江戸を築き上げていった建設者であったため、「華の三職」ともてはやされました。彼らは誇り高く、粋(いき)で威勢がいいという特性をみずからつくりあげましたが、その反面、軽率で、おっちょこちょいで鼻っ柱ばかり強いという欠点もあわせもっていたのです。

47f88c9f.jpg


そんなふうに彼らを仕立てたのは、修業時代の精神的、肉体的な苦労でした。大工を例にとると、まず、十二から十三歳で親方に弟子入りし、朝は掃き掃除から飯炊きとこき使われます。早い者で一年、普通でも二年間は、こういった下働きが続くのです。その後、親方の許しを得て、弁当持ちで仕事場に出かけますが、道具の名前を教わる程度で、あいかわらず仕事の内容といえば木屑集めか雑用でした。

夕方になれば、風呂焚き、飯炊きと追い回され、ちょっとでも動作が鈍いと、やれ 「まぬけ」 だの 「うすのろ」 だのと親方に怒鳴りまくられ、ヘマをしようものなら往復びんたが飛んできて、容赦なく飯ぬきの罰が待っていました。現代にも似たようなスパルタ教育を売り物とする団体がありますが、現代人がこの仕打ちにどれだけ耐えられるでしょうか。

486c306c.jpg


その後、八年目で半人前になれるといわれ、それまではタダ働きだったものが、この頃から、祭りの時期には小遣い銭がもらえるようになり、天まで昇る心持であったと言います。

それからさらに数年の修業を経て、やっと独立できるようになります。あまりの辛さに半数は消え失せると言いますが、現代人であれば、おそらく一人も残らないのではないでしょうか。江戸の 「華の三職」 の誇りと気概は、この試練を乗り越えてきた “自信” にあるのです。まさに、怖いものなし。「ってやんでい、べらぼうめ!」 なのです。



大工の賃金は一日あたり540文、普通の町民の賃金が300文ですから、すでに倍ちかいわけです。そのうえ実労働時間は四時間程度。早朝・残業(黄昏まで)ともなれば時間外手当がつき、実労十時間なら、賃金は二日分になったと言いますから、大工という商売はやめられなかったのです。

また、江戸では頻繁に火事が起こったので、食いっぱぐれもなくひっぱりだこで、笑いが止まらないほど金がふところに入ってきました。当然遊びも派手に、また粋になりました。「江戸っ子は宵越しの銭はもたねえ」 と言われる所以です。

6cfae6ff.jpg


鳶(とび)は昔のアイドル

火事と喧嘩は江戸の華、なぞと昔から申しますが、火事といえば、火消し。火消しといえば、鳶のお兄さん方で、当時はかなりモテたらしいのです。

江戸の消防組織は万治年間(一六五八~一六六一)頃作られたと言われていますが、これを整備したのが、将軍吉宗の享保時代(一七一六~一七三六)で、大岡越前が町奉行に就任してからと言います。江戸の火消し組織は、幕府直轄の定火消し(じょうびけし)、大名直属の大名火消し、町奉行統括の町火消しと、大きく三つに分類できます。町火消しは、それぞれの町々によって編成された大組十番小組四十七組の消防組合でした。

時代劇 「暴れん坊将軍」 を思い出していただきたい。たしか、め組に入り浸る徳田新之助とは……。

大名火消しのなかで当時名を馳せていたのが、加賀藩お抱えの加賀鳶(かがとび)です。もっとも、加賀鳶の歴史は相当古く、天和元年(一六八一)には幕府の命令で御三家に加え、加賀鳶の出動記録が残っています。



鳶が火消し役として適任であったことは、その職掌からして明らかで、当時の消防組織で先頭にたって働くのは鳶が主体でした。

また、当時の鳶の服装はきわめて派手で、羽織の表(紺地)を着て火消しに当たり、火消しが終わると派手な絵模様の裏を返して、見せびらかしながら町中を練り歩きました。現代版リバーシブルコートのようなしゃれた着こなしをしていたのです。

この火消し装束は当時の人々にもてはやされ、大店(おおだな)の若旦那が金に糸目をつけずに、浮世絵師に作らせた半纏(はんてん)なども残っています。火消しの衣装は、江戸の「粋」の象徴だったのです。

c9250852.jpg


大体において鳶には伊達者が多く、命をかけて纏(まとい)を振りかざし、鳶口(とびくち)を手に火事場に飛び込んでいく様子のいい男たちは、江戸の女たちの憧れの的でした。

黙阿弥(もくあみ)の戯曲「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめのかがとび)の主人公、鳶梅吉の女房おすがなど、武家の娘でありながら、実家と縁を切ってまでも梅吉の女房になっています。火消しの人気の高さを物語る逸話でしょう。

加賀鳶は加賀藩お抱えの鳶でしたが、江戸の花町でのモテぶりは天下一品だったそうです。さながら、現代のSMAPか嵐のようだったのでしょうか……?

ちなみに江戸では正月のお飾り売りは、たいていの場合、鳶の組や仕事師などが、歳末にだけ小屋をかけて商いをしたのだそうです。

52f4dcce.jpg


今なお生きつづける儀式

日本各地の正月行事のなかで、一風変わった行事が行われているのをご存知でしょうか。正月といえば初詣。初詣といえば人でにぎわう拝殿が写し出されますが、そのなかで、一本の材木を前に神官の装束に身を包んだ人物が、見慣れない道具を使ってなにやら真剣な表情をしています。現在では、ごく少数の神社と一部の民間会社がこの儀式を継承していますが、これこそ、建築業界(大工職人)の文化を伝える、「釿始(ちょうなはじめ)」です。

普通、建築関係の儀式といえば、棟上げ式が馴染み深いものでしょう。また、少し詳しい人であれば地鎮祭などを思い浮かべるに違いありません。今は地鎮祭が起工式をかねることが多いのですが、かつては土工事の始まりにすぎず、木工技術が主流であった当時では、「釿始」こそが起工式でした。ゆえに、知る人ぞ知る、珍しい建築儀式の一つなのです。



この儀式の名称になっている「釿(ちょうな)」は、手斧ともいい、最近ではあまり見かけませんが、材木の表面を削るための工具です。古い民家の大黒柱やの表面が少しゴツゴツとしているのは、「釿」で削った跡で「釿目(ちょうなめ)」と呼ばれています。

現在私たちが言う大工(だいく)のことを、中世以前は大工(こだくみ)とか番匠(ばんしょう)と呼びました。そもそも大工(おおいたくみ)は、古代に工匠一般の指導的地位に相当する官職として定められた呼称で、中世前半までは、鍛冶大工(かじおおいたくみ)というように職人の指導者を指していました。中世半ばから実力者、指導者をあらわす呼称として棟梁(とうりょう)が使われるようになり、「だいく」という言葉は木工職人にのみ残されたのです。

89b74100.jpg


起工式としての「釿始(ちょうなはじめ)」では、工匠の神様を祭り、式後の祝宴は、神と人、人と人との交流の場でした。建設にかかわる人々が一堂に会し、共同意識を高め、工事に取り組む心を一つにする場であったわけです。

近世に入り、「釿始」は年中行事化して、職人たちの正月の仕事始めとして行われるようになりました。職人たちは技術の伝承と向上を願い、工事の無事を祈りました。それが現代まで延々と受け継がれてきたのです。

64bac4f6.jpg


ひとつの構造物を作り上げるには、発注する人、設計調査する人、施工する人など、多くの人々が参加しています。
日本では、大工の棟梁が設計する人であり、かつ施工する人でもあったため、詳細な設計図面は不要でした。棟梁の思うがままに仕事が進められ、気に入らない注文をされると、プイっと怒って帰ってしまう棟梁もいました。現代でも大工の棟梁に弁当や酒を振舞いますが、このころの名残りなのでしょうか?

幕末になって、外国人技師が自分の設計意図を伝えるために描いた設計図面が、西洋文明とともに、製図文化を日本に伝えました。その後、日本人の技師達は、こぞって設計製図を勉強し、製図道具を使いこなして図面の表現に熟練していったのです。

さて、明治の製図風景はといえば、製図板に紙を密着させるため、水張りといって、まず紙をぬらし製図板にすばやく貼りつけることから始まります。紙が乾くまでに時間がかかるので、瞑想しながら構想を練る者や、暇つぶしに遊びに出かけてしまう者もあったようです。設計図は鉛筆で描かれる場合と、鉛筆は下描きで烏口(からすぐち)で清書する場合がありました。青写真の原図は、鉛筆で書かれた図面の上に薄をのせて、トレーサーが烏口でトレースしました。



過去、三度の社会的成熟期が存在したと言われています。第一期は平安時代、第二期は鎌倉時代、そして第三期は江戸時代です。現代はその延長と考えれば、今こそ第四期成熟期と言えるのではないでしょうか。

過去三度の成熟期に共通して言えることは、どの時代も政治的、経済的に安定、あるいは成長していた時代だということ。今日の成熟社会における国際的市場の開放、人々の価値観の多様化は、建設産業に厳しい課題をつきつけています。建設産業に対するイメージからも、「公共投資=建設業界の利潤」という、ゆがんだ認識がひとびとに植付けられていることがわかります。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ