「33周年式年大祭」、市川・葛飾八幡宮

宮みこし渡御に800人、神楽は60年ぶり復活
市川市八幡の葛飾八幡宮で、33年に1度しか開かれない「33周年式年大祭」があり、2日はメインイベントの宮みこし渡御が行われた。式年大祭は平成29年3月31日の宵宮から始まり、きょう3日まで。

一般に「八幡さまの御開帳」と呼ばれる式年大祭では、普段は開かない内陣の扉の奥に保管された八幡さまを人数限定で公開。このほか県内有数の規模という稚児行列や子供みこしも行われた。

f3a8956d.jpg


宮みこし渡御は、大小2基のみこしが午前10時に宮出しされ総勢800人の担ぎ手たちが八幡地区を練り歩き。午後4時ごろの宮入りで最高潮を迎えた。また、式年大祭に合わせ、60年以上途絶えていた農民神楽「東葛八幡宮神楽」を八幡囃子保存会が復活。神楽殿で上演した。

同祭準備室長を務めた岡田喜三男さんは10歳の頃に初めて式年大祭に参加し、今回3回目。「33年に1度の祭りなので3回記憶に残る人は少ない。祭りに参加できてよかった」と感慨深げに話した。最終日の3日は千本公孫樹特設ステージと八幡市民会館ステージでおはやし、殺陣、雅楽などの催しが予定されている。

6c1d8037.jpg


葛飾八幡宮

千葉県市川市八幡四丁目2番1号
葛飾八幡宮は、千葉県市川市にある神社。旧社格は県社。誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依比売命を祭神とする。寛平年間(889年-898年)に宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請して建立されたと伝えられている。

下総の国を守護する総鎮守として崇敬されている。武神であることから平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集めた。八幡宮近くにある八幡の藪知らず(八幡不知森=やわたしらずのもり)でも知られる。

永井荷風、幸田文、幸田露伴、伊藤左千夫、宗左近、大岡信など多くの文化人に拝され、親しまれた神社として知られる。下総国守護千葉氏、上総氏、安房国の大名里見氏など房総の武士団から敬われた。

4d092fd7.jpg


随神門
神仏分離以前は別当法漸寺の仁王門であった。市川市指定有形文化財。ほかに「千本公孫樹」「元亨の梵鐘」などがあります。祭神は、武運・安産の神である息長帯姫命、文教の祖、殖産興業の守護神である誉田別命、育児の神である玉依姫命が祀られています。

和様、木造単層切妻造で、正面柱三間・奥行柱二間の「八脚門」と呼ばれる構造形式をもち、柱・梁や軒を支える組物に特色があることから、市の有形文化財に指定されています。かつて屋根は萱葺でしたが、現在は銅板に葺替えられ、軸部の塗替も幾度か、なされた痕跡があります。

この門は、明治維新まで当神社の別当寺であった、上野東叡山寛永寺の末寺、天台宗八幡山法漸寺の山門でしたが、明治維新のいわゆる神仏分離によって、随神門と改称し、両袖に安置されていた仁王像も、そのときに行徳の徳願寺に遷され、現在の随神が奉安されました。

a3b123de.jpg


千本公孫樹(せんぼんイチョウ)
推定樹齢1200年。国の天然記念物に指定(指定名称は「千本イチョウ」)

鐘楼
廃仏毀釈以前に天台宗の八幡山法漸寺が別当寺として管理していたもの。元亨元年(1321年)鋳造。寛政5年(1793年)大風で倒れ社殿西側にあったケヤキの根元から掘り出された。千葉県指定有形文化財。

千本公孫樹(国の天然記念物)
0cc4cff6.jpg


葛飾八幡宮例大祭

八幡様の農具市(市川市)
毎年9月15日、午前10時から、ご神前にて氏子総代・崇敬者多数参列のもと、祭典が厳粛の内に執り行われます。御社頭門前には20日までの6日間、農具、日曜大工用品をはじめ各種の店が立ち並び、大勢の人出で賑わいを見せます。

昔からの市川市民には、「八幡様のボロ市」等とも言われ、長い間親しまれてきました。また、2月の初卯祭は湯立て神事、宮司舞などをもって祭事が進められる、異色ある祭りです。また三十三年式年大祭と呼ばれる、三十三年毎に行われる大祭があり、次回は2017年(平成29年)に行われる。

d768c6b0.gif


八幡の藪知らず
八幡の藪知らずは本八幡駅から徒歩5分程度離れた千葉街道(国道14号線)沿い、市川市役所の斜め向い側にあり、現在は付近の人通りも多い。近くには八幡の地名の由来となった八幡神社(葛飾八幡宮)もある。藪の広さは奥行き・幅ともに18mほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さとは言えない。なお、近年の道路拡張で一部が削り取られている。

古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており、昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみである。また、藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。「藪」の範囲はかつてはさらに広かったとも言われるが、すくなくとも江戸時代の文献には既に現在と同程度の広さであったことが記されている。

efe1cfe5.jpg


「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、後述するように由来には諸説あるが少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。

街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された安政4年(1857年)伊勢屋宇兵衛建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をしたのち大抵の場合は無事に出て来ることができる。

月岡芳年「不知藪八幡之実怪」
76c12be7.jpg


八幡の藪知らずの伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。

しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。また、この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」

と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないか、という仮説がある。伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった。

80cdd07f.jpg


川上翁遺徳碑

(市川市教育委員会掲示より)
川上翁は名を善六といい、寛保二年(1742)一月、八幡村大芝原(現八幡二丁目)に生まれました。幼少の頃から祖父を助け、父に仕えて農業に励みましたが、祖父の代からの借財は、今まで通りの生活ではとても返済できるものではありません。そこで彼が思いたったのは、江戸に近い当地での梨栽培でした。

善六が梨栽培を始めたのは明和七年(1770)のことで、その後、美濃国(岐阜県)を訪れたおり、梨の良種を得て帰り、八幡宮の別当寺であった法漸寺の境内を借りて梨園を開きました。それが数年後見事な果実をつけ、江戸の市場で、高値で取り引きされるようになると、善六は村人にその栽培を奨励し、たちまち八幡一体には梨園が広がりました。

0d1fc0b0.jpg


これが「市川梨」の起りです。祖父や父によく仕え、新しい産業によって家を興した善六の努力と親孝行が、広く世間に知られると、代官から褒美が下され、苗字と帯刀が許されました。また、善六は少年の頃から学問を好んで読書に耽り、後には漢学を志し、孟慶と号して村人に読み書きを教えました。

善六は梨栽培で財をなしても決して驕らず、温恭実直に世を送りましたが、文政十二年(1829)八月、八十七歳で歿しました。村人から「梨祖」と仰がれ、大正四年(1915)その遺徳を後世に伝えんと、市川梨発祥の地に建てられたのが、この遺徳碑です。

e6190ac7.jpg


葛飾八幡宮

下総国一の宮
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。総武線の本八幡駅北口から国道14号に出て、右に行くとすぐ左手に葛飾八幡宮の鳥居が見えてくる。京成電鉄の踏切を渡ると朱色の随神門があり、これをくぐると下総国一の宮の社格を誇る葛飾八幡宮である。

97753cf0.jpg


社伝によれば、寛平年間(889~898)宇多天皇の勅願によって京都の石清水八幡宮を勧請して下総国の鎮守一の宮にしたという。もとは、もっと北寄りの古八幡村(八幡六丁目)にあったが、のちに現在地に移された。祭神は、息長帯姫命、誉田別命、玉依比売命である。

武人の守護神として祟められ、平将門や源頼朝、太田道灌らの信仰も厚かった。この地は、江戸川の行徳と利根川の木下を結ぶ木下街道沿いにあり、香取、鹿島、息栖詣での参詣客たちも皆立ち寄り、俳人松尾芭蕉も「鹿島詣」の旅のおり、曽良と共に寄ったと思われる。

3be1290a.jpg


伝説千本大イチョウ
江戸時代、上野寛永寺の末寺の法漸寺(天台宗)が別当寺として葛飾八幡宮を管理していたが、明治のはじめ神仏分離令によって、寺は廃された。入口の朱色の随神門は、実は法漸寺の仁王門で、そこにあった仁王門は行徳の徳願寺にある。

境内には、高さ22メートル、根回り約10メートルほどの大銀杏(オス)がそびえ立っている。昔、この木のウロにたくさんの子蛇が住み着き、毎年8月15日祭礼の日になると数百の蛇が現れ、御開帳が終わるとまた元のウロに戻っていったという伝説がある。

90b17b69.jpg


梵鐘は、江戸中期の寛政5年(1793)、境内の枯れ木の根元から掘り出されたと言われ、高さが117センチほどある。(※印刻されている銘文から当宮の創建年代、社殿の位置などが知られます。元亨元年(1321)12月17日、右衛門尉丸子真吉によって寄進されたものですが、梵鐘の笠形の部分には字体の異なる細字で「応永28年(1421)3月21日」と三行に刻されていおり、この刻銘が何を意味するのかは、諸説あって明らかではありません。)

国道を隔てて斜め向かいにあるのが、有名な「八幡藪しらず」である。今は20メートル四方ほどの竹藪だが、昔は広大な藪で、ここに迷い込んだらもう二度と出てこられないと、恐れられていた。(※藪の広さは奥行き・幅ともに18mほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さとは言えない。なお、近年の道路拡張で一部が削り取られている。)

5bbd5a00.jpg


鳥居をくぐると大谷石の小さな祠があり、その奥は樹木が鬱蒼と茂り、夏はアブラゼミがしきりと鳴いている。それにしても誰がこの程度の森で出てこられないと言いふらしたのだろうか。これには数説あって、一説には、この地はもと葛飾八幡宮跡で神聖な地。

立ち入られては困るからだというのと、また一説には、高貴な人を葬ってあるからだ、いや、平将門の乱の時に平貞盛の陣の死門であったからだ。いや水戸黄門様がこの藪に入って出てこられなくなったからだ、という講談師まがいの説まであらわれて、確かなことはどうもわからない。

3d013161.jpg


幸田露伴

名作「五重塔」
東葛人物事典に文が残っているので電化する。活躍した時期が同じことから紅露時代と呼ばれた幸田露伴と尾崎紅葉。露伴は慶応3年(1867)生まれ。紅葉もまた慶応3年生まれ。紅葉は東京大学で山田美妙と知り合い、明治18年文学結社「硯友社」を作る。露伴は硯友社に属さず「國会」に発表した「露団々」で有名になり、この頃から紅葉と交流するようになった。

露伴は「五重塔」で作家としての地歩を築いていくが、歴史考証、研究にも力を注ぎ、作家の範疇を超えて広く活躍していく。「五重塔」は、明治23年未曾有の嵐の中、寸分狂わぬ塔を建てた意志の強い男の物語で、力強い漢文調の名文である。

a1090f90.jpg


露伴は本名成行、多彩な才能を持った兄弟姉妹八人の第四子。長兄は実業界、次兄は北辺千島の開拓で名を上げ、姉妹の幸田延子はピアニスト、安藤幸子はヴァイオリニストで日本洋楽界の草分けとして活躍した。江戸下谷三枚橋横町・俗称新屋敷に父成延、母猷。3歳の時上野彰義隊の乱に遭い、浅草に逃げた。

8歳で目を患い、数十日見えなくなったという。東京府立中学に入るが卒業せず、東京英学校にも通うが全うしていない。電信修技学校で給費生として自立。卒業後は築地の中央電信局で実務を修め、判任官となって北海道後志国余市に赴任するが、二年ほどで東京に戻って来てしまう。免官となった。

319a5adc.jpg


晩年、市川菅野で「芭蕉七部集評釈」を完成
その後「風流仏」「運命」などを発表していくが、西行、芭蕉、近松などにも傾倒していく。正岡子規が、「風流仏」に感慨して小説「月の都」を書くが、露伴から批判を受けて小説家を断念したのは良く知られている。「芭蕉七部集評釈」は露伴が市川に移った晩年80歳に近くなっても力を入れた仕事として、倦むことなく続けた。

昭和12年には第一回文化勲章を受け、戦争中は反戦の意思を公然とはしなかったが、翼賛の日本文学報国会の会長に推されたときは辞して受けなかった。露伴は良く旅をしたが、大患もした。翌明治28年山室幾美(きみ)(※幾美子)と結婚、作家幸田文の母である。釣りにも凝り、将棋にも熱中し、56歳の時に13世名人関根金次郎から四段の免許を受けている。

a624ae19.jpg


終生豊かな生活を送ったとは言えないが、「窮して窮して窮し抜いても(略)又大切朋友に目腐れ金の合力頼むも、腹の見るるやうにて口惜ければ」と言ってることからも、清貧を守り抜いた一生と言えるだろうが、やせ我慢を貫いたのかもしれない。敗戦の年、再婚した八代子夫人が病没、信州坂城に疎開していた五月、空襲で小石川の家を焼かれた。

昭和21年、幸田文が住んでいた市川菅野に移る。ここで長年続けてきた「芭蕉七部集評釈」を完成する。昭和22年七月死去、国民葬の議論もあったが、葬儀には時の内閣総理大臣片山哲が弔辞を述べ、天皇陛下から生花が贈られている。(※1947年7月30日(満80歳没))



国指定天然記念物

千本イチョウ
市川市役所から京成電鉄の線路を隔てた北側の葛飾八幡宮の社殿向かって右側にそびえる。葛飾八幡宮は、寛平年間(889~898)に、宇多天皇の勅願により京都石清水八幡宮を勧請して建立されたと伝えられている。房総へ逃れた源頼朝が再び鎌倉へ上る途中に立ち寄ったと伝えられているほか、太田道灌や徳川家康などの崇拝を集めて発展してきた。

千本イチョウは、主幹が落雷のため地上6mほどの高さで折れ、その外側を大小の支幹に囲まれている。支幹の数は40本程度だが、びっしりと隙間なく生えており、「千本」とよぶのにふさわしい姿をしている。樹勢は旺盛で、樹高23m、幹周10.8m、枝張は東方に10.8m、北方に11.4mもあるが、西側は社殿に接近するためあまり枝は張り出してておらず、中央のたくさんの主幹がなおさら目立つ。イチョウは、雌雄が異なる株となるが、このイチョウは雄株である。古くから全国でも有数の巨木として知られ、天保5年(1834)に出された「江戸名所図絵」にも描かれている。

1631d1c5.jpg


県指定有形文化財(工芸品)

梵鐘(元亨元年在銘)
鋳銅製の、総高117.2�p、口径66.7�pの梵鐘で、型継の跡から、3段組で鋳上げ、さらに笠型を継いで作られたことがわかる。乳は4段5列、上帯、下帯にはどちらも模様はない。龍頭の向きと平行に2つの撞座があり、8葉単弁の蓮花が意匠されている。

池の間の1区と2区に銘文が陰刻され「敬 奉冶鋳銅鐘大日本東州下総第一鎮守 葛飾八幡是大菩薩傳聞寛平 宇多天皇勅願社壇建久以来 右大将軍崇敬殊勝天長地久 前横巨海後連遠村魚虫性動 鐘暁聲人獣眠覺金啓夜響 求除煩悩能證菩薩 元亨元年十二月十七日 願主右衛門尉丸子真吉 別當法印智」とあり、元亨元年(1321)に寄進され、「前横巨海」とあるように当時はこの葛飾八幡宮の近くまで海岸線が迫っていたことを示している。

fdb0cf2d.jpg


さらに、鐘の上部の笠型の部分に「應□永二十八年三月廿一日」と刻書されている。実はこの梵鐘は、寛政5年(1793)に掘り出されたもので、当時の江戸の文人の間で評判になったらしく、いろいろな随筆に記述され、『壺芦圃雑記』には「寛政五年正月十九日、下総国飾郡八幡村八幡宮本社右にありける古木の樫枯けるによりて伐取、其根掘出しける下より鐘壱を掘り出す(略)」と大きさなどが記録されている。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村