でれすけ

地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ


令和五年、鰭ケ崎団地自治会盆踊り

神輿渡御その2


神輿渡御の花形は神輿の担ぎ手、しかし祭はそれだけじゃない。このように休憩所の用意をする女将さんの方々も一年に一度の祭り、その祭を存分に楽しみ、これによってまた縁を深める、これ以上にない大きなイベントなのだ。この団地を回っていると新築住宅も多く存在している、南流山駅の使用圏内な場所と同様に再開発が進んでいる時期。

もちろんの事ながらつくばエクスプレス効果を受け、戦後の人口増加期の住民だけでなく、戦後の二世代目も多く移り住み、また新住民として祭のデビューを迎える人もいるという事。この日、デビューをしたという人に話を聞いたら、「初めてだったから何にも分らなかったけど、ワークマンで足袋買ってきて良かったよ」とのこと、そして地域の輪も広がる。



東福寺の目つぶしの鴨

流山市鰭ケ崎1033
東葛伝説民話事典に文が残っているので電化する。東福寺へ行くには、流山電鉄(※現在の流鉄)の鰭ケ崎で下車するのが便利である。東福寺を含めた駅周辺の町名を鰭ヶ崎という。東福寺は山号を守龍山と言い、宗派は真言宗である。「守龍山東福寺縁起」には鰭ケ崎伝説が書かれている。

昔、唐の都、長安で仏教の修行を積み、遣唐使とともに帰国した空海こと弘法大師は日本で真言宗を開き、その後、布教のため東国行脚の旅に出た時、この地に立ち寄った。この台地の上には五色に輝く美しい池があった。この時、大師の前に白髪の老人が現れた。



「わたしはこの池に住む竜王である。ここは東方の福田で、薬師如来の坐します場所であるから、薬師如来の瑠璃光仏を彫り、ここに寺を建て永くこの地を守ってもらいたい。そして、この山は守龍山と呼び、東方の福田から東福寺と称するように」と言って、ふっと池の中に消えた。

大師は、さっそく仏像を彫る御衣木を探していたら、麓の海から大きな龍が現れ、竜宮の霊仏を大師にささげた。そこで大師はその仏像を、薬師如来の像に彫り直し、寺を建立して祀った。この龍が竜宮に帰る時、鰭の先を少しばかり残していったので、鰭の先から「鰭ケ崎」の地名になったという。



東福寺の苔むした石段を登りきると、運慶作と伝えられる阿、吽の仁王さま(流山市指定有形文化財)を安置する朱塗りの仁王門がある。その正面奥に弘法大師一刀三礼の作と言われる本尊薬師瑠璃光如来(非公開)を祀った本堂(薬師堂ともいう)があり、大銀杏を囲むように鐘楼、大師堂などが建っている。

また、本堂の正面天井には、文久3年(1863)の「俵藤太(たわらのとうた)(藤原秀郷)百足退治」の大きな絵馬(流山市指定有形民俗文化財)が掲げられている。承平5年(935)平将門の乱が起こった。そして、将門は関東と伊豆の一部を支配するようになり、新皇を名乗った。



このころ、下野国の押領使(おうりょうし)をしていた藤原秀郷は朝廷から将門を討つように命ぜられた。そこで、東福寺に参詣して戦勝を祈ると、夢の中に白羽の矢が東の空に飛んで行き、仏が現れ、「敵軍は敗北する」と告げたという。

天慶3年(940)、秀郷は4000の兵を率いて将門の館を急襲した。不意をつかれた将門だったが、秀郷軍の前に打って出た。秀郷が一瞬ひるんだスキに、将門は馬上で大太刀をまさに振り下ろそうとした時、秀郷の兵が放った矢が将門の額に当たり、どっと馬から転げ落ちたという。



この勝利を喜ばれた朱雀天皇は、東福寺の金堂を修理し、さらに荘田500石を寄進されたという。また江戸時代には徳川家康から30石の御朱印状を賜わり、末寺132ヶ寺を持つ大寺院であった。境内から庫裏に向かう中門は、日光東照宮造営の時の材料の一部が寄贈され建立された。

この門には左甚五郎作と伝わる二匹の鴨がいる。門の境内側の鴨居の上には口をあけた鴨、庫裏側の門には口を閉じた鴨がうずくまっている。この鴨は「東福寺の目つぶしの鴨」と呼ばれ、鴨の目には太い釘が刺さっている。それには次のような伝説が残っている。



昔、夜になり人々が家路に就くと、人がいなくなった田をメチャクチャに荒らすものがあった。「あーぁ、もうじき取り入れだというのに」「一体何ものがこんな悪さをするのだろう」「今晩は一つみんなで寝ずの番をしよう」

村人たちは隠れて見張っていた。するとどこからともなく二匹の鴨が舞い降りて、せっかく丹精した田んぼの稲を食い荒らしていた。「それ!」と、村人たちは鴨を追いかけた。そのまま鴨は東福寺の森に逃げ込んだ。



翌朝、明るくなってみると、お寺の中門の柱に田んぼの泥が点々と付き、鴨居の上の鴨の足も泥で汚れていた。東福寺の和尚さまは、村人たちが丹精込めた田や畑を二度と荒らさないようにと、鴨の目に釘を打ち込んだ。

それから鴨は、村に降りていくこともなく、静かに鴨居に座って、東福寺を訪れる信者の足音を聞いている。住職の奥様は「いつごろか、もう早い時期に鴨の目の釘は抜かれてしまいました。もう何度も塗り替えが行われ、今は真白い鴨です」と、語っておられる



また、野田の常敬寺には龍伝説が伝わる。この寺の阿弥陀堂に狩野法眼が描いた龍の天井画がある。この龍も田畑を荒らして農民を困らせた。そこで、住職は天井を大きな板でふさいでしまったという。

東福寺の本堂を抜けて裏手に出ると、谷を挟んだ先の台地に奥の院の千仏堂があった。堂内には中尊の阿弥陀如来立像を挟んで左右500体ずつ千体仏阿弥陀如来立像が安置されていた。この千仏堂の老朽化に伴い、本堂脇に新しい千仏堂が建立されている。

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鰭ケ崎小学校ができる前
昭和44年、区画整理が始まったころ児童は、流山小学校へ電車通学をしていました。電車通学の児童数約400。この400名が2両連結の流山鉄道の電車を利用したため電車はたいへんな混雑でした。

混雑緩和をはかるため時差通学が実施されていましたが、毎日保護者が整理に当たっていました。その混雑ぶりは、読売新聞に報道されるほどでした。また、流山駅付近の混雑で交通事故の不安も保護者にとって大きなものでした。

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それに加えて鰭ヶ崎団地が造られ人も急増し混雑もますます激しくなりました。このような状況の中から「歩いて通える範囲に学校を」の声が上がりました。昭和46年頃からそんな住民の声が署名運動となり市を動かしました。当時の鰭小の用地は見渡す限りの田んぼでした。

1972年(昭和47年)2月11日、読売新聞紙上に混む電車にもみくちゃにされながら乗り込む学童の姿を撮し、首都圏にもこのようなところがあると、鰭ヶ崎の実情が紹介されて鰭ヶ崎小建設の動きが具体化していきました。



もちろん、鰭ヶ崎地区に学校を建ててほしいという昭和46年以来の請願運動も大きな力となっていたことは言うまでもありません。1974年(昭和49年)5月2日、学校建設用地の地質調査が終了し、8月20日鍬入れ式が行われました。本格的な工事は9月から始まり1975年(昭和50年)3月、鰭ヶ崎小が完成し、4月に待望の開校となりました。

1974年(昭和49年)から始まった鰭ケ崎小学校の工事も順調に進み、1975年(昭和50年)3月待望の鰭ヶ崎小が完成し、いよいよ4月から開校となりました。4月9日、流山小学校から分離独立する開校式を行い正式に流山市立鰭ヶ崎小学校が誕生しました。職員26名、児童数546名、15学級でのスタートでした。

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同じ日、初めての入学式が2階東廊下で行われ103名の新1年生が仲間入りしました。なぜ2階のフロアで入学式が行われたかというと体育館はまだ設置されていなかったことと校庭が前日の雨のために使用できなかったため急遽変更して行われたと記録に残っていました。

翌年体育館とプールが完成するまでは、雨の日には校舎内で体育の授業を行ったり、夏の暑い陽射しの中を電車に揺られ流山小学校のプールまで泳ぎに行く不便な生活が続きました。しかし、校庭には、PTAの皆様方の協力により親子山も完成し子どもたちの楽しい笑い声がいつも鰭ヶ崎小学校を包み込んでいました。

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俺は赤城四ツ葉会のメンバー

これは絶対に忘れちゃいけない事
赤城四ツ葉会としては毎年ここに参加していない。神輿担ぐとなれば御輿会ごとの届出と挨拶が必要で、赤城四ツ葉会代表(気を使ってくれる中橋会長)の許可も得てない上、個人の独断で動けるわけでもない。これは問題が起きた際の責任問題にもなってくる、それが半纏を着ているということなのだ。だが私服で写真撮りに来ることは自由だろう。

※赤城四ツ葉会は初代代表新井さんの時代から取り決めがあり、流山(ここでの意味は旧流山町)の四つの神社しか担いじゃいけないことになっている。なので都内にも行かないし、基本的によそには行かない。なので鰭ケ崎に住んでいるマークさんは地元の住民として氏子半纏で参加しているが、俺は手を出さないのが筋ってもんだろう。

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子供が成長していく過程で地域コミニティという事が大きく影響してくる。今現在はマンションに移り住み、学生時代を終えると親元から独立するというのが当たり前になっているが、俺のように神輿会に所属するのが当たり前と感じていたり、地域によって特徴が出ることになる。だんじりだったり、三輪野山だったらヂンガラ餅神事だったりするわけだ。

その点では鰭ケ崎では阿波踊りだということだ。話を聞くと越谷の阿波踊りにも行っているようで、これは神輿会同士の付き合いの中では下総五鳳会、新撰組同好会同士のサークル活動においては北総新選組の方々と同様に、流山を代表して活動しているということ。神輿と一緒に鰭ケ崎の町内を回っているとメンバー募集の張り紙を各地で見付けた。

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鰭ケ崎団地の神輿渡御は、旧流山町の本来の神輿会である下総五鳳会が、地元町会から頼まれ、持っていたノウハウで団地の町会を支援し、神輿渡御が行われている。今では中学校の学区的にも、南部中とは別れているが、本来は流山本町の経済圏で、隣の村になるため関係の無い地区とは言えない。しっかりと流山線でつながってるしね。

町の祭で神輿担ぐ人間は、性格的にも育った環境にしても限られた一部の人達。流山町の本来の神輿会は下総五鳳会だが、その後地区の神社を中心として各地で神輿会が設立されるにあたり、出てくる人達は結局一緒。なのでいつも顔を合わせる流山の他の神輿会の方々も支援団体として参加している。マークさんは地元扱いね。

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団地の一つの区画が更地になっていた。この周辺の住宅が整備されたのは戦後の一つの世代が都心へ仕事を探しに行き、家庭を築くわけだが、マンションに何度も引っ越す人もいれば、ベッドタウンに一軒家を購入するという判断も間違っていないだろう。そのベッドタウン住民の需要の受け皿として、関東各地で整備されていった住宅地の一つになる。

住宅販売されて何十年も経っているわけだから、この間に自分を取り巻く社会も変化し、それによって引っ越す判断を求められることもある。田舎の親の老後、娘夫婦が大きな家を建てて同居という選択肢もある。はたまた自分の定年退職というタイミングもある。どのような理由があるにせよ、引越し取り壊し、建て替えて再度新築住宅が販売される。

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鰭ケ崎は今では隣の小学校の学区であり、隣の中学校の学区になっているが、俺としては歴史的な目線で物事を見るようにしている。個人的な目線じゃないとなると、ウチのジーサンが子供の時には江戸川に川舟が浮かんでいた時代、間違いなく周辺農村部の鰭ケ崎からは買い物、小学校に通うためにこの線路の道を歩いたという歴史が残る。

ウチの親父の時代でさえ、鰭ケ崎からは電車に乗って、木村からはバスで小学校に通っている。この時代まで農地として広がっていた南流山だから駅が作られ、大規模開発できたということにつながる。これ以前に流山本町が成立しているのだから組織的には流山市の一部になる。当然の事ながらマンションは鉄道駅が開通して、後から作られた。

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神輿渡御は本来神聖なもの
多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。神輿や鳳輦の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種であるといえます。神幸祭は「神の行幸」の意味で、広義には行幸の全体を、狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。

後者の場合は目的地からの神社への復路の過程に還幸祭(かんこうさい)という言葉が用いられる。だが人と人が出会い、共に力を合わせ団結を確認するイイ機会でもある。人と人の付き合いが政治であり商売と言えるもの。

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祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。

農耕社会においては、収穫祭が古いものであるが、その他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える。

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「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。

日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。

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その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。

「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

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「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。

その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。

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「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は、漢字の本来の意味において葬儀のことであり、現在の日本と中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。

古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。鯨祭りといわれる祭りが、日本各地の津々浦々で行われているが、それらは、鯨突き(捕鯨)によって命を落としたクジラを慰霊するための祭りである。

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今年は新築販売されているのか、住んでいる人が建て替えたのかは分からないが、新しい住宅が目立っていた。50年も経っているのだから何もおかしくはないが、これもつくばエクスプレス効果と言っていいのかもしれない。これに関連して地元神輿会に一気に10人ほど加入したみたいだ。引っ越してきてイベント参加も大きい意味を持っている。

先祖代々流山に住んでいたとしても鉄道路線の拡充ということに関連して、農地であった所が駅前一等地になった人達はマンションの一室で育っている。となると地元住民と接することは極めて少なくなり、別の次元で生きている人も多い。流山と言っても一つの駅前しか想像できない人もいる、俺は今の時代にとても貴重な人材という事が言える。

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帰りも旧道小金道
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ここからは盆踊り
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パイセンリストは俺の八個上、今年初当選した川本市議会議員。だけじゃなく、矢口市議会議員、清水市議会議員も同じ年齢。この中で清水市議会議員が気になった。選挙活動中、平和台駅前で運動員がチラシを配っていて、パッと見て運動員に聞いちゃったもんな。『あれ、江戸川台から深井中って何か変じゃない、みんな北部中じゃね』って。

帰ってきてウチの親父にこの話を聞くと、『こうのす台とかその辺でしょ』ってあっさり答えられたから、俺としてはどうしようもない、まだまだ知らない事が多すぎる、勉強の途中です。逆に言うと、新川から見たら(南流山に行った流小)みたいなもんか、今は選べるけど、同級生でも高鹿板金、伊賀屋自動車あたりは強制的に南流山に行ったっけな。

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令和五年、鰭ケ崎団地自治会盆踊り

神輿渡御その1
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流山から鰭ケ崎に行くということでこれ以上ふさわしい道はないだろう、旧道小金道だ。小林一茶 (宝暦 13 年(1763)~文政 10 年(1827))は、人生の多くを旅に過ごしたが、流山など下総地方にもよく訪れていました。流山の秋元双樹も一茶と親交があり、家業のかたわら俳句を習い、経済的に支援していました。

一説によると、一茶は馬橋の油屋大川立砂のところで奉公をしており、立砂は俳人でもあったことから、ここで俳句の道に入っていったといいます。一茶は立砂の子、斗囿(とゆう)とも親交があった。立砂が葛飾派の俳人だったことから、一茶も葛飾派に属していたことがある。一茶が秋元双樹と知り合ったのも、おそらく立砂を通じてのことだったのではないか、といわれています。

小林一茶が使った旧道小金道
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東福寺

目潰しの鴨の伝説
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。道路脇に三メートルほどの大きな東福寺の石塔がある。正面に100段ほどの階段と赤い山門が見える。階段のほかにスロープの道もあり、入口は階段とは正反対の北側である。

石段を登ると赤い山門の仁王門があり、名工運慶作と伝えられる阿像、吽像の金剛力士像を安置している。山門の正面奥に、弘法大師一刀三礼の作と言われる本尊薬師瑠璃光如来を奉ずる薬師堂(現本堂)が建っている。



弘仁5年(814)弘法大師が開山したと言われる真言宗豊山派の寺である。寺名の由来は、大師が竜王の願いである寺を建て、長くこの地を守り福田となすため、朱龍山東福寺と称するようになった。

また海龍が大師に捧げた霊仏に手を入れたのが瑠璃光仏の本尊である。この時、背鰭の先を少し残したので、以後、鰭の先→鰭ケ崎という地名になったそうである。(※鰭ケ崎のケは大きい字に訂正)

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山門を抜けて右側に見える中門は、日光東照宮造営時に材料の一部が寄贈されて建立されたと言われ、鴨居には左甚五郎作と伝えられる「目潰しの鴨」の彫刻がある。この由来は、民話として伝わっている。

天慶3年(940)藤原秀郷が平将門を追悼するにあたって加護を願い効果があったことで朱雀天皇から荘田500石を戴き本堂を修復した。江戸時代には大本寺として御朱印地領30石、末寺132を持っていた。

また、新四国江戸川八十八ヶ所の総本地でもある。境内には鐘楼、大師堂、密教堂、創建不明の奥の院千仏堂がある。享和元年(1801)再建したが、老朽化のため、平成19年(2007)本堂の西側に新築した。



その頃死人坂を挟んだところにある奥の院では放火騒ぎもあり、管理面も考慮して現在地に移したものである。中尊は高さ90センチメートルほどの阿弥陀如来立像である。千仏堂の名称の由来は、中尊脇に祀られた一千体の小阿弥陀如来像である。(中尊の左右に10段ずつ、各段に50体)

奥の院の左手奥には、坂川開削事業で知られる渡辺庄左衛門家の墓地もある。春には桜、ツツジ、ボタン、フジの花等が目を楽しませてくれる境内には、流山市保存樹木の銀杏の他、金剛力士像。



二十一仏板碑等、多数の文化財があるほか、鐘楼と大師堂の間を入ったところに、従五位を贈られた渡辺庄左衛門を称える「阪川治水記」の大きな顕彰碑が、昭和3年11月に建立されている。

年中行事として、花祭りのほか、大正12年から行われた航空殉難者慰霊祭は特殊なものである。「木星号遭難者諸精霊位」と「日本航空123便遭難者名霊位」の位牌などが祭られている。

昭和44年までの境内の地形は、東福寺と奥の院は、元は台地の尾根沿いであった。鰭ケ崎の土地区画整理事業で開削したため、現在のようになった。土砂は南流山地区へ運び、武蔵野線や市街地の形成に役立てた。



鰭ケ崎の地名の由来

郵便番号〒270-0161
東葛地名事典に文が残っているので電化する。鰭ケ崎は江戸川中流左岸に位置し、西平井の南、宮園地区に隣接、坂川を境に松戸市と接し、三本松には古墳時代の前方後円墳もある。弘仁5年(814)弘法大師が建立したと言われる守龍山東福寺が北方の台地にあり、この東福寺縁起に地名の由来と言われる記述がある。

弘法大師が諸国布教の途中、この地に立ち寄った時に台地にあった池から、龍王と名乗る老人が現れ、薬師如来の瑠璃光仏を彫り寺を建て、この地を守り守龍山東福寺と称するように、と言って消えた。

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大師が仏像の木を探していたところ、大きな龍が竜宮の霊仏を持って現れた。大師はこれを薬師如来に彫り直し、寺を建立しこれを祀った。龍が帰るとき鰭の先を残していったことから、地名の由来になり、また地形が鰭の先に似ていることから付いたとも言われている。

大正6年に刊行された『八木村誌』に「此時之餘龍鰭先寸許鰭崎」とあり、また、龍が現れたのは麓の「滄海」と書かれていて、同じく鰭ケ崎は、「當時南方の低地は海洋にして、大船着港の目標を三輪山神社の大杉樹に認りしといふ」とあるから、鰭の先と、海に突き出た先端を表す「崎」から鰭ケ崎の地名が生まれたものと思われる。

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鰭ケ崎地区には300余年の伝統を持つオビシャ祭りを守っている雷神社や、坂川にまつわる住民たちの争いの記録も残されている。鰭ケ崎駅、鰭ケ崎小学校、東洋学園大学鰭ケ崎校舎は「鰭ケ崎」の地名を使っている。

(※流山市に市内の地名にある「ケ」は、すべて大きい「ケ」である。となっているので大きい字にしておいた。東福寺のある鰭ケ崎の地区が北総台地の崎、の割にどこともつながっていない。という人がいるが、元々は茂呂神社の参道が伸びていた。)

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この参道は昭和46年以降崩され、宮園への陸橋となっている。これは先入観を持って土地を見る前に、ボーイスカウトの森の先で、小学生の時からこの道路を跨ぐ小さな陸橋の上からの景色を見ているというのは大きい。三本松古墳から鰭ケ崎駅前に降りていく道が先にあって、台地を削って宮園への道が整備された、と、順に理解できた。

北総台地を削り、人の手で本来の地形を変える、というのは流山線開通時の通称『切り通し』の工事でも同じ事が言える。断片的な記憶を総合してみると、小学生の時に見ている地形と、ウチの親父が日曜日に、同級生の加藤屋大店にビールを買いに行っていた記憶。付いて行くとたまに御主人から「アイス食うか?」と言われて嬉しいこともあった。

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中交差点に位置していた加藤屋大店、旧道八木道の延長で、北総台地の上にあった事も地形を理解するのには大きかった。中学生の時になると、この参道の延長線上の道(平和台ショッピングセンターの前からシンザワ電化の前の道で坂を上る)が自転車通学の通学路だった。当時はつくばエクスプレスも無いのでまだまだ丁字路になっていた。

流山セントラルパーク駅が開業すると十字路になったが、俺だけでなく近所の人達も同様に、この参道でエビハラ商店の前を通り、南部中学校に通学していた。俺は部活のメンバーと遊びながら帰ってくるため自転車は使っていなかったが、今になってみるとこの道が式内社茂呂神社の参道ということが見事に経験から、自然な分析として理解できた。

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渡辺庄左衛門

坂川の治水功労者
東葛人物事典に文が残っているので電化する。坂川流域で新田が開発されたのは江戸時代初期である。ようやく開墾がなった田んぼも大雨や江戸川上流の大水があるとたちまち冠水する。それは坂川が流れ込む江戸川の水位が高かったからである。

江戸川の水は利根川の東遷工事後、川底や水位が高くなっていた。農民たちの苦労を見ていた鰭ケ崎の名主、渡辺庄左衛門(充房)はこの川を出来るだけ下流に持っていき、そこから江戸川に放流することを考えた。川の水は低い方に流れるのだから、下流の水位は低いと見たのである。

そこで代官所へ坂川掘削願いを申請したが、却下され続け、許可が下りる前に亡くなってしまった。跡を継いだ二代目渡辺庄左衛門こと寅(充房の子)の時、ようやく赤圦樋門までの延長が許可され、掘削が始まったが、そのあと再び水は逆流してしまった。

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三代目渡辺庄左衛門こと章敬(寅の子)は祖父の考えた国府台下までの堀継ぎを申請した。これに対して下流の農民達は猛然と反対し、このトラブルで死傷者まで出す騒ぎとなったが、ようやく話し合いの結果、議定書を天保年間取り交わし、工事着工となった。坂川は栗山の柳原樋門から江戸川へと放流されることとなった。

庄左衛門親子孫三代の偉業はついに成し遂げられた「水は坂を下るがごとく流れたので、逆川を坂川と改めた」とある。しかしながらその後も度々の洪水に悩まされ続け、明治43年、樋野口に東洋一と言われる排水機が作られ、坂川流域の農民達は、やっと枕を高くして寝られるようになった。(※それまでは洪水の多発地帯)

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三本松の古塚碑

千葉県流山市大字鰭ヶ崎字塚ノ腰1265
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。三本松古墳は、流鉄鰭ケ崎駅の北部300メートルの台地の上にある前方後円墳である。

全長25メートル、後円部17メートル、前方部8メートル、台地平坦部との比高は2・5メートル乃至1・5メートル(沖積地と台地の比高は12メートル)の前方後円墳は小型ながら市内では最大で、他には東深井古墳群の第9号墳しかない。(他は円墳)

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江戸川左岸でも市川市の法皇塚古墳、弘法寺古墳があるのみで貴重なものである。村に人々には昔から古墳として認識されていたと考えられ、後円部の墳頂には文政11年銘(1828)の名主渡邉睦が建立した古塚碑があり、これは江戸後期の考古学、歴史的価値ありとして平成15年に市指定文化財とされている。

古塚碑のテンガク(題字)は幕府の勘定奉行も勤めた戸川安恵によっており、撰文は幕府の奥儒者成島譲築山が当たり内容は次のとおり。

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「下総国葛飾郡鰭ケ崎村の丘上に塚があり、古く貴い景勝の地として又神の霊応ありとして伝えられている。天明4年(1784)の大飢饉の折、塚を掘ろうとした村民の不心得を名主の渡辺充房と寅の父子が諭し私財を投じ救援したので渡辺家は栄えた。孫の睦が名主の折に古塚の霊験は益々あらたかとなり塚は信者を集めた。」

「塚の奥に洞窟があり白狐が出現したが神の霊応を解せぬ人が多いので睦は碑を立てて周知させ神の使いを丁重に遇した。渡辺に人あり、昔鬼の腕を切り(渡辺綱)今神の魂を安んじる。欲を制し義をもって人を助け、仁をもって強暴を感服させ、正に仁にして義、天地の恩恵、神仏の利益を万人に施してきた。睦より陰�コの報い、積善の喜びが延べられたのを聞き、ここに銘記し、今後共末長い安寧と健勝を祈る」(成島譲撰)

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古墳に併置されていたはずの埴輪のうち人物埴輪の頭部二件が保存されているが、他は盗掘されて持ち去られており、円筒型埴輪の破片が採集されているだけ。

土師器質(弥生式土器系の素焼き赤褐色の土器)のものと須恵器質(朝鮮系ろくろ形成高温素焼きの暗青色の土器)のものがあり、焼成・調整の技法を著しく異にする種の埴輪があったらしい。

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今回何年ぶりかで現地を訪れたが、幕末の三筆と言われる書家の市川三亥の惚れ惚れする達筆は健在で、市の文化財に指定された故か雨除けの覆いが仮設されてあった。

稲荷明神の祠が大小二座さらに年月に耐えて鎮座しているが建替えが近いのだろうか。渡辺本家の御子孫は現在は鰭ケ崎に在住ではなく市外へ移られたようである。

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鰭ケ崎団地の立地と地域性
流山線の線路と、東洋学園大学、さらに武蔵野線南流山駅開業に伴って整備された宮園住宅地に挟まれ、戦後の住宅地需要のかなり早い時期に整備された地区となっている。なので大体同じ年齢、大体同じ年収ということにかなりの安心感をもって生活を送っているそうだ。人間って何をもって心配や安心といった感覚を感じるかは人それぞれ。

テレビで見ると金銭感覚の違う隣人との付き合い方に困っている人もいるという。これは親同士以上に子供が影響を受けていく。身の程を越えた人との付き合い、勘違いする人がいる一方で、田んぼを持っていただけの土地成金が大きい扱いを受けていく。土地を持っているとなると安定した収入はあるという事、そうなると地位や名誉が欲しくなる。

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鰭ケ崎の人口増加に関連した話だが、鰭ケ崎の住民にとっては雷神社のオビシャ行事がある。しかし戦後増えた住民はこの講に入らせなく、どんどん少なくなっても良いというスタンスでこの講は維持されている。神事を受け継ぐ人達の気持ちが読み取れる。一つの中学校の中という狭い範囲でも地区によって色々な地域性があり、勉強になる。

水運で栄えた流山は明治最初には県庁も置かれるほどに栄えていた。そうなると水運に関連する江戸川沿いにしか町場がなかった。旧流山町に元は一つの小学校だけだったのが今では四つ。中学校も一つだったのが今では二つになっている。それだけ田畑を埋め立て、新築住宅地として開発し、新住民の歴史を知らない人が増えたという事。

このあと後半戦

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令和五年、加台大宮神社祭礼

神輿渡御その9


このあたりはつくばエクスプレス開通により、流山セントラルパーク駅が開設された。それに影響されて駅通勤圏内として再開発が進められている。さらに流山新橋、これに伴う新県道の影響も受ける。この工事が進んでいくと新たに新築住宅も販売される。中学生の時に集まっていた平和台四号公園から、光照寺の裏の農地は既に引っ越してきている。

そう言えば今現在あの風景を思い返してみると、寺院の土地を借りて生活していた小作人という考えも出てくる。まぁどちらにせよ、交通インフラを整えて需要と供給を計算し、順次区画造成し都市化する。この流れで平和台5丁目の一部が都市化されている。新松戸も南流山もこのような区画造成工事を繰り返して現在に至っている歴史が見て取れる。



親を見て子供は育つ、何を好み、どういった信念、信条で生きて行ってるか。子供は自分なりにそれを吸収しながら成長する。これがあって小学校、中学校の同級生といった周囲の声があって今がある。どうしても東大に入れって親なら、受からなければガッカリされる。受かれば当然の事ながら親から愛され、自慢の息子だと愛されていくんだろう。

親が親なんだから大学などよりも注目するのはこの祭礼の場をどう感じるか。元々根郷や加岸は商業の街の意味合いがあるが宿は一つの村といっても間違っていない。その村の中で共に共同生活を送る人間として認められる必要がある。そうなると「厳しく文句言える」ってのは俺を認めてくれるからで、カドキヤの行動につながってくるわけだ。



加台大宮神社氏子衆

加台大社睦会会長、山本さん
平和台及び加台地区は戦後開発されたニュータウンの例に漏れないが、都内ほど急激な住宅地化が行われず、ゆっくりと新住民を受け入れていったため、先祖代々のコミニティーが残っている。そして現在もつくばエクスプレス効果により人口が増加中である。

なので流山本町の他の自治体よりも人口構成が若い。前会長西島さん、勝木さんより受け継いだ。今回で山本家も代替わり、そのための準備をしてきている。代々の田舎町の濃厚な人間関係と、流山が代々住んでいける産業や商業が安定している街と言う事がここから見える。

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毎年家の代表として神社の神事を流山に住む人間同士で行い、これを何十年と繰り返してウチの親父は生きてきた。もっともこれを特別な事とも思わない人もいれば、休みの日にわざわざそんなとこに出ていくなんてよっぽどヒマでやることないんだな。って斜めにしか見られない人も当然のように存在する。しかし、価値を理解できる人間が必要。

未来は何年も前から決まっている、組織は計画性を持って動いているからだ。実際につくばエクスプレス開業も決定してから、バブル崩壊など時期的に遅れることはあったにせよ、無事開業に至った。そうなると何年も前から工事は進められていた。俺がこの家の跡取りとして決まってから既に30年以上経っている、将来絶対に順番は回ってくる。

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 神社神道の生業としての神社の神職である神主や巫女によって行われるものは、日々の勤しみとしての祝詞や神楽がありこれらは祈りとしての祀りであり巫(かんなぎ)でもある、個人の祈願記念として祓いや地鎮祭などは、神社に依頼しされ神職によって行われる。

神仏習合のや他の宗教との習合や影響で、神道の神事には密教・仏教を初めとし時には儒教など、特に道教の陰陽五行思想などを由来とするものもある。

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神を供応する形式の祭では、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会などを神事とすることが多く、最も重要な神事は神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為であることが多い。

神意を伺う行為には間接的なものもあり、神前での相撲などの結果如何で吉凶を占う神事もある。このような行為の宗教的な意味合いは強く意識されていないが、同じようなものが多くあり、流鏑馬、競馬(くらべうま)などの競技や、物や動物を使ったものがある。

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宮入となった
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赤城四ツ葉会
俺が生まれた時からほぼメンバーも変わらず、これが今の住民の入れ替わりの激しい街が増えている中で、この時代にどれほど贅沢なことか、価値があるのかと言う事。これ以上に信頼出来る人達もいないと言う事。

一緒に酒飲んでカニ汁飲んでここまで生きてきたんだ。流山は時代が変わっても変えてはいけない事がある。家を代表して自分達の生まれ育った土地の神様を祀る、日本人としてこれ以上に相応しいこともないだろう。

この中で生まれ育ったメンバーの子供は生まれつきこのコミュニティを知っている。そして何十年間という準備期間を経て、将来の後継者となる未来が見えている。山本新代表だって、代々の住民なんだから当然のように親を見て、いつか必ず来る自分の順番を待っていた。

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今の歳だから思う、30代というと子育て世代が新築物件を買う年頃、母親の公園デビューという言葉もあるが新しい土地に行って仕事だけではない地域の行事デビューというのも大きなこと。

仕事が忙しくて消防分団には入れないけど土地を知る、一年に何度かある地区の神社の祭礼には参加したい、そのような人にとっては出来るだけ情報は欲しいもの。これも流山の住宅販売促進情報なのだ。

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神輿渡御なんだから神輿担いでるところ写真撮らないと、って言うけど、そんな表向きの広報活動は市役所の広報課の仕事でしょ、誰でも撮れる写真じゃなくて俺が写真撮ってるからこのブログの写真が撮れる。神社信仰とは最も日本的なもの。

今では圧倒的に少ない流山本町先住民、どんな生活をしているか、みんなが集まる神輿渡御とはどんなものなのか、今では触れていない人の方が多くなっている時代になっているためウチラにとってはごく当然の情報の方が価値が高い。

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そしてこの飲みの場もビールを注いで飲んでもらう、それは神輿渡御の副産物としてとても大きなことだと思う。これは日常の仕事においては名刺交換のようなものだろう。顔を憶えて、名前を憶えてもらう、新しくコミ二ティーに参加する者としても、親ありきの跡取りとしても大事な場なのだ。

時代は徐々に変わっていく、自分が変わるにしても組織が変わるにしても、この場で得た情報などで次第に組織を自分に馴染ませる事も大事。その繰り返しこそが日本の和の精神、頑固になりすぎてもダメだし、不真面目すぎてもダメなのだ。

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ウチラ四ツ葉会も根郷神輿会も感覚的には同じだろう、江戸時代から神輿を担ぐグループが超絶リア充。これはいつの時代にも変わっていない。田んぼの真ん中に鉄道駅が設置され、周辺農地が都市化された場所では土地成金が大きい扱いを受けるんだろうけど、所詮は流山本町の外の話、ただ一部の事、そのうち自分で気付いていくしかない。

祭は一部ではパレードとも称される。これは自分の所属している神輿会の半纏を着て、道中を練り歩く。これには神輿会の人々の同意が無いと認められない話で、言うなれば神輿会が認めた人間のお披露目、その最大のアピールの場がこのような祭礼と言ってもいいだろう。流山は150年以上の先輩後輩でつながっているからこそ秩序がある。



「神が造りたもうた酒」と言う言葉があるが、古来日本酒の製成は不思議な力によるものと考えられていた。そこで、神と酒のつながりを考えてみた。古代の酔いを考えると、その現象こそ神の作用そのものであり、酒を呑んで酔うことが、すなわち神に近寄る手段であるという基本的な発想があったようだ。

こういう考えから、日本酒はまず神に供え、それから人が呑む。神にまず御神酒をと言う習わしが、今でも続いている。たとえばお祭りで御神酒をいただく。もちろん酔いを求めて呑むわけだが、享楽の為の酔いではなく、より神に近づく為の手段として呑まれる。

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この光景が祭礼のもう一つの姿と言えるものだろう、人が集まり適度に動くと酒がうまい。新しい住人も先祖代々の住人とも差もない、話すことなんて何でもいいんだよ、むしろこんな中で一人で真面目な話も必要ないし。日本独特ともいえる美しい姿だろう。酒は本来神聖なもの、さらに酒の歴史は見事に流山の歴史とも言えるものとなっている。

以前味醂二百年祭が終わったが、これは二百年以上前から流山が酒どころとして栄えていた事につながる。酒造りの醸造技術が味醂作りとした産業に変わって現在でも味醂工場が稼働している。工場があるということは代々のしっかりとした雇用が生まれ、市場規模も安定しているということ。だからこそウチみたいな小さな商店も生きていける。





次の祭礼は秋、十月の赤城神社

赤城神社の氏子衆である赤城四ツ葉会会長が締める
若宮団地の所でウチの親父は、以前の平屋の市営団地の話をしていた。ここで中橋さんに話を聞くと、出身の中学は南部中じゃないから知らないみたい。なんでも親の仕事の都合で常盤松みたい。この時は(中橋さんは俺の五個上だから、中学の時は平成初期、そういや同時期、十太夫からファンケルの工場が移転してるな)って思っていて。

そんで次の日、検索した昭和の産業史その8のページを貼っておく。これがドンピシャな話になってくるでしょ。平成三年、株式会社マルタカ、高橋啓治社長、流山工業団地に立地。経営者側の目線だけでなく後輩の育成、それに俺みたいなトラブルメーカーの存在、何かと大変かと思いますが、よろしくお願いします。

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神事は神事でしっかりとやるし、神輿渡御もみんなで力を合わせて終わったら、最後は楽しく飲んで終わるのが日本の心ってもんでしょ。アメノウズメノミコトの舞のように楽しく神輿渡御してるところをブログで発信したら、「天の岩戸」に引きこもった天照大神じゃないけど(神輿担ぐのって面白いのかな、ちょっと覗いてみようかな)って会員も増えるかもしれない。(詳しくはアメノウズメノミコトの記事へ)

人が集まりゃ出会いが生まれる、次に集まりゃ関係が深まる。酒だけでの繋がりではないものの、当然酒の関係も必要ということだろう。交友関係が広がれば日常生活が豊かになる。みんな生きてきた時代は違うが一つの所に集まり、神輿渡御を毎年行うということはとても言葉では言い表せない効果を持っている。そして役員などの言動や雑作を見て、将来のための勉強を続けていくことが跡取りとして必要なことだと思う。

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令和五年、加台大宮神社祭礼、無事終了

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