令和五年、鰭ケ崎団地自治会盆踊り
神輿渡御その2
神輿渡御の花形は神輿の担ぎ手、しかし祭はそれだけじゃない。このように休憩所の用意をする女将さんの方々も一年に一度の祭り、その祭を存分に楽しみ、これによってまた縁を深める、これ以上にない大きなイベントなのだ。この団地を回っていると新築住宅も多く存在している、南流山駅の使用圏内な場所と同様に再開発が進んでいる時期。
もちろんの事ながらつくばエクスプレス効果を受け、戦後の人口増加期の住民だけでなく、戦後の二世代目も多く移り住み、また新住民として祭のデビューを迎える人もいるという事。この日、デビューをしたという人に話を聞いたら、「初めてだったから何にも分らなかったけど、ワークマンで足袋買ってきて良かったよ」とのこと、そして地域の輪も広がる。
東福寺の目つぶしの鴨
流山市鰭ケ崎1033
東葛伝説民話事典に文が残っているので電化する。東福寺へ行くには、流山電鉄(※現在の流鉄)の鰭ケ崎で下車するのが便利である。東福寺を含めた駅周辺の町名を鰭ヶ崎という。東福寺は山号を守龍山と言い、宗派は真言宗である。「守龍山東福寺縁起」には鰭ケ崎伝説が書かれている。
昔、唐の都、長安で仏教の修行を積み、遣唐使とともに帰国した空海こと弘法大師は日本で真言宗を開き、その後、布教のため東国行脚の旅に出た時、この地に立ち寄った。この台地の上には五色に輝く美しい池があった。この時、大師の前に白髪の老人が現れた。
「わたしはこの池に住む竜王である。ここは東方の福田で、薬師如来の坐します場所であるから、薬師如来の瑠璃光仏を彫り、ここに寺を建て永くこの地を守ってもらいたい。そして、この山は守龍山と呼び、東方の福田から東福寺と称するように」と言って、ふっと池の中に消えた。
大師は、さっそく仏像を彫る御衣木を探していたら、麓の海から大きな龍が現れ、竜宮の霊仏を大師にささげた。そこで大師はその仏像を、薬師如来の像に彫り直し、寺を建立して祀った。この龍が竜宮に帰る時、鰭の先を少しばかり残していったので、鰭の先から「鰭ケ崎」の地名になったという。
東福寺の苔むした石段を登りきると、運慶作と伝えられる阿、吽の仁王さま(流山市指定有形文化財)を安置する朱塗りの仁王門がある。その正面奥に弘法大師一刀三礼の作と言われる本尊薬師瑠璃光如来(非公開)を祀った本堂(薬師堂ともいう)があり、大銀杏を囲むように鐘楼、大師堂などが建っている。
また、本堂の正面天井には、文久3年(1863)の「俵藤太(たわらのとうた)(藤原秀郷)百足退治」の大きな絵馬(流山市指定有形民俗文化財)が掲げられている。承平5年(935)平将門の乱が起こった。そして、将門は関東と伊豆の一部を支配するようになり、新皇を名乗った。
このころ、下野国の押領使(おうりょうし)をしていた藤原秀郷は朝廷から将門を討つように命ぜられた。そこで、東福寺に参詣して戦勝を祈ると、夢の中に白羽の矢が東の空に飛んで行き、仏が現れ、「敵軍は敗北する」と告げたという。
天慶3年(940)、秀郷は4000の兵を率いて将門の館を急襲した。不意をつかれた将門だったが、秀郷軍の前に打って出た。秀郷が一瞬ひるんだスキに、将門は馬上で大太刀をまさに振り下ろそうとした時、秀郷の兵が放った矢が将門の額に当たり、どっと馬から転げ落ちたという。
この勝利を喜ばれた朱雀天皇は、東福寺の金堂を修理し、さらに荘田500石を寄進されたという。また江戸時代には徳川家康から30石の御朱印状を賜わり、末寺132ヶ寺を持つ大寺院であった。境内から庫裏に向かう中門は、日光東照宮造営の時の材料の一部が寄贈され建立された。
この門には左甚五郎作と伝わる二匹の鴨がいる。門の境内側の鴨居の上には口をあけた鴨、庫裏側の門には口を閉じた鴨がうずくまっている。この鴨は「東福寺の目つぶしの鴨」と呼ばれ、鴨の目には太い釘が刺さっている。それには次のような伝説が残っている。
昔、夜になり人々が家路に就くと、人がいなくなった田をメチャクチャに荒らすものがあった。「あーぁ、もうじき取り入れだというのに」「一体何ものがこんな悪さをするのだろう」「今晩は一つみんなで寝ずの番をしよう」
村人たちは隠れて見張っていた。するとどこからともなく二匹の鴨が舞い降りて、せっかく丹精した田んぼの稲を食い荒らしていた。「それ!」と、村人たちは鴨を追いかけた。そのまま鴨は東福寺の森に逃げ込んだ。
翌朝、明るくなってみると、お寺の中門の柱に田んぼの泥が点々と付き、鴨居の上の鴨の足も泥で汚れていた。東福寺の和尚さまは、村人たちが丹精込めた田や畑を二度と荒らさないようにと、鴨の目に釘を打ち込んだ。
それから鴨は、村に降りていくこともなく、静かに鴨居に座って、東福寺を訪れる信者の足音を聞いている。住職の奥様は「いつごろか、もう早い時期に鴨の目の釘は抜かれてしまいました。もう何度も塗り替えが行われ、今は真白い鴨です」と、語っておられる
また、野田の常敬寺には龍伝説が伝わる。この寺の阿弥陀堂に狩野法眼が描いた龍の天井画がある。この龍も田畑を荒らして農民を困らせた。そこで、住職は天井を大きな板でふさいでしまったという。
東福寺の本堂を抜けて裏手に出ると、谷を挟んだ先の台地に奥の院の千仏堂があった。堂内には中尊の阿弥陀如来立像を挟んで左右500体ずつ千体仏阿弥陀如来立像が安置されていた。この千仏堂の老朽化に伴い、本堂脇に新しい千仏堂が建立されている。
鰭ケ崎小学校ができる前
昭和44年、区画整理が始まったころ児童は、流山小学校へ電車通学をしていました。電車通学の児童数約400。この400名が2両連結の流山鉄道の電車を利用したため電車はたいへんな混雑でした。
混雑緩和をはかるため時差通学が実施されていましたが、毎日保護者が整理に当たっていました。その混雑ぶりは、読売新聞に報道されるほどでした。また、流山駅付近の混雑で交通事故の不安も保護者にとって大きなものでした。
それに加えて鰭ヶ崎団地が造られ人も急増し混雑もますます激しくなりました。このような状況の中から「歩いて通える範囲に学校を」の声が上がりました。昭和46年頃からそんな住民の声が署名運動となり市を動かしました。当時の鰭小の用地は見渡す限りの田んぼでした。
1972年(昭和47年)2月11日、読売新聞紙上に混む電車にもみくちゃにされながら乗り込む学童の姿を撮し、首都圏にもこのようなところがあると、鰭ヶ崎の実情が紹介されて鰭ヶ崎小建設の動きが具体化していきました。
もちろん、鰭ヶ崎地区に学校を建ててほしいという昭和46年以来の請願運動も大きな力となっていたことは言うまでもありません。1974年(昭和49年)5月2日、学校建設用地の地質調査が終了し、8月20日鍬入れ式が行われました。本格的な工事は9月から始まり1975年(昭和50年)3月、鰭ヶ崎小が完成し、4月に待望の開校となりました。
1974年(昭和49年)から始まった鰭ケ崎小学校の工事も順調に進み、1975年(昭和50年)3月待望の鰭ヶ崎小が完成し、いよいよ4月から開校となりました。4月9日、流山小学校から分離独立する開校式を行い正式に流山市立鰭ヶ崎小学校が誕生しました。職員26名、児童数546名、15学級でのスタートでした。
同じ日、初めての入学式が2階東廊下で行われ103名の新1年生が仲間入りしました。なぜ2階のフロアで入学式が行われたかというと体育館はまだ設置されていなかったことと校庭が前日の雨のために使用できなかったため急遽変更して行われたと記録に残っていました。
翌年体育館とプールが完成するまでは、雨の日には校舎内で体育の授業を行ったり、夏の暑い陽射しの中を電車に揺られ流山小学校のプールまで泳ぎに行く不便な生活が続きました。しかし、校庭には、PTAの皆様方の協力により親子山も完成し子どもたちの楽しい笑い声がいつも鰭ヶ崎小学校を包み込んでいました。
俺は赤城四ツ葉会のメンバー
これは絶対に忘れちゃいけない事
赤城四ツ葉会としては毎年ここに参加していない。神輿担ぐとなれば御輿会ごとの届出と挨拶が必要で、赤城四ツ葉会代表(気を使ってくれる中橋会長)の許可も得てない上、個人の独断で動けるわけでもない。これは問題が起きた際の責任問題にもなってくる、それが半纏を着ているということなのだ。だが私服で写真撮りに来ることは自由だろう。
※赤城四ツ葉会は初代代表新井さんの時代から取り決めがあり、流山(ここでの意味は旧流山町)の四つの神社しか担いじゃいけないことになっている。なので都内にも行かないし、基本的によそには行かない。なので鰭ケ崎に住んでいるマークさんは地元の住民として氏子半纏で参加しているが、俺は手を出さないのが筋ってもんだろう。
子供が成長していく過程で地域コミニティという事が大きく影響してくる。今現在はマンションに移り住み、学生時代を終えると親元から独立するというのが当たり前になっているが、俺のように神輿会に所属するのが当たり前と感じていたり、地域によって特徴が出ることになる。だんじりだったり、三輪野山だったらヂンガラ餅神事だったりするわけだ。
その点では鰭ケ崎では阿波踊りだということだ。話を聞くと越谷の阿波踊りにも行っているようで、これは神輿会同士の付き合いの中では下総五鳳会、新撰組同好会同士のサークル活動においては北総新選組の方々と同様に、流山を代表して活動しているということ。神輿と一緒に鰭ケ崎の町内を回っているとメンバー募集の張り紙を各地で見付けた。
鰭ケ崎団地の神輿渡御は、旧流山町の本来の神輿会である下総五鳳会が、地元町会から頼まれ、持っていたノウハウで団地の町会を支援し、神輿渡御が行われている。今では中学校の学区的にも、南部中とは別れているが、本来は流山本町の経済圏で、隣の村になるため関係の無い地区とは言えない。しっかりと流山線でつながってるしね。
町の祭で神輿担ぐ人間は、性格的にも育った環境にしても限られた一部の人達。流山町の本来の神輿会は下総五鳳会だが、その後地区の神社を中心として各地で神輿会が設立されるにあたり、出てくる人達は結局一緒。なのでいつも顔を合わせる流山の他の神輿会の方々も支援団体として参加している。マークさんは地元扱いね。
団地の一つの区画が更地になっていた。この周辺の住宅が整備されたのは戦後の一つの世代が都心へ仕事を探しに行き、家庭を築くわけだが、マンションに何度も引っ越す人もいれば、ベッドタウンに一軒家を購入するという判断も間違っていないだろう。そのベッドタウン住民の需要の受け皿として、関東各地で整備されていった住宅地の一つになる。
住宅販売されて何十年も経っているわけだから、この間に自分を取り巻く社会も変化し、それによって引っ越す判断を求められることもある。田舎の親の老後、娘夫婦が大きな家を建てて同居という選択肢もある。はたまた自分の定年退職というタイミングもある。どのような理由があるにせよ、引越し取り壊し、建て替えて再度新築住宅が販売される。
鰭ケ崎は今では隣の小学校の学区であり、隣の中学校の学区になっているが、俺としては歴史的な目線で物事を見るようにしている。個人的な目線じゃないとなると、ウチのジーサンが子供の時には江戸川に川舟が浮かんでいた時代、間違いなく周辺農村部の鰭ケ崎からは買い物、小学校に通うためにこの線路の道を歩いたという歴史が残る。
ウチの親父の時代でさえ、鰭ケ崎からは電車に乗って、木村からはバスで小学校に通っている。この時代まで農地として広がっていた南流山だから駅が作られ、大規模開発できたということにつながる。これ以前に流山本町が成立しているのだから組織的には流山市の一部になる。当然の事ながらマンションは鉄道駅が開通して、後から作られた。
神輿渡御は本来神聖なもの
多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。神輿や鳳輦の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種であるといえます。神幸祭は「神の行幸」の意味で、広義には行幸の全体を、狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。
後者の場合は目的地からの神社への復路の過程に還幸祭(かんこうさい)という言葉が用いられる。だが人と人が出会い、共に力を合わせ団結を確認するイイ機会でもある。人と人の付き合いが政治であり商売と言えるもの。
祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。
農耕社会においては、収穫祭が古いものであるが、その他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える。
「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。
日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。
その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。
「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。
「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。
その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。
「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は、漢字の本来の意味において葬儀のことであり、現在の日本と中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。
古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。鯨祭りといわれる祭りが、日本各地の津々浦々で行われているが、それらは、鯨突き(捕鯨)によって命を落としたクジラを慰霊するための祭りである。
今年は新築販売されているのか、住んでいる人が建て替えたのかは分からないが、新しい住宅が目立っていた。50年も経っているのだから何もおかしくはないが、これもつくばエクスプレス効果と言っていいのかもしれない。これに関連して地元神輿会に一気に10人ほど加入したみたいだ。引っ越してきてイベント参加も大きい意味を持っている。
先祖代々流山に住んでいたとしても鉄道路線の拡充ということに関連して、農地であった所が駅前一等地になった人達はマンションの一室で育っている。となると地元住民と接することは極めて少なくなり、別の次元で生きている人も多い。流山と言っても一つの駅前しか想像できない人もいる、俺は今の時代にとても貴重な人材という事が言える。
帰りも旧道小金道
ここからは盆踊り
パイセンリストは俺の八個上、今年初当選した川本市議会議員。だけじゃなく、矢口市議会議員、清水市議会議員も同じ年齢。この中で清水市議会議員が気になった。選挙活動中、平和台駅前で運動員がチラシを配っていて、パッと見て運動員に聞いちゃったもんな。『あれ、江戸川台から深井中って何か変じゃない、みんな北部中じゃね』って。
帰ってきてウチの親父にこの話を聞くと、『こうのす台とかその辺でしょ』ってあっさり答えられたから、俺としてはどうしようもない、まだまだ知らない事が多すぎる、勉強の途中です。逆に言うと、新川から見たら(南流山に行った流小)みたいなもんか、今は選べるけど、同級生でも高鹿板金、伊賀屋自動車あたりは強制的に南流山に行ったっけな。
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